第十一話
紙の上にペンを走らせる心地よい音で目を覚ます。
目覚まし時計は鳴っていなければいけない時間だけど、スイッチが切られていた。とはいえ、まだ時間に余裕はある。ここにきて、はじめてのゆとりある目覚めである。
ベッドから体を出すと、恋守が机に向かって何か書いていた。
足下にはダンボール箱。そういえば、早朝に業者が荷物を届けにくると聞いていた。
それにしても、こんな朝早くから仕事とは。
代筆とはそんなに忙しいものなのか。それとも恋守の仕事にファンが多いのか。
視線に気づいた恋守が愛与に振り向く。
「あ、おはよう。昨日はありがとね。もうちょっと寝てても大丈夫だよ」
「おはよう」一日になるべく多く声を出したいので、愛与のあいさつは少し早口だ。
恋守の気持ちは嬉しかったけど、起きることにする。
ちょっとした銭湯くらいある共同の浴室でシャワーを浴びて身を清め、しっかりと目覚める。
ちゃんと朝食をすませて、悠々自適な登校。
隣を歩く恋守はなんだかとても機嫌がいいみたいで、それが
体育館に入ると、数人のクラスメイトに囲まれる。これからも定期的にダンスを教えてほしい。同好会のようなものを作る予定があるから参加してほしいと誘われる。
ここにきて、ようやく愛与は高校生になれた気がした。
声優科に入るためには二種類あるテストの内のどちらかで合格しなければならない。
まだどちらを受けるか決めていない。
それでも今日だけは、このひとときを楽しみたかった。
根拠はないけれど、他のクラスメイトたちもそう感じているように思えた。
愛与の考えは間違っていなかった。
五十八人の新入生のほぼ全員、クラスに馴染んで心地よい雰囲気が形成されつつあった。
その心地よさは、
がやがやと雑談でぬくもっていた空気が徐々に冷めていく。
愛与はその理由に気づくのに少し遅れた。
どうしてみんな静かになっていくのか。
理由は二つ。
一つ、五分前に授業ははじまっている。チャイムは鳴っていたのに、全員おしゃべりに夢中で聞き逃していた。
二つ、チャイムと同時に谷内先生もやってきていたのだが、竹詠かぐ沙以外、教師の存在に気づいていなかった。
教師は、ただ静かに生徒たちに視線を配っていた。
その沈黙は生徒の一人一人に滲みわたり、ほんの十数秒前まであんなに賑やかだった体育館が葬儀場のように静まりかえっていた。
もう、誰一人として、口を動かしてはいない。
呼吸すらやめてしまった者がいるのではないかと感じるほどの無音。
永遠とも思えるような三十秒が経過して、ようやく教師は口を開く。
「どうした? なぜ黙る? もっと喋っていいぞ」
その言葉に従う生徒はいない。
「おいおい、聞こえないのか? きみらが楽しそうにおしゃべりしているのを許可すると言ったのに、なぜしない?」谷内先生は近くにいた一人の生徒に照準をあわせる。「どうしてだ?」
その生徒はうつむいて「……すみませんでした」とこぼす。
「なぜあやまる?」谷内先生は大袈裟に驚いてみせる。「それとも私が気づいていないだけで、きみらは私を怒らせるようなことでも
誰も、声を出さない。
谷内先生は、ため息をもらす。
「ここまでにしよう」そう言って、手を叩く。「おしゃべりに夢中で授業開始に気づかないのは感心しないが怒ってはいない。私だって感情優先で校長室に抗議にいったこともあったしな」
そういえばそんなこともあったなと、一同、思い出す。
まるで去年のことのように思えるけれど、ほんの数日前の話だ。
「さて諸君」講義をはじめるような口調で谷内先生は問う。「今回のことだが重要な学びがあったことに気づいたものはいるかな?」
「はいはーい」と紡椿白烏が手を挙げる。
「お前と竹詠には聞いてない」
「ちぇ」白烏は口をとがらせて、手を下げた。
「きみたちは、ただ黙っているだけの私を見て、何かを感じ、喋るのをやめた。どうしてだ?」
谷内先生は少し離れた場所にいた生徒に目を合わせる。きみが答えろ、と言っている。
「それは……先生が怒っていると思ったからです」
「私は怒鳴ったわけでも不機嫌にしていたわけでもない。それなのにどうして怒っていると思ったんだ?」
「それは、その……黙ることで怒ることをアピールする人がいるからです」
「なるほど」谷内先生は腕を組む。「今の意見に賛同する者は?」
ほとんどの生徒が手を挙げる。
「なるほど」とうなずく。「いいか諸君。これはとても重要なポイントだ。きみたちは過去の体験から他人の感情を察して、それに対応する行動を取った。過去は『物語』と言い換えることも可能だ」谷内先生は一歩前に出る。「私たちは無意識に驚くほど多くの物語を共有している。こういう行動を取るとき、その人はこういう状態にある。だからこうしよう、という具合に。そしてもう一つの大切なこと。それは声の演技において『語る』と同じくらい『語らない』ことも重要だということだ」
生徒たちは講義に集中していた。
「上手い絵描きは余白を生かし、下手な絵描きは余白を潰すといわれている。声の演技も絵と同じ。時として余白にこそ真価があらわれる。声の演技でいう余白とは、すなわち沈黙だ」
何も語らないことで、谷内先生は生徒たちを動かした。
余白の中に物語を見出したからだ。
「アニメでも吹き替えでもいいから、そこに注目してみるといい。上手い役者は発言と同じくらい『間』を使いこなすことで、見る者を作品の世界に引き込んでいることに気づくだろう」
声優科の生徒たちは、はい、と大きく返事をした。
「ところで話は変わるが、きみら、アニメやゲームは好きか?」
生徒たちは互いの顔を見合わせてから、ほとんどの生徒が挙手をした。
恋守と愛与も手を上に伸ばしている。
「だったら話は早いな」
そう言って、プリントを配ってきた。
『アルバイト大大大大大募集!!!』とある。
『大』の字が五つに、ビックリマークは三つもついている。
よほど切羽詰まっているか、キーボードが故障しているかのどちらかだろう。
「週末のテストでメニューを使わせてもらう純喫茶『はなや』さんがこのたびめでたく秋葉原に支店をオープンすることになった。秋葉といえば声優グッズもわんさか売っていることでお馴染みだ。もしかしたら近い将来きみらのファンになるかもしれない面々もわんさかいるということだ。そのチラシを見てもらえばわかるとおり、時給も悪くないし、交通費も出る。興味のある者は電話してみるといい」
本日のカリキュラムが終わると、恋守は谷内先生に呼ばれた。
余ったチラシを他のクラスにも持っていくので、とりあえず教室の教卓の上に置いておいてほしいとのことで、恋守は紙の
恋守は、愛与と一緒に教室までやってきた。おかげで道中は迷うこともなく、帰り道も安心である。
「…………」
愛与は、感慨深く、教室を見わたしていた。
「絶対一緒にここで勉強しようね、アイアイ」
恋守の言葉に愛与はしっかりとうなずいた。
「はい、これ」
何の前置きもなく、恋守は何かを差し出した。
それを見て、愛与は「あ!」と大声を上げる。
ふわふわした素材でできた、トゲトゲしたドリアンのような体と愛らしい猫の顔を持つキャラクター。その名もネコドリアン。色はオレンジ。それは、ずっと愛与が探していたもの。
「これ、どうしたの?」
普段の愛与ならメモとペンを使って訊ねているところだけれど、このときばかりは自分の声で聞かざるを得ないくらい興奮していた。
「代筆のバイトしてる会社が、ネコドリアンを作ってるメーカーの関連会社だったから、もしあったら一つ譲ってほしいって頼んでみたの。そしたら、あったみたい」
愛与は手のひらの上のネコドリアンを指で優しく包んで、それから恋守を強く抱きしめた。
「ありがとう!」
「喜んでくれたようで、何よりだよ」
ぽんぽんと、恋守は愛与の肩を柔らかくたたく。
「どうかしたの?」と誰かの声。
声の主を見ると、竹詠かぐ沙がそこにいた。
「竹詠さん──」特に言いたいことがあったわけでもないのに、相手の名前を呼んでしまった恋守は「竹詠さんもどうしてここに?」となんとなく訊いた。
「大きな声が聞こえたから、何かあったのか気になってきてみたの。どうしたの?」
「えっとね、アイアイにネコドリアンをプレゼントしたんだ」
「ネコドリアン?」体で疑問符を表現するみたいに、かぐ沙は首をかしげた。
これだよ、と伝えるように、愛与は手のひらにあるオレンジのネコドリアンを見せる。
「そのネコドリアンはねえ、病気を治す効果があるんだよ」と恋守。
「へえ」声以上に表情でわかる。かぐ沙がこれに興味を示してないことは。「そんなの本気で信じているの?」
「いや、そういうのじゃなくて──こういうのは気持ちの問題というか……」
「ねえ
愛与は首をかしげる。
「あなた自分が声優になれるって、本気で信じているの?」
「…………」
首をかしげたまま、愛与はかたまった。
「一日に十秒しか喋れないんでしょ? そんな絶望の中で声優を目指してどうなるの? 無意味よ」
「 」
ぱく、ぱく、ぱく、と。愛与は口だけ動かした。
今日はまだ五秒くらいなら喋ることはできる。まだ声は出せる。
ただ、どんな声を出すべきなのか、言葉が出てこない。
そうして何も言えずに、顔を
「アイアイ!」恋守の叫びは強く響いた。しかし、それが愛与の足を止めることはなかった。
かぐ沙は特に悪びれている様子も、言い過ぎてしまったと反省している色もない。
「……なに考えてるんだよ」恋守は声のふるえを抑えられない。「絶望だなんて、そんなの人に使っていい言葉じゃないでしょ……アイアイにあやまってよ、あやまって──あやまれ!」
炎を宿した
「ごめんなさい」昨日の晩から用意していたような冷めた言葉を手際よく、かぐ沙は返した。「で? これで何か変わった? 愛々さんは一分くらいなら喋れるようになった? それともあなたの
挑発、というより、純粋に問いかけてくるような口ぶりだった。
「……今は十秒しか喋れなくても、できることはあるかもしれないでしょ」
竹詠かぐ沙は恋守の目の前まで近づく。そして冷たい目で見下ろす。負けじと恋守は挑むような目で見上げる。
かぐ沙は、すっと息を吸って、顔を恋守に寄せて口を開く。
「ついにコミック累計八〇〇万部突破、アニメも絶好調『
「────」
初対面の相手から、恋守はよくこう言われる。
その声、どこから出してるの? と。
生まれてはじめて、恋守はそれを誰かに言いたくなった。目の前の相手に。
明らかに竹詠かぐ沙の声ではない少女たちの声が少なくとも三人分は聞こえてきた。
なんだ、今のは。
「もうすぐはじまる雑誌のコマーシャル。今のでちょうど十五秒」
たった十五秒で、あれだけの言葉を、複数のキャラクターを切り替えながら、難なく言いきった。ものすごく早口だったのに、とても聞きやすかった。
心地よい演奏を聴いたみたいに、耳が喜んでいる。
「言っておくけど、十五秒の収録に必要な時間は十五秒じゃない。朝の十時から現場に入って終わるのはだいたい夕方の三時。それまで綿密に打ち合わせをして、いくつかのバージョンを試してみて、微調整を繰り返しながら、ようやく完成するの」
目に見えない二つの壁の存在に恋守は圧倒されていた。
現実の壁。プロの壁。
「これでわかったでしょう?」かぐ沙は言う。「十秒で伝えられることなんてない」
「……で、でも」恋守はとにかく何か言い返そうとした。
「魚は空を飛べない」それは、とどめの言葉だった。「だけど、自由に泳ぐことならできる」
暗に、かぐ沙はこう
「あなただってそうよ、恋芽さん」
「私?」
「その声で、お姫様は無理」
「──!」
「一云一を継ぎなさい」
「どうして?」
「それはこっちが訊きたい。一云一を継ぐのは竹詠かぐ沙を継ぐようなもの。声優として最高の栄誉をどうして無下にするの?」
「私は誰かのモノマネがしたくて声優になりたいんじゃない。自分になりたくて声優になりたいの!」
「耳当たりのいい言葉ですこと。お気に入りの詩か何かの引用?」
有名な舞台の台詞を
「それに、私より一さんに声が似てる人なんて、たくさんいるんじゃないの?」
「わかってないのね」呆れるように、かぐ沙は息をもらす。「あなたの声は一云一に似ているわけじゃない」
「え?」そういえば、谷内先生にもそんなことを言われたことを思い出す。「じゃあ、なんでみんな私を──」一云一にしようとしているのか。
「似ている、というのは、似ている、でしかない。近いけど、違うもの。それが似ているということ。だからあなたの声は一云一と似てはいない。あなたの声は、一云一そのものなの」
「……そう、なの?」正直、そんなことを言われても、ぴんとこない。
「何万回聞いたかわからない、一さんの声とあなたの声は寸分違わず同じなの。こうやって話をしていてるだけで、頭が混乱してくる。だからみんな、あなたの声に希望を抱いてしまう」
そんなの勝手に抱かれても困る、と胸中でつぶやく。
「でも、やっぱり変でしょ。私が一さんの跡継ぎなんて──男の人の声なんて」
「何もおかしなことなんてない。本来、声優とは声の芝居に特化した女性の役者を指す言葉だった。その名残で男性の声優は今でも『男性声優』って言葉の前に性別がついているでしょう? それに少年の声は今でも多くは女性が担当している。だから、あなたのような年配の男性を演じられる若い女性が現れても何らおかしくはない。それにほら、二十一世紀は多様性の時代だって言われているでしょ?」
「その言葉使う人って一番信用できない。自分のわがままを、みんなの意見みたいに言いふらして気持ちよくなりたいだけでしょ?」目一杯、恋守は反論する。
「ええ、その通りよ。だからみんな、この言葉が大好きなの」威圧的な瞳で、かぐ沙はつづける。「言いにくいことだから、みんな遠慮して言ってないだけ。でも誰かが言わなければいけないこと。愛々さんに声優は無理。あなたはお姫様になれない」
「どうして竹詠さんにそれを言う資格があるって思えるの? 竹詠かぐ沙だから? 本物じゃないくせに!」
「……なんですって?」
この国には、およそ三十万の言葉があるといわれている。
その言葉たちを箱に入れ、ぐるぐるかきまぜ、いくつか取り出し、一つの台詞を完成させた。
そしてその台詞は、この世にたった一つの、次代、竹詠かぐ沙の
「……そうね、確かにその通りね……ところで恋芽さん、一つ提案があるんだけど、いかが?」
異様な雰囲気を纏うかぐ沙に怖じ気づきそうになるものの、何とか虚勢をはる。「なに?」
「もうすぐテストがあるでしょう? それで勝負をしましょう。ルールは簡単、あなたが合格枠の三十人に入っていれば、それであなたの勝ちでいい。私は愛々さんの気が済むまで謝罪をするし、あなたをお姫様として扱う召使いになってもいい。だけど一つだけ条件をつけさせて。テストの順番が私よりあなたの方が先に受けるようだったら、順番を交換してほしいの」
「私より先にテストを受けたいってこと?」
「そう、それだけでいい」
「…………」
よく考えてみたけれど、自分に不利になるような点は見あたらない気がした。
「それとも怖いの?
その見え透いた挑発に、恋守はのった。「いいよ、それで。で、私が負けたらどうするの?」
「一云一の後継者になって」とだけ告げる。「一云一を継ぐことを罰ゲームみたいに扱うのは罪でしかないけれど、それが業界のためだし、あなたのためでもある」
「うん、それでいいよ」
ここに決闘が成立した。
「あなたは私に負ける。だけどいずれ私に感謝する日が必ず来る。それじゃあテスト、楽しみにしてるわ、一さん」
それからかぐ沙は恋守の耳元で一言つぶやいて、教室を去った。
「…………」
しばらく、恋守はその場を動けなかった。
去り際にかぐ沙は恋守にこう言ったのだ。
「──へし折ってあげる」と。
声に、殺されるかと思った。
教室を出て数歩進むと、隣の教室に愛与の姿を発見した。
窓際に立ち、外を眺めているので、表情は確認できない。
そっと教室に入って、少女に向かって、そっとつぶやく。
「ポルポルミンって言われるよりはマシ」
愛与は振り返る。怪訝な表情。今、何て言ったの? そんな顔をしている。
「ポルポルミンって言われるよりはマシ」恋守は同じことを口にした。
愛与は恋守に近づいて、メモとペンを取り出す。
《それ、どういう意味?》
「別に意味なんてないよ。今、適当に思いついた言葉」
愛与は疑問符を浮かべる。
「竹詠さんはアイアイに絶望だって言った。絶望の意味はわかるよね?」
暗い表情で愛与はうなずいた。
「意味のわかることを言われたなら、対応はできる。言い返すことだってできる。見返してやろうよ、アイアイ。アイアイは絶望なんかじゃないって!」
小さな沈黙。それからゆっくりとじわっと、愛与の
「泣かなくてもいいのに」と笑う。
「な、泣いてないし!」一日に限られた時間しか発することのできない貴重な声で愛与は反論した。「これは、そう、テストの練習!」
そう言って、スカートのポケットから紙を出して広げた。
泣いている少女のイラスト。
「なんで持ち歩いてるんだよ?」と、また笑う。
《私は、こっちのテストを受けようと思う》
《十秒でも伝えられることがあるって証明したい》
その決意に、恋守はうなずいた。
「だったら私はメニューの朗読にするよ。私のメニューの読み上げで竹詠さんを泣かしてやるんだからね」
愛与は微笑んでうなずく、そしてメモを一枚書いて、恋守に渡す。
《恋守を一云一さんにはさせないから》
「なんだ、聞こえてたんだ」と恥ずかしそうに笑った。
二人はどちらのテストを受けるか谷内先生に報告して、無事承諾され、寮に戻って特訓を開始する。
二時間後、二人の心は綺麗にぽっきりと折れていた。
まず愛与。
まともに練習ができない。十秒間で泣き顔のイラストにアテレコするのだが、そもそも彼女は一日十秒しか声を出せない。今日の声は使い果たしてしまったので、もう何もできない。
本番は土曜日で、今日は木曜日。つまり、練習は明日、あと一度しかできない。
それに、このイラストの少女がどういう理由で泣いているのかという考察も解釈も定まっていない。だから途方に暮れていた。
次に恋守。
「コーヒー、パフェ、特製コロッケサンド……」
こちらは先ほどから延々とメニューを読んでいるのだが、やってみてはじめて気づくことも少なくない。
まず、このメニューの朗読という行為そのものが想像以上に地味だった。
声に出した料理がやってくるわけでもなく、延々と淡々とそれを読み上げるのはまるで読経、あるいはただの苦行だった。
試しに感情を込め、抑揚や起伏をつけて読んでみると、喫茶店で酔っ払いが騒いでいるみたいだと愛与に評価される始末。
これでは竹詠かぐ沙を泣かせるどころか、テストに合格できるのかどうかすら怪しい。
だから途方に暮れていた。
床に寝転がって、自分より先に転がっていた声優レビューを手に取る。
表紙で紡椿白烏が笑っている。
自分の顔が表紙を飾ることを想像したのは一度や二度ではない。
声優科に合格したと報せを受けたときは、想像が実現するような気がした。
でも今は、いくつもの現実に打ちのめされ、想像する気力もない。
雑誌をぱらぱらめくると、竹詠かぐ沙のインタビューのページで手がとまる。
将棋観戦が趣味の彼女は、収録の前に棋譜を読むのが習慣なのだという。
そうすることで心が落ち着き、より芝居に集中できるのだとか。
恋守は雑誌を持って立ち上がり、愛与に歩み寄る。
「ねえアイアイ、この字、なんて読むの?」
恋守は雑誌の『棋譜』の字を指さした。
《きふ》と愛与は紙に書く。
「棋譜って何?」恋守は将棋に詳しくない。
愛与は少し考えて《将棋の記録、みたいなもの?》と書いた。
恋守ほどではないものの、愛与も将棋にそこまで詳しくない。
「なるほど、ありがとう」
恋守が将棋について知っていることといえば、将棋の駒はよくわからない動かし方をするということくらいであった。
雑誌を机の上に置いて、喫茶店のメニューを開く。
トースト、サンドイッチ、特製コロッケサンド、パンケーキ、ホットケーキ、プリン・ア・ラ・モード、フルーツパフェ、コーヒー、ニューヨークチーズケーキ、ハンバーグ──。
メニューの上に指を置き、将棋の駒を動かすように変則的に移動させる。
ドーモ、コンニチハ。
メニューの文字を分解して、適当な言葉を作っていく。
こんなことをして遊んでいる場合でないことは重々承知していても、名案は浮かんでこなかった。
テストまで、あと二日。
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