第七話

「あの、本当に気にしてませんし、困ってもないので、お願いですから……頭を上げて下さい」

 とはいうものの、恋守は困っていた。どう対応していいのか見当もつかない目前のできごとについて。

「本当にすまない」相手は誠心誠意、謝意を示してくる。

「ですから本当に……」

 昨日以上に慌てふためきながら体育館に飛び込むと、毘沙門天びしゃもんてんの生き写しみたいな面持おももちで谷内やち先生が急接近してきた。

 今日こそ怒りの雷が落ちてくるかと思いきや、落ちてきたのは谷内先生の上半身だった。

「本当にすまなかった!」

 首を差し出すように、直角に腰を折って、頭を下げてくる。

「……どうしたんですか?」

 身に覚えのないことで叱られるのは不愉快だけど、身に覚えのないことで謝罪されるのは不気味だと知る。

「テレビ局にお前を出すなと警告しておいたのに、マスコミを信用した私がバカだった」

 その言葉で事態を把握する。

「それでしたら気にしてないので、気にしないで下さい」

「いや、そういうわけには──」

「いえ、本当に大丈夫ですから」

「しかし、だな──」

 というやりとりがつづいている。

「本当に、本当に、ほんとおに、私は気にしてませんから」

 手を広げ、大袈裟にアピールする。

 実際、気にしていなかった。というより、忘れていた。

 頭の中にあるのは遅刻への焦りと、小説の感想を白烏や誰かと語りたい気持ち。そこに多くを割かれ、残りのわずかな部分は、早く先生に冷静になってもらいたいという願いだけ。

「そうか、わかった」ようやく教師は顔を上げた。「だけど、お前は腹が立たないのか? お前が望むなら、関係者全員に一生消えない傷の三つや四つ、つけてやるぞ?」

 バシンバシンと鞭を手に、それを鳴らす谷内先生。一つや二つはつけることが確定しているかのような口ぶり。

「いや、本当に怒ってませんし、やめてくださいね。特に暴力は絶対に」

 そういえば鞭を隠すのを忘れていたことに、今さら気づいた。


 午前のカリキュラムを終え、愛与とコンビニで昼食を買って公園で食べて学校に戻る。

「見つけた!」

 三人の少女たちがこちらをとらえ、急ぎ足で寄ってくる。

「恋芽恋守さんですよね?」

「はい」相手は同じ学校の制服を着ているし、特に警戒することなく恋守は応じた。

「ありがとう!」と一人の女子生徒が声を上げ、恋守を抱きしめる。

「──?」

 身に覚えのないことで叱られるのは不愉快だし、身に覚えのないことで謝罪されるのは不気味だし、身に覚えのないことで感謝されるのは不可解だった。

 相手の胸に顔をうずめられ、抱きしめる腕に頭を固定されているせいで呼吸が阻害され、どんどん苦しくなっていく。相手の腕を軽く叩くと、状況が伝わったようで「あ、ごめんなさい」と開放してくれた。

「な、なんなんですか?」息を整えながら、警戒心を露にして一歩下がる。

 一人目の少女が「私は文芸科の一年です」と言って。

 二人目の少女が「私は映像科の一年です」と言って。

 三人目の少女が「私も映像科で、私たち恋芽さんにお礼が言いたいんです」と言った。

 お礼と言いつつ窒息させられた件について遺憾を表明したいものの、そもそも何についてのお礼なのかすらわからない。だから「どういうことですか?」と訊ねるほかない。

「恋芽さんが一云一さんを継いでくれたのが、すごく嬉しいんです」

「──はい?」

「一云一さんが亡くなって、ジャック・キャメロンの素晴らしい小説や映画がいくつも日本で未発表になっていたんですけど、恋芽さんが一さんになってくれるから、それが解禁されるんですよ! すごいことですよ、恋芽さん。あなたは私たちのヒーローです!」

「…………」

 疑問の一言を発するのにも躊躇ちゅうちょしてしまう。彼女たちは何を言っているのだろう。

「違うでしょ」

 いましめるように一人の少女が声を上げる。少しはまともな人がいたことに安堵あんどする。

「恋芽さんじゃなくて、はじめさんでしょ」

 どうやら、そうではなかったらしい。

「あ、そうか。声優さんて後継者になると普段もその名前で呼ぶ決まりなんだよね」

 そういうならわしではあるけれど、少なくとも恋守は一云一を継ぐ予定もつもりもない。

「ありがとう、一さん」

「ありがとう、一さん」

「本当にありがとう、一云一さん」

 むせかえるような善意にまみれた、少女たちからの感謝。

 他人の名前で自分を呼ばれる恐怖。

 それらが霧のように恋守を包囲して、果たして自分は何者なのか、感情を麻痺させてくる。

「──恋守!」

 はっとさせられるような愛与からの呼びかけに、恋守は我に返る。

「いこう、恋芽恋守!」

 強く手を握り、霧から抜けるように女子生徒たちから離脱する。

 人気のない体育館の裏までやってきて、愛与の足は止まった。

「恋守」

「…………」

「返事!」

「は、はい!」

 よく聞いて、と前置きするみたいに愛与は恋守の肩を掴む。

「恋守が迷子になりそうなときは、ついていてあげるから  」

 空回りするくちびる。出てくれない、声。

 やるせなさに、思わず愛与は地団駄を踏む。

 きっと、とてもいいことを言おうとしてくれていたのに、貴重な一日分の声を中途半端なところで消費させてしまい、申し訳ない気持ちになる。

 ため息をこぼした後で愛与はメモに何か書いて、その紙を恋守の左胸に押しつけた。

《恋芽恋守》

 これだけは失うな、と言われている気がした。

「……ありがとう」

 そのメモを、優しくポケットにしまう。

 猫のあくびほどの沈黙の後で、恋守は口を開く。

「私の声が一云一さんに似てるのは知ってたし、後継者になれるんじゃないの、みたいなことだって何度も言われてきたけど、私は一さんになりたいわけじゃないし、そもそもなれるわけなんてないし、今は珍しがって騒がれてるけど、そのうち私なんかよりよっぽどふさわしい人が見つかって、その人が次の一云一さんになると思うよ」

 素直な胸の内を明かす。

 愛与はうなずいた。

「あの、ちょっといいですか?」

 声の主に振り返ると、恋守と同じくらい小柄な少女が少し離れた位置にいる。

「男の人みたいな声が聞こえて……恋芽、恋守さん、ですよね?」

「はい」恋守はうなずく。

「会ってもらいたい人がいるんですけど、お時間よろしいですか?」

 一云一に関連したことなのは間違いなく、恋守の心中を察した愛与は、今は遠慮してほしいと態度で示すように、恋守の前に立つ。

 その勇敢な背中を、恋守はぽんぽんとノックした。

「そんなに心配しないで。大丈夫だから」

 先入観で物事を決めつけるのはよくないし、逃げる癖もつけたくない。

 だから、話だけでも聞くことにする。

 同級生だと思った小柄でメガネをかけた少女は二年生で、生徒会の書記をしているという。

 これから会ってもらいたいのは、生徒会の副会長だという。

 どうして自分からこないのか、それを訊こうとすると一足先に書記さんが答えてくれた。

「どうしても、本人からこられない理由があるんです」

 その理由を教わる前に、目的地に到着した。

『保健室』

 部屋の扉についているプレートに胸がざわついた。あまりいい予感はしない。

 だけど、余計な先入観は持たないと決めたばかり。ゆっくり鼻から息を吸って、口から吐いて、扉を開ける。

 恋守につづこうとする愛与を書記さんが制した。

「できれば、恋芽さんだけお願いします」

 不服そうな愛与に「何かあったら大声で叫ぶから、そのときは助けにきてね」と冗談っぽく伝えて、保健室に入る。

 薬品と湿布しっぷを混ぜたような匂いに迎えられる。

 清潔というより、不浄なものを排除する潔癖さが漂っていた。

 思っていたほど広さはなく、窓際にあるベッドで上半身を起こしてこちらを見ている少女が副会長なのは間違いないだろう。

「きてくれてありがとう」と彼女は言う。

「いえ、別に……」それ以上、特に言葉は出てこない。

 その声を聞いて、ベッドの少女は目を丸くした。

「本当に一云一さんそっくりなんだ」演技ではと疑うほど大袈裟に驚かれる。

「まあ、はい……」

 書記さんも二年生だったけど、背丈が自分と同じで雰囲気もあどけなかったせいで、年上と会話をしているような気持ちになれずにいた。

 でも、この人は違う。まぎれもなく先輩だ。

 だから恋守はどこか緊張していた。

「はじめまして。二年で生徒会副会長の薙寅泣希なとらなきといいます」

「はじめまして。一年の恋芽恋守です」

「知ってます」

「…………」

 副会長の言葉が、場を和ませようする軽口なのは恋守もわかってはいる。ただ、どう応じていいかわからない。

「そんなに緊張しないで」副会長は微笑んでみせる。「あのね、恋芽さん。私はあなたにお礼が言いたいの」

「お礼、ですか」

 またしても、身に覚えのないことで感謝されてしまうのかと、恋守は心で身構える。

「ありがとう、恋芽さん」副会長、薙寅泣希は、ゆったりとつづけた。「あなたのおかげで、妹は笑顔で天国にいけるわ」

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