第十話

「竹詠さん?」

「ねえ」かぐ沙は恋守と向きあった。「副会長のことで何か知ってることはある?」

「え? そんなこと──」昨日会ったばかりの人の何がわかるのかと思ったけれど、一つだけ思い出す。「確か、東京から引っ越してきたとか」

「他には?」

「ないよ」

「本当に?」

「嘘をつく理由がないよ」

「そうね、ごめんなさい。ありがとう」

「どうしたの、竹詠さん」

「なんでもない。ちょっと、昔のことを思い出しただけ」

 なんでもないわけないだろうと恋守は思ったものの、深入りする理由も興味もなく、体育館のそばに備え付けられているウォータークーラーのペダルを足で踏んで水を出し、それでのどをうるおした。


 ──神がもし世界で最も不幸な人生を私に用意していたとしても私はそれに立ち向かう──

 ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(作曲家)

 音楽史上、最も偉大な作曲家の一人であり『楽聖』と称されている。

 持病の難聴の悪化により二十八歳で急激に聴力を失うが、世界中を魅了した数々の名曲はそれ以降に作曲されている。


 壁につけていた名言を新しいものと取り替えると、愛与は机の上のフカヒレの再生ボタンを押した。

 サメの口のスピーカーから、なめらかなクラシックが流れはじめる。

『バイオリン協奏曲第二番 二長調 K.211 第三楽章ロンド,アレグロ』

 振り返ると、恋守が手をさしのべてきた。

 愛与はその手を取り、そして、二人で踊り出す。

 王子のようにエスコートする愛与。姫のように自由な恋守。

「いい曲だね。ベートーベン?」

 その質問を予期していたのか、愛与はさらっとメモを取り出した。

《モーツァルト》

 つづけて愛与はもう一枚、メモを出す。

《モーツァルトの音楽は免疫力アップや、体調をよくする効果があるっていわれてる》

「なるほど。じゃあ、踊らなきゃだね」

 恋守はやわらかく微笑む。

 学校でのダンス。紡椿白烏でも竹詠かぐ沙でもなく、あの場を制していたのは愛与だった。

 自分もあんなふうに自由に舞いたい。

 あれから愛与はクラス中から奪いあいとなり、白烏やかぐ沙からも助言を求められていた。

 今日の愛与はみんなの先生であり、憧れであり、主役だった。

 だからこうして同室の利点を最大限生かして、教えをこうむっているのだ。

 王子のようにエスコートする愛与。姫のように自由な恋守。

 姫は王子の足を踏み、あらぬ方向に腕をひねり、鳩尾みぞおちひじを食い込ませた。

 もちろん、恋守には砂粒ほどの悪意もない。

 もちろん、愛与の体は無事ではなく、床に倒れてしまう。

「どうしたのアイアイ、大丈夫?」

【おぬし……吾輩に……なにか……うらみでも……あるのか?】

 もだえつつ、テープをえながら、怨嗟えんさの声を放つ。


 ダンスに付き合ってくれたお礼として恋守が晩ご飯を作ってくれるそうなので、愛与は広い食堂のテーブルに一人、座っていた。

 材料はいろいろと補充しておいたので好きなように使ってくれていいと管理人さんに聞かされていた。

 待つこと三十分。

 料理が得意な愛与は、自分なら既に何品かは完成させて並べているところだと思ったけれど、善意を無下むげにするようなことは考えたくないと、静かに恋守の料理を待つことにする。

 それから更に十五分が経過して、それなりにいい匂いが漂ってきて、もしかしておいしいものがやってくるのかなと期待は高まる。

「お待たせ」と言って、恋守は愛与の前に料理を置く。

「…………」

 本日、愛与はまだ声を全て使いきっていない。その気になれば数秒間喋ることは可能だ。

 それなのに声を出さないのは、単に絶句しているからにほかならない。

「さあ、召し上がれ!」渋い声でシェフは言う。

「これ、なに?」可愛い声で客は問う。

「え? ピザだけど?」

「ピザ?」

 愛与はテーブルのものに目を落とす。

 白くて大きな平皿の上に、太い『く』の字のかたちをした、どす黒い物体が鎮座ちんざしている。

 二十四時間以内にイタリアが攻めてきたら、これをピザと呼んだせいだ。

《岡山県ではこれがピザなの?》

「お、岡山をバカにするな」そう言って、恥ずかしそうにつづける。「確かにちょっと見映えがよくないのは認めるけど、はじめての料理なんだから、こんなもんでしょ?」

 この皿の上に盛りつけられた惨劇を『ちょっと』見映えが悪いで済ませてしまうのは、ちょっと自己評価が高すぎるのではないだろうか。

 しかも、これがはじめての料理だと、しれっと怖いことを白状してきた。不安しかない。

「いいから早く食べてみてよ、私の特製オニオンピザ」

 オニオンピザというより鬼のひざといったほうがしっくりくる外見だけれども、匂いをかぐと不思議と不快感はなく、とりあえず箸で小さくつまんで、口に運ぶ。

「あ、おいしい」と声が出た。

「でしょ?」ものすごく得意になる恋守。

 オニオンピザの名に恥じない、しっかりと主張するチーズと玉葱。全体を覆う黒い物体はデミグラスソースだった。ピザといいつつ生地がないのは初心者ゆえのご愛敬あいきょうか。

 目に入った材料を片っ端から混ぜたり刻んだりしてオーブンで焼いたようだけど、それでもはじめての料理でここまでおいしくできているのは、感心してしまう。

 生まれつき綺麗な字が書けるように、生まれつき料理のセンスもいいのかもしれない。

 だけど、と愛与は思った。

 このピザ、おいしいけど、おしい。

 一工夫で、もっとよくなる気がした。

《ちょっとまってて》

 愛与はオニオンピザを皿ごと持って、キッチンに入る。

 十分後、耳にもおいしい音を鳴らしながら戻ってきた。

「わあ、グラタンだ!」

 テーブルに置かれたそれを見て、恋守は声を上げる。

 深めの耐熱皿が、グツグツ音を立てている。

「食べていい?」

 愛与はうなずいた。

「いただきまーす」

 はふはふ、あつあつ、しながらおいしそうにグラタンを胃袋に運んでいく。

「おいしい! これすごくおいしいよ、アイアイ!」

 恋守は感極まっていた。

 ふふっと愛与は笑顔になる。

《グラタンにすれば、だいたいおいしい》と、何かの標語みたいにメモに書いた。

 恋守は、どしどしグラタンを攻略していく。

 愛与は、ふうふう冷ましながら食べていく。

 うん、おいしい。

 デミグラスソースと玉葱が、いい仕事をしてくれていた。

「そうだアイアイ、これ試してみてよ」

 恋守は細いシルバーのつつを渡してきた。

 缶ジュースかと思ったものの、そうではなく、それはスパイスの容器だった。上部に如雨露じょうろのような小さな穴がたくさん空いている。

 軽く振ってみると、粗挽きのブラックペッパーが思ったより多く降ってきた。

 案の定、かけすぎたようで、まず鼻がつんとして、少し涙も出た。

《からい》

「えー、それだけしかかけてないのに、そんなわけないよ」

 言いながら恋守は、ばっさばっさとグラタンにふりかける。

 グラタンの白い表面が墨汁をこぼしたみたいに黒に染まる。

《体によくないよ?》

「アイアイ知らないの? ブラックペッパーって塩分もないし、健康食品なんだよ」

 そう言って、サラダにドレッシングでもかけたみたいに、平然と平らげていく。

 とはいえ限度があるのでは、と愛与は舌をヒリヒリさせながら訝しんだ。


 その夜、愛与は不思議な夢を見ていた。

 深い霧の中で、ひとりぼっち。

 遠くから自分を呼ぶ声がする。

 その声に返事をするべきか、悩んでいる。

 悩んでいると、声のほうからこちらに近づいてきた。

 声はどんどん近くなる。

 アイアイ……アイアイ……と。

 それは自分のあだ名であり、両親以外で自分をこう呼ぶのは、この世界に一人しかいない。

 がばっとベッドから上半身を起こす。

「……あ、アイアイ。おはよう」

 すぐそばから、心細そうな恋守の声。

 私の安眠をさまたげると賞金をもらえるゲームにでも参加してるの?

 と、メモに書きたくなる感情を、ぐっとこらえる。

 代わりに電気をつけて《どうしたの?》と訊く。

 恋守は恥ずかしそうに「こわい夢、見た」と言う。

《だから?》

「一緒に寝ていい?」

 見た目だけでは飽きたらず中身までも小学生なの、とメモに書こうと思ったけれど、気の毒なのでやめた。

 しかたないので少しスペースを作り、ここで寝ていいよと伝えるように、ぽんぽん叩く。

「ありがとう!」

 勢いよくそこに飛び込んだせいで、ベッドがきしむ。

 まったく、自分はいつになったら平穏に寝起きできるようになるのかと、ため息をもらして、それから電気を消して布団を被る。

 だが、眠れない。

 隣でトラのようないびきをかきながら眠るルームメイトのせいだ。

 愛与は思う。

 こいつは自分の安眠を妨げると賞金がもらえるゲームにでも参加しているのだろうか。

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