第十二話

 土曜日。

 学校に着いて生徒全員が体育館に集まるなり、そこで待ち構えていた谷内先生は告げる。

「今日は自習だ」と。「各々おのおの、明日の試験に向けて自分のするべきことをしろ。もう家に帰ってもいいし、ここで練習してもかまわない。夕方の五時までは声優科だけ使えるように許可をもらっている。一つだけ、きみらに重要なアドバイスだ。今夜はしっかり睡眠をとるように。では明日の朝十時までに集合。遅刻はその時点で失格とみなす。以上」

 谷内先生は体育館をあとにした。

 それからは、それぞれがそれぞれの行動に出た。

 迷わず帰るもの、集まって練習をはじめるもの。

 殺伐とはしていないものの、そこはかとない探り合いのような空気が確かにあった。

 少なくとも、ここにいる半数近くの生徒は、声優科で学べなくなるのだから。

《これから、どうする?》と愛与は紙で訊く。

 しかし、恋守の目と意識は他のものに吸い寄せられていた。

 扉の先。どこかへ歩いていく、生徒会副会長、薙寅泣希なとらなきの姿。

「ごめん、アイアイ。私、ちょっと行ってくる」

 そう言って、一人で飛び出した。

「副会長!」

 呼ばれて立ち止まって、彼女は振り返る。

「おはよう恋芽さん。恋芽さんは声ですぐ解るから助かるわ」と微笑む。

「あの、ちょっとお話があるんですけど、いいですか?」

 緊張で手のひらに汗が滲む。それに気づかれないよう、ゆっくりとスカートでぬぐう。

「ええ、もちろん」

 二人は体育館裏の、静かな場所に移動した。

「それで、お話って?」

「ごめんなさい!」声と同時に頭も下げる。

 一瞬でも躊躇ためらうと固まってしまいそうだったので、恋守は即、行動に出た。

「えと……」当然、そんなことをされては相手は困惑するほかない。「ええっと、恋芽さん? どうしてあやまるの?」

「私は一云一さんの後継者になる予定はないんです。だから、一さんがいなくなったから出せなくなった本とかが発売されることはまだないと思います。本当にごめんなさい!」

「でも、恋芽さんって声優さんになりたいんでしょ?」

「はい」

「私、声優さんに詳しくはないけれど、一云一さんと竹詠かぐ沙さんなら知ってるし、だから、一さんの跡を継ぐのってすごいことなんじゃないの?」

「すごい、ことです」それは揺るがない事実。

「恋芽さんは声優になりたくないの?」

「なりたいです、すごく」これも揺るがない事実。

「それに、恋芽さんが跡継ぎになってくれないとなると、妹がとても悲しむ──」

 言葉は途切れ、支えを失ったように、薙寅副会長はその場にふさぎ込む。

「副会長!」

 近づいて、肩を抱く。

「大丈夫ですか?」

 貧血なのか、ショックなのか、それ以外の何かなのか、原因はわからない。

 やはり言うべきではなかったのか。後悔に襲われる。

「大丈夫じゃ、ないかも」虚ろな目でつづける。「ねえ、恋芽さん……考えなおしてはもらえないかな……? 恋芽さんを困らせたいわけじゃないの……よくわからないけど、例えば、とりあえず一さんの後継者になって、本が発売されて、そのあとで恋芽さんは好きな道を選ぶとか、そういうことはできないのかな?」

 困らせるつもりはないと言いつつ、これ以上は不可能という領域まで困らせてくれる。

「ええと、それは──」追い詰められていく。

「……お願いよ、恋芽さん」そう言って、二度、いた。

「…………」

 ここで心にもない言葉を吐いてしまえば、少しは楽になってくれるだろうか。

 副会長の体も。自分の罪悪感も。

 恋守は口を開く。「だったら──」

「お取り込み中のところ申し訳ないけど、いいかしら?」

 割り込んできた何者かに目を向ける。

 それは、予想だにしない人物だった。

「竹詠……さん?」

 竹詠かぐ沙だった。

「竹詠さん、どうしたの?」

 なんとなく、明日のテストまで会わないと思っていたので、妙な気分になる。

「副会長──」かぐ沙は恋守を無視して、薙寅泣希と向きあう。「あなたが将来、役者を目指しているのか政治家になりたいのか私には興味のないことだけど、恋芽さんには万全の体調でいてもらわなければ困るの。だからいい加減、その茶番をやめてもらってもいい?」

「……は?」薙寅副会長は不審な顔つきになる。

「……茶番?」恋守は目をしばしばさせる。

「あなたはどこも悪くないし、あなたに妹もいない」と、かぐ沙は言いきる。

「な──突然、何を言うのよ、あなた」薙寅副会長は勢いよく立ち上がる。「失礼でしょ!」

「ほら、元気じゃない」手品のタネをあかしたように、かぐ沙はどこか得意になる。

「これは怒っているの。妹がいないとか、どうしてそんなひどいことが言えるの?」

「存在しないものを存在しないということがひどいことなら、存在しないものを存在しているみたいに法螺ほらを吹くあなたはどんな人なの?」

「でも……」恋守がそそくさと参加する。「私、副会長の妹さんを見たよ。写真で、だけど。副会長とすごく似てたし」

「それは妹さんじゃなくて、小さいころの副会長さん本人なんでしょう」

「適当なことで難癖つけないでよ。あれは私の妹の美馬みまよ!」

午年うまどしに生まれたから美しい馬と書いて、美馬?」かぐ沙は確認する。

「そうよ」

「今年で十歳になる」

「それがどうしたの?」

「不可能よ」

「どうしてそう言えるの?」

「今年で十歳になるなら八十八年生まれということでしょ? 八十八年は辰年たつどしよ。その年に生まれた子に午年由来の名前をつけるわけないでしょ」

 恋守は副会長を見る。悠然ゆうぜんと反論すると思っていたのに、その表情はただただこわばっている。

「え? 副会長?」

「これは私の持論だけど」と前置きして、かぐ沙はつづける。「家庭をいつわるものは全てを偽る。だからあなたは嘘まみれ。東京から転校してきたというのも嘘なんでしょう?」

「それは本当よ!」むきになったせいで、妹が架空の存在だと認めてしまっている。「そこに嘘をつく理由なんてないでしょ」

「見栄をはりたかったんじゃないの?」

「証拠はあるの?」

「昨日、あなたが被服室に向かっていたとき、あなたはこう言った。『みんなが使わなくなった服がいっぱい集まったから、なおしにいく』と。要するに、集まった服を片づけにいったのでしょう?」

「それがどうしたの?」

「恋芽さん」

「はい」急に名前を呼ばれ、律儀に返事をしてしまう。

「なおす、という言葉からイメージする意味は何?」

「えっと、修理する、とか?」

 恋守の答えに、薙寅副会長は苦い顔をさらす。

「どちらかといえば、それが多数派の意見ね。だけど『なおす』という言葉を『片づける』という意味で使う地域もそれなりに存在するの。主に関西と九州にね」

「じゃあ、副会長は……」

「東京出身じゃないことは確かでしょう。そもそも彼女の声には東京のなまりがない」

「東京の訛り?」

「勘違いしている人が少なくないけど、標準語とは東京の言葉のことじゃないの。東京にだって訛りはある」

「へえ」

「もういいよ!」薙寅泣希は、不愉快を破裂させた。

「……副会長?」

「弱者を演じて周りを操っていた卑怯者が、正体を現したようね」

「うるさい」と吐き捨てる。そこにはこれまでの品格ある副会長の振るまいは消えていた。

「でも副会長、どうして妹さんを、その……創造してまで、本が読みたかったんですか?」

 恋守は精一杯配慮して言葉を選んでいる。

「あの本は本当に私を救ってくれたの。だからどうしてもつづきが読みたかったの。恋芽さんが一さんの跡を継ぎたくないのは知ってた。だから家族が死にそうだって言えば、考えを変えてくれると思ったの。これは本当に本当よ。もういいでしょ、じゃあね、ごめん」

 雑に作ったポップコーンのような言葉を感情的にばらまいて、去ってしまった。

 あまりにもぶっきらぼうな態度は、それはそれで演技なのではと思ってしまう。

 自分の心を縛りつけていた難題は、あっけない幕切れで解決してしまった。しかし、体育館の裏で竹詠かぐ沙と二人ぼっちのこの状況は、なんだかとても気まずい。

「あ、え、えっと、ありがとう。助けてくれて」

「…………」かぐ沙からの返事はない。

「……わ、わたし、ダメだよね。干支えとが違うとか考えたらわかることなのに、それに……副会長、本当に体調がよくいんだって信じてたし──それに」

「お礼はいらない」かぐ沙は遮る。「これは私のためにしたことだから」

 恋守は首をかしげる。

「あなたには明日のテストに万全の状態でいてもらいたいの。つまらないことでつまづいてないで、早く帰って練習でもしたら?」

「わかった。でもやっぱり、ありがとう」

 スカートの前で手をそろえ、しっかりとしたおじぎをして、恋守は帰っていった。

 ひとりぼっちのかぐ沙、そこに一人の少女が近づく。

「ねえ、一つ気になったんだけど、あなたが美馬のことを知ってたのはどうしてなの? 私の想像上の妹なのに」

 薙寅泣希からの疑問。

「またそうやって嘘をつく」かぐ沙はため息をつく。「あなたの想像上の存在じゃないでしょ」

「なんだ。あなたもあのアニメ見てたの?」意外そうに声をこぼす。「子供向けで人気も出なかったみたいだから、すぐ終わったのに。私は好きだったけどね」

「……見てないわ」

「──? じゃあ、なんで知ってるの?」

「見てないけど、よく知ってる。忘れたくても忘れられないものなの。何度も資料を読み返して研究して心の中で対話して、この役は自分のものだと信じて疑わなかったのに、オーディションで認められなかったキャラクターのことは特にね」

「ふうん」何を言っているのかわからないけど、どうでもいいという態度。「ねえ、声優って楽な仕事だよね。アニメとかに声を入れて、それでお金もたくさんもらえるんでしょ? 竹詠かぐ沙ってすごいお金持ちなんでしょ? いいなあ」

「そう思うなら、あなたもなれば? せっかく今年から、なりたいものになれる世の中になったんだから」

「なんか、すごい嫌味言われてる気分なんだけど」

「私はあなたと違って本当のことしか言わない。時間があるなら明日、声優科の試験があるから見にくれば。声優がどれくらい楽な・・仕事か少しはわかるでしょう」

「行ってもいいの?」

「あなたみたいな人でも生徒会の副会長なんでしょ? 適当な理由をでっちあげればいいんじゃない? 嘘は得意なんでしょ」

「やっぱり、嫌味じゃん」

 薙寅泣希は舌打ちして、そこから去った。


 体育館に谷内先生が戻ってきた。

愛々さねちかはまだいるか?」

 呼ばれて、愛与は手を挙げる。

「恋芽から連絡だ。帰りが遅くなりそうだから、先に帰っていてくれとのことだ」

 愛与はその言葉に疑義の念を抱く。あの方向音痴が一人でどこに行ったというのか。

《恋守はどこにいるんですか?》

 谷内先生は神妙な面持ちで告げる。「誘拐された」

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