第六話

「時計」

【胃薬】

「リス」

西瓜スイカ

「カメ」

【メカ】

「カニ」

大蒜ニンニク

靴紐くつひも」声に出すと同時に、恋守は顔を歪めた。「──あ! 靴紐はさっきも言った」

【はい、また吾輩の勝ち!】余裕たっぷりの勝利宣言がスピーカーから放たれる。

 代筆が一段落して、何の気なしに「そういえば、フカヒレって特技はあるの?」とサメの姿をしたカセットプレーヤーに話しかけた。

【吾輩、しりとりが得意だぞ】

 というサメの発言をいぶかしく思った恋守は勝負を申し出た。

 結果、七戦七敗の惨敗。

 決して油断していたわけでも、手心を加えていたわけでもない。

 本気で挑んで、見事に散った。

 こちらの発言にあわせて適切かつ迅速にテープを入れ替え言葉を繰り出してくるため、言葉のやりとりにそこまでの違和感はなく、このフカヒレというカセットプレーヤーは、愛与のともだちであると同時に、もう一つの声帯せいたいなのだと理解を深めることができた。

 壁にかけたアナログ時計を見ると、間もなく夜の二十二時三十分になろうとしている。

 紡椿白烏のラジオの時間だと思い出したけれど、ラジオがない。

【おぬしの考えはお見通しだよ】不敵な声でつぶやくフカヒレ。

 愛与を見ると、彼女も不敵な笑みを浮かべていた。

 恋守は首をかしげる。

 愛与は、フカヒレからツノを生やすように銀のアンテナを伸ばし、スイッチを押すと、フカヒレのスピーカーから雑音混じりの音楽が流れはじめる。

 なんとフカヒレはただのカセットプレーヤーではなく、ラジカセだったのだ。

「すごい! フカヒレ、優秀!」

 ぱちぱちぱち、と恋守は手を叩いて称賛をおくる。

 そして開始の時刻。

 オリエンタルな楽曲と共に過剰にエコーのかかった紡椿白烏の声が響く。

「世紀末、技術の進歩でどんどん便利になる世界。ポケベルなんてもう古い。時代はピッチに携帯、インターネット。だけど言葉もどんどん増えていく。複雑化するコミュニケーション。疲弊ひへいしていく私たち。だからりゃくそう。言葉は短ければ短いほど素晴らしい。略せ人類。もっと! もっとだ! 紡椿白烏の──略語道場!」

 開幕を告げるように大きな銅鑼ドラが鳴る。

「みなさん──んばんは! 声優の紡椿白烏です」

 クラスメイトの声がラジオから流れる新鮮な感覚を恋守と愛与は味わっていた。

「いやあ、紡椿、ついに今日から女子高生様でございますよ。本当にたくさんのお手紙やFAXありがとうございます。中学卒業のとき以上に届いてるんじゃないかなあ。いつもは番組開始前に全部読ませていただいてるんですけど、今日は限界を突破しちゃいましたね。でもここに集まった気持ちは全てしっかり受け取ってますよ。みなさま、本当にありがとうございます」

 ラジオから聞こえてくるのは、学校にいるときとあまり変わらない、でも少し違う、声優としての紡椿白烏の声。

 彼女の伸びやかで心地よいフリートークは時間を忘れさせ、そろそろ番組も終わりの時間が近づいてまいりましたと言われたときは、五分間のラジオだったのかと思って時計を確認すると、実際は二十五分経過していた。

「このあと二十三時からは『天パン』こと『天使は明日もパンを買う』の第一話がついに放送開始ですぞ、皆の衆。わたくし紡椿、ヒロインのベイカちゃんを演じさせていただいております。原作をご覧の方ならご存じと思いますが、とってもかわいくて複雑な女の子なんですよ。収録は半分くらい終わってるんですけど、回を重ねるごとに紡椿の役者としての成長も見ていただければなと思います。作品の感想もジャン待ちしてますので、よろしくお願いいたします。それではみなさん、またラー……じゃなかった。今週は紡椿ラジオ強化週間だから、金曜日に増刊号もやるんだった」たはは、と笑う。「今日はフリートークオンリーだったけど、金曜日にはコーナーもやるですよ。開始以来、大人気のウッキウキや、それ以外のコーナーも忘れてませんっすよ。それではみなさん金曜日にお会いしましょう。また金ー」

 ラジオは終了して、フカヒレのスイッチを切る。

 恋守と愛与は、きょろきょろと周囲を見わたす。二人は同じものを探していた。

 それを見つけたのは愛与だった。手を伸ばし、床の上のリモコンを握る。

 テレビの電源を入れると、プロレスが映る。聞いただけで痛そうな技の名前をアナウンサーが絶叫している。チャンネルを変える。明日の天気は晴れ。チャンネルを変える。牢屋のような場所で長い金色の髪の少女が目覚めたところ、アニメーション作品。これだ。

『天使は明日もパンを買う』第一話。

 先ほどのラジオでヒロイン役の声優から、あれほど作品への想いに熱弁を振るわれてしまっては、見ないわけにいかない。

 最早これは新番組というよりも、夜空に浮かぶ未確認飛行物体や湖から顔を出した怪獣と同類の、とにかく見逃せないものとなっていた。

 ヒロインの第一声に、紡椿白烏の顔が浮かぶも、学校でいるときの彼女からは想像もつかない悲壮感と迷いを表現しきった演技に、一秒後にはその顔は消え、物語に飲み込まれていた。

 事前に頭の中にあった、ここから何か学ぼう、という意思は、いとも容易く溶けてしまった。

 エンディングテーマが流れ、スタッフロールがはじまり、やっと二人は我に返る。

 時計の針が三十分近く進んでいることが冗談だと思った。体感は三分だと告げている。

 キャスト紹介の一番上にはヒロインの名前、その隣に『紡椿白烏(次代)』とあった。

 紡椿白烏の名前を継ぐ者であっても、彼女はまだ『当代』ではない。

 二十歳を迎えたときに、クラスメイトの紡椿白烏は正式に『当代・紡椿白烏』となり、時の流れとともに次代の紡椿白烏を育成し、後継者が決まれば、やがて先代と呼ばれるようになる。

 次回予告が終わると、開口一番、恋守は不満をもらす。

「なんでアニメっていつも一番いいところで終わるんだろう」

 それは来週も見てほしいからじゃないかな、と愛与は思う。

「ねえ、アイアイ」真剣な表情で恋守は愛与と向きあう。「確か近くに遅くまでやってる本屋さん、あったよね?」

 愛与はうなずく。

 恋守は提案する。「じゃあ、いこっか」

 愛与はうなずく。その気持ちは、よくわかるから。


 深夜でもそれなりに店内が賑わっているのは、ここが横浜だからなのか、それとも恋守たちと同じおもいで来店した者が少なくないからなのか。

 はじめて入る書店だったにも関わらず、目的の商品の場所まで迷わず向かうことができたのは、おそらく同じものを求めているのであろう先人たちに当たりをつけて、その人たちの後を追ったからだ。

 小説のコーナーに『アニメ化決定』の幕があり、その下で山積みにされていた『天使は明日もパンを買う』の原作本が、大急ぎでかき氷をき込むみたいに削られていく。

 慌てて恋守も一冊確保する。

 目当てのものを手に入れ、余裕が生まれた視界に、ふと、気になる光景が映る。

 本を手にした人たちは、パンを買ったついでにチーズも買うように、もう一冊、何か雑誌を手にして、それからレジに並んでいた。

 その雑誌の前までいってみると、表紙に知らない学校の制服を着た紡椿白烏が写っていた。

 人気声優雑誌『声優レビュー』の最新号。

 この一時間で、この少女のラジオを聴き、ヒロインを演じているアニメを見た。そして今、白烏が笑顔で表紙を飾る雑誌を見つめている。

 うらやましい、という感覚はまだ持てない。

 同じ学校で同じことを学んでいくはずなのに、自分はまだスタート地点にすら立てていない。

 くやしいも、せつないも、なさけないも、ない。

 まだ自分には、まだ何もない。なにものにもなれていない。

 背後から伸びてくる誰かの手が、次々と雑誌を取って去っていく。

 勢いにのまれ、自分も一冊手にしてレジに向かう。

 小説と雑誌を同時に購入すると店舗限定の特典をもらえた。片面に天使は明日もパンを買うのイラスト、もう片面に紡椿白烏の写真がプリントされた手提げ鞄だ。それに買ったばかりの書籍を入れてもらって、ちょっと得をした気分で笑顔になった恋守だったが、その笑顔は二秒も持続しなかった。

 愛与の姿が見えない。

 迷子になってしまう。

 銀行で強盗に遭遇するのと知らない本屋で迷子になるの、どちらか選べと言われたら、少し悩んで強盗を選ぶのが恋守である。

 とりあえず愛与の名前を叫んでみるか、店内放送を頼んでみるか、もし愛与も迷子になっていたらどうしよう。

 あらゆる不安が駆け巡ったのも束の間、店の出口付近にあるカプセルトイの販売機が並んでいるスペースに愛与の背中を発見する。

 そばに寄ると、一台の販売機をじっと見つめていた。

「ガチャガチャやりたいの?」恋守は訊く。

 こくんと頭を下げる愛与。それから彼女はメモとペンを取り出す。

《でも、できない》

 どうして? と声を出す前にその理由がわかった。

 愛与の前にある販売機だけ、中身が空だった。

 販売機の正面には売り切れでなければ入っていたはずの景品のイラストが貼られている。それを目にして、恋守は人気の理由を察した。

「ネコドリアンか」と、ため息のようなつぶやき。

 果実の王様ドリアンとネコを融合させた、トゲトゲしたネコのキャラクター。

 昨年、大手文房具メーカーが発表して以来、社会現象と呼べるヒットをつづけている。

 百種類以上のカラー展開をして、それぞれの色に学力向上や金運効果などの特徴が与えられていた。無論、そこに科学的根拠は一切ない。

「アイアイは何色を狙ってるの?」

《オレンジ》

「オレンジってどんな効果があるやつだっけ?」

《無病息災》

 その文字はどこか、願いが込められているように見えた。

「なるほど」

 ネコドリアンのヒットはキャラクターの珍しさと愛らしさがうけたからであって、企業のデザイナーが思いつきで付与したおまじないに効果などあるわけない。しかし、その特徴を持つネコドリアンを身に着けてからというもの、実際にその恩恵おんけいあずったという声が少なからず聞こえてきたのも事実で、それが入手困難に拍車をかけていた。

「ちょっと待ってて」

 と言って恋守はレジに向かって歩いていく。

「すみません、ネコドリアンのガチャガチャって次はいつ入荷するかわかりますか?」

 店員に訊ねる恋守。

 店員は恋守の見た目と声のギャップに理解が追いつかず、目をしばしばさせていた。

 それが愛与には少しおかしくて、すごく嬉しかった。


 深夜一時。

 恋守と愛与は悩んでいる。

 制作者からの挑戦といわんばかりに絶妙な場面で終わったアニメ第一話のつづきが気になるあまり原作を買ってきて読んだのはいいけれど、この小説、面白すぎる。

 とりあえず、キリのいいところまで読もうと恋守と愛与は肩を並べてページをめくっていたけれど、キリがない。

 この調子だと最後まで読んでしまう。おそらく深夜三時くらいに読み終わるだろう。その後、深い眠りに落ちるだろう。その結果、高い確率で遅刻してしまうだろう。

 うーん、とうなって、そうだ、と思いつく。

 買ってきたもう一冊、声優レビューを読んで気分転換しようと雑誌を取り出す。

 祝! 次代、紡椿白烏、高校デビュー大特集とのことで、全国の有名高校の制服に身を包んだ白烏が様々な場所で様々な表情を披露ひろうしていた。かわいかったり、美人だったり、ミステリアスだったり。わかっていたことだけど、とにかく絵になる。

 これらの写真を増量して一冊にまとめた次代、紡椿白烏、全国高校制服征服図鑑を、応募券と千円分の定額郵便小為替を送れば、応募者全員にサービスしてくれるらしい。

「私この、定額郵便のあとの『小為替なんとか』って部分がいっつも読み方わからないんだけど、なんて読むの?」

「…………」愛与は沈黙を貫く。

「訊いてる? アイアイ」

《今日はもう喋れない》

「書いて教えてくれてもいいんだよ?」

 愛与はメモに《なんとか》と書いてみせた。

「フカヒレは知ってる?」恋守はサメのカセットプレーヤーに声をかけた。

【ぐー、ぐー、ぐー】スピーカーから寝息が鳴る。

 本当に、なんでも録音してるんだなと、恋守は感心する。

 ぱらぱらと雑誌をめくっていると、白烏以外のもう一人のクラスメイトの姿が現れた。

『きみは誰を選ぶ? 次代、竹詠かぐ沙、十傑じゅっけつ揃う』

 見開きで十人の少女が並んでいる。

 次代の竹詠かぐ沙たち。

 一般的に次代の称号は当代への認定証のようなものであり、次代と後継者は同義語である。

 ただし、竹詠かぐ沙だけは例外。

 二千人以上といわれる志願者に対し過酷な修練を課し、幾度となくふるいにかけ、選別を繰り返し、それを十人になるまでしぼる。

 残った十人は、既に声優として上位の技量を持つとされる。

 その中から一人を。声優のいただきであり象徴たる、当代、竹詠かぐ沙は選ばれる。

 そこまでの経緯は定期的にあらゆるメディアで報じられ、それらは『竹取物語』『竹取合戦』と呼ばれ、声界せいかいの一大祭事となっている。

 雑誌の中の次代、竹詠かぐ沙たちは足下に壱番いちばん弐番にばんと、数字が割り当てられていた。

 数字の早さがそのまま期待値と才覚の高さをあらわしている。

 クラスメイトの竹詠かぐ沙は、拾番じゅうばん。十人中の十番目。最下位だった。

 竹詠かぐ沙の次代に選ばれているだけでも十分な名誉であることに疑いはない。

 だけど、今のこの順位を彼女はどう受けとめているのだろう。

 恋守は思いをせてみたものの、何一つ想像できなくて、少しざわざわした。

 このざわざわを愛与と共有しているような気がして、隣を見ると、既に少女は小説に夢中になっていた。一体どんな展開が起こっているのか、目に涙を浮かべている。

「あー!」虫の居所いどころの悪い虎河豚トラフグみたいな声を上げる。「アイアイ! ひどい!」

 バッタのように跳ね、愛与の隣に着地して、自分も物語の世界に入り込む。

 こうして二人の少女は最後まで小説に浸り、読了したのは朝の四時。カーテンの向こうから鳥の鳴き声が聞こえる。それが子守歌のように二人は綺麗に眠りに落ちた。

 夢は見なかった。しかし、目覚めと同時に悪夢がはじまる。

 学校まで、どれだけ急いでも五分はかかる。授業開始まであと三分。そういう時刻だった。

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