第三話みっつめ、しるすこと 「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」其の四 精介の生活費を浮かす相談事に就いて記す事
第三話みっつめ、しるすこと
「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」
「其の四 精介の生活費を浮かす相談事に就いて記す事」
「は、はい……。」
提案や相談という言葉に精介は身構えつつ、茂日出の次の言葉を待った。
「金を稼ぐ事と、お主の世界の探検についての二つの事なのじゃが……。」
茂日出は精介に向けて口を開いた。
「――先日お主を元の世界に送り帰す際に少し話をしたと思うが、お主の世界の金を我々が何とかして稼ぐ事が出来ないものか……。まだその話し合いが帝ときちんと出来ておらず、案も練れてはおらぬのだ。帝の方が、この夏の時期は日之許各地への遠出の仕事が重なっていて忙しゅうてのう……。」
茂日出はそう言って軽く溜息をついた。
「しかしまあ、それはそれとして。大掛かりな調査ではなくとも、お主の世界のちょっとした調査を近日中には行ないたいとは思っておる。ほんのちょっとの規模の――そう、例えばお主の家の近所の散歩程度のものでよいのだ。それならば金が無くとも何とかなろう。」
「そ、そうですね……。」
一応は茂日出は威圧感を与えない様にと気遣ってくれており、精介は何とか緊張も少なく返事をする事が出来た。
自宅近辺を散策する程度ならば多分茂日出の言う通り、金が掛かる事は無いだろう――。
精介が結三郎の方をふと見ると、普段は茂日出を窘める側になりがちな結三郎も、精介の世界の調査については積極的な様子で茂日出の言葉に何度か頷いていた。
――この場にダチョウや鳥飼部達が同席していれば、茂日出がいい加減異世界の探検への欲求が抑えきれなくなったと察したに違いなかった。そして帝も乱入して、茂日出だけ探検に出掛けるのはずるい、と大合唱するに違いなかった。
比較的安全と思われる、探検の難易度の低そうな世界へと出掛ける事は、学問研究への好奇心や探求心の旺盛な鳥飼部達の皆が望んでいる事だった。
――例え難易度が高くとも怯む様な者は、少なくとも奥苑には誰一人居ないと思われたが。
「で、調査探検――というと今回の場合は大袈裟でいかんな。要は散歩じゃ散歩。近い内に散歩に行きたいので、そうじゃな……期末試験が終わった頃にでも宜しく頼む。」
いずれはもっと大掛かりな探検という名に相応しい事を茂日出は考えている様だったが。
一先ずは散歩という事なので精介も気分的には受け入れ易かった。
「は、はい。判ったっす……あ、判りました。」
慌てて言い直し、精介は残りの食事へと再び箸を伸ばした。
「ああ、食事をしながらで構わぬからそのまま聞いてくれ。――散歩は散歩として。金の話に戻るが、提案でもあり相談なのだが、お主の世界に送り込んだ探査機や式神からの情報をざっと見たところ、お主の世界でも食費が生活費に占める割合は少なくない様子。」
「そう……ですね。」
揚げ鶏を噛み締め旨味を味わいながら精介は頷いた。茂日出と同席している事に幾らかは慣れて緊張も少しだけ解れ、食べ物の味も判る様になっていた。
精介の生活費の内、家賃はおじさん――大叔父の厚意で無料だったが、義理の両親からの仕送りの大部分は食費に消えていた。
「例えば学校が終わった後、夜にこの屋敷に来てもらって夕食を取ったり、朝昼等をこちらで作らせた弁当を持ち帰って食べてもらったり――週の内何度かその様にすれば食費も少しは浮くのではないか。何なら高縄屋敷で寝泊まりして光熱費等も節約してくれてもよい。」
「!」
屋敷での寝泊まりと言う言葉に、精介は一瞬、結三郎と布団を並べて寝る様子を想像した。
それならばもう毎日でも――いやしかし、結三郎が隣で寝ていて手を出さずに耐えられるだろうか等と様々な妄想もよぎってしまった。
「――何を考えておるのかは何となく判るから言うておくが、お主の寝泊まりする部屋はこの研究棟の何処か適当な小会議室だぞ。一人で。」
「ハハ……ソウデスネ……。」
明らかに威圧の込められた眼差しで茂日出から睨まれ、精介は冷や汗を掻きながら硬直してしまった。
「まあ、その様な感じで節約して浮いた金を、この高縄屋敷で何かに使ってもらって、そうやって屋敷に支払われたお主の世界の通貨を調査費用に充てたいと考えておる。」
何とか食事を終えた精介は茂日出の言葉に頷きつつも、疑問に感じた事を恐る恐る口にした。
「えーと、俺の世界のお金を使うのはいいんですけど……。あの……そんなややこしい事しなくても、直接食事代として払うのは駄目なんすか……ですか?」
麦茶を自分で湯呑に注ぎながら茂日出は精介からの問いに頷いた。
「うむ……。勿論その案もありなのだが……。ただ、食事と言うのは今回の場合は、真面目に細かく考え始めると価値の釣り合いが取りにくくてのう…。」
茂日出が食べ終えた空の盆へと目を落とすのを見て、精介も結三郎も自分の分の盆を見た。
「味については勿論藩邸の料理人達の力により美味いとは思う。問題は日之許の今の農業技術や運搬技術、諸々の効率、人件費等を考え合わせると――お主の世界では大量生産大量輸送で安価に作れる弁当や定食といった物も、日之許では高価になってしまうのだ。」
「あー成程……。」
茂日出の言葉に、精介は義父がよく見ていた時代劇の農村等の描写を思い出していた。
農業機械も無く人力か牛馬によって農作業を行ない――日々の作業にしても水道設備も無く、農薬や肥料だってろくに無い中で作物を育てる苦労は並大抵の事ではないだろう。
そうして出来上がった農作物を都市部に運ぶにしても荷車しか無い――。
精介は、人足達が荷車で苦労して遥々山村から町まで米や野菜を運んでいる時代劇の場面を思い出した。
そして調理をするにしても便利なガスや電気による調理器具は無く、薪や炭を使って煮炊きをしている――精介の世界の基準で、そうした手間暇や人件費等を計算していけば、確かに今食べた夕食も随分と高価なものになってしまうのだろう。
「――その様な次第でな。食事よりも、もう少しお主との話し合いで決められる余地のありそうな……例えば日之許の絵巻物とか書物、そういった物を買ってもらうとか。――証宮離宮殿の図書館には娯楽に関する書物も莫大な量があり質も高い筈なので、それについてはお主の世界にも引けは取らぬ筈じゃ。――後はそう、例えばサァヴィスを購入してもらうといったところかのう。」
茂日出の言葉に精介も頷いた。
毎回夕食に数千円払うよりかは、何か日之許の本等を買う方が精介にとっても得がありそうで支払いがし易いと思われた。
「探査機の映像で見たが、例えば腰痛肩凝り揉み解しマッサージ三十分四千円――。他には書道教室、剣道教室の様な、何かを教えてもらう事への礼金……お主の場合ならば高縄屋敷相撲教室という様な感じで稽古を付けてやる事で月謝を払ってもらうとかじゃな。そうした形の方がまだお主から金を取り易いのじゃ。」
「成程……。サービスに対する支払いっすか……。」
茂日出の話を聞きながら、茂日出が恐ろしいので絶対に口には出さなかったが、精介はクラスの友達に動画を見せてもらったメイド喫茶や執事喫茶と言う様な、特殊な喫茶店で結三郎にもてなしてもらうひと時を妄想してしまっていた――。
――ようこそいらっしゃいました。島津結三郎ですニャン。
マワシ姿に猫耳と肉球手袋を付けた結三郎――いや、ニャンサブロウがちゃんこ鍋でもてなしてくれて、それを食べさせてくれる――。
――御注文の食後のケーキですワン。
更には祥之助が柴犬の耳と肉球手袋、尻尾を付けたマワシ姿でケーキを持ってくる姿まで精介の脳内に投影されてしまっていた。
そんな姿の二人にもてなしてもらえるのならば幾ら払ってもいい――。
「何か良からぬ事を考えておる様だが……。」
「イエナンデモナイデス。」
精介の幸せな妄想も茂日出の一睨みですぐに消し飛んでしまった。
結三郎によるサービスについては心残りはあったが一先ずはそれを横に置いておき、精介は茂日出と結三郎を交互に見ながら口を開いた。
「――取り敢えず、試験前なんでこっちに泊まるのはまた後で考えるとして……夕食は明日から小まめに食べに来てもいいっすか?」
早速生活費の節約をするべく精介は茂日出へと伺いを立てた。
「うむ。奥苑と表苑、どちらの食堂も一人分や二人分位の余裕を持たせて食材を仕入れさせておる。厨房の者には連絡しておくのでどちらの食堂でも好きに使うが良い。」
茂日出が頷く横で、結三郎も精介の申し出に喜び笑みを浮かべていた。
「時間が合えば一緒に食事をしよう。奥苑の食堂であれば異世界の話をしても問題は無いから、食事の時に山尻殿の世界の話を色々と聞きたいな。」
「は、はい!」
結三郎の言葉に精介も嬉しそうな声を上げた。
「――と言う訳で。そちらの世界に散歩に行くのはお主の試験が全て終わった翌日――夏休み初日とか言っておったな。その日に昼間の数時間だけ行なうのでそのつもりで宜しく頼むぞ。」
結三郎と精介が喜んでいる様子を眺めながら、茂日出は既に決定事項であるかの様に精介に告げた。
「え? そ、そうなんすか?」
確かに少し前の会話の中で、試験が終わった頃にでもとは茂日出は言ってはいたが。
てっきりまた後日にでも正式な日時についての連絡があるものと思っていた精介は、驚きに思わず茂日出を見上げた。
「うむ。今決めた。今回はワシと結三郎だけじゃが、いずれは帝や奥苑の鳥飼部達も順番に出掛ける事になる。お主には少し迷惑を掛けるかとは思うが……。」
「今決めたって……。」
博物苑の責任者であり高縄屋敷の主である茂日出の言葉は、確かにそのまま決定事項になるものではあったが。
茂日出の言葉に精介は少し困惑しつつも、精介の世界の探検――散歩は結三郎も喜んでいる事なので承諾した。
「は、はい……。判りました……。」
精介は期待に満ちた表情をして自分を見下ろしている茂日出にぎこちなく頷いた。
結三郎の方を見ると、結三郎もまた茂日出と同様に期待に目を輝かせていた。
結三郎が遊びに――いや、探検に来てくれるのは嬉しいが、茂日出も一緒にやって来るのには強い緊張を感じてしまっていた。
「――探査機越しでなく自分の目で異世界の様々な物を見られるというのは、実に楽しみじゃのう。」
「義父上、その日は恐らく近所の探検は余り行なえないと思います。山尻殿の部屋やマンションの建物を調べるだけでも時間が掛かるでしょう。」
「ほほう。」
「先日山尻殿を送り帰した時に見せてもらった部屋や厠、浴室、台所――何もかもが興味深いものでした。」
「成程成程。」
茂日出と結三郎が精介の世界の散歩について盛り上がりながら話をしている様子を、精介は微笑ましく眺めながらも――少し残念そうにそっと小さく溜息をついた。
結三郎さんとの初回のお出掛けは保護者付きか――。
◆
翌日。精介の学校は試験の二日前からは授業は午前中で終わる様になっていた。
階段への通り道でもあるので、授業が終わった後に部室に向かう途中、上西は今日も精介の教室を覗いて精介に声を掛けた。
「おーい、山尻。」
「あ、悪ィ。今日も無しで。」
上西の姿に気付き精介は少し申し訳無さそうに返事をしながらも、慌ただしく荷物をまとめていた。
いつもであれば学食や弁当等で昼食を済ませてから、部室に行って自主勉強会という流れだったが精介は今日も高縄屋敷で試験勉強をするつもりだった。
「何だ、付き合い悪いなー。まあ、いいけどよー。」
特には気にした様子も無く上西は軽く笑い、部室へと去っていった。
精介はスポーツバッグを背負うと足早に階段を下り、自転車置き場へと向かった。
今日は昼飯も高縄屋敷で食べさせてもらおうか――。
一応は今日から夕食は小まめに食べに行くとは言ったものの、今日以降暫くの間のきちんとした予定を決めておらず、結三郎達に伝えていなかった事に精介は今更ながら気付いた。
昨日の茂日出の様子では、食費の節約の為に夕食以外についても毎日来てもいい様子だったので、多分今日も今から行ったとしても咎められる事は無さそうだったが。
取り敢えず後で結三郎さんか鳥飼部の人にでも予定を伝えておこう――そんな事を考えている内に精介はマンションまで戻ってきた。
自転車を駐輪場に突っ込むと急ぎ足で部屋に戻り、さっといつものTシャツとハーフパンツに着替えてバッグを背負うと「門」へと潜り込んだ。
「こんにちはー。」
薄青い光の幕から精介が顔を出すと、鳥居の柱のすぐ横で茂日出と他に二人の鳥飼部達が書類やタブレット端末らしき板を手に何事か話し合っているのが目に入った。
「――「門」を繋いで以降の数値は問題は無い様子じゃのう。」
「はい。時空の穴が開いた様子もありません。今のところは順調かと思われます。一先ずは現状で経過観察というところかと。」
「帝の論文の通りに今のところは推移しておりますな。まあ、穴が開く事が完全に無くなる訳ではありませぬから、次回に穴が開いた時にその規模や位置等を計測して今までのデェタと比較して……。」
茂日出達がそんな話をしているところに精介は恐る恐る挨拶をした。
「こ、こんにちは……。」
「うむ。今日は早かったのう。」
精介へと茂日出は頷き返した。茂日出の方はいつも通りの態度でそんなつもりは無い様だったが、その筋骨隆々とした体から放たれている気迫の様なものに精介はどうしても気圧されてしまっていた。
「あ、えーと……。早速で申し訳無いですが、お昼ご飯を頂けたらと……その……。」
余りにも腰の引けた精介の様子に茂日出は呆れて溜息をついていたが、鳥飼部達はむしろ気の毒そうに見つめていた。
茂日出の放つ圧力は慣れていない一般人にはきついものがあるだろう。
「そこまで畏まらんでもよい。食事についてはこちらから提案したものだし、堂々としておれ。」
「は、はい……。」
茂日出の言葉に何とか精介は姿勢を正し、返事をした。
「――結三郎は今まだ表苑の食堂で昼食を摂っておる筈じゃ。そちらの方が食べ易かろう。ワシが許可を出しておると食堂の者に言えば通じる様にはしておる。」
一応は精介を気遣う様な言葉を掛けた。
「ああ、それとお主の身分についても奥苑、表苑、屋敷全体とそれぞれの者達に申し送りは済ませておる。島津のかなり遠縁の藩の若君を勉学の為に奥苑で預かる事にしたと。滞在中はワシの直属の助手の鳥飼部という形で奥苑に所属させておる――とな。そんな次第じゃから高縄屋敷の中に限らず日之許で居る間は堂々としておれ。」
そう言うと茂日出は再び手元の端末の表示に目を落とし鳥飼部達との話を再開した。
「は、はい……。有難うございます。」
冷や汗を掻きながらも精介は茂日出に頭を下げ、研究室を後にした。
「ああ、山尻殿。」
出入り口に差し掛かったところで鳥飼部の一人が精介に声を掛けた。
精介が振り向くと、
「結三郎様に、食事が終わったら奥苑の広間に印刷物を取りに来ていただきたいとお伝え下され。それを会計係の所に持って行っていただきたいのです。」
「は、はい! 判りました。」
精介は頷き、研究室を出ると表苑の方へと向かう事にした。
昨日の「紅羊歯の間」を通り過ぎ、研究棟を出て、奥苑の玄関で持って来たサンダルに履き替えると精介は小走りで奥苑を後にした。
途中、何人かの鳥飼部達とすれ違い、精介は軽く頭を下げて挨拶をしていったが、特には不審な目を向けられるという事はなかった。
「あ……。」
しかし、奥苑と表苑を隔てている白い金属製の門扉の所までやって来たところで、精介は立ち止まり困惑しながら門を見上げてしまった。
確か結三郎は掌を当てて通してもらっていたと、精介は先月の自分の元の世界への送還の時の事を思い出していた。
指紋とか掌紋とかを記録して人物の認証を行なっている仕組みなのだろう。
研究棟に引き返して認証について尋ねなければならないか――精介が溜息をつくと、不意に門の金属板の一ヶ所が赤く点滅し、さっき研究室に居た鳥飼部の声が聞こえてきた。
「言い忘れておりました。申し訳ございません。山尻殿の登録も済んでおりますから、そのまま扉に御手を御触れ下さい。」
「は、はい!」
突然の声に精介は驚き思わず体を震わせたが、取り敢えず言われた通りに扉に手を押し付けてみた。
精介の手が触れるとすぐに、金属扉の表面に電子回路を思わせる幾何学模様が浮かび上がって流れ去った。
無事に認証が終わり、音も無く金属扉が滑る様に開いていった。
無事扉が開いた事に精介はほっと息を吐き、表苑へと再び足を踏み出した。
表苑の食堂は、表苑の鳥飼部達の事務所として建てられている民家風の建物の中にあった。
その建物は奥苑の門から然程離れていなかった為、精介はすぐに事務所へとやって来る事が出来た。
外で作業をしていた表苑の鳥飼部達はTシャツ姿の精介を見て少し訝しそうにしていたが、屋敷の主である茂日出からの申し送りを思い出して一応は納得していた様だった。
先日のワイシャツにズボンという姿で自転車を押して奥苑へと移動していた精介の姿は多くの表苑の鳥飼部達も見ていたので、精介の今日のTシャツ姿もさして奇異なものには映ってはいなかった様だった。
「し、失礼しますー……。」
玄関の格子戸を開いて精介が中に入ると、土間や奥の部屋で昼休みらしき数人の老若の鳥飼部達が寛いでいた。
「はい。どちら様で……ああ!」
中に入ってきた精介の姿に気付いて問い掛けようとしたところで、若い鳥飼部は茂日出からの申し送りを思い出した。
そこに奥の廊下からやってきた小柄な鳥飼部が声を掛けてきた。
「ああ、山尻様!」
「あ、どうも。」
一応は見知った安吉の姿に精介もほっと安心して息を吐いた。
「先日は失礼致しました。当分は奥苑にいらっしゃるとか。」
にこやかに笑い挨拶をしてくる安吉へと精介も頭を下げた。
「あ、どうも……。えーと今日はこっちの食堂でお昼を食べようと思って……。」
「そうでしたか。食堂はこちらになります。ご案内致しましょう。――あ、履物はこちらでお脱ぎ下さい。」
安吉に促され土間の上り口の所でサンダルを脱ぐと、他の鳥飼部達に頭を下げながら精介は安吉の後に続いた。
流石に触れる事はなかったが、後に残った鳥飼部達は精介の脱いだ見た事の無い履物――サンダルを興味深そうにじっと見つめ続けていた。
◆
安吉に案内されて廊下を進んでいくと、食堂と書かれた木札が掲げられた一室があった。
食事を終えた者やこれから食べようとする者達が賑やかに出入りしており、そうした者達の間を小柄な安吉は縫う様にして進み入った。
精介も安吉の後に続いて食堂の中に入っていくと、丁度食事の乗せられた盆を持ってテーブルに歩いていく結三郎の姿が目に入った。
「結三郎さん!」
精介が思わず嬉しそうに声を掛けると、精介の姿に気付いた結三郎は少し苦笑気味な表情を精介へと向けてきた。
「山尻様が今日はこちらでお食事を取りたいとの事でご案内致しました。」
「そうだったのか。かたじけない。」
安吉の説明に結三郎は礼を言った。
「それではごゆっくり。」
「あ、有難うございました!」
礼儀正しく頭を下げ去っていく安吉に精介も慌てて頭を下げた。
安吉を見送ると結三郎は手近な席に盆を置き、精介に声を掛けてきた。
「色々と変わったものや珍しいものがある博物苑とはいえ、表苑でその恰好は少しばかり目立つなあ。」
大して咎めている口調ではなかったが、さっきの結三郎の苦笑は、精介が自覚無く自分の世界の衣服で博物苑の表苑にやって来た事に対してのものだった。
結三郎の言葉に精介は今更ながら、Tシャツにハーフパンツという恰好で表苑に出て来たのは迂闊だったかも知れないと気が付いた。
奥苑の本当の事情を知らされていない表苑の者達にとっては、塔京の一般市民程ではなくともやはり幾らかは物珍しいものとして感じられるものではあったのだった。
結三郎に言われてみて意識すると、確かに周囲の鳥飼部達は個人差はあるものの精介の着ているものを興味を持ってちらちらと見ている様だった。
「あ、ははは……。ど、どうも……。」
何となく誤魔化す様に笑い、精介は周りの鳥飼部達に曖昧な挨拶をした。
「まあ、シャツにズボンで自転車の若様だし、その衣服も今更だがな。」
「そ、そうっすね……。」
結三郎の言葉に今度は精介が苦笑を浮かべた。
「まあ、屋敷の外に出掛ける時には着替えた方がいいだろうな。」
「あ、はい。――ああ、こないだ力士長屋で貰った一郎さんのお古、ちゃんと用意しとくっす。」
先日の、精介が元の世界へと帰る時に八百屋の一郎夫婦から貰った着流しを精介は思い出していた。
「――では腹も減った事だし、食事にしようか。山尻殿もあそこの受付で取ってくるといい。」
結三郎は食堂のカウンターを指し示し精介へと軽く説明を行なった。
「あそこの受付の所に三枚貼り紙があるだろう。日替わり定食の説明が書いてあるから、どれか好きなものを選んで受付に注文するんだ。受付の隣に受取口があるから食事はそちらで受け取って――。」
おおよその仕組みは精介の学校の学食と同じ様な感じだったので、そう戸惑う様な事はなかった。
結三郎が説明している内にも一種類は品切れになったらしく、厨房の職員がカウンターの中から出て来て貼り紙の一枚を剥がしていた。
他のものも品切れにならない内にと精介は慌てて受付へと向かった。
甲と書かれた貼り紙には鳥の照り焼き定食とあり、乙の方は鳥つくね団子の味噌汁定食と書かれていた。
精介は甲の方を選んで注文する事にした。食事はすぐに用意され、窓口から差し出されてきたので受け取ると結三郎の所へと足早に戻ってきた。
「ではいただこうか。」
「いただきまーす。」
結三郎と向かい合わせに座ると、精介は箸を取って手を合わせた。
「そういや昨夜も鶏肉料理でしたね。」
油淋鶏の様な昨夜の料理を思い出しながら、精介は鶏の照り焼きを口に放り込んだ。
「まあ、鶏だけは沢山居るからな。」
つくね団子の味噌汁を啜り、結三郎は精介に軽く笑い掛けた。
「元々は冠西の京に置かれていた佐津摩藩邸で――。」
当時の佐津摩藩主が当時の京の美麗な鳥を飼育する風潮に反発して、食料調達の為に鶏を
飼育し始めた事や、その時の飼育係の呼称が鳥飼部である事等をざっと解説した。
「そうだったんすかー。」
鳥飼部の由来を聞きながら精介は食事を続けた。
半分程食べ終えたところで、精介はさっき奥苑の研究棟を出る時に頼まれた伝言を思い出した。
「あ、すんません。そう言えばさっき「門」のトコで鳥飼部の人から、メシが済んだら奥苑の広間に印刷物を取りに来て欲しいって……。」
精介の言葉に結三郎は頷いた。
「判った。しかしここのところ結構売れている様だな……。」
結三郎の独り言の様な呟きに精介が首をかしげると、
「ああ、印刷物というのはこの屋敷の会計係という部署で販売している活動写真の入場券とか、佐津摩藩の力士の絵姿とか――後は、活動写真の原作の絵本や何かで、有難い事に印刷する端から売れているんだ。」
「へえ~。」
活動写真というと昔の映画の様なものだと歴史の授業で聞いた様な覚えがあった。
それに佐津摩藩の力士の絵姿ならば結三郎のものもあるのだろうか――精介はそれらの印刷物に俄かに興味が湧いてきた。
「俺も運ぶの手伝ってもいいっすか?」
精介からの問いに結三郎は麦茶を飲んでから答えた。
「手伝うのはいいが、明後日から試験だろう? 今日も試験勉強を屋敷でしていくんだろう?」
「う……。」
結三郎からの言葉に精介は箸が止まってしまった。
「手伝ってから試験勉強します……。」
「そうか――そうだな……。私が向こうのものに興味がある様に、山尻殿もこちらのものは色々と物珍しいものな。」
会計係で売る印刷物に興味を持った様子の精介の気持ちを察し、結三郎は微笑んだ。
「ああ、運び終えたら私も試験勉強に付き合おう。」
「ほんとっすか!」
試験勉強とは言え結三郎と一緒に居られる事に精介は喜んだが……同時に苦笑いも浮かべてしまっていた。
昨日、興味深そうに精介の教科書を読み耽っていた中別府と同じ様な表情をしている事に精介は気が付いた。
結三郎の方も自身の言葉通り精介の世界のものに興味があり、精介にとっては面倒臭い試験勉強も結三郎にとっては楽しい異世界の探求の一環の様だった。
食事を終えて盆を窓口に返すと、精介と結三郎は奥苑に戻る事にした。
◆
「――そういえば試験勉強、教科書一冊丸々について出題という訳ではないのだろう? 何やら何処から何処までという書き付けが挟まっていたが、私にはよく判らなくてな……。」
奥苑に向かう途中、精介の隣を歩きながら結三郎がそんな事を尋ねてきた。
「あー、何かメモ書いて挟んだ覚えがあるけど……どうしたんすか?」
不思議に思いながら精介が尋ねると、結三郎は笑いながら頭を掻いた。
「あ、いや、昨日複写してもらった教科書、早速少し読んでみたのだが判らない事も多かったので尋ねたかったんだが……試験の範囲のところならば尋ねても試験勉強の邪魔にならないかと思ってな。」
結三郎の気遣いに精介は温かな笑みを向けた。
「他の箇所でも大丈夫っすよ……。って言っても俺、あんまし勉強出来る方じゃないんで結三郎さんに教えられるかどうかは判らないっすけど……。」
「構わないさ。山尻殿が判るところだけでも……。」
そんな事を話している内に二人は奥苑への金属の門の所へと戻って来た。
扉を開けようと結三郎が手を翳しかけたところで、ふと精介が何か思い出した様に声を上げた。
「あ、そういや結三郎さんて今日も博物苑の仕事というか勤務なんですよね……? 勤務時間中に俺の試験勉強に付き合ってもらうのってまずいんじゃ……。」
結三郎の博物苑鳥飼部という身分の一つを思い出し、精介は申し訳無さそうに坊主頭を掻いた。
しかし結三郎は精介の不安そうな問い掛けに笑いながら答えた。
「ああ、心配無いよ。今日は……というか、ここのところずっと午前は表苑で、午後からは奥苑勤務や相撲の稽古という感じで予定が組まれている。だからまあまあ午後は融通が利くんだ。」
「そ、そうなんすか。」
結三郎の答えに精介は安堵の息を吐いた。
結三郎がいつもの様に扉に触れると滑る様に開き、二人は奥苑へと足を進めた。
「まあ、融通が利くと言うか――色々と義父上からあれこれ用事を言い付かる事も増えたので奥苑に居た方が都合がいいんだ。山尻殿の世界と日之許を繋いだ件について奥苑の主だった者達が掛かり切りになっていて忙しくなっていてな。」
「へえ~……。」
結三郎の説明に精介は実感がないまま相槌を打った。
精介は「門」を気儘に思い付いた時に潜って日之許と行き来しているだけだったが、茂日出や帝達からすると、「門」に関連した様々な事柄を調べたり研究したりとやる事が多い様子だった。
「人手が足りなくなっているので秘密を守れて優秀な人材を表苑から奥苑に何人か異動させようかと義父上は考えているらしい……。」
「へえ~。何か大変なんすね……。」
そんな呑気な言葉を返し、精介は結三郎と並んで歩きながら奥苑の広間へとやって来た。
先に結三郎が広間の引き戸を開いて中に入ると、中央の円卓で書類を片付けていた鳥飼部の老女が結三郎と精介の姿に気が付いた。
「あら、結三郎様に――まあまあ、自転車の若様。」
少しからかう様な声音ではあったが優しく微笑みながら彼女は精介を見た。
彼女も先日の、自転車を押して博物苑の敷地を通っていく精介の姿を見ていた様だった。
「今日は自転車は持って来てはいないのですね。少し残念ですわ。」
彼女はそんな事を言いながら何枚かの書類を封筒に入れ終わると、部下らしき年若い鳥飼部に手渡した。
広間に居る他の老若様々な鳥飼部達も、彼女と似た様子で精介の自転車には興味を抱いている雰囲気だった。
「ハハ……。すんません。また近い内には……。」
曖昧に笑いながら精介は答えた。
「えーと、それで、会計係の所に持って行くという印刷物は……?」
鳥飼部達の様子に少し苦笑を浮かべながら結三郎が問い掛けると、広間の一隅で小振りの荷車に紙箱を積んでいた別の若い鳥飼部が顔を上げた。
「こちらでございます。結三郎様。」
「かたじけない。」
礼を言って結三郎が荷車の方に向かうのに精介も続いた。
印刷物――入場券や絵姿、絵本等は既に厚紙で出来た箱の中に収められていて紐で括られていた。
小振りの荷車は車輪に至るまで硬質の木で出来ており、屋内であっても重く、ガタガタと揺れて動かしにくそうだった。
「あー……こっちはまだゴムのタイヤとかダンボール箱は普及してないんでしたっけ……。」
思わず漏らした精介の呟きは、結三郎も含めた広間全員の注目を集めていた。
「どの様な物か少し教えてもらえないかしら。」
先程の老女の鳥飼部が皆を代表するかの様に、懐紙と細筆を手に精介のところへと歩み寄ってきた。
「あー……えーと。」
優しく上品な物腰の穏やかなお婆さんと言う様な印象を精介は抱いたが、その優しく微笑む瞳にはやはり鳥飼部らしく精介の世界の事物への好奇心が輝いていた。
「えーと、えーとですね……。ゴムっていう柔らかいけどそれなりに固い材質でタイヤが覆われてて……。」
彼女や周囲の鳥飼部達からの好奇心による圧力にたじろぎながら、精介はリヤカーやダンボール箱を思い出して何とか説明を始めた。
ついには懐紙と筆を押し付けられ、たどたどしくはあったが図解やメモ書きを精介は何とか書き上げた。
「成程ねえー。紙を貼り合わせて構造物を作るのねえ。折り紙や紙細工はあったのにそっちの方向への思い付きが無かったわね。」
ダンボール紙の説明を書いたものを手に老女は感心の言葉を漏らした。
リヤカーの方の説明書きは他の鳥飼部達が手にして熱心に覗き込んでいた。
「ダンボール箱なら俺の部屋にあるんで、また今度にでも持って来ます……。」
「まあ、それは助かるわ。見本があれば証宮の図書館でも検索がし易くなるわね。」
精介の申し出に老女が微笑んだ。
「身近な道具や品物だと、一度定着してしまうと少々不便であっても現状維持が続いてしまう事も多いですからなあ……。」
「うむうむ。それに証宮の図書館も大量の知識が溢れ返ってはおりますが、それ故に漠然としたものを調べたり探したりするのは難しゅうございます。」
リヤカーのメモを覗いていた白髪交じりの中年男性の鳥飼部達もお互いにそう言い合いながら頷き合っていた。
「あー……。ネットで何か検索するって言っても、何かキーワードとか取っ掛かりが無いと調べようが無いっすよね……。」
鳥飼部達の会話を聞きながら、精介も自分の世界の事柄に置き換えて証宮離宮殿図書館の事情を何となく理解した。
「――運搬の道具に関する事、それからゴム――ゴムノキとかいう植物の方から調べれば良さそうね。ダンボールの方も紙製品に関する事を調べれば……。有難う自転車の若様。明日にでも何人か引き連れて証宮の図書館で調べてくるわ。」
嬉しそうに楽しそうに精介へと老女は礼を述べたが――少し前の結三郎との会話で奥苑も人手不足気味と言っていた事を精介は思い出していた。
そんな中で更に余計な仕事を増やしてしまい(彼女等は楽しそうではあったが)、精介は少し申し訳無い様な気持ちになってしまった。
「証宮で調べる為の手掛かりが出来た様で良かった。かたじけないな山尻殿。」
傍らの結三郎からも改めて礼を言われ、精介は照れ臭くなり少し俯いてしまった。
「いやそんな、知ってるコトを話しただけだし……。」
「そうやって話をしてくれる事が有難いんだ。話をしてくれたお陰で、いずれ近い内にこの荷車ももっと扱い易いものへと進歩するだろうしな――まあ、今日のところは旧型のこれで運ばねばならんが。」
結三郎はそう言って軽く笑い、荷車の引き手に手を掛けると荷物を運び始めた。
精介は広間の鳥飼部達に頭を下げて挨拶をすると、広間を出て行く結三郎の後を追った。
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