第三話みっつめ、しるすこと 「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」其の六 精介と鳥飼部達の期末試験勉強に励むに就いて記す事

第三話みっつめ、しるすこと

「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」

 「其の六 精介と鳥飼部達の期末試験勉強に励むに就いて記す事」


「案そのものは先月の覚証寺の祭の時に思い付いて書き留めておいたのじゃが……。」

 茂日出はそう言いながらテーブルに広げた紙の中から、企画の趣旨等について走り書きをした一枚を手に取って皆に示した。

 細筆で縦書きの形式だったので精介はすぐには読み取る事が出来ず、困った様に結三郎の方へと目を向けた。

 精介の表情に気付いた茂日出は、皆に見せながらすぐに簡単な説明を始めた。

「まあ、建前としては科ヶ輪にある蓑師摩寺(みのしまでら)――島津家の遠縁の者が和尚をしておる寺があるのじゃが、そこの所有している隣接の敷地に、今年の冬位を目途に小さな出張図書室を建てる計画がある。科ヶ輪以外にも塔京の各地に計画はしておるが、まあそれは後日の話じゃな。――で、言い出しっぺは帝なので基本的には国から予算が出るが、潤沢な訳ではないので佐津摩藩から蓑師摩寺……というか、科ヶ輪の町への支援という事で寄付金を出す事にした。現藩主との話も済んでおる。」

 茂日出は次の紙を捲り話を続けた。

「寄付金は図書室に限らずそこの町――科ヶ輪の町の文化や信仰を支える寺社の維持にも役立てて欲しいという趣旨で贈るので、島津家の親戚の蓑師摩寺に間を取り持ってもらい照応寺等に配ってもらう――と言う様な、大まかな金の流れとしては、まあそんな感じじゃな。」

 茂日出は、企画の走り書きの紙を判った様な判って無い様な曖昧な表情で見ていた精介へと一瞥を送り、

「――ああ、判っておるかおらんか判らんが一応言い足しておくが、日之許はそもそも神仏や精霊が現世に実際に顕現して一部の方々におかれては、様々な分野で人間と遣り取りしておる国じゃから、政教分離が非常に困難なのじゃ。だから国が寺社に直接的に金を出す事も日之許では問題無い。」

「あ、は、はい。」

 社会科の教師の様な茂日出の説明に精介は慌てて頷いた。別にそこまで深い所まで考えていた訳ではなかったが、一応は勉強にはなった様だった。

「?」

 茂日出と精介の遣り取りがよく判らず、横で聞いていた祥之助は少し首をかしげていた。

 結三郎の方も、仕事が忙しい筈なのに一体いつの間に帝とそんな企画立案の遣り取りをしていたのかと呆れた視線を茂日出に向けていた。

「……。」

 茂日出は結三郎の視線から少し気まずそうに目を逸らして説明を続けた。

「……さて。本題の出張博物苑じゃが。寄付金を一般の者達からも集める事と、博物苑の広報活動を兼ねるという事で催し物を行なう。――蓑師摩寺、照応寺、覚証寺、科葉神社、科矢輪神社と、地図を見ると互いに丁度良い距離でまとまっているのも都合が良いのう。この五カ所を会場として一ヶ所ずつ違う催し物を、各場所で一週間位行なう様にしたい。」

 本題に入ると茂日出は実に楽しそうに目を輝かせて語り始めた。

 いつ調べたのか、塔京の大小様々な規模の夏祭りの期日を表にまとめており、八月の終わりの空白になっている部分を太い指で指し示し、

「期日は他の祭と競合しない八月末から九月初めにかけてがよかろう。他の祭の人出を奪うのは本意ではないからのう。――まあ、塔京の夏祭りの締め括りという感じで開催といったところかのう。」

 楽しそうに語りながら、茂日出は肝心要の催し物の内容について書き記した紙束を皆に見える様に広げた。

「各会場にどの寺社を割り当てるかはこれから詰めていかねばならんが、おおよその基本的な中身としてはじゃな――例えばの話として蓑師摩寺では相撲大会を開くとか、照応寺では檻に入れた動物達を見せたり、気性のおとなしいものと触れ合える様にしたり。科矢輪神社では大きな鉢植等を組み合わせて庭園や花畑を作ったり、薬草の展示販売をしたり。科葉神社では動物達の芸を見せる等して……。」

「成程……。」

 滔滔と続ける茂日出の話を聞きながら、祥之助も精介もすっかり開催が楽しみになってしまっていた。

「そうですね……。」

 結三郎もそれらの催し物は興味深く思い、楽しそうとは思ったものの――普段の仕事をこなしながら義父上は一体いつこの様な企画を下書きしていたのだろうか。

 仕事のし過ぎで体を壊さないかと心配も勿論してはいたが、博物苑の仕事を放って先頭に立ち催し物の采配を行ないそうだと、そちらの方の心配も強く感じていた。

 そしてここに帝が居られれば、絶対に政務を放り出して関わってくるに違いなかった――。

 帝が冠西からいつ帰ってくるかは把握していなかったが、催し物の準備の期間の内には塔京に帰って来る事はないだろう。帝が冠西に行かれていて助かったと結三郎は思った。

「という訳で、近日中に結三郎か誰かを使いとして照応寺に行かせるので、予め和尚殿達に知らせておく様にな。」

「は、はい。」

 この話の流れだと多分結三郎が行く事になるのだろう。同じ様な事を思いながら結三郎や祥之助、精介は頷いた。

 テーブルの上の紙束をまとめ直すと作務衣の懐へと戻し、茂日出はまた奥苑の仕事に戻らなければならないという事で慌ただしく去っていった。

 裏口から去っていく茂日出の姿を見送り、精介と祥之助は緊張で張り詰めていた体の力が急速に抜けていくのを感じていた。

 テーブルの上に突っ伏してしまった二人をやれやれと溜息をつきつつ結三郎は眺め、

「ほら、起きろ。いつまでも居てはここの者に迷惑だろう。」

 精介と祥之助の背中を軽く叩いて起きる様にと促した。

「へーい。」

「うっす。」

 祥之助もまた大きな溜息をつきながらふらふらと席から立ち上がり、精介もその後に続いた。

 会計係の名倉へと軽く頭を下げてから結三郎達はカウンターの外へと出て、会計係の部屋を後にした。

「何はともあれ良い返事を聞けて良かった――けど、あそこまでもう考えをまとめてたとは思わなかったぜ。」

 廊下を歩きながら祥之助は、茂日出から前向き過ぎる返事を貰えた事に喜びつつも苦笑を浮かべた。

「でも面白そうっすよね。動物園とか植物園とかみたいな感じで。」

 茂日出の説明を聞き、精介も開催の日が待ち遠しく感じていた。

 そんな話をして廊下を歩いている内に、庶務棟の玄関へと結三郎達は戻ってきた。

「明日にでも和尚達に返事を知らせてくる。祭の話をまとめる時にはまた混ぜてくれよな。」

 庶務棟の玄関前で祥之助は結三郎にそう言って笑いかけた。

「ああ、その時は一緒に頼むよ。」

 結三郎の返事に祥之助は嬉しそうにしながら、絵姿の入った紙袋を大事そうに持って帰っていった。

 祥之助の後ろ姿が玉造の植木の向こうに去っていくのを見送った後、結三郎は庶務棟の玄関前に置いていた空の荷車を再び牽き始めた。

「さあ、奥苑に戻って試験勉強しなきゃな。」

 そう言って荷車の引き手を持って前を歩く結三郎の背中を見ながら、精介は溜息まじりの返事をした。

「はーい。」

 荷車はやはり相変わらずガタガタと大きく揺れながら砂利敷きの道を進んでいたが、もう荷物を気にする必要も無いので結三郎は普段の歩く様な速さで牽き続けていた。

「あ、出張博物苑、試験が終わってからだし俺も何か手伝える事があれば手伝いたいっす。」

 精介の申し出に結三郎は振り返り、軽く笑みを返した。

「ああ、頼むよ。色々と人手は要るだろうからな。」

「はい!」

 今度は精介は勢いよく返事をした。



 奥苑の大広間へと戻ると荷車を手近に居た鳥飼部へと返し、円卓で書類仕事をしている長老格へと結三郎は声を掛けた。

「研究棟の「紅羊歯の間」で山尻殿と試験勉強をするので、何か用事があればそこに連絡を頼む。」

「かしこまりました――等と言うとお思いでございますか? ほほほほ。」

 白い髭と髪に白い作務衣と言うひたすらに白い印象を見る者に与える長老格――村島は書類に書き込んでいたペンを止め、微笑みながら結三郎と精介を交互に見た。

「へ?」

 想定とは違う村島の答えに、結三郎は戸惑いながら村島の白髭の顔を見返した。

「試験勉強と言うと、昨日の中別府が殿の御指示で複写した教科書をお使いになるのでしょう? 早速読ませていただきましたが、日之許と似た言語であっても細かい言い回しが違っていたり、判りにくい表現があったりして困っておりました。後は単純に日之許にはまだ無い道具や機械が何なのかが判らなかったりと……。時間のある時に山尻殿に尋ねようと思っておりました。」

 村島の言い分を結三郎の横で聞きながら、精介は何だか結三郎からも似た様な言葉を聞いたと思ってしまっていた。

 ふと精介が周りを見ると、広間で仕事をしている鳥飼部達の恐らくは全員が、村島と似た様な思いでちらちらと精介を見ていた事に気が付いた。

「しかし山尻殿の試験勉強の邪魔をしてはまずいだろう……。」

 結三郎が困惑しながら村島に諌める様な言葉を掛けた。

 しかし村島は穏やかに微笑みながら、

「はい。ですから山尻殿の試験の出題範囲のみに絞ればよろしいでしょう?」

 結三郎とやはり似た様な事を告げる様子に精介は苦笑するしかなかった。

「いいっすよ今日位なら。ひとに教えたりする事で自分も勉強になるって言うし。……って言ってもうまく教えられるか自信は無いっすけど……。」

 自信無さ気に精介が答えると、村島はその言葉を聞き逃さず嬉しそうに頷いた。

「かたじけのうございます山尻殿。ではこの広間で勉強会を今から行ないましょう。」

「村島殿……。」

 気持ちは判らないでもないものの、手元の書類を手早く引き出しに仕舞い込み始めた村島の様子を結三郎は呆れた様に見ていた。

 それから村島は手元の銀盤のキーボードを叩き、奥苑の鳥飼部達へと告知を行なった。

 ――今から異世界の書物の勉強会を行うので興味のある者は大広間に来る様に。

 奥苑の鳥飼部達の中で興味の無い者が居るだろうか。

 村島が鳥飼部達に告知を送信してすぐに、広間には今は仕事の手が空いているからと主張する鳥飼部達が詰めかけた。

 研究棟に居た鳥飼部達も大広間に来るついでに、「門」の近くに置いていた精介のスポーツバッグを気を利かせて持って来てくれていた。

 バッグを受け取りながら精介も結三郎も、鳥飼部達の勉強熱心な様子に苦笑するしかなかった。

 そして。

「お主等……。」

 当然の事ながら、村島の告知は茂日出の持つ端末機にも送信されており、茂日出が来ない訳がなかった。

「と、殿……。」

 一部の、確実に仕事を放り出したか立場の弱い者に押し付けたかしてこの場にやって来ていた鳥飼部達は茂日出の出現に青褪めていた。

「村島よ、お主が付いておりながらこの様な事を行なうのは如何なものか……。余りうるさい事は言いたくはないのじゃが……。」

 自身も参加したいという気持ちがあり、村島や、一部の仕事放棄の鳥飼部達の気持ちも判らないではなかったので、茂日出も余り強い口調で言う事はなかった。

「――ほほほ。後で出来る仕事は後ですれば良い。研究や観察等、「その時」を逃してはならぬ時もある。……殿も我々も常々考えている事ではないですか。山尻殿との試験勉強は「その時」だと私は直感したのです。」

 にこやかな表情を崩さず村島は白い顎髭を撫でながら茂日出へと告げた。

 その時そこに咲いている花や、出会った動物の観察や研究――、いや図書との出会いでさえ時機や巡り合わせというものがある。

 後ででも出来る様な仕事や作業に気を取られて、二度と無いかも知れないそれらとの巡り合わせを逃してはならない――博物苑の者達が常々肝に命じている事だった。

「判った判った。お主がそうまで言うなら、たまにはこういう事も良かろう。」

 角刈りの白髪頭を掻きながら茂日出は軽い溜息をついた。

 藩主時代からの付き合いの長い、奥苑の長老格の一人である村島の発言でもあり、茂日出も折れる事にした。

「――仕事を放り出して来ておる者達は、仕事の小休止という事にして三十分程の滞在までなら許す。ワシもその時間が経ったら仕事に戻る。他の者も一時間程を目安に適宜交代する様に。」

 茂日出の決定に、広間の鳥飼部達の間に安堵と喜びの表情が浮かんでいた。

 精介と結三郎も何事も無く納まった事にほっと息を吐いた。

「――ほれ、さっさと席に着いて始めぬか。」

 茂日出自身は精介の集中を乱さない様にと一応気遣ったのか、広間の片隅の丸椅子に腰を下ろしていた。

「は、はい。」

 茂日出に促され、精介は円卓の席の一つに結三郎と並んで座る事にした。

「えーと、取り敢えず試験の科目と範囲なんすけど……。」

 精介の説明に合わせて、気を利かせた村島が手元の端末を操作して円卓の中央に教科書の映像を投射した。

 古文、漢文、現代国語、英語――と精介が順番に試験範囲の説明をしていくと、正に異世界の言語だ!と、集まった鳥飼部達は目を輝かせながら映像を見つめていた。

 異世界の歴史! 異世界の生物! 異世界の数学!――と、興味のある分野の異なる鳥飼部達が順番に喜んでいくのが微笑ましいとは精介も思いつつも、大勢居る中で試験勉強をするのは落ち着かない気持ちもあった。

 幸いと言っていいのかどうか、鳥飼部達から質問されるのは例題の解き方と言うよりもまず、例えば現国の随筆の中に出てくる精介の世界の事物――バス停とか自販機そのものが日之許には無いので、それを問われてそれが何なのか答える様な遣り取りの方が多かった。

「――ほほう、山尻殿の世界――というか国は武家の統治の時代があったのですか。」

「――成程。近代の戦争とは、中近世とはまた違った方向でなかなかにえげつない殺し合いになるのですなあ……。」

「……日之許の近隣の並行世界の歴史は、帝も神降ろしで体験させられたと伺っておりまする。書物の中の、数行の文章の向こうにある途轍も無い量の生身の人間達の人生の追体験――確かに発狂する者も出て来よう……。」

 精介の世界の世界史や日本史の勉強に移ると、試験範囲外のページも読みながら小声で鳥飼部達が話し込んでいた。

 帝ではなく将軍と言う職の者が数百年間に亘って国を治めていた話や、日之許が辿ったかも知れない近代の戦争の話は、鳥飼部達の興味を強く惹いていた様だった。

 そうする内に三十分が経つと仕事をさぼっていた鳥飼部達が――茂日出もだったが――また仕事に戻るべく広間を去っていき、更に三十分経ったところで少し休憩を取る事にした。

 数人の鳥飼部達が広間の者達に麦茶を配っていき、精介と結三郎も受け取った。

「山尻殿、今日はわたくしの我儘に付き合って下さり、真にかたじけのうございます。」

 席から立ち上がり腰を軽く叩いて解しながら、村島が精介のところへとやって来た。 

「あ、いえそんな……。」

 自分よりも遥かに高齢の目上の者から頭を下げられ、精介は戸惑いながら自分も頭を下げた。

「やはりある程度は日之許と似通った世界のせいか、違いの判り易い文学とか歴史につい目が向いてしまいますな。数学や物理、化学等は、使われておる記号を覚え直せば基本的な法則や数式の考え方は割合似通っているので理解し易いし、馴染みのある内容も多い。」

「え! 化学とか、もう理解したんすか!?」

 白髭を撫でながら言う村島に、精介はむしろ苦手な理系分野を村島から教わる方が良さそうだとも思ってしまっていた。

「まあ、村島殿は仮にも奥苑の古狸の一人だからなあ。大抵の学問は既に修め終わってるからなあー。」

 精介の横で結三郎が麦茶のお代わりを飲みながら軽く笑い声を上げた。

「古狸はないですぞー。ほほほほ。」

 結三郎の言葉に村島も微笑みを返した。 

 村島と結三郎のそんな遣り取りをしている近くでも、休憩中の鳥飼部達がお互いにタブレット端末らしき板を指し示しながら、教科書の内容について楽しそうに話し込んでいる様子が精介の目に入ってきた。

 村島初め鳥飼部達のそんな様子に、学校の試験勉強なんてめんどくさいし試験範囲を落第しない程度に覚えていればいい――という位にしか考えていなかった精介は、何かを勉強する事は楽しい事でもあったのだと、今更ながら新鮮な気持ちを抱いていた。

「――試験が終われば山尻殿の近所の探検が待ってるしな。とても楽しみだ。」

 村島と結三郎の話はいつの間にか精介の世界の探検の話になっていた様で、結三郎がうきうきと楽しそうに告げる言葉が精介の耳へと届いた。

「くれぐれも御気を付けて。――しかし真に悔しいですのう。殿が責任者とは言え、一番乗りでお出掛けになられるとは。実に悔しい。」

 村島と結三郎の話が聞こえていた近くに居た年配の鳥飼部達も、村島に同調して何度も強く頷いていた。

 皆、異世界の探検を早く行ないたいと願っている者達ばかりだった。

「全くけしからんというか羨ましいと言うか。」

「定期的継続的に探検隊は派遣するべきじゃ。村島、次は儂等が行くぞ。」

「儂は是非ともさっきの随筆にあったカフェエテリヤとやらでモォニングとやらを体験したいぞ。」

「うむうむ。」

 村島と同格の長老達がいつの間にか近くにやって来ており、村島の肩を叩きながら強い決意を表明していた。

 暫くの間彼等が語り合うのを見た後、再び精介の期末試験勉強会は再開され、夕食の時間まで続けられたのだった。



 翌朝。祥之助は布団ではなく畳の上で仰向けになった体勢で目を覚ました。

 浴衣も一応は羽織っていたが、昨夜は褌も締めずに半裸のまま寝てしまっていたのだった。

「あー……あのまま寝ちまったのか。」

 欠伸をしながら祥之助は体を起こし、浴衣を軽く纏い直した。

 目の前の文机には昨日買って来た――というか買って贈ってもらった結三郎の絵姿が広げられたままだった。

 紙の端に昨夜、祥之助の放った滴が飛んでしまっていたらしく、そこだけほんの少し薄く黄ばんだ変色をしてしまっていた。

 あの何とかいう佐津摩の横綱の写真の様な高い品質のものを結三郎でも作ってくれればいいのに――と、そんな事を考えながら祥之助は、結三郎の絵姿を皺にならない様に大事に引き出しの中に仕舞い込んだ。

 昨夜拭き取りに使った手拭いは黄ばんではいなかったが、青臭い雄の残り香が少し漂っていた。

 流石にそのまま洗濯係に渡すのも憚られたので、後で自分で軽く濯いでから洗濯係に出す事にして取り敢えず文机の下に押し込んだ。

 褌を締め直し、いつもの着流しを纏うと朝食の膳を取りに玄関に向かう事にした。

 祥之助の住んでいる藩邸別棟の玄関にやって来ると、比較的身分が高いとはいえ食べ盛りで腹を減らした文官として働く若侍や、祥之助よりも上位のお抱え力士達が朝食の膳を慌ただしく受け取っていた。

 白飯や副菜が山の様に盛り付けられた膳を抱えて自室へと戻っていく者達を見ながら、祥之助がのんびりと順番待ちをしていると、背後から浅右衛門爺やの声が聞こえてきた。

「おはようございます。祥之助様。」

「あ、おはよう。」

 祥之助は振り返り浅右衛門へと挨拶をした。

 祥之助の後ろで浅右衛門は、夏場と言う事でいつもの赤いジャージは下のズボンだけで、上半身は「相撲道探究」と縦に大きな筆文字で書かれた白いTシャツを着て立っていた。

「珍しいな。爺やが朝一番で膳を取りに来るなんて。」

 祥之助がそう言うと、浅右衛門は少し溜息をついて答えた。

「藩邸のあちこちの掲示板に貼り紙をしてはいますが、祥之助様の事だからろくに見てはおらぬでしょう。念の為、ご注意を促しておこうと思いましてな。――ああ、ついでというかお前達も念の為聞いておけ。」

 周囲で膳の順番待ちをしていたり自室に戻りかけていたお抱え力士達にも、浅右衛門は片手を上げて声を掛けた。

 それから祥之助の方へと向き直り、

「藤枝原村への出張の日程じゃが、丁度一週間後でございます。三泊四日でございます! 詳細はこれに書いておりまする。必ず目を通されます様に。」

 浅右衛門はそう言って、わざわざ祥之助用に印刷してきた日程表を祥之助の手に握らせた。

「――お前達も、掲示板は必ず確認する様にの。ここに居らぬ者へも、お互いに声を掛け合って皆が掲示板をきちんと見る様に! よいな!」

「お、おっす!」

 総監督浅右衛門の指示にお抱え力士達は大きな声で返事をした。

 必ず目を通す様にと何度もうるさく言う浅右衛門の声を聞きながら、祥之助は朝食の膳を係の者から受け取ると自室へと戻っていった。



 塔京の外れにある藤枝原村と言う山間の小さな村は、土俵を作るのに適した質の土が取れる為、塔京杜佐藩邸で暮らしていた武市家の長老格の多くの者達がその土地を気に入って隠居後に住み着いていた。

 村では二、三年に一度、土の恵みをもたらす山神への感謝の祭礼を執り行なう事になっており、今年はその年に当たっていた。

 祥之助も養子ではあったが武市家の一員として、また杜佐藩のお抱え力士として、村の祭礼で行なわれる奉納相撲に参加する為に出掛けなければならなかった。

「えーと? 初日が藩邸出発で……?」

 食事を終えて祥之助は、一応爺やに言われた通り手渡された日程表に目を通していた。

 初日の朝に杜佐藩邸を出発し、その日の夕方から夜にかけての頃合いに藤枝原村に到着予定となっていた。二日目は祭礼の準備の手伝いで、村の普段の農作業や他にも力仕事等があればそれを手伝う。そして三日目が祭礼。四日目の朝に高縄に帰るべく村を出発――と。

 日程表にはお抱え力士の内の誰が参加するのかという、力士達の名前も祥之助を含めて十名が書かれており、他にも村に迷惑を掛けてはならないとか、移動の道中も出会う人々に対しては礼儀正しく品格を保ち云々と、幾つかの注意事項が書かれていた。

 祥之助含む十名と、引率の浅右衛門――藤枝原村に向かうのはこの十一名だった。

 村に負担や迷惑を掛けてはならないという浅右衛門の方針で、祭礼に参加する上位のお抱え力士は必要最低限の人数だけにしていた。

 また、普段から大量の食糧を消費する力士達なので、特にその面では浅右衛門は村に気を遣い、滞在中の食料は大きな荷車を幾つも用意して持って行く事にしていた。

 上位のお抱え力士が荷運び仕事なぞ――と不平を言う力士は浅右衛門の教育の賜物により一人も居なかった。そもそもが力自慢体力自慢の上位の力士達ばかりだったので、むしろ下手に荷運び係の人間を用意するよりも余程効率良く大量の荷物を運ぶ事が出来た。

「あーあ……。高縄から四日も離れんのか……。」

 一通りの内容を一応は頭に入れ、祥之助は長く大きな溜息をついた。

 今までであれば、藩邸での稽古も休めて物見遊山の気持ちで遠くの村に出掛ける事も楽しめたのだが、今は結三郎と四日も離れてしまう事が大変に面白くない気持ちになってしまっていた。

「いっそ結三郎も村に来ねえかなあ……。」

 祥之助はそんな独り言を漏らし、また溜息をついた。

 聞けば藤枝原村には牟津藩等、武市家の長老達と交流のあった藩の力士達も二、三人今回の祭礼にはやって来るという。それならば武市祥之助と交流のある佐津摩藩の結三郎だって参加しても構わないのではないか――。

 そんな他愛の無い思慮を巡らせつつ、祥之助は文机の小引き出しに仕舞っていた活動写真の入場券の束を取り出した。

 今日は追加で貰った入場券を、昨日の茂日出公の返事を知らせに行く事と合わせて照応寺に持って行くか――。

 入場券の束を手に今日の予定を思案しながら、祥之助が開けられたままの引き出しに目を向けると、束の中からあらかじめ取り分けていた結三郎と精介と自分用の三枚が少し皺になって入っているのが見えた。

 結三郎を活動写真のデエトに誘うのは藤枝原村に出発する前の早い方がいいだろうか、それとも後のお楽しみに取っておいて、高縄に帰って来てからの方がいいだろうか――。

 そんな思案をしつつ引き出しを閉じたところで、藩邸の使用人が障子の外にやって来て声を掛けてきた。

「祥之助様、宜しいでしょうか?」

「ん? どうした?」

 祥之助が答えると、

「門番から、島津結三郎様がいらっしゃっているとの事です。如何――」

「すぐ行く! 今すぐ行く!」

 使用人が言い終わらない内に祥之助はそう答え、入場券の束を文机の上に置くと、障子を勢い良く開けて廊下を駆け出した。

「祥之助様……!」

 使用人が戸惑いながら呼び掛けてきたが、答える間も惜しんで祥之助は藩邸の門へと向っていった。

 向こうから藩邸を訪ねてくれるなんて嬉しい事だと思いながら祥之助が門の所に着くと、通用口の向こうに背嚢を背負った結三郎が立っていた。

 紺色の羽織袴姿の六尺棒を構えた門番が祥之助に一礼し、道を開けた。

「朝からすまないな。」

 祥之助がやって来ると、結三郎は申し訳無さそうに軽く頭を下げた。

「いや全然すまなくないぞ! でもどうしたんだ?」

 結三郎の訪問に嬉しそうに祥之助は答えながら、少し不思議そうに背嚢へと目を遣った。

「ああ、昨日の義父上の出張博物苑の話だが――和尚殿達と早く話をまとめて来るようにと言われてな。話し合いには混ぜて欲しいと言っていただろう? 早速で悪いとは思ったが、もし都合が合えばと思ってな……。」

 背嚢を見る祥之助に結三郎は苦笑しながら答えた。

 背嚢の中にはいつもの和綴じ本に偽装した端末や、昨日の茂日出の企画書の複写等が入っていた。

「えらい動きが早いな……。俺も今日返事を持って行こうかと思ってたんだぜ。」

 少し呆れた様な感心した様な祥之助の言葉に、

「まあ、俺も今日すぐとは思ってなかったがな……。」

 結三郎も困った様に笑うだけだった。

 祥之助としてはまた結三郎と共に照応寺に出掛けられるのは嬉しい事ではあった。

「そういや今日は精介は? あいつの事だから一緒に付いて来そうな感じだけど。」

 結三郎を慕ってうろちょろしている精介ならば今日も一緒にくっ付いていそうだと、何気無く祥之助が尋ねると、結三郎は一瞬僅かに肩を震わせ、慌てて答えて誤魔化した。

「あ、ああ、山尻殿は夕方まではちょっと用事があってな……。手が離せないんだ……。」

 精介の事も勿論可愛らしいと思ってはいるものの、結三郎の言葉を聞いて昼間は結三郎とだけで過ごせると祥之助は内心で大いに喜んだ。

「そ、そうかー。それは残念だなー。」

 そう口にしつつも喜んでいる祥之助の表情に、結三郎は少し呆れた様な目を向けていた。

「よし、すぐに支度して来る! すまんがほんの少しだけ待っててくれ!」

 そう言うと祥之助は大慌てで自室へと走り出した。

「いや、そこまで慌てなくても……。」

 結三郎の掛けた声は走り去ってしまった祥之助には届かなかった。

 数分も待ったか待たなかったかというところで、息を切らしながら祥之助が戻ってきた。支度と言っても、照応寺に持って行く入場券の束を取りに行っただけなので手間取る様な事は無かったのだった。

「そこまで慌てなくても良かったのに……。」

 結三郎は再び祥之助にそう声を掛けたが、祥之助は息を切らしながらも笑って答えた。

「いやいやこういう事は急がないとな……。和尚殿達も返事を待ってるだろうし……。」

「そ、そうか……。まあ取り敢えず行こうか……。」

 結三郎は祥之助の呼吸が整うのを少し待ってから、照応寺へと出発する事にした。



 科ヶ輪へと並んで歩きながら、祥之助は結三郎の背負っている荷物の事を何となく尋ねてみた。

「――ああ、昨日皆で見た義父上の企画書の写しだ。和尚殿達にも見せながら説明した方が判り易いだろうと思ってな。後は、仮で大雑把に作ったのだが、照応寺や他の寺社のそれぞれの由来を書いたパンフレット――説明書の様な絵本みたいな物というか。そんな物も何冊か見本として持って来たんだ。」

「へえ……?」

 結三郎の話に祥之助は少し首をかしげながら曖昧な返事をした。

 夏祭り――出張博物苑の話をするだけかと思っていたのに、他にも何か寺社の事で話があるのだろうか。

 まあ、寺に着いてから聞けばいいかと祥之助は深く尋ねる事もせず、結三郎と二人だけの道行きを楽しみながら歩く事にした。

「――今日は相撲の稽古に励もうと思っていたのになあ……。」

 祥之助の横を歩きながら結三郎は溜息をついた。

「奥苑の鳥飼部達から、ぐずぐずしていると義父上が自ら企画書を携えて寺に出掛けかねないから、今日にでも出掛けて話をまとめて来て欲しいと頼まれてしまってなあ……。」

「あー……。あの殿様なら、やりかねねえもんなあ。」

 自分の予定を変えなければならなかった結三郎を気の毒がりながら、祥之助は苦笑いを浮かべた。

「祭とか賑やかな事、すげえ好きそうだもんな。」

「全くその通りだ。」

 祥之助の言葉に結三郎も頷いた。

「――あ、祭と言やぁ、俺も来週から藤枝原村ってトコの祭礼に杜佐藩邸の用事で出掛けなきゃいけねぇんだよなー。めんどくせーけど。」

 祭と言う言葉で来週からの用事を思い出し、祥之助は足元の小石を軽く蹴り飛ばした。

 藤枝原村での祭礼の為に三泊四日の日程で杜佐藩邸のお抱え力士達が出掛ける事について、祥之助は大雑把に結三郎へと説明した。

「そうだったのか……! それは何とも大変な用事だな。めんどくさいだ等と言ってはならんぞ。」

 結三郎はいつもの生真面目な様子で祥之助を窘めた。

「そりゃあ、そうだけどよ……。」

 祥之助は少し不満気に口を尖らせた。

 自分を見つめてくる結三郎のきりっとした生真面目な表情は、嫌いではなかったものの、それはそれとしてめんどくさいものはめんどくさかった。

「杜佐藩のお抱え力士の――それに武市家の一員としての大事な仕事なんだろ。きちんと務めを果たさないとな。」

 結三郎は祥之助を励ますつもりで笑い掛け、背中を軽く叩いた。

 いつも相撲の稽古をさぼって町をうろついたりしている様な印象の方が強かったが、こうした祭礼や神事の際にはやはり杜佐藩お抱え力士として、杜佐藩の相撲を司る武市家の一員として祥之助が働く事に、結三郎は祥之助を見直す思いがあった。

「藤枝原村がそうだとは俺も知らなかったが、佐津摩藩邸や高縄屋敷の土俵の土も、塔京の外れの村から購入しているとは聞いた事があった。杜佐藩に限らず、他の藩の相撲取りからしても大事な村と言う事になるから、村祭りの事はくれぐれも頼んだぞ。」

 祥之助の働きに期待の込められた結三郎からの微笑みに、祥之助は俄かにやる気が満ちてくるのを感じた。

「おう、任せとけ! 山神だか何だか知らんけど、思い知らせてやるぜ!」

「……いや、決意表明にその言葉の選択は如何なものかと思うぞ……。」

 結三郎から頼りにされ満面の笑みで宣言する祥之助へと、結三郎は困った様に眉を顰めて振り返った。

 藤枝原村の山神が現世に受肉しているかどうかまでは知らなかったが、いずれにしても祥之助が山神に失礼の無い様にと結三郎は思わず祈っていた。

 そんな話をしている内に、結三郎と祥之助は照応寺へとやって来たのだった。

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