第四話

 ティーカップからのぼる湯気のように独特の速度で、かぐ沙の脚は上昇していく。

「竹詠さん?」

 かぐ沙の脚は、恋守のひざからももへ。

「ちょっと竹詠さん、ふざけないで!」

 かぐ沙の脚は、恋守のスカートのすそにふれると、それをたくし上げていく。

「た、竹……」

 かぐ沙の脚に、止まる気配はない。

「い、いや──」

 抵抗する手段を思いつかなくて、恋守は強く目を閉じ、顔を背けた。

 そこで、ぴたりと、かぐ沙の脚の動きは停止する。

 おそるおそる、まぶたを開き、竹詠かぐ沙に目を向けると、彼女は「冗談」とつぶやいた。

 からかってくるわけでも楽しんでいる様子もなく、無表情に。

「あなたが女の子なのは骨格を見ればわかる」

 みんなが心配するといけないからそろそろ戻りましょう、と何ごともなかったかのように言うと、かぐ沙は恋守から離れて教室から出ていこうとする。

 胸の中で囚人が暴れまわっているような動悸。やり場のない感情。それらをどうすることもできず、帰り道でまた迷子になることを怖れた恋守は、黙ってかぐ沙の後を追った。


「こがしこ!」

 体育館に入るなり紡椿白烏が恋守を目がけて走って飛びつき抱きしめて、餅で餅をつくように、ぺちぺちと頬をくっつけてきた。

 周囲の少女たちは、うらやましそうにそれを見つめる。

「つ、紡椿さん?」

 彼女はハチミツかシロップでシャンプーをしているのか、恋守の顔を撫でてくる白烏の金色の髪は、あまい香りをばらまいてくる。

「こがしこー、私バリカンだよ! こがしこがお姫様になるのマオウしちゃうよ!」

 白烏が口にする『こがしこ』なる単語は、たぶん『恋守』をもじったニックネームだと察することはできる。しかし、いくら想像力を働かせても『バリカン』と『マオウ』がわからない。どこかで羊の毛刈りでもするのか。どこかに魔王が隠れているのか。

「えっと、バリカンとマオウって何?」

「ええ!」じゃんけんのルールを知らないとでも言われたみたいに、驚かれる。「バリカンは『バリバリ感動した』でマオウは『マジ応援してる』の略じゃん」

 世界最大の砂漠はサハラ砂漠ではなく実は南極なんですくらいの、おそらくそこまで有名ではないはずの知識を一般常識のように語られてしまう。

「略語なの?」

「そうだよ略語だよ。私のラジオ聞いてよ、こがしこ。今晩二十二時三十分から生放送だよ。ハガキやFAX待ってるよ」

 自分の番組の宣伝をしつつ、白烏は恋守を一層強く抱きしめる。小柄な恋守にとってそれは最早、愛情表現ではなくプロレス技をかけられているのと同じだった。

「あ、アイアイ、たすけて……」

 運よく視界に入った愛々愛与に救いを求め、手を伸ばす。

「アイアイ?」その言葉にピクンと反応し、白烏は愛与を見つめて「あっ、わかった。愛々さねちかをアイアイって読んでるんだ」と理解する。

 その声にビクンと反応した愛与は、こくんとうなずく。

「じゃあ、私はアイって呼んでもいい?」白烏は愛与に訊く。

 こくん、と愛与はもう一度うなずいた。

 あらゆるものを略そうとする白烏のこだわりが恋守には謎だった。

「それにしても先生遅いね」一人の生徒が腕時計を確認している。

「谷内っち凶暴だからねえ」その身に染みているのか、白烏は唸る。「きっと今ごろ校長室を爆破した罪で警察に追われてるんだよ──」そうだ、と白烏は手を叩く。「せっかくだから、みんなに谷内っちの面白かわいいエピソードを教えてあげるよ。これ最高におかしくて、絶対にウケるから──」

「ほう、それは楽しみだな」

 忍者みたいに予告なく白烏の背後に立っていた谷内先生は氷点下の声でつぶやく。

「……や、谷内先生。いつからそこに?」白烏は凍りつく。

「今からだ。で、私の面白かわいいエピソードとやらを聞かせてもらおうか。どのくらい面白くて、どのくらいかわいいんだ?」

「それはもう抱腹絶倒、因果応報の五里霧中な感じで──」と支離滅裂なことを口にする。

 谷内先生はため息をついて「もういい、今はお前と遊んでる気分じゃない」と恩赦おんしゃを与えた。

 遅れてすまない、と口火を切って、これまでの経緯を説明してくれた。

 実は昨日の仮入学式のときにも離れた場所からテレビ局に撮影されていたこと。そして恋守の声を聞いたスタッフが、あまりにも一云一のそれと似ていたことに驚き、祥子専務に報告したこと。それを聞いた祥子専務が半信半疑でここにきたこと。

「──まあ、だいたいそんな感じだ。テレビ局には撮影した素材は一切使うなと警告しておいたし、二度とくるなとも言っておいた。学校側に警備の強化も頼んでおいたが、不審者を見かけたらすぐに言ってくれ」

 想定していないトラブルに見舞われたせいで、予定していた授業を実施することができず、簡単な座学だけで声優科の初日は終了した。

 なお、教室を使った授業は正式な入学式以降に行われるとのことで、それまで全ての講座は基本的にこの体育館で実施されるとのことだった。


 ──まずは『できる』と決断せよ。それからその方法を見つけるのだ──

 エイブラハム・リンカーン(政治家)

 九歳のとき母と死別。二十二歳のとき事業に失敗して借金の返済に十七年も費やす。二十六歳のとき婚約者と死別。政治家を志すも何度も何度も何度も何度も何度も落選を繰り返す。

 そして最後はアメリカ史上最も偉大な大統領と呼ばれた。


 寮に帰り、夕食を済ませた後で部屋に戻ると、おもむろに愛与は偉人の名言と略歴の書かれた紙を、机の前の壁にピンでとめた。

 困難を乗り越えた人の言葉を常に見える位置におくことで、おのれ鼓舞こぶする。

 一方、恋守は自分宛に届けられていたダンボールを丁寧に開いた。

 箱の中には数種類の紙が入っている。無地のハガキ、花柄の便箋びんせん、原稿用紙など。

 それらを吟味ぎんみして、まず恋守は花柄の便箋を机の上に置いた。その便箋の左斜め上の位置にワープロで印字された文章の並ぶオレンジ色の紙を添える。

 オレンジの紙には『十代半ばの女の子の文字で、かわいらしさ優先。黒のボールペン』という指示のような一文の下に、誰かが誰かに宛てたメッセージが並んでいた。

 恋守はボールペンを手に、そのメッセージを便箋に書き写す。

 それを背後から覗いていた愛与は、思わず息を呑む。

 無骨な明朝体で印字されたメッセージを便箋に筆写する恋守。少女の書く文字の一つ一つがそれぞれ異なる花のような個性と魅力を開花させていた。

「……かわいい」無意識に貴重な一秒をつぶやいてしまう。

 メッセージを写し終えた花柄の便箋は恋守の手書き文字によって、まるで花壇かだんのような華やかさに彩られていた。ここに蝶が飛んできても驚かない。

 その便箋を薄いプラスチックケースに丁寧に仕舞うと、今度は無地のハガキと次の指示書を机に置く。

『六十代。雰囲気重視。黒の万年筆』

 恋守はダンボールの中からインク瓶と万年筆を取り出すと、慣れた手つきでびんの蓋を開け、ペン先を浸し、書く準備を整え、指示書にある文面をハガキに写しはじめる。

 読めない。

 なんと書いているのか、愛与には全く読めなかった。

 文字であることは辛うじてわかる。しかし一文字も解読できなかった。

 かなりの長文で、今書いているのは般若心経だといわれても、おいしいカレーの作り方だといわれても、黙ってうなずいて、わかったふりをするしかない。

 数百年後、未来人がこれを見つけたら宝の在処ありかを示した古文書の一部に違いないと騒ぎになって、冒険がはじまるかもしれない。

 それくらい難解であると同時に、目が離せない引力を持つ力強い文字。

 万年筆ではなく稲妻の先端にインクをつけて紙の上を走らせたような威光すら感じる表現。

 全て書き終えた恋守は、万年筆を置いて、大きく息をはく。どうやら呼吸をとめて書いていたらしい。小さく背伸びしたところでようやく愛与の視線に気づいて、振り返る。

「どうしたの?」

《それは、なに?》愛与は文字で訊く。

 幼いころからずっと筆談をしているし、硬筆こうひつだって習っていたので自分の字を下手だと思ったことはないけれど、恋守の書いた次元の違う達筆を目にした後だと、気後れして、なんだか恥ずかしい。

「これ? バイトだよ」

《バイト?》

「アルバイト。代筆の」

 間もなく迎える二十一世紀では、小学校からワープロの授業がはじまるといわれている。

 速くて、便利で、綺麗の三拍子揃ったその文書作成編集機が浸透すれば、手書きの文字など計算機であふれたの今の社会における算盤そろばんのような扱いになるだろうといわれているし、その意見に愛与も納得していた。ほんの数秒前まで。

 手書きだからこそのあたたかさ、みたいな安い精神論ではなく、機械には出力できない圧倒的な職人の技術。それを目の前で見せつけられてしまった。

 お金を払う価値あるもの。

《どうしてそんなに上手なの? 有名な習字の先生のところで修行してたとか?》

 恋守は小さく笑う。「なにそれ。誰かに教わったことなんてないよ」

 愛与は唖然あぜんとする。《だったら独学でそんな字が書けるようになったってこと?》

「独学っていうか、生まれつき?」

 愛与は愕然がくぜんとする。そんなことありえるのかと釈然しゃくぜんとしない気持ちでいっぱいになる。とはいえこれだけのものを努力で手に入れようとすれば、どれだけの時間と熱意を注ぎ込む必要があるのか見当がつかないもの確かで、むしろ天性の素質だと言われたほうが俄然がぜん納得できる。

 はじめてのピアノやスケッチで歴史的な名曲や名画を生み出した偉人たちのように。

 生まれ持った才能。本当の意味での天才。

 清純な女の子のようなものから、老成ろうせいした仙人のようなものまで自在に操ってみせる。

 もしこれが文字ではなく声なら、少女の未来はどれだけ晴々しいものになっただろう。


 息抜きにテレビをつけると、ちょうど二十時のニュースがはじまった。

 テレビの映像に奇妙な既視感を覚えたが、その理由はすぐにわかった。

 そこに見えたのは、恋守と愛与のまな、葉ノ咲総合芸術高校だった。

 軽やかな音楽を背景に、精悍せいかんな書体で、こんなテロップが表示された。


『あの伝説の男性声優の後継者は美少女女子高生!?』

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