第三話

「どういうことだ!」

 落雷のごとき怒鳴りに、一同、一斉に目を向ける。

「あんたたち誰だ?」

 声の主、谷内先生は体育館の出入り口で威圧的に大人たちをにらむ。

「おちついて下さい、谷内さん」祥子専務がなだめる口調で前に出る。

「一さん、勝手なことは困ります」谷内先生は不愉快を隠さない。

「校長から許可は頂いていますよ?」

「私は許可した覚えはない」

 ここでは自分が法律だといわんばかりに谷内先生はゆずらない。それは支配者というより責任者としての矜持きょうじを提示しているように生徒たちの目には映る。

「おいそこ、勝手にカメラを回すな!」

 谷内先生からの警告で、祥子専務たちの背後にビデオカメラを構えた男の存在に気づく。

 そのカメラは、まっすぐ恋守をとらえていた。

 撮影機材だとわかってはいても、一般的なものとは大きさも形状もまるで異なるそれはむしろ武器のようで、今にもあのレンズからミサイルでも飛んでくるのではないかと、恋守を怯えさせた。

 少し大きな手の甲が恋守のプライバシーを守るように、目の前にあらわれた。

「だから、やめろと言っている。嫌がらせが趣味なのか? それとも言葉が通じないのか? だったらお前の第一言語を教えろ。言われて一番不快な言葉を辞書で調べて聞かせてやる」

 とげのある言葉を氷柱つららのような声色で包み、相手を刺す。

 無感情にカメラを構えていた男の態度が明らかに動揺していく。

「そうかっかしないでよ、繚夏りょうか

 急に砕けた口調になり、祥子専務は谷内先生をなそうとする。

 繚夏、というのが谷内先生の名前のようだ。

「誰のせいだと思ってるんだ、祥子さちこ

 この雰囲気からして、二人は同じ業界で働く単なる知り合い程度の仲ではなく、もっと親しい間柄なのだと推測できた。

「伝達が不十分だったことはお詫びするけど、でもこれはそちらにとってもいいニュースだと思わない? 国内初の声優科で早くもプロデビューを達成した生徒が現れた。しかもその子が一云一の名を継ぐとわかれば、どれほどの衝撃を世の中に与えるか想像は難しくないでしょ?」

「確かに。でもそれは恋芽が祥子の提案を受ければの話だろう。最初から聞いていたわけじゃないけど、恋芽はこう言ってなかったか? ──ごめんなさい、って」

「そうね。ふられちゃった」祥子専務はほがらかな表情を崩さない。

「ではお引き取りください。授業をはじめたいので」谷内先生は再び教師の体裁ていさいよそおう。

「もう少し粘らせてはもらえませんか?」祥子専務も企業の重役に戻る。「二年前、もっと強くあなたを引きとめておくべきだったと今でも後悔するときがあるんですよ」

「私とあなたとの関係が今も壊れてないのは、あのとき笑顔で見送ってくれたからですよ」

「そうですか」とつぶやく祥子専務の顔に、一瞬の哀愁あいしゅうがよぎる。「では今日は帰りますし、もうここにはきません。みなさん、うるさくしてごめんなさいね。いい声優になれるように、願っていますよ」

 祥子専務は生徒たちと向きあい、そう告げると一礼して歩き出す。大人たちが後につづく。

 恋守の前を通りすぎるとき、優しい一瞥いちべつをくれた祥子専務を見て、何か伝える言葉があるのではないか、もしかして判断を誤ったのではないかという感情がわき上がってきたものの、それを行動に移すことはできず、去っていく背中を静かに見送った。

「大丈夫か、恋芽」

「はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 カメラから守ってくれたときの、あの手のひらは心強かった。祥子専務とは正反対で表情からは何も見えてこないけど、この先生が優しい先生なのはきっと間違いない。

「そうか、それじゃあ一つ頼まれてくれないか」

「はい」

「これから教室までひとっ走りして、教卓の上に鞭のようなものがあるから、それをどこかに隠しておいてくれ」

「はい?」

 教卓、という単語のあとに日常会話ではまず使わない言葉がしれっと登場したような。

「教卓の上のむちをどこかに隠しておいてくれ」

「どういうことですか?」

「ちょっと校長に文句言ってくる。それで何かあってヒートアップしても使えないようにしておくためだ。さすがにまだクビにはなりたくないしな」

 抗議の展開によっては暴力も辞さないということだろうか。

 その手段は拳でも銃でもなく鞭なのだという。

 状況がまったく想像できないと思いかけたものの、谷内先生が傲慢ごうまんな貴族のように高笑いを浴びせながら器用に鞭を扱う姿が、ついさっき見てきたみたいに目に浮かんでしまう。

 それじゃあ頼んだぞ、と釘をさして、教師は体育館を後にした。

 もしかして自分は極めて重大な責任をになわされたのではないかと、小さくおののいた。


 教室は教室だった。

 岡山から横浜にきたとき、別の街というよりも違う国にきたような新鮮な違和感があった。

 でも教室は教室だ。

 そこに黒板があって机が並んでいるから頭が記号的に判断したわけではない。

 通っていた中学のものより全体的に広く、黒板は大きく、机のデザインもあか抜けている。

 そういう視覚的な拠所よりどころではなく、匂いなんだと恋守は思った。

 例えば自分が知らないだけで、実は教室には厳格に定められた木材しか使ってはならないという決まりがあって、その木から微かに漂う匂いがそこを教室たらしめているのではないか、そんな気がした。

 恋守は目を閉じてゆっくりと鼻から息をする。

 教室の、匂いがした。

 教壇に立つと、教卓の上に三十センチほどのステンレス製の定規じょうぎを見つける。きっとこれが鞭のようなものなのだろう。恋守はそれを手にとって、振ったりしならせたりした。鈍色にびいろに輝くこれは見方によっては刃物のようでもあり、実際、リンゴくらいなら容易く切れそうだ。

 さてどこに隠そうかと辺りをうかがう目が、教卓の上にある二冊の書籍にとまる。

『日本語イントネーション辞典』『声優基礎教本』とそれぞれ表紙にあった。

 手に定規を持ったまま、恋守は声優基礎教本を開く。

 もくじの項目を目でなぞっただけで、不思議な高揚こうようを覚える。

 忘れたことなどないけれど、声優になるためにここにきたんだという目標を改めて心で反芻はんすうする。

 もくじの次のページには『全ての基礎、腹式呼吸ふくしきこきゅう』とあった。

 イラストつきで正しいとされる順序がしるされている。

 ステンレスの定規で教本のページを固定して、お腹の具合が悪くなったみたいに両手で腹部をおさえた。突然の腹痛に襲われたわけではなく、教本のイラストにならっているのだ。

 そして「あ──」と母音ぼいんばす。

 声を出すことと連動して腹部がへこんでいけば上手く腹式呼吸ができている証左しょうさとのこと。

 確かにへこんでいく。だけどこれが発声によってへこんでいるのか、成功していると思いたくて無意識に手に力が入っているのか自分では判断できない。

 声を出し切ってしまい、もう一度試すことにする。

「あ──」

「何をしているの?」

「ヴぁ──」

 ふいに声をかけられたせいで、恋守の発声は猛禽類もうきんるいめ上げられているような断末魔だんまつまへと変わり、間髪かんぱつ入れず派手にせる。

「大丈夫?」

 心配しながら竹詠かぐ沙が教壇に上がってきた。

「竹詠さん、どうしたの?」言いながら喉の調子を整える。

「いつまで経っても帰ってこないから様子を見にきたのよ」

 恋守が教室に入って発声練習をはじめるまでに三分もかかっていないけれど、ここに到着するまでに、それはそれは長い長い冒険があったのだ。なぜなら彼女は極度の方向音痴だから。

『体育館を出て教室へ』と文字にすれば十文字にも満たないのに、恋芽恋守はここにたどり着くまでに短編小説が書けるくらいの迷子になっていた。

 迷い、彷徨さまよい、戸惑とまどい、途方とほうれ、裏切られ、絶望し、引き返すこともできず、今どこにいるかもわからず、涙はとまらない。もしかして、ここは富士の樹海だったのか。もしかして今日この場所で自分の命は尽きてしまうのか。本気でそう思ったとき、微かな希望が見えた。一心不乱に突き進んだ先、そこには次の壁が。もういい、疲れた。もういっそここで楽になろうかとうつろな視線に映った『声優科』の文字列に少女は泣いた。喜びと感謝の涙だ。この世界に確かに神はいる。恋芽恋守はそう信じたのであった。

 それは体育館から教室へとつづく、激動と感動のただの移動。

「これは?」

 教本のページを固定していたステンレスの定規を、かぐ沙は持ち上げた。

「先生の言ってた鞭みたいなものってそれじゃないかなって」

 恋守の言葉にかぐ沙は首をかしげ「それって、こっちのことじゃないの?」と言って、教卓の上にあった鞭を手に取り、顔の高さでかかげてみせる。

 黒く、しなやかで、アメリカからやってきた孫の手のような風貌ふうぼう

 鞭のようなものではなく、鞭そのもの。

 鞭に無知だった恋守は、それが鞭だと認識できなかった。

 手に持ってみると、革とゴムの中間のような感触が伝わってきて、なるほどこれで叩くといい音が響きそうだなと、理由もなく何かを打ってみたくなる。

 しかし、極めて用途が限られているこのようなものを谷内先生はなぜ所持しているのか、なぜ学校に持ち込んでいるのか。疑問は尽きない。

「ところで──」開き癖がついて、めくれたままの教本を見て、かぐ沙は問う。「複式呼吸の練習をしていたの?」

「うん。だけど、上手くできてるのかどうかわからなくて──」

「それなら、見てあげましょうか?」

「え?」

 思ってもない提案だった。竹詠かぐ沙の名を継ぐかもしれない少女から直接指導してもらえるなんて。

「時間がないから一度だけね。黒板に背中をつけて」

 言われたとおりにする。

「肩の力は抜いて、脚ももっと開いて──そう、リラックス」

 操られているみたいに従順に体を動かしていく。

「ゆっくり息を吸って」

「鼻から? 口から?」恋守は訊く。

「どちらでもいいけど、基本は鼻から」

 恋守は言われた箇所から酸素を吸い込む。

「それじゃあ、ゆっくり口から吐いていきましょう。ゆっくりと」かぐ沙は恋守の腹部に手のひらをあてた。「自分を風船だと思って、体の空気を全て抜くイメージで──うん、上手にできてる」

 もう吐き出すものがなくなった頃合いで、今度は丁寧に息を吸うよう指示されたので、それをした後で「ちゃんと、できてた?」と訊ねる。

「これは基礎中の基礎だから、できて当たり前。それに呼吸は体全体で行うものだから、呼吸法以外に体力や筋力をつけることも大切」

 それは知らない知識だったので、恋守は少し得をした気持ちになった。

「ありがとう。他に覚えておくことはある?」

「無限にあるけど、日常生活でできることなら──例えば、舌を鍛えるとか」

「舌?」

「そう、舌」

 言ってから、かぐ沙は舌を出す。それは体の一部というより、名前を知らない果実のような、みずみずしく婉美えんびなものに映った。

「こうやって、動かすの」

 アイスクリームに目がついていたら、見える景色はこういうのだろうかと恋守は思う。

「あなたもやってみて」

 その声に従う。

 舌を出し、できるだけ伸ばして、左右に上下に動かす。

 竹詠かぐ沙と向きあうかたちで、二人で空気を舐めあうように。

「舌の動きは発音に直結するから、とても大切。だけどトレーニングのやりすぎには気をつけて。舌だって筋肉痛になるし、誤って噛んだりしたら芝居に支障をきたすから」

「わかった。いろいろ教えてくれてありがとう」この短い時間で声優として何歩か進むことができたような、小さいけれど確かな達成感があった。「そういえば竹詠さん、昨日、私に何か話があるみたいなこと言ってなかった?」

「あったけど、それはもういい」

「そう、なんだ」

「だけど、訊きたいことならある」

「なに?」

「恋芽さんは岡山県出身って言ってたけど、岡山の倉敷市?」

「そうだけど?」

 地元の話題をふられているのに、知らない土地について質問された気分になる。ここまでの会話の流れとの繋がりを見いだせないせいだ。

「声に少し岡山県南部のなまりがあるから、そうなのかなって」

そう言われて、今後の課題と微かな畏敬いけいを覚える。

 意識して標準語を口にしてきたつもりなのに、自分では気づけない訛りがまだあるようだ。

 それに、ほんの少しの会話で、さらりと相手の故郷まで特定してくる、これが竹詠かぐ沙。声の象徴と呼ばれる所以ゆえん

「やっぱり、標準語はちゃんと身に付けてないとダメだよね?」

「当然」それ以外の言葉は必要ないといわんばかりの断定。「だけど訛りを捨てる必要もない」

「どうして?」

「どれだけの名優でも本物を表現するのは難しい。特に方言は大勢から絶賛されても現地の人の耳には聞くにえないという評価も珍しくない。だから例えば、岡山弁を喋るキャラクターのオーディションがあったとき、あなたの個性は武器になる」

「……なるほど」とても参考になったし、嬉しい言葉でもあった。

「一九七二年」またしても、かぐ沙の言葉は脈絡みゃくらくなく飛んだ。今度は二十六年前。「大崎アニメーションの設立二十周年を記念して金田一耕助の長編劇場アニメが発表された。金田一耕助を演じたのは、一云一」

 その名前に、恋守は過剰に反応せざるを得ない。

「役作りのために彼は半年間、倉敷で生活をしたの」

「どうして?」

 この『どうして?』には二つの意思が込められていた。どうして一云一は倉敷へおもむいたのか、どうして今そんな話を聞かせてくるのか。

「金田一耕助は東北生まれという設定だけど、物語そのものは原作者の横溝正史が倉敷に疎開中の折に生まれたもの。だからその根源を演技に落とし込もうとしたのね。倉敷でどんなことをしていたのかは誰にもわからない。でも結果として彼の金田一耕助は数ある『一云一の息吹いぶき』の中でも代表的なものとなった」

 完璧かんぺき、という言葉は簡単に使うべきではないという。

 それは何一つ欠点を持たない、絶対で、るがない言葉だからだ。

 それを承知の上でも、一云一の演技は完璧といわざるを得なかった。

 あまりにも完璧すぎた一云一の金田一耕助は、アニメ、小説、実写を問わず、その後に誕生した幾人いくにんもの金田一耕助たちの基礎となった。

 金田一耕助だけではない。

 一云一が演じたキャラクターは、戦国武将であれ実在した犯罪者であれ、それが唯一の正解であるかのように、それ以降の演者の役作りに影響を与えつづけた。

 どれだけ世界観や設定を変更しても、確かにそこに在る、一云一の息づかい。

 いつしかそれは『一云一の息吹』と呼ばれるようになっていた。

「ねえ恋芽さん」かぐ沙はささやく。「なぜ一云一になることをこばんだの?」

「えっ」どうして今それを訊いてくるのか。「……だって、私に、一さんみたいな演技力あるわけないし」

 恋守にとってそれは事実だとしても、一云一の後継者にならない理由の中で上位にくるものではなかった。

「そうね。でも演技力は向上心と持続的な鍛錬たんれんで高めることは可能よ」

「そもそも私、女だし」

 こちらのほうが理由としては真っ当に思ってもらえるはずだ。

「本当に?」

「へ?」

 まさか、そこに疑問を持たれるとは考えてもみなかった。

「実はあなた──男の子だったりして」

「何を、バカなこと……」男性的な声で不服を口にする。

 狼狽うろたえる必要など、どこにもないのに、なぜか心拍数が上がっていくのを感じる。

「──確かめてあげる」

「え?」

 複式呼吸の練習をしていたときからずっと、恋守の背中は黒板にあずけたままだった。

 竹詠かぐ沙は恋守の顔の向きを固定するように、恋守の両耳の真横に手を押しつける。

 そして、微かに開いていた恋守の脚と脚の間にくいを打つように、自分の右脚を割り込ませた。

「ふぇ?」

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