第二話

霧声症むせいしょうといって、世界でも数えられるくらいしか罹患りかんしている人が確認できていないとても珍しい病気のせいで、一日に限られた時間しか喋ることができません。一日一分の人もいれば十分くらいなら大丈夫の人もいるみたいです。でも私は十秒間しか声を出すことができません。このテープを録音するのにも五日かかりました。ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、よろしくお願いします】

 サメの形をしたカセットプレーヤーの停止ボタンを押して、機械的に声を止める。

「……よろしくお願いします」

 最後に愛与は自分の声で言ってから、立位体前屈のように深く頭を下げて椅子に戻った。


 葉ノ咲はのさき総合芸術高等学校声優科の新入生、五十八名のほぼ全員が唖然あぜんとしていた。

 立てつづけにプロの声優が二人も現れたかと思えば、次に出てきたのは、可憐な容姿と中年男性の声をあわせ持つ少女、そして一日に十秒間しか声を出せないという少女だった。

 だったらこの後はどんな予想外の人物が出てくるのか、誰もが固唾かたずを飲んで見守った。

 結果、次に名前を呼ばれた生徒は中央に立ち、どこか申し訳なさそうに自己紹介を済ませて、めに一言「……その、みなさんが私に何か期待してるのは伝わってきてるんですけど、私、特に何もないです。普通です。すみません」と、何も悪くないのに謝罪する始末だった。

 それ以降は粛々しゅくしゅくとした流れで、明日の声優を目指す少女たちは名乗りを終えた。


 つづいて少女たちはメニューを渡された。

 臙脂色えんじいろで縦長の冊子。表紙は布地で手ざわりもよく上品だった。

 純喫茶『はなや』と蒲公英色たんぽぽいろで印字されているそれを開くとそこには、トースト、サンドイッチ、特製コロッケサンド、パンケーキ、ホットケーキ、プリン・ア・ラ・モード、フルーツパフェ、コーヒーセット──など、品目と価格が並んでいる。それ以外にもA4サイズの封筒がはさまっていた。

「何に見える?」

 唐突に谷内先生に意見を求められた一人の新入生は「喫茶店の……メニュー、ですか?」と無難に答えた。

「ご名答」腕を組んでうなずく。「桜木町駅の近くにある歴史ある純喫茶『はなや』さんの歴史あるメニューだ。これまで使っていたものがさすがにくたびれてきたらしく業者に発注したら桁を一つ間違えて、大量に余ってしまったそうだ。私は常連なので、どこかに使い道はないかと相談されて、そこで思い出したことがある」

 それは何だと思う? と質問を向けられた生徒は少しだけ思考をめぐらせたあとで、わかりませんと降参こうさんした。

「純喫茶『はなや』の歴史は古く、そのルーツは江戸時代までさかのぼる。当時、町外れの茶屋としては異例なほど好評を博していた秘訣はメニューの奇抜さと豊富さにあったそうだ。団子だけでも二十種類はあったとか。ところがある日、名誉めいよだが困ったことが起きた」

 生徒たちは谷内先生の語りに耳を傾けている。

「はなやが海外の食文化を学び独自のセンスで作り上げた奇天烈キテレツにて高襟ハイカラなるもの、その名も英国式林檎煎餅あっぷるぱいを、お城の姫君がいたく気に入られてしまわれたのだ。毎日お城から抜け出してはパイをほおばる瞬間は彼女にとって至福のひとときだったのだろう。その姫君は生まれつき病弱で短命だったらしいのだが、声も体もしおれた花のようになってしまった死の間際ですら、アップルパイを渇望かつぼうしていたと伝えられている」

 ため息を一つ。

「そこまで姫を魅了したものなら誰だって食べたくなるのもうなずける。評判が評判を呼び、店には連日大勢が押し寄せてアップルパイを寄越せと叫んだそうだ。店にしてみれば嬉しい悲鳴と普通の悲鳴の両方を上げたくなったことだろう。パイが売れるのはいいことでも、それしか売れなくなってしまっては、せっかくの豊富なメニューが泣いている」

 この先生、話すの上手いなと恋守は思った。

「それに評判というのは無差別に人を招いてしまう。なかには当然ガラの悪いのだっている。江戸時代だ。山賊みたいな連中だってきたかもしれない。というか、実際にきたんだ。今日はもう売り切れだという店主の言葉を聞き入れず、アップルパイを出さなければ店を壊すと脅してきた。これはおそろしいことが起こる。誰もが戦慄せんりつしたそのとき、誰かの声が聞こえた」

 弁士べんしのように昔話を物語る教師のその意図に一足早く気づいた竹詠かぐ沙は、どこか居心地が悪そうに眉をひそめた。

「その誰かは、おもむろにただ淡々と店のお品書きを読みあげたそうだ。草団子、焼き団子、胡麻団子ごまだんご──といったふうに。そして全て読み終えると、店に異変が起きた。そこにいた全員、お客も店の人間も山賊も、みんな──泣いていたんだ。彼らは感動的な物語を拝聴はいちょうしていたわけじゃない。店の商品名を聞かされただけだ。それでも彼らは涙した。強く感情をゆさぶられなければ発生しない人体のメカニズムだ」

 言いながら、小さく羽を広げるように両手を広げてみせる。

「それ以降、店の商品はパイ以外も飛ぶように売れるようになったそうだ──有名な話だから聞き覚えのある者も少なくないだろう。これは江戸時代、当時の竹詠かぐ沙の逸話の一つだ。他にも鼻歌で不治の病を治しただとか、しりとりで戦を止めたとか神話めいたものも少なくないが、私はこのお品書きの話がとても好きでね」そこで谷内先生は試すように竹詠かぐ沙に目を向ける。「どうだ竹詠、お前にはできるか?」

 竹詠かぐ沙は「わかりません」と、そっけなく答える。

「できません、と言わないあたり流石というべきかな。名をぐ者よ」

「私はまだ正式な名継なつぎではありません。十人いる継承候補者の一人にすぎません」

 それを聞いた谷内先生は「勝気なのか謙虚なのかわからんがまあいい」と言ったあとで声のトーンを変え、試験の範囲を伝えるような口調になる。

「今度の土曜日にテストをすると言ったのは忘れてないよな? テストは二種類あってその内の一つがこのメニューの朗読だ。感動は期待してないが、万が一、私が泣かされるようなことでもあれば、そのときは私のコネとツテを総動員してデビューを約束してやろう。それから純喫茶『はなや』さんについて補足すると、伝説のアップルパイは今はもうメニューにってないものの、裏メニューとして存在するので常連になれば出してくれるぞ。涙を流すほどではないにせよ、それなりにうまい。あと現在バイトを募集中とのことだ。接客業は人間観察と発声練習もできるし、料理の腕も上がって金までもらえる。おすすめだ。ついでに──」

「ところで谷内っち」紡椿白烏が、だらしなく挙手をして口を挟む。

「あ?」とても教育者とは思えないような目つきと声色で威嚇いかくする。

「や、谷内大明神グランマ閣下先生様、質問があるのですがよろしゅうございましょうか?」

「どうした?」

「テストは二種類あるとのことですですが、あと一つは如何なるものなのでありますますか?」

 ぴんとした敬礼と、敬意の欠片もない敬語で白烏は問う。

「封筒を開けてみろ」

 生徒全員、メニューと一緒に渡されていたそれの中をあらためると、一枚の紙が入っていた。そこには少女の絵が描かれている。

 その少女の推定年齢は自分たちと同じく十代半ばといったところ。

 ただし、絵のなかの少女は泣いていた。それは不思議な涙だった。

 大切なものを失って悲しんでいるようにも見えるし、夢が叶って感極まっているようにも見える。虫歯が痛いだけかもしれない。あるいは感動的な物語を読んだのかもしれない。

 複数の解釈が可能な、ある種の抽象画のようでもあった。

「どう見える?」

 ふいに谷内先生から意見を求められた生徒は、直感で「かわいいイラストだと思います」と答えた。

「……そうか」

「──?」

 教師の反応に生徒は戸惑う。

 あらゆることに対してきっぱりとした態度を示す人だと思っていたので、今の曖昧あいまいさは不可思議だった。もしかして返答を間違えたのだろうか。このせいで評価を下げられたりしないだろうかと不安が巻きついてきたものの、特にその件は掘り下げられることなく谷内先生は課題の説明に入る。

「もう一つのテストはそのイラストにアテレコをしてもらう。その子がどうして泣いているのかという理由をその子になりきって演じてくれ。制限時間は十秒といったところかな。演技力はもちろん作家性も要求されるので難易度は高いかもしれない。だが、話が面白ければそれも評価に入れるので、そういう戦い方もある。一方でメニューの朗読は料理名を読み上げるだけで単調と思う者もいるだろうが、単調ゆえにごまかしようのない今のきみらの実力そのものが露見ろけんする。あまりに味気ないと思うなら、多少の台詞を加えてもかまわない」

 それからここからが重要なことで──と言いながら谷内先生はつづける。

「テストは選択制だ。朗読かアテレコ、好きなほうを選びたまえ。竹詠たけうた紡椿つむばきにはお手本として両方受けてもらうが残りの五十六人は自分が適していると思うものを選ぶんだ。選ぶことも勉強だ。どちらのわくもそれぞれ二十八席ある。受け付けは明日の放課後から、決まったら私に言いにこい。早い者勝ちだから席が埋まっていれば強制的にもう一つのほうを受けてもらうことになる。あと念を押すぞ──」教師は言葉を強くした。「──生き残れるのは三十人までだ。落ちたからといって死ぬわけじゃない。とはいえ想像もできない喪失そうしつ感に襲われることは約束しよう。特に竹詠と紡椿、プロのお前たちでも基準に満たなければ迷わず落とすぞ」

「いいねいいね」紡椿白烏は、自分の髪の色以上に瞳を輝かせた。「すごくわくわくするよ」

「谷内先生が誰かを特別扱いしたことなんて、ないじゃないですか」竹詠かぐ沙はつぶやく。

「他の者も竹詠や紡椿の胸をかりるんじゃなくて、凌駕りょうがしてやるくらいの気概きがいは見せてくれ。言い忘れていたが一番いい結果を出した一名には最優秀賞を贈呈しよう。景品はなんと十日後に行われる正式な入学式で新入生代表として挨拶ができるぞ。それでは今日はここまで。明日の朝十時にここに集合。以上、解散」

 ありがとうございました、と新入生たちは声をそろえた。


 立ち上がった少女たちは砂鉄が磁石に引き寄せられるように、大きく二分した。

 紡椿白烏に集まる者たちと、竹詠かぐ沙に集まる者たち。

 憧れの世界で活躍をしている憧れの存在に近づきたかった。純粋にファンだという者も少なくない。

 白烏は同級生たちを歓迎し、かぐ沙は竹のように静かだった。

 そんななか、磁力を持たないみたいに、どちらの勢力にも属さない少女が二人いた。

 恋芽恋守こがこがみ愛々愛与さねちかいと

 愛与は立ち上がり、サメ型のカセットプレーヤーの入ったスクールバッグを肩にかけて一人で体育館から出て行こうとする。そのスクールバッグには小さなポケットがあり、そこに草色の封筒が挿し込まれていることを恋守は見逃さなかった。

 慌てて恋守も席を立ち、愛与の後を追う。

「ねえ、恋芽さん」

 うららかな声に呼び止められて振り向くと、そこに竹詠かぐ沙がいた。

「……竹詠、さん?」

「少し、おしゃべりをしない?」

 竹というよりも桜のような声で、そう誘われた。

 美しくはかなく、香りまでまとっているかのような声。

「はい?」熟してない柿よりも渋い声で首をかしげる。

 竹詠かぐ沙が自分に何の用があるのかわからなかった。そういえばさっき、じっと見られていたような。しかし今はそれどころではない。このままでは愛々愛与を見失ってしまう。

「ごめん、ちょっと急いでるからまた明日でもいいかな? ごめんね、じゃあ明日」

 十五歳の少女は年相応の言葉を、年も性別もそぐわない声色で告げると、片手を上げ別れの挨拶をして、相手の返事を待たずに体育館から飛び出した。

「……いっちゃった」かぐ沙の後ろにいた少女が言う。

「本当にすごい声。どこから出てるんだろう」別の少女はつぶやく。

「それじゃあ竹詠さん、私たちとお話をしませんか? さっき先生の言ってた喫茶店で──」

「ごめんなさい」と、かぐ沙は薄い笑顔でさえぎる。「私、これから仕事だから」

 その言葉だけ残して、かぐ沙は少女たちから緩やかに距離をとっていった。


 愛々愛与はスクールバッグのストラップを、ぎゅっと握りしめる。

 明らかに跡をつけられている恐怖からだ。

 カーブミラーに映る、自分の少し後ろを歩く少女。あれはさっきいた、おじさん声の人だ。

 尾行されていると思うのは被害妄想ではない。だって自分が止まれば彼女も止まるし、急ぎ足になると背後の足音も速くなるのだから。

 くるっと振り返って相手をじっと見つめると、彼女はわざとらしく目を泳がせて口笛を吹きはじめた。

 あれでごまかせると思っているのはバカにされているのだろうか、バカなんだろうか。

 らちが明かないので彼女に接近して、スカートのポケットからメモとペンを取り出し、感情を文章にしたため、それを相手に向ける。

《私に何か用ですか?》

「えっと、別に用っていうほどでも……」

 ペンを走らせ《でも、ついてきてますよね?》と書いて見せた。

「まあそういう見方もあるかもだけど……」

 愛々愛与は恋芽恋守にこれ以上ないくらい不審者を見つめる目を向ける。

 眉間にしわを寄せ、頬をふくらませた。

 それを目にした恋守は素直に「かわいい」と感想を述べる。

 思わず愛与は手が出た。力の一切こもってない正拳突きだ。

「ごめんごめん、正直に言います。もう少しだけ尾行させて」と恋守は手を合わせる。

 どうして? と愛与は表情でく。

「あなたと行き先が同じだから」

 と言う恋守の言葉に愛与は首をかしげた。

「ほら、それ。入寮に必要な紙が入ってるやつでしょ?」

 恋守が伸ばした指先の先には愛与のスクールバッグに挿してある草色の封筒がある。確かにこれは寮に入る際に管理人に提示するよう聞かされていたものだ。

「私も今日から寮なんだ」

 恋守はスカートのポケットから愛与の封筒と同じものを取り出した。ありとあらゆる拷問にかけられたみたいに、くしゃくしゃになっている。

 安心したような、あきれたようなため息を愛与はもらした。

《だったら最初からそういえばいいのに。というか寮の場所なんてわかるでしょ?》

「わからないから尾行してたんだよ!」

 葉ノ咲高校の学生寮は古風な木造建築で周辺の景観と調和することなく君臨しているので、とにかく目立つ。そのため地元ではちょっとしたランドマークとしての役割もになっていた。

 場所は学校から徒歩七分の位置にあり、校門を出て右を向けば建物の一部が確認できる。

《あれが見えないの?》

 愛与はななめ後ろを指さした。既に寮は間近であり、迷うのは不可能に近い。

「私、すごい方向音痴なの。わかる? 『』なんだよ? 痴!」

 威厳すら漂う重量感のある声で、みっともないことを口にしている。

 からかわれているようにしか聞こえないけど、あまりにも必死な形相ぎょうそうから嘘はついていないのだろうと信じることにした。

 そういえば今朝、校門の前でこの子とぶつかったことを思い出した。

 そういえばあのとき、ポスターみたいに大きな地図を持っていたな。

 変なやつだけど、寮の入り口までは一緒にいてあげようと愛与は良心に従うことを選んだ。

 そういえば、と愛与は思う。

 そういえば、寮は二人一部屋と聞いているけど、ルームメイトはどんな人なんだろう。


『恋芽恋守』

『愛々愛与』


 恋守こいつだった。

 部屋の扉についていたネームプレートを見た瞬間、不条理な判決を下された気分になる。

「わあ、思ってたよりも広い」

 確かに二人でも広さを感じる空間だ。

「すごいよ、テレビデオがある。私、はじめて見た」

 それを見たのは愛与もはじめてだった。

「机も二つあるね。ねえ、どっち使う?」

 どっちでもよかった。

「ああ! 二段ベッドだ。私、上の段がいい! いい?」

 愛与は首肯する。自分は下の段がよかったのでちょうどいい。

 恋芽恋守はにっこり笑って「今日からよろしくね、アイアイ」と言った。

 愛々愛与は首をかしげ《あいあい?》とメモに書いて見せる。

 恋守は愛与の腕をつかみ部屋の外に導いて『愛々愛与』と書かれたネームプレートの『愛々』の部分に手のひらを向けて「アイアイ」と読んだ。

《それ、さねちかって読むんだけど》

「知ってるよ。でもアイアイのほうがかわいいよ。アイアイ」

 愛与は困ったような笑みを浮かべて《実は親からもそう呼ばれてる》と書いた。

 そのメモを見た恋守は「いい親だね」と微笑む。

 すると愛与はくすぐられたように笑みをこぼす。確かにいい両親に恵まれていると思う。

「うちの親もいい親だよ」と競うように恋守は言う。

 それはなんとなくわかる気がした。

「よろしくね、アイアイ」

《よろしく、こがさん》

恋守こがみでいいよ」

「…………」

 ほんの少しの逡巡しゅんじゅん。それから。

「……よろしくね、恋守」と愛与は声に出した。

「かわいい声!」と恋守はいかめしい声をあげた。「うらやましい!」

「……その声だって、かっこいいよ」

「気をつかわなくてもいいよ」苦笑いを浮かべる。「ハンサムな感じの声ならいいけど、どう聞いたっておじさんの声でしょ」

「だけどその声、どこかで  」

 不自然に愛与の声が消えた。

「どうしたの?」

 目を閉じ、ため息をついてから愛与はメモにペンを走らせる。

《今日の声は全部使ったみたい》

「……あっ、そうなんだ……」

 はじめて目にする文面に、上手く言葉を返せなかった。言葉で返せなかった。

 何か言わなければいけない、沈黙が一番いけない、そう思っているのに、言葉は出てこなくて、気づけば相手から目をそらしていた。

【だけど心配ご無用!】

 過剰なほど元気な愛与に似た声が至近距離から飛び出した。

 顔を上げると、目の前にサメがいた。

「えっと、きみは誰なのかな?」

 プラスチック製のサメに向かって恋守はたずねた。

【吾輩はサメである。名はフカヒレ。愛与の声が消えたときに現れる者なり】

 サメの口がスピーカーになっているようで、そこから声が流れてくる。

「そうなんだ」恋守は笑顔に。「ねえフカヒレ、あなたのご主人様はどこにいったの?」

 愛与はサメ型カセットプレーヤーの背びれ付近にある早送りのボタンを押した。

 キュルキュルとテープが素早く回転して、目当てのポイントで再生ボタンを押す。

【吾輩は愛与のペットじゃない。ともだちだ】

「なるほど」ふむふむとうなずく。「ねえフカヒレ。私、今日からアイアイとルームメイトになったから、もっとなかよくなりたいと思ってるの。だから、アイアイのこと何か教えてよ。趣味とか弱点とか」

 フカヒレの腹部はカセットドアになっていて、そこを開いて愛与は別のカセットをセットした。そのカセットが入っていたケースには『日常会話』とラベルが貼ってある。

【趣味は、料理】

「弱点は?」

 愛与は目的のセリフがある箇所までテープを早送りして再生ボタンを押す。

【そんなものはない】

「一つくらいあるでしょ」

 少し巻き戻して【ない】と再生する。

「ほんとかなあ?」

 そのとき、奇妙な音がした。

 それはどこかけものうなりにも似ていたが、その実態は単に空腹によって愛与のお腹が鳴っただけであった。

 愛与の頬が、じわっとあかく色づく。

「どうしたのフカヒレ、お腹すいた? フカヒレの好きな食べ物はなに? 人間?」

 渋い声で物騒なことを口にする。

【ば、ばかにするな】

「じゃあ、好きな食べ物を教えて」

 と恋守は訊く。フカヒレではなく、その背後にいる愛与に向けて。

 愛与はフカヒレのカセットドアを開いて、そこに新しいカセットを入れる。

 ラベルには『たべもの』とある。

 キュルキュルと目当ての位置まで早送りして、再生を押す。

【グラタン】


 声優科を含め一部の学科が先行して授業を行っているとはいえ、葉ノ咲総合芸術高等学校の正式な入学式は十日後であり、学生寮はまだ完全に機能していない。

 そもそもこの学生寮は長年利用者がいなかったため、記念碑きねんひのような扱いになっていた。

 それが法改正によって多くの地方民が訪れることになり、今年の新一年生のために開放される運びとなったのだ。

 本来なら寮母が食事の世話をしてくれることになっているのだが、やってくるのは入学式からとのことだった。

 キッチンは自由に使っていいと聞かされたものの、熊が冬眠に使えそうなほど巨大な冷蔵庫の中はからっぽであり、とりあえず本日の夕食はコンビニのサンドイッチとスープにした。

 明日からついに夢への第一歩がはじまる。万全の体勢で挑みたい。

 だから早く眠りにつこうと、夜の九時には消灯した。


「──アイアイ、起きて。ねえ、起きて」

 明らかに中年男性の声が耳元で聞こえ、部屋に不審者が侵入したのかと体を強ばらせたが、ここは寮の一室であり、この声の主は見た目はかわいい女の子であることを思い出す。

 全く眠った気がしないけど、もう朝なのかと体を起こす。

 部屋は明るいけれど、これは電気がついているからだ。閉じたカーテンの向こうに朝の気配を感じない。枕元に置いた目覚まし時計を確認すると夜の十一時半だった。ベッドに入ってからまだ二時間くらいしか経っていない。

 無意識に不機嫌になる表情でそのまま眠りをさまたげし者を見ると、彼女は星空みたいに目を輝かせていた。

「見て見て!」

 彼女の背後には部屋に設置されているビデオ内蔵型のテレビがあって、今はそこにアニメが映っている。

 彼女の好きな作品だから勧められているのかと思いきや、そうではなかった。

「深夜なのにアニメやってる! 深夜アニメって実在したんだ!」

 右手にツチノコ、左手にマンドラゴラを持ち、ユニコーンにまたがった宇宙人を目撃したかのように驚愕している。

 聞けば、恋守の実家のある地域では夜の十一時を過ぎると基本的に放送されている番組はないのだそうだ。

 眠気がめてしまったので、カタツムリがからから出るように、二段ベッドの下の段からゆっくりと身を乗り出す。

 しかし、どうしても気になることがあったので、メモを一つ書いて、アニメに夢中の恋守のむき出しの肩をちょんちょんと指でノックした。

《寒くないの?》

「全然」

 一瞬だけ振り向いてメモを読んで短い言葉を返すと、また一瞬でアニメの視聴に戻る。

 就寝前、紺色のタンクトップとスパッツ姿で二段ベッドに上っていく恋守に《風邪を引くよ》と心配したが、本人曰く「この格好じゃなきゃ眠れない」とのことだった。

 自分の父親が家では年がら年中シャツとトランクス姿だったことを思い出して、愛与はそれ以上、追求しないことに決め、自分も意識をブラウン管に向けた。


 翌日。

 集合時間の十秒前に体育館へ飛び込む少女の影が二つあった。

 恋守と愛与。

 あれから二人は延々とアニメを見つづけていた。

 一つ終われば一つはじまる。それはまるでイベントのようでもあり、作品の質も高く、二人は笑ったり涙ぐんだりいきどおったりした。

 全ての放送が終了したのは深夜の二時半で、放送休止中に映るテストパターンと呼ばれるカラーバーですら、しばらくは何かの作品だと思い込んで見つめていた。

 せっかくの二段ベッドは活用されることなく二人の少女は床に寝そべり眠りに落ちた。

 朝の七時にセットされていた目覚まし時計はその職務を全うしたにも関わらず、それが活かされることはなかった。

 ようやく目を覚ました愛与が時計を確認すると、彼女はまず二秒間の悲鳴を上げた。

 それから文字通り恋守を叩き起こして最低限の身だしなみだけ済ませて学校まで全力疾走。

 フローリングに足を踏み入れた二人はマラソンをこなしてきたみたいに汗だくで、肩で呼吸をしていた。

「あっ、きましたよ」と女子生徒の声がした。

 そして複数の大人が二人に近づいていく。

 もしかして既に遅刻していて、これからあの先生たちにお叱りを受けるのかと危惧きぐしたが、こちらに向かってくる大人たちからは学校の先生のみがまとうことを許されたあの独特のオーラを感じない。迫りくる大人たちが纏っているのはいかにも高級そうなスーツであり、教育者というよりも、どこかの会社の重役に見えた。

「どちらが恋芽恋守さんですか?」

 スーツ姿の二十代と思しき女性が柔らかく訊ねてきた。

 恋守は小さく手を挙げて「……私ですけど?」と答える。

 その一言で、そこにいた六人の大人全員が、ざわめいた。

「……すごい」

「本当に、ゆうさんが喋ってるみたいだ」

 自分の祖父と同い年くらいの男性が瞳に涙を浮かべ、口に手をあてている。

「ね、ねえ、恋芽さん」スーツの女性は興奮を悟られないよう必死に冷静であろうと努めているものの、それが却って彼女のたかぶりをあらわにしていた。「一云一はじめゆういちのことはご存知ですか?」

「はい。もちろんです」

 声優をこころざす者なら、知らないはずのない名前が二つ存在する。

 声優の象徴、竹詠たけうたかぐと、伝説的な男性声優、一云一はじめゆういち

「恋芽さん、落ち着いて聞いてくださいね」とスーツの女性は念を押す。

 その前にあなたこそ落ち着いてくださいと恋守は言いたかったが飲み込んだ。

「恋芽恋守さん」スーツの女性は膝を曲げて恋守と目線を合わせる。「一云一の名前を継いでみる意志はありませんか?」

「──え?」

 と恋守はもらしたけれど、その声は本人の耳にも届かなかった。

 クラスメイトの絶叫にかき消されたからだ。その絶叫のなかには愛与のものも含まれていた。

 スーツの女性は琥珀色こはくいろの名刺入れから一枚を取り出し、恋守に握らせる。

 はじめプロダクション専務取締役、一祥子はじめさちことある。やはり企業の偉い人だった。

「いいですか、恋芽さん」と祥子専務は言う。「私はあなたに一云一をいでほしいと考えています」

 その言葉でまたクラスメイトたちが歓喜の悲鳴を上げた。茫然ぼうぜんとしている恋守の代わりをつとめるかのように。

「決して悪いようにはしないと約束します。もうデビューまでの道筋も決めました。半年後には日本中のテレビからあなたの声が聞こえるようになると約束します」

 目の前で起きている夢のようなできごとに、声優科の新入生たちは喜悦きえつの声を上げる。いつの日か自分にもこんな瞬間が訪れてほしいと願うように。

「私が、一云一さんに?」

「そうです。一云一の演じた中で好きなキャラクターはいますか?」

「そうですね……アルバート・アルメイダのシリーズはよく見てました」

「もちろんアルの声もあなたに頼みます。これからはあなたの声がアルの声になるんですよ」

 もしかして自分は昨日のアニメのつづきを見ているのか、あるいはまだ寝ているのだろうか。我が身に起きていることに現実味がない。

「私の声が、アルの声に……」

 小学生のころ、夢中で見ていた海外ドラマシリーズの主人公、アルバート・アルメイダ。

 強さともろさ、ゆるぎない意志、しかしその芯にあるのは木訥ぼくとつな優しさと無邪気さ。それらをいくつかの短いセリフで表現してみせたのが一云一という男性声優。

 ドラマの原作者はその演技に心を奪われ、アルの本質を理解しているのは主演のイギリス人俳優ではなく、日本語の吹き替えを担当した日本人声優だと断言したのだとか。

「アルだけではありません。ダニー伯爵、ウルティカイザー、新藤恭一郎──今でもつづいているシリーズで代役を立てているものもあなたに演じてもらいます。もちろん新規のお仕事だってありますよ」

 ほとんど密接しているにも関わらず、祥子専務はさらに一歩踏み込んできた。

「一云一を継いでもらえますよね?」

 そして選択を迫る。

「──はい」恋守は少し頭を下げて「──ごめんなさい」ともっと頭を下げた。

「心配しないでください。全て私にまかせ──はい?」

 全く予想していなかった反応を返され、祥子専務は混乱に近い困惑をした。

 クラスメイトたちも同様の反応を示していた。

「私は一云一さんには、なりません」

「……その、たぶん演技力などに不安があるからだと思うのですが、本当に心配しないでください。弊社にはここでは学べないような一流のトレーナーがたくさんいますし、それに──」

「そういうのじゃないです!」

 やや語気を強めた恋守の声を聞いたスーツ姿で年配の男性は「……ゆうさんに叱られてるみたいだ」と感慨深くこぼす。

「では何が気に入らないのですか? 教えてください」

 きっとこの専務さんはいい人で、ちゃんと自分のことを考えてくれているのだと思う。そういう真摯しんしさを感じる。だから自分も正直に本音を伝えるべきだとこぶしに力を込めた。

「私は一云一さんにはなれません。だって──」

 野太く、たくましく、獣の雄叫びのように宣言する。

「──だって私、お姫様を演じたいんです!」

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