第三話みっつめ、しるすこと 「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」 其の十一 結三郎達の麻久佐に出立するに就いて記す事
第三話みっつめ、しるすこと
「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」
「其の十一 結三郎達の麻久佐に出立するに就いて記す事」
翌朝。精介は寝不足と下腹の重怠さに少しふらつきながらも、何とか自転車を漕いで登校した。
昨夜は結三郎の鮮明な顔写真をとうとう手に入れたせいで、精介は結三郎を励みに何度も励んでしまったのだった。
自転車置き場にふらふらと入り精介が自転車を停めていると、近くで自転車から下りていた上西が精介の姿に気付いて声を掛けてきた。
「おはよー……って、何か顔色悪くねえか?」
寝不足で疲労の抜けていない精介の顔を見て、上西は心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫か? 遅くまで勉強してたのかよ?」
そう問い掛ける上西に精介は自転車の前籠からバッグを下ろしながら、誤魔化す様に笑って答えた。
「ハハ……いや、いい成績取らないとまずいかなーと、夜更かししちまったからな……。」
精介の取り繕った様な笑いと態度に、何となく嘘臭さを感じてしまったが、深く気にする事も無く上西は精介と共に教室へと急いだ。
幸い寝不足の初日だったが、精介にとってはいつもよりも解答出来ているという手応えが感じられるものだった。
やはり結三郎に言った通り、結三郎や鳥飼部達と教え合いながら勉強した事で結構頭に入って定着していた。
暗記の必要な問題についても。
――結三郎さんと音読しながら覚えたものだ。
――結三郎さんの胸元をちらちら見ながら暗記したやつだ。
――結三郎さんの首や喉を見ながら……。
――結三郎さんの……。
かなりの事柄が結三郎の事に関連付けられて精介の頭に定着していたのだった。
試験が終わると早々に帰宅し、高縄屋敷で残りの日程の試験勉強をして過ごし、仕事を終えた結三郎と奥苑の食堂で夕食を取り、夜はまたマンションに帰って寝るという繰り返しで――あっと言う間に期末試験四日目となった。
◆
最終日の今日は一科目だけ――古文だけだった。
これについても中別府等、鳥飼部達と大広間で勉強会をした時に色々と説明したり話し合いながら勉強して印象に残っていた箇所が出題されており、精介は大して悩まずに解答する事が出来た。
そうして無事に期末試験の全日程が終わり、そのまま校長の話を教室のテレビで聞く終業式を兼ねたホームルームが行なわれ――終わるとすぐ帰宅するべく精介は慌ただしく席から立ち上がった。
今日は楽しい楽しい結三郎――と長屋の者達とのお出掛けだ。
何としても昼過ぎの活動写真開始までには間に合ってみせる、と精介は改めて気合を入れた。
そこを狙ったかの様にピコリン♪という初期設定のままの通知音がバッグの中のスマホから聞こえ、急いでいる精介は少し苛立たし気にスマホを取り出した。
――FINEなキモチ、FINEに繋がる。FINEアプリ。
部活動に励む学生達の甘酸っぱい遣り取りを映し出したり、遠く離れて住む祖母と孫の何気無い交流を描いたCMを流しているこの通信アプリケーションは、精介の世界では広く普及しているものだった。
まだ慣れていない手付きで精介が画面を開くと、相撲部のグループ内通信で監督からの告知がたった今送られてきていたところだった。
明日の午後一時頃から部室で夏休みの時期の部活や、特に合宿についての説明会を行なうという事だった。一、二年生の部員は参加必須で、三年生も来たい者は来る様にとあった。
その日は都合が悪いという者に対しては後でグループ内通信にも合宿の日程表等を流すので、きちんと確認しておく様に――。
ざっと監督からの話に目を通して、明日の事は後で考えようと、兎に角帰宅しようとスマホの表示を切ろうとしたところに、
――あ、後、夏休みのバイトも紹介するから希望者は親御さんの許可を取る様にな。海辺のリゾートバイト(笑)だぞ。学校の認可は済んでるから安心安全ホワイトなヤツだ。
そんな一文が目に入り、精介は思わず手を止めてしまった。
バイト情報を自分でわざわざ探さなくても良さそうな事に精介は喜んだが、今日只今はそれどころではなかった。それに明日は結三郎(と、その義父上)がこっちの世界に探検にやって来る。
バイトの説明も後日に何とかならないか、学生課の方で後で見たり出来ないか――そんな事を考え掛けたが、今は兎に角結三郎の所へ急ごうと、精介はスマホをバッグに放り込んで教室を出た。
「あ、山尻。」
精介が廊下に飛び出たところで、隣のクラスからやって来た上西が精介を呼び止めた。上西の手にはスマホがあり、それを指し示しながら精介へと声を掛けてきた。
「今さっき、グループ通信が……。」
今までスマホを家に置きっ放しの事も多かった精介が連絡を見落としていないか、心配をして知らせに来てくれたのだろう。
しかし上西のそんな気遣いを有難いと思いつつも、今日だけは精介の行く手を邪魔するものでしかなかった。
「ああ、ちゃんと見た! すまん! 今日だけはもっのすっっっごく急いでるんだ。兎に角マジで一秒でも惜しい!」
上西へと手を合わせて頭を下げると、精介は慌ただしく階段を駆け下りていった。
「えっらい急いでんなー。」
ここのところ付き合いの悪くなった精介に何があったのか軽く首をかしげながら、上西は精介を見送った。
とにかく早く帰ろうと精介は自転車をかっ飛ばし――たかったが、こういう時に限って校門を出た途端に近くの幼稚園児達の散歩の行列に行き当ってしまった。
何とか園児達を避けて道路を渡ると、今度は総合体育館に何か修繕作業でもあるのか、何かの資材を積んだトラックが出入りするところに遭遇し、警備員に少し待たされてしまいいつもよりも少しだけ帰宅に時間が掛かってしまったのだった。
マンションの玄関前に飛び込む様にして戻ってくると、いつもの自転車置き場には行かず、そのまま自転車を持ち上げると精介は少し息を切らしながらも階段を上がり始めた。
精介の部屋は二階なので段数も沢山ある訳でもなく、階段の角度も急な訳ではなかったのでそれ程苦労せずに自転車を運び上げる事が出来た。
「あれ? 精介君、随分慌ててるね。……それに自転車どうしたんだい?」
そこに丁度小さなダンボール箱を小脇に抱えたおじさん――正確には大叔父だったが――が、上の階から声を掛けてきた。
今から出掛けるところだったらしくおじさんは階段を下りて来ながら、自転車を抱えた精介を訝しげに見た。
「あ、ちょっと用事があって……。」
精介も自分で言っていて、自転車を運んで何の用事だと思ってしまったが、おじさんの方は大して不審がりもせず苦笑するだけでそれ以上問う事はなかった。
自転車を抱えたまま精介が何となくおじさんの持つ小箱へと目を向けると、おじさんは笑いながら箱を示した。
「ああ、ネットオークションに出してた花の苗が売れてね。ちょっと今から郵便局に行ってくるんだ。」
百円で出品したものが二百円で売れてちょっと嬉しい等とおじさんが話すのを聞きながら、精介はマンションの屋上にカラス避けのネットを張っておじさんが色々と趣味で花の苗等を栽培しているのを思い出した。
自転車が邪魔で通りにくいと言う事で先に上がる様にと精介は促され、精介はおじさんに軽く頭を下げて自分の部屋へと帰った。
ドアを開け、スニーカーを脱がずに自転車を持ったまま台所へと精介は慌ただしく入っていった。
一先ず自転車をテーブルの横に置くと、背負っていたスポーツバッグを下ろして中から小振りのボディバッグを取り出した。
普段は学生証やスマホ、財布等を仕舞ったバッグインバッグとして使っていたが、今日は中身を全部出すと、向こうで食べるカロリービスケットやパウチゼリー、ペットボトルを詰め込んだ。
ペットボトルのせいで不格好に膨らんだボディバッグを襷掛けにして、日之許での外出用にと力士長屋の一郎から貰った着流しを何処に仕舞い込んだかと探し掛けたものの――壁掛け時計が十一時を示そうとしていたのが目に入り、探す間を惜しんで精介は制服姿のままで出掛ける事にした。
試験勉強中は高縄屋敷の外に出掛けるつもりも無かったので、つい毎日Tシャツにハーパンという姿で奥苑で過ごし、表苑でもそれで通してしまっていた。
高縄屋敷の者達は下働きの者に至るまで良くも悪くも、目新しいものや日之許の一般とは異なる風俗にも理解があった為に、精介の恰好も特には指摘する事も不審に思う事も無く、精介はそうした衣類を着ている人間だと定着してしまっていたのだった。
自転車に制服姿で町をうろつく事にはなってしまうが、どうせ金持ちの若様と思われているのだし今更構わないだろう。
「結三郎さんが待ってる!」
早く結三郎に会いたいと気忙しく呟きながら、精介は自転車を「門」へと押し込んだ。
金持ちの若様だから、シャツにズボンのいでたちで自転車に乗って麻久佐の町を走ってもおかしくはないんだ。
精介はそう開き直り、自転車を押し込みながら自分も「門」の向こうへと頭を突っ込んでいった。
◆
少し時間は遡り、今朝の高縄屋敷では――。
朝食を早めに終えた結三郎は力士長屋へと向かう前に祥之助を迎えに行こうと、作務衣から着流しに着替え、いつもの帆布の肩掛け鞄を肩に引っ掛けると南正門へと向かった。
念の為昨夜の内に今日の「門」の当番である津田山には、精介が昼前にはやって来る事や、ダチョウの付き添いで麻久佐に出掛ける事を申し送っていた。
南正門の所に結三郎がやって来ると、茂日出と三人程の鳥飼部達が新品の荷車の横に立って待っていた。
鳥飼部の一人は先日精介からゴム素材やダンボール箱の事を聞いて喜んでいた老女の鳥飼部――滝野だった。
「義父上、どうされました? それに他の皆様も……。」
結三郎が尋ねると、茂日出は傍らの荷車を示しながら少し楽し気に答えた。
「滝野が離宮殿図書館でゴムやら何やらの事を調べていたのを、帝居に御滞在中の物造りの神が御聞きになってな。精介の世界のリヤカーとかいう荷車を御試作になられたのだ。早速御持参下さってのう。」
「実際の使い心地を確かめるのに、今日の結三郎様達の御出掛は丁度良いと思いましてね。途中で疲れた子供達を乗せてもよいでしょうし。」
茂日出や滝野が楽しそうではあっても何処か苦笑交じりなのは、物造りの神が図書館での話を聞いてから余りにも早く試作品を完成させたからなのだろう。
結三郎がリヤカーへと目を向けると、引き手に荷台、車輪と基本的な構造は日之許の昔ながらの荷車と同じだったが、引き手は金属製の細いパイプで出来ており、大き目の二つの車輪も精介の自転車と同様に金属とゴムで出来ていた。荷台だけが木製だった――かと思われたが、表面に木目印刷を施された強化軽量樹脂の様だった。
「何と……神の手によるものですか……。」
結三郎は有難がりつつも困惑しながらリヤカーを見つめていた。
土地神を除く大部分の神々は現世に受肉して実体化しても、人間社会には関わる事はなかなか無かった。
一部少数の物好きな性格や人間に好意や興味を持った神だけが人間達に関わっていたが、その関わりにしても偶然だったり気紛れなものが大部分だった。
物造りの神も気儘に日之許各地を渡り歩き、たまたまここ二、三ヶ月帝居に滞在していたとの事だった。
「まあ、神の手によると言っても、材料の生成こそ神の力や術によるが、品物自体は普通に精介の世界のリヤカーを真似て組み立てただけじゃしのう。変に畏まる事もないじゃろう。」
ゴムや金属は物造りの神の力で作り出したらしいが、それを加工して組み立てたのは普通に人間の職人と変わらない技術や手順によるものだと茂日出は説明した。
別に何かの神通力や奇跡の力がリヤカーに備わっているという訳ではないとの事だった。
「そ、そうですか……。」
とはいうものの、神の手によって作られたものだと言う事で何となく遠慮してしまう気持ちが結三郎にはあった。
そんな結三郎の気持ちを解す様に茂日出は笑い掛けた。
「気にするな。博物苑でも従来の荷車よりももう少し便利な物が作れないものか試作をしたかったしな。誰が作ったかは余り問題ではない。」
「はあ……。」
若い頃に佐津摩の土地神とも交流のあったという茂日出は、他の神に対しても必要以上に畏まる事も無い様子だった。
力士長屋での待ち合わせの時刻も気になるので、結三郎はこれ以上気にする事はやめにして試作のリヤカーを使わせてもらう事にした。
「動かす時にはここのつっかえ棒を折り畳んで下さいね。」
引き手を持ってリヤカーを動かそうとする結三郎の横に立ち、滝野が荷台の前の底の部分にある二本の金属の棒を指差した。
つっかえ棒――自転車で言うところのスタンドの様な部品になっており、停止している時の荷台の水平を保ち、また荷車が動き出さない様に軽く固定するブレーキの役割を持っていた。
つっかえ棒を折り畳んで結三郎がリヤカーを引くと、滑らかに物音一つ立てずに車輪が回転し、その軽やかな手応えに結三郎は驚いた。
「うむうむ。麻久佐まで引いて行っても疲れは少なそうじゃな。」
その様子を見ていた茂日出や滝野達は満足そうに笑みを浮かべた。
「では行って参ります。」
結三郎は茂日出達に頭を下げると荷台に鞄を置き、リヤカーを引いて通用門を出ていった。
荷物をまだ積んでいないせいもあり、新品のリヤカーは殆ど音を立てずに動いていた。
結三郎が杜佐藩邸に到着すると、門番はリヤカーを見て多少驚いた様子ではあった。
だが、素材が少し目新しいというだけで基本的には従来からの荷車と大差無いものだったので、博物苑でまた何かの試作品でも作ったのだろうと納得していた様だった。
「武市祥之助殿をお願いいたします。」
門番へと結三郎は取次を頼むと、門番は中に居る下働きの者へと指示を出した。
門番からの来客の知らせはこの下働きの者が屋敷と門とを走って往復する等して遣り取りしているのだった。
屋敷の中から返事があるまでは結三郎は門から少し離れた所で待つ事にした。
どうせ祥之助の事だから待ち合わせの時刻ぎりぎりにやって来るのではないかと心配し、遅刻しない様にと祥之助を急かすつもりで杜佐藩邸にやって来たのだった。
だが門番に取次を頼んでから然程の時間が経たない内に、祥之助は浅右衛門と共に通用口へと姿を現した。
「よっ、おはようっ!」
「おはようございます島津様。」
機嫌良く祥之助は結三郎へと挨拶し、通用口から出て来た。
簡素な薄藍色の縦縞模様の着流しではあったがいつもと違いきちんと火熨斗(アイロン)が当てられており、髪の毛もまたきちんと――と言うべきなのか?――逆立てられ、身繕いが出来ていた。
精介と同様に祥之助もまた、今日は結三郎とのデエトの様なものと言う事で気合が入っていた様だった。
「良いですな、くれぐれも軽はずみな行動は慎み、長屋の子供達の面倒を見てですな――。」
「ああ、判ってるって。」
心配気に祥之助を見ながら注意事項を口にする浅右衛門の言葉を聞きながら、祥之助はうんざりした様子で溜息をついた。
「それと、三日後は藤枝原村ですぞ。体調を崩したりせぬ様にして下され。今日のお出掛けでは怪我をせぬ様に注意して行動をしてですな……。」
「判ってるってば。」
祥之助は養子ではあっても一応は武市家の人間と言う事で、藤枝原村での祭礼の時には居てもらわなければ困る人間だった。
祥之助が体調を崩して欠席する様な事が無い様に気遣うのもまた、引率の浅右衛門の仕事の一つだった。
三日後の藤枝原村への出発に向けて、いつもよりも余分に食料を調達したり、祭礼の荷物の準備や奉納相撲の儀式の練習等、浅右衛門はここのところ忙しい日々を送っていた。
奉納相撲の儀式の練習は祥之助も参加しなければならず、小難しい事を覚えるのが苦手な祥之助は苦労していたが、物見遊山と舐めたりはしないと結三郎に宣言した通り真面目に取り組んでいた。
一通り小言――注意や促しを祥之助へと言ったところで浅右衛門は結三郎の後ろのリヤカーに目を向けた。祥之助の方も見慣れない素材で出来た荷車に興味を持った様だった。
「また風変わりな荷車ですな。博物苑で作られたのですか?」
新しい物好きの浅右衛門が興味深そうに結三郎の後ろのリヤカーへと近付いた。
「へえ~。この車輪、精介の自転車と似た様なやつだな。」
祥之助も浅右衛門と共に荷台の横に回り込み、金属製の車輪やそれを覆うゴムタイヤを感心し
ながら覗き込んでいた。
「あ、はい……。試作品でして。荷物やら子供達やらを乗せて試す様にと言われまして。」
流石に帝居滞在中の物造りの神の手によるものだとは言えず、結三郎は差し障りの無い返事をした。
「成程。軽くて丈夫そうで、荷物も運び易そうですなあ。――長距離の荷運びの試験ならば、協力する事もやぶさかではございませぬが……。」
新しい物好きとしての好奇心だけでなく、三日後の藤枝原村への荷物を運ぶ労力の軽減を図れないものかという考えも浅右衛門にはあった様だった。
「あー……。そうだな。使わせてもらいてえなあ。」
浅右衛門のそうした意図を察した祥之助も、浅右衛門の言葉に頷いた。
自分も村まで荷運びをしなければならなかったので、なるべく疲れが少なくなりそうな手段を望んでいた。
「――後で、貸し出し出来ないものか義父上達に訊いてみるよ。」
自分でも人がいいと思い溜息をつきつつも、祥之助に頼られると悪い気はしなかったので結三郎はつい請け合ってしまった。
「おお! 流石心の友よ!」
結三郎の言葉に祥之助は喜び、軽く背中を叩いた。
「流石は島津様。かたじけのうございます。」
浅右衛門も笑みを浮かべて結三郎へと頭を下げた。
「いえ、ご期待に沿えるかどうかはまだ判りませんので……。」
既に借りられるものと決まったかの様な二人の喜び様に、結三郎は慌てて頭を横に振った。
「判ってるって。駄目で元々だしな。訊くだけ訊いてくれればそれでいいよ。」
結三郎の肩に手を置いたまま祥之助は笑いながら言った。
「それでは島津様、くれぐれも祥之助様が軽はずみな事をせぬ様、御頼み申しますぞ。ああ、後、広保達にも宜しくと。」
「は、はい。承りました……。」
浅右衛門は結三郎に頭を下げると、リヤカーを名残惜しそうに少し振り返りつつも慌ただしく邸内へと帰っていった。今日も村に出発する準備の続き等で忙しい様だった。
「じゃあ行こうか。」
口うるさい浅右衛門爺やが去って祥之助はほっと一息つくと、結三郎と共に力士長屋へと歩き出した。
「ほんと、全然音がしねえなあ。」
結三郎の鞄しか荷物を積んでいないと言う事もあるが、未舗装のでこぼことした土の道を音も無く軽やかに進むリヤカーの様子に祥之助は何度も感心していた。
祥之助の性格からすると当然の事ながら、リヤカーを引くのを結三郎に代わってもらい、その引き心地の軽さにまた感心を重ねていた。
「――で、土俵のこっち側でずっと蹲踞で御幣を捧げ持ってだな……。」
暫く引いて気が済むと結三郎にリヤカーを返し、その横を歩きながら祥之助は祭礼の練習の話を身振り手振りを交えて結三郎へと語った。
儀式の順番や段取りがなかなか覚えられず苦労している様ではあったが、真面目に取り組んでいる祥之助の様子に結三郎は嬉しそうに話を聞いていた。
祥之助もまた、自分の頑張っている話を結三郎が嬉しそうに聞いてくれている事を喜んでいた。
そうして話しながら歩いている内に――祥之助にとってはあっと言う間に力士長屋の木戸口へと到着した。
「おはようございます。」
「おはようっす。」
先に着いていた春乃渦部屋の者達が結三郎と祥之助の姿に気付いて手を振ってきた。
「おう、おはよう!」
「おはようございます。」
祥之助も手を振り返し、結三郎も軽く頭を下げながら木戸口の前へとやって来た。
親方や明春達春乃渦部屋の者達も、結三郎の引いていたリヤカーに関心を示し、物珍しそうに周りにやって来た。
「新式の荷車っすかー。」
「流石、頒明解化ですね~。」
明春達が口々にそう言ってリヤカーを眺めていると、皆の到着に気付いたおかみさん達が木戸口の方へと顔を出した。
「あら、もう来たのね。もうそんな時間なのね。」
「おはようございます。今日はよろしく。」
子供達の準備に手間取っているらしく、結三郎達に挨拶をしてまたすぐに部屋の中におかみさん達は引っ込んだ。彼女達の慌てる声や子供達の騒ぐ声が長屋のあちこちから聞こえてきた。
暫くそうした騒がしい声がした後、用意を終えた長屋の者達がやっと木戸口から出て来た。
「お待たせしました。今日はよろしく。」
良子、梅子、安子のいつものおかみさん達の子供達の他に少し若い律という母親とその二人の息子達、先日照応寺に遣いに来ていた政吉爺さんとその孫娘二人という今日は中々の大所帯だった。
「おー、武市様に島津様じゃねえの。今日はよろしく。」
「よろしくー。」
「あ、何か凄い荷車!」
「ほんとだ! あ、ねえねえこれ、若様の自転車とおんなじ車輪みたい。」
連れ出された子供達は親方や結三郎達への挨拶もそこそこに、結三郎の引くリヤカーに気付くとすぐに口々に騒ぎ立てながら群がっていった。
「こらこらみんな、騒ぐんじゃないよ!」
おかみさん達が子供達に注意をしながらも、彼女達もまたリヤカーが物珍しかった様で子供達を捕まえながらしげしげと眺めていた。
「あ、博物苑の試作品の荷車でして……。取り敢えず荷物があれば預かります。小さな子供達とかも、途中で疲れたら乗せますから。」
結三郎の言葉におかみさん達は有難いと感謝しながら背負っていた風呂敷包みを荷台へと下ろした。中身は人数分の昼の弁当だった。
「松吉も後で乗せてもらおうかね。」
良子が松吉の手を引きながら言うと、松吉も小さな頭を振って頷いた。
「うん。自転車、乗せてもらう!」
精介の自転車に乗せてもらった時の金属とゴムで出来た車輪が松吉の印象に強く残っていた様で、松吉の中では自転車もリヤカーも同じ物の様だった。
松吉の様子を微笑ましく眺めていたが、自転車という言葉で結三郎は精介の事を思い出した。
「あ、そうだ。今日は後で山尻殿も麻久佐に来ると言っていた。活動写真の時間までには来たいと言っていたので、多分それには間に合うと思う……。」
「何だ。今日はあいつも来んのかよ。」
結三郎の話に祥之助は少し残念そうに溜息をついた。
結三郎を独り占めしようと思っていたのに。
――まあ、両手に花もいいか。
祥之助がそう気を取り直している傍らで、子供達は久し振りに精介に会えると言う事で賑やかに騒ぎ立てながら喜んでいた。
「若様元気かなー。」
「でも後から来るって、歩いてて間に合うのか? 自転車かな?」
「だったらまたみんなで乗せてもらいてえなあ。」
楽し気にはしゃぐ子供達と共に、結三郎達は麻久佐へと出発する事にしたのだった。
◆
精介が自転車と共に高縄屋敷側に出てくると、今日の「門」の当番の津田山の横にダチョウが待っていた。
「あ、こんちわ。」
津田山へと精介が頭を下げると、津田山も挨拶を返しながら自転車が通り易い様に道を開けた。
そうする内にもダチョウは先日見せてくれた様に体を小さく縮め、小柄な鶏程度の大きさになると自転車の前籠へと飛び乗った。
「さ、参りましょう。屋敷を出るまでにも時間が掛かりますよ。」
「は、はい!」
ダチョウに促され、精介は慌てて自転車を押し始めた。
「御気を付けて。」
津田山に見送られながら精介とダチョウは急いで「門」の部屋を出ていった。
ダチョウの言う通り広大な敷地を持つ高縄屋敷の奥苑――言葉通り一番奥の場所から南正門までは結構な距離があった。
先日結三郎と荷車を引いて奥苑から会計係の所まで行った時の道筋をなぞっていったが、庭園の通路が狭かったり玉砂利敷きの場所があったりと、やはり通りにくいものだった。
自転車を押しながら歩いたり小走りをしたりを繰り返しながら、奥苑、表苑、母屋の庭園と通り過ぎていった。
「おや、山尻様、今日は自転車ですか。」
「は、はい。ちょっと外を走ろうかと……。」
すれ違う鳥飼部や侍達から声を掛けられ、精介は挨拶をしながらも足を止めずに南正門を目指した。
「ん? ダチョウ殿……?」
何かの用があって母屋の方まで来ていたらしい奥苑勤めの鳥飼部の若者が、前籠に鎮座しているダチョウの姿に気付いて首をかしげていたが、精介はそのまま小走りに去っていった。
そうしてやっと南正門に辿り着くと、門番にも軽く会釈をして精介は通用口から出た。
門番は奥苑の詳細な事情は知らされてはいなかったが、自転車やその駕籠に座っている異国の鳥について特には声を掛けて来る事は無かった。
見慣れない道具や動植物に一々驚いていては高縄屋敷での門番は務まらなかったのだった。
やっと門の外へと出ると、精介は自転車に跨り漕ぎ出した。
「このまま暫く真っ直ぐ行って下さい。」
「おっす!」
麻久佐で結三郎さんと祥之助さんを両手に侍らせてうはうはデートだ。
祥之助と似た様な事を考えながら、精介は力強くペダルを踏み締め麻久佐を目指して出発した。
◆
その頃の結三郎達は知代田の町で帝居を遠くに眺めながら堀端で休憩をしていた。
年寄や女子供を連れての道行きだったので、途中何度も休憩をしながら知代田までやって来たが昼前には充分に間に合う時刻だった。
やはり余裕をもって早めの時間帯に出発していて良かったと結三郎は思った。
「へえ~。あれが帝様のいらっしゃる帝居なのねえ。」
良子達おかみさん達が堀端に整備された芝生の上に腰を下ろして、帝居を取り囲む大きな堀とその向こうに見える帝居の大きな瓦葺の屋敷を眺めていた。
「でっけえ御屋敷だよなー。」
「あ、今、何かでかい魚が跳ねたぞ。」
春太郎や利春達も芝生に座りながら屋敷や堀の様子を感心しながら見ていた。
「いやいや、帝のお住まいをこうして見られるとは。長生きはするもんですな。」
「全く全く。」
政吉爺さんや照安和尚、親方達年寄達も感慨深く拝む様にして眺めていた。
便利な交通機関がある訳でもなく、日々の仕事や生活に追われて過ごす大部分の庶民は物見遊山の外出を頻繁に気安く出来るという訳ではなかった。
「ねえねえ、帝様ってどんな人? ジョウランスモウタイカイとかって帝様も見るんでしょ? 武市様は帝様見た事無いの?」
堀端の芝生と道路の境目に停めたリヤカーの荷台に腰掛けていた政吉爺さんの孫娘の姉の方が好奇心に目を輝かせながら祥之助へと尋ねてきた。
帝もご覧になる上覧相撲大会には、杜佐藩や佐津摩藩のお抱え力士である祥之助や結三郎も出場した事は何度もあった。
「帝? あー……特には気にした事は無かったなあ。試合の方に集中してたし。誰が見てるかとかなんて全然。それに、確か帝の席は御簾で囲われてたし、警護人だか護衛だかの連中で一杯だったしなあ。」
孫娘の問いに祥之助がいつもの調子で笑いながら答えると、子供達はつまらなさそうに溜息をついた。
「そっか……。」
残念そうに呟く孫娘達を見ながら、明春達は苦笑した。
「まあ、相撲取る側からしたら試合でそれどころじゃないもんな~。」
「だよなー。大きな大会なら尚の事、余計な事考えられないものな。」
明春や庄衛門の話す様子に祥之助は頷いていた。
「結三郎は帝には一回位は会った事はあるんじゃねえのか? 佐津摩の前の殿様って帝と学問の遣り取りで親しいもんなー。」
皆の遣り取りを微笑ましく眺めていた結三郎へと祥之助が問い掛けると、結三郎は少し困惑しつつも答えた。
「ああ……まあ、一、二度位は……。あー、義父上の御用事で。まあ、聡明で親しみ易い御人柄だった……と思う。」
証宮離宮殿図書館や奥苑で会った時の事を思い出しながら、結三郎は我が義父上と書物を巡って子供染みた言い合いをしていた帝の様子も思い出していた。
「へー。そうなのか。」
自分で問い掛けてきておきながら祥之助は余り関心の無さそうな返事だった。帝と言えば確かに庶民や、祥之助の様な藩主の四男程度の身分では殆ど関わりの無い様な存在ではあったが。
「……。」
結三郎は余計な事は言わない様に口を噤んだが、ほんの少しだけ眉を寄せて祥之助を一瞥した。
親しみ易いも何も、お前もこの前会っていたんだがな……。
結三郎は先月の覚証寺の夏祭りで、お忍びで祭り見物に来ていた帝の事を思い出していた。
そして、のぼせた結三郎が祥之助に対してお慕い申し上げ云々と問い詰めた時に乱入して来て自分達をからかった事も。
――あれから結局、祥之助とのお付き合い云々に関してははっきりと話し合う事も無いまま、お互いに特別に触れる事も無いまま友達付き合いを何となく続けてしまっていた。
先日の婿取りの試合の申し込みの話の様に、何となく所帯をいつかは持つのだろうという様な雰囲気を否定する事も無く――。
はっきりさせたい様な、今のまま何となくの状態を続けたい様な――。
「ん? どうした?」
結三郎が少し黙り込んだ様子に祥之助が首をかしげると、結三郎は慌てて顔を上げた。
「あ、いやいや何でもない。――そろそろ出発しようか。」
自分の中のもぞもぞと何となく落ち着かない様な気持ちを誤魔化す様に頭を横に振り、結三郎は停めていたリヤカーへと足を向けた。
小さな子供達も休んだのでまだ歩けると言う事で、座っていた荷台からぞろぞろと下り始めた。
荷台の下のつっかえ棒を折り畳むと、結三郎は引き手を持って歩き始めた。
「だいぶ証宮の塔、近付いて来たんじゃないか?」
まだ休憩したそうな春太郎が町の向こうに聳える証宮離宮殿の白い塔を指差した。
「まあ、科ヶ輪からだいぶ歩いて来たからねえ。」
「間近で見られるなんて楽しみだねえ。」
子供達の手を引きながらおかみさん達も楽しそうに喋り合っていた。
精介が無事に自分達に追い付く様にと思いながら、結三郎はリヤカーを引き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます