高縄屋敷博物苑「委細之記部(いさいの しるしべ)」
第三話みっつめ、しるすこと 「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」其の一 結三郎の写真を上手く撮れず精介が咽び泣くに就いて記す事
第三話みっつめ、しるすこと 「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」其の一 結三郎の写真を上手く撮れず精介が咽び泣くに就いて記す事
第三話みっつめ、しるすこと
「銭金の工面に悩む内、行事催事多き夏を企てるに就いて記す事」
「其の一 結三郎の写真を上手く撮れず精介が咽び泣くに就いて記す事」
七月五日の県の相撲大会は、精介の所属する新川大学付属高校相撲部は第三位という結果を収めた。
例年よりは少しだけ良い成績を残し、その心地良い余韻を味わいながら、精介達相撲部員は夏休み前の学期末試験でも良い成績を残すべく部室で勉強に励んでいた。
「――すみません。ここのトコの読み方が…。」
「どれどれ。」
期末試験まで一週間。学校の決まりで試験前は全ての部活動は休みになっており、生徒達は試験勉強に励まなければならない事になっていた。
精介達は試験前の自主勉強会と言う事で、教科書や参考書を一揃い持参して毎日部室に集まっていた。
稽古場の土俵の横にビニールシートを敷いて、その上に卓袱台二つとユニット式の畳シートを設置した場所に陣取って今日も精介達は勉強に励んでいた。
「――疲れた~。めんどくさいッス。」
取り敢えずは一区切り終えたらしい二年部員の新主将・高城が大きな図体で大きな溜息をつくと、教科書を閉じてその場に寝転がった。
「おー。お疲れ。」
別の部員の勉強を教えていた監督が苦笑しながら高城の寝そべった様子をちらりと見た。
「ホントめんどくせええ。俺等は大学受験と無縁なんだからもう少し手加減して欲しいよなあ。」
精介の隣に座って一応は真面目に教科書とノートを広げている上西も、数ミリ伸び掛けた坊主頭を掻きながら、高城に同調して溜息をついた。
精介と上西は他の大学は受験せずに付属高校からの持ち上がり進学を希望しており、既に申請の手続きも行なわれていた。精介の世界の日本でも少子化は進みつつはあったもののまだ深刻な状態ではなく、進学の為の受験は幾らかは厳しい競争を勝ち抜いていかなければならなかった。
精介達については、世の中の大学受験勉強程には厳しく勉強に励まなければならないと言う事ではなかったものの――しかし持ち上がり進学の審査の際には、在学中の普段からの素行や成績を総合的に判断されるとあり、決して審査が甘いという訳でもなかった。
普段から学生生活を真面目に過ごし勉強も頑張っていないと、進学考査試験の時だけ良い成績を取ったとしても審査に弾かれる例もあったのだった。
「――おーし。今日の分終わり。」
問題集の予定していたページ数の分を解き終わると、精介はほっと一息ついて顔を上げた。
それから休む間も無く学生鞄の中からスマートフォンと小冊子、そして十数枚のプリントを綴じた物を取り出して試験勉強よりも熱心に読み始めたのだった。
「何を熱心に読み込んでるのかと思えば、スマホの説明書かよー。」
上西が隣から精介の手元を覗くと小冊子はスマホの購入時に付属している簡易解説書で、プリントを綴じた物の方はメーカーのホームページに掲載されている製品の詳細な説明書だった。
精介はわざわざダウンロードした物を印刷して持参してきたのだった。
「試験勉強よりも余程勉強熱心だな…。」
精介の熱心な様子に監督は呆れながらも感心していた。
「ホント、今まで家に置きっ放し当たり前だったヤツがどうしたんだよ。」
「あー…、まあ、ちょっとな。」
上西のからかいの言葉にも、精介は生返事をしながら説明書を読んだりスマホの設定画面を開いたりして今更ながら操作方法を一から勉強していた。
精介の特に勉強している箇所はスマホで写真や動画を撮る機能のページだった。
「えーと……? インカメラとアウトカメラの…?」
先日の日之許からこの世界に帰還を果たした時の――結三郎を自宅に迎え入れた時にスマホで結三郎をきちんと撮影出来なかった後悔を、精介は何度も思い返しながら説明書を熱心に読み込んでいた。
◆
あの日、高縄屋敷に設置された時空の穴を固定した「門」を潜って精介は元の世界へと帰ってきた。
自転車も向こう側から押し出されて無事に戻ってきた後に、暫くして結三郎も「門」の中から姿を現した。
屈んでいた態勢からゆっくりと立ち上がり、精介の姿を認めると結三郎は笑みを浮かべた。
自分の目の前に立ち上がったばかりの、夜の町の街灯に照らされる結三郎の姿に精介は妙な感動を覚えていた。
鳥飼部の白い作務衣に帆布の四角い肩掛け鞄といった結三郎の格好は、この世界では少しだけ風変わりに見えない事もなかったが、もし近くに寺社があればそう違和感がある様なものでもなかった。
「きちんと帰れて良かったな。」
精介が無事に元の世界に戻った事を喜びつつ、結三郎は辺りの様子を物珍しそうに見回していた。
「は、はい!」
精介は帰って来れた喜びと、目の前に結三郎が居る嬉しさとで元気良く返事をした。
結三郎が作務衣姿で、街灯の光を浴びながら舗装された道の上に立っているという様子に、日之許との繋がりがきちんと存在しているのだと実感し、その嬉しさがいつまでも胸の中で踊っていた。
二人がそんな遣り取りをしている近くを、会社帰りらしい半袖のワイシャツに緩めたネクタイをした痩せた中年男が通り過ぎた。
結三郎にとっては不意打ちの、初めての異世界人の接近に知らず緊張した様子で立ち尽くしてしまっていた。
だが、中年男は大して結三郎に関心を示さず、ちらりと一瞥しただけで何の関心も不審感も持った様子も無く通り過ぎていった。
中年男が去ってしまっても結三郎はまだ少し緊張した表情で、傍らに居る精介に問い掛けた。
「私の着ている物とか、大丈夫だっただろうか……? 違う世界の衣装だと不審に思われたりとかは…。」
生真面目な様子で尋ねてくる結三郎の表情に少し見惚れながらも、精介は安心させる様に微笑み掛けた。
「あ~、大丈夫っすよ、そんなに心配しなくても。こっちの世界でも寝間着とか部屋着代わりに作務衣着てる人も居るし。たまにコンビニとかスーパーとかに作務衣で買い物に来てる人とかも見掛けるんで、そんな、不審者ってコトはないっすよ。」
精介の説明に結三郎の太い眉が幾らか下がり、緊張も緩んだ様だった。
「そ、そうか…。だといいのだが。」
精介は近くの塀の前に停めていた自転車を動かし、結三郎を振り返った。
「取り敢えず俺の家……ていうか、マンションに帰りましょう。こっから真っ直ぐ行ったトコっす。」
「ああ。そうだな。」
結三郎は自転車を押し始めた精介の横について歩き始めた。
「――マンションというと長屋の様な集合住宅らしいな。」
「そうっすね。まあ、その、建築素材とか何か色々、日之許の長屋とは違うっすけど。」
傍らを歩く結三郎へと答えながら、精介はほんの今朝方まで世話になっていた力士長屋の様子を思い返していた。
「そうだろうなあ――。」
しかし結三郎は精介の返事にも何処か上の空で、夜の住宅街の路地の様子を目を輝かせて見ながら歩いていた。
草履の下に固い感触を伝えるアスファルトの舗装も、建ち並ぶ民家のブロック塀やフェンス、家々から漏れ聞こえる話し声やテレビの音、飼われている犬の鳴き声――何もかもが結三郎にとっては初めてのものばかりで興味を惹かれるものばかりだった。
精介が日之許に来た時とは逆の立場となった今は、結三郎は異世界にやって来たという実感と感動を強く感じていた。
マンションまでの短い道中の間にも、楽しそうにあちこちへと目を向けている結三郎の様子を精介は自転車を押しながら微笑まし気に眺めていた。
「何か気になるモンとかあったら何でも訊いて下さいね。俺で判るコトだったら…。」
精介の言葉に結三郎ははっと振り返り、申し訳無さそうに頭を掻いた。
「す、すまない。つい色々と夢中になってしまった。家に急がねばならんのにな…。」
「ほんとはこのまま色々一緒に出掛けたい位なんすけどね。」
精介が結三郎にそう声を掛けたところで、すぐ近くの家のガレージのシャッターが上げられるガラガラという大きな音が辺りに響いた。自動開閉ではなく手動式だった様で、シャッターを上げた後に車に乗り込む音が意外と大きく精介達の所まで聞こえてきた。
「!?」
結三郎は通り掛かった家のガレージから突然大きな機械の唸る様な駆動音が鳴り響いた事に驚き、体を大きく震わせた。
それからすぐに明るい光が灯され――その明かりもまた日之許での日常生活では見た事も無い様な強く輝くもので、結三郎は目の前を大きな金属の塊が走り去っていくのを呆然と見送っていた。
精介にとっては誰かが何かの用事で夜間に車で出掛けたのだろう、という程度の気に留める様な事ではなかった。
しかし結三郎にとっては、生まれて初めて目の当たりにした自動で走る実用的な機械装置の姿であり――。実の父が幼い結三郎に寝物語として語っていた、父の元の世界の文明の産物を今更ながら思い返していた。
黒い柔らかい物で出来た車輪に支えられた鉄で出来た荷車が、牛馬や人間に牽かれる事も無く自力で往来を走っていく――。
「ああ、自動車っすね。流石にまだ日之許には無いっすよね…。」
走り去っていった自動車をいつまでも見送っている結三郎の側に立ち、精介はそっと声を掛けた。
精介の声に結三郎は振り返り、何処か満足そうに小さく笑みを浮かべた。
「あ、すまない。つい立ち止まってしまって。――いや、父上の元の世界の話を思い出してしまってな…。」
再び歩き始めた結三郎の横を歩きながら精介は、結三郎の実の父が精介と同様に日之許とは違う世界から日之許へと迷い込んで来た人間だった事を思い出した。
結三郎の実父・喜一郎の元の世界も、人種や言語、当時の衣類や持ち物から、精介の住んでいる様な現代日本型の並行世界だと茂日出達は推測していた。
「自動車も奥苑の資料で見た事はあったんだが――やっぱり、日常のものとして使用されている様子を目の前で見る、というのはまた感動が違うものだな……。」
実父への思いや、知的好奇心等、様々な思いをしっかりと噛み締める様にして、結三郎は満足気に呟いた。
「そうっすね…。」
精介は結三郎のそんな様子に温かい眼差しを向けた。
「あ、世界によっては自動車の運転免許は十八歳から取得出来ると資料にあったのだが――、と言う事は私も身元証明の問題が何とかなれば免許を取れるのだな……。」
結三郎は時々さっきの自動車が出ていった家のガレージを振り返りながら、ふと楽しそうにそんな空想を口にした。
「そうっすね。俺の世界も免許取得は十八からなんで、先輩とかは高校卒業の年の冬休みとか春休みとかに免許取ったって話も聞いたっす。中には短期集中合宿免許とか言って、観光地とかリゾート地の自動車学校に泊りがけで……。」
「何と、その様な面白そうな制度があるのか!」
精介の説明に結三郎は楽しそうに目を輝かせた。
更に色々と尋ねたそうに結三郎は口を開き掛けたものの――今更ながらはっとして姿勢を正した。
「す、すまない。今日はゆっくりしている暇は無かったのにな。つい、色々と……。」
そう言って歩みを少し早め始めた結三郎の後に続きながら、精介は楽し気に結三郎の後ろ姿を見た。
「全然大丈夫っすよ。別に寄り道してる訳じゃないし。――て言うか、結三郎さんに頼られるのが嬉しいんで、もっと色々質問してくれていいっすよ。」
日之許で世話になった時の結三郎は、一つ年上のしっかり者の青年という印象が精介にとっては強かった。
「そ、そうか…。いや、今日は程々にせんとな。」
だが、今の好奇心に目を輝かせ、異世界の様々なものに目移りしている結三郎の様子は、精介にとってはとても愛らしくたまらないものとして見えていた。
そんな自分を温かく見守っているかの様な精介の視線に気付いたのかどうか、結三郎はいつもの生真面目な表情を取り繕い、精介にしっかりとした口調で告げた。
「帝も仰っていたしな。面白い物ばかりあるのだろうが、寄り道せず速やかに帰る様にと。じっくりとした探検はこれからいつでも出来るしな。」
「そうっすね。」
本音のところではあちこち寄り道して見て回りたいのだろう。結三郎のそんな強がる様子もまた精介にとっては可愛らしく微笑ましいものとして映っていた。
――そうして、マンションまで短い距離ではあったが意外と時間の掛かった道中を経て、精介と結三郎はマンションの前まで帰ってきたのだった。
◆
赤茶けたレンガ模様の外壁と深緑色のガルバリウム合金の屋根の三階建ての小さなマンションは、夜も更けた今は薄明るい街灯の光の中で静かに佇んでいた。
「――これがマンションとやらか…。」
精介と共に敷地内の自転車置き場へと向かいながら、結三郎はしきりに感心しながらマンションの建物を見上げていた。
三階建てで部屋数もそう多くない小さなマンションであっても、日之許の感覚からすると大層な屋敷の様にも見えるものだった。
精介は自分用の駐輪場所に自転車を押し込むと、さっと鍵を掛けてポケットに仕舞った。
そうして精介は精介で、僅かの間、自分の自転車を何処か労うかの様に見つめていた。一緒に異世界――日之許へと転移してしまい、長屋の木戸をこれに乗ったまま突き破ったり、力士長屋の子供達や明春、祥之助達を乗せて歩いたりした事を思い出し、何となく一緒に長い旅をした相棒の様にも思えてしまっていた。
「おお! 何と自転車がこんなに沢山!」
精介の背後で結三郎の嬉しそうな声が上がった。
ママチャリに、スポーツバイク、電動自転車――基本的な車体の構造は同じでも、様々な色や形、大きさの違う自転車が整然と駐輪場に並んだ様子に結三郎は見入ってしまっていた。
「あ、こっちの自転車?は、何だかごつくて大きいな……。山尻殿、…こちらも……自転車、なのか?」
余り質問攻めにしてはまずいと思っているのか、おずおずと遠慮がちにしつつ、結三郎は自転車の並ぶ場所とは反対側の場所に並ぶ乗り物を指差して問い掛けてきた。
「あー、そっちはバイクとかスクーターっていう乗り物っす。えーと、さっきの自動車みたいにガソリン……油?とかの燃料を使って、自転車みたいに乗ったまま自動で走り出すって言うか…。」
精介の大雑把な説明でも結三郎は基本的な事は理解出来、自転車の様な乗り物が自動で走り出すという事に驚いていた。
どっしりとした体を屈めてスクーターを間近で覗き込んでいる結三郎の様子を見ながら、精介はふと、今更ながら――結三郎自身はまだ自転車に乗っていなかった事に気が付いた。
「――そうか。自動車の様にひとりでに走る自転車か……。義父上や帝が見たら大喜びだな……。」
そんな独り言を楽し気に漏らす結三郎の背に、精介は何となくさっき気が付いた問いを発してみた。
「あ、そういや結三郎さん、日之許で俺の自転車、ちゃんと乗ってなかったんじゃ……。すんません、俺、気が回ってなくて。」
茂日出公や帝が自転車やバイクを喜ぶと――そう言葉にしている当の結三郎自身が楽しそうに自転車やバイクを見つめているのだ。結三郎が自転車に乗りたいと思わない訳がなかった。
精介の言葉に結三郎は屈み込んだまま顔を上げ、少し困った様に太い眉を寄せながらも笑みを浮かべた。
「いや……。ハハ。そうだな。日之許では結局乗りそびれてしまったな。まあ確かに正直なところ、私も乗れたら乗りたかったが、皆を優先させたかったしなあ。」
のろのろと立ち上がりながら結三郎は駐輪場の自転車やバイクを見渡した。
「私は奥苑の資料でいつでも自転車や自動車を見る事は出来るので、普段縁の無い長屋の子供達や明春殿の様な人達にこそ、自転車の様な頒明解化の産物に触れて欲しかったんだ。」
「結三郎さん……!」
結三郎の優しい気遣いの言葉に精介は胸を打たれ、少し涙ぐんでしまっていた。
「流石に今日は無理っすけど、また日之許に自転車持って行くんで、そん時は思いっ切り乗って下さい!!」
思わず結三郎の手を握り精介はしっかりと宣言した。
結三郎も精介の厚意に微笑みを返し頷いた。
「かたじけない。その時は自転車を独り占めさせてもらおうか。」
「は、はい!」
冗談交じりにそう言う結三郎の笑顔をいつまでも見ていたいと思いながらも、精介は名残惜しそうに手を放し、スポーツバッグを背負い直した。
「あ、じゃあ部屋に行きましょうか。――こっちっす。」
精介は結三郎を促し、駐輪場を出ると階段の方へと向かった。
二階に上がったところで、コンビニのレジ袋を手にして三階に上がろうとしている祖父の弟――おじさんの小柄な姿が精介の目に入った。
精介の住む小さなマンションは、精介の亡父の親――精介にとっては父方の祖父の、その一番下の弟が所有し、運営管理しているものだった。精介が高校進学にあたり一人暮らしを始める際に、一室空きがあるからと入居を勧めてくれたのだった。
「ん? 今頃帰宅かい? あんまり感心しないなあ。」
祖父の弟――おじさんの方も精介の姿に気が付き、階段の途中で足を止めた。
父方の祖父の弟――という、いまいち遠いのか近いのか判りにくい位置の親戚ではあったが、高校入学以来、精介の生活をそっと見守り続けてくれていた。呼び方も面倒だからとおじさん呼びでいいと、意外と大雑把なところもあった。
「す、すんません……。えーと、こんばんは…。」
おじさんの苦笑交じりの様子に精介も申し訳無さそうに挨拶を返した。
「珍しいね。こんなに遅くに帰るなんて。――ん? お友達かい?」
「あ、はい。――えーと……その、相撲部の先輩で。」
おじさんが結三郎の姿に気付き、軽く会釈した。精介は何と答えたものかと一瞬悩んでしまったものの、取り敢えず無難そうな紹介をして誤魔化した。
「……島津結三郎です。」
結三郎もなるべくボロを出さない様に口数少なく頭を下げた。
「そうか、相撲部の……。精介君が世話になってるね。僕は山尻与四昭(やまじり よしあき)。精介君の大叔父に当たる。精介君の事を宜しく頼むよ。」
「は、はい。こちらこそ宜しく御願い致します。」
生真面目な表情でおじさん――与四昭氏に結三郎は頭を再び下げた。
「じゃあおやすみ。明日も学校だろ? あんまり夜更かしするんじゃないよ。」
特には結三郎を不審がる様子も無くおじさんは精介に笑い掛け、階段を上っていった。
おじさんが去っていき、精介も結三郎もほっと息を吐くと二階の廊下を歩き始めた。
「あーびっくりした。おじさんこそ年寄なのに意外と夜更かししてるよな~。」
恐らくまだ三階の廊下を歩いているだろうおじさんに聞こえない様に、精介は小声でそっと呟いた。
「大叔父上殿だろう? 親戚の間柄はきちんと覚えておかねば集まりの席等で御互いに恥を掻くし、場合によっては揉め事の元だぞ?」
精介のすぐ後ろを歩きながら結三郎はいつもの調子で生真面目に指摘した。
前藩主の養子とはいえ、親戚間の身分や立場、関係性を意識して覚えていなければならない世界で生活している結三郎にとっては、祖父の兄弟程度の親戚では覚えるのがややこしい内には入ってはいなかった。
「あー、オオオジウエなんすね……。」
叔父と伯父の漢字で書いた時の違いも曖昧な精介にとっては、祖父の兄弟を正式にはどう呼ぶのかすらろくに覚えてはいなかった。
「――と言うか、明日も学校だと言うじゃないか。朝も早いんじゃないのか? 手早く用事を済ませよう。申し訳無かったな。」
結三郎は精介の肩を軽く叩き、部屋への歩みを急かした。
結三郎と過ごす時間を少しでもゆっくりと長く取りたかった精介は、大きく頭を横に振って言い訳をした。
「あ、いや! そこまで慌てて頑張らなくても大丈夫っすよ。朝もちゃんと起きれるし……!」
「いやいや。こちらの世界の事情はよく判らないが、それでも学校できちんと勉強をすると言うのが大事なのは変わらないだろう。勉学を疎かにしては良くないぞ。」
堅苦しく生真面目ないつもの調子で精介を説得してくる結三郎の様子もまた、精介にとっては好ましく心がときめくものだったので言い返す事も出来ず、精介は渋々頷き返した。
「は……はい……。」
そんな話をしている内に精介は自分の部屋のドアのところに戻ってきた。
結三郎からの説得を残念に思いながらも、ドアの鍵を開けると結三郎を玄関へと招き入れた。
センサー式の小さな明かりが灯り、サンダルやスニーカーを脱ぎ散らかした玄関を照らし出した。
精介にとっては一週間振りの自分の部屋だったが――この世界では精介は十四分間しか行方不明にはなっておらず、今朝家から出掛けた時と何一つ変わった様子も無かった。
帝が言っていた通り、精介は今日は自転車で寄り道をしていて色々と遠回りをしてしまい、いつもよりも帰宅するのが遅くなってしまった――それだけの事に収められていたのだった。
「あ、ちょ、ちょっとだけ待ってて下さいっす。ゴミとか片付けるんでっ。」
狭い玄関に、決して肥満体ではないもののがっしりとした体格の相撲取り二人が立っているとかなりの窮屈さがあり――精介自身はその結三郎との圧迫感を味わっていたくもあったが、取り急ぎ部屋の中の簡単な片付けを済ませようと先に中へと入っていった。
ごみ屋敷と言う程にはひどくはなかったが、小さなテーブルの上に置きっ放しの空の菓子袋や弁当、ペットボトル等をささっとゴミ袋に放り込み、床の上のダイレクトメールやチラシ等を部屋の隅に押し遣った。
玄関から精介の慌てて動いているそんな様子を眺めながら、結三郎は気を遣わない様にと声を掛けた。
「私なら気にしないから、程々でいいよ。男の一人暮らしの部屋なんて乱雑なのが相場だろう。高縄屋敷に通いで来ている侍やお抱え力士達の長屋なんてゴミ捨て場といい勝負だったぞ。」
佐津摩藩のお抱え力士達と比べると、ボロくはあってもきちんと片付いた力士長屋の明春の部屋は住み心地が良い方なのだろう。
流石に極端な例を出されても……と、結三郎の言葉を背に聞きながら、精介は一先ず大雑把に片付けを終えた。
「さあ、ど、どうぞ……。」
精介の言葉に結三郎はさっと草履を脱いで足早に部屋へと上がってきた。異世界の集合住宅の様子を観察するのが待ちきれなかった様で、その目の輝きはさっきのマンションに帰宅する途中の町のあちこちを見つめていた時と何一つ変わっていなかった。
「お、お邪魔する……!」
玄関から短い廊下に入ると、すぐ右手には浴室とトイレの扉が順に並び、真っ直ぐ進むと台所――六畳程の広さのダイニングキッチンがあった。その更に奥は木目の引き戸があり、そこは精介の寝室になっていた。
結三郎が嬉しそうに台所の流し台や冷蔵庫、電子レンジ等を見回している様子を、精介もまた感動しながら眺めていた。
先程の街灯の下で立っていた結三郎の姿を見た時と同様に、日之許からこの世界へと本当に結三郎がやって来て、自分の部屋の中で過ごしている――精介はいつまでもその様子を見つめていた。
「――あ、いやその。「門」を何処に設置しようかと思ってな……。」
精介からの眼差しをどう解釈したのか、結三郎は慌てて言い訳めいた言葉を口にし、帆布の肩掛け鞄を軽く叩いた。
「あ、そうっすね。そうでした……。」
忘れかけていたがそもそも今日は精介を元の世界に帰す事と並んで、時空の穴の「門」を設置する事も大きな用事の一つだった。
「流石に寝室は色々と個人的領域だからまずいだろう。やはりこの台所の何処かか、少し狭いが廊下の途中の壁か――。」
結三郎の言葉に精介も軽く頷いた。
個人的領域――年頃の男子としては風呂やトイレの最中に「門」から訪問者が来られるのは困るし、一人相撲の真っ最中に来られるのは最も困る事だった。
「そうっすね。帰って来た時の「門」を潜った時の屈んだり立ち上がったり、何やかんや動いた時のコト考えると、廊下よりは台所の隅っこの壁とかの方がいいんじゃないすかね。」
一応は真面目に考え、精介は結三郎と共に台所を見回した。
六畳程の広さの台所は真ん中に二人掛けの小さなテーブルが置かれ、壁際に流し台やガス台が据え付けられていた。
精介はガスの契約はしておらず、ガスコンロを本来設置する場所に電子レンジを置いていた。
流し台の端には高さ九十センチ程の中型冷蔵庫があり、小さな駆動音を放っていた。
それ以外には食器棚代わりの小さなカラーボックスがあるだけで、廊下から台所の中を見て死角になる方の壁には特には家具等も無く、「門」を設置するならばそこが一番良さそうではあった。
精介の指摘に結三郎も納得し大きく頷いた。
「よし、「門」はここにしよう。」
結三郎は頷くと台所の隅に屈み込んだ。
帆布の肩掛け鞄から幾つかの道具を取り出しながら、精介の方を振り返ると軽く笑い掛けた。
「ああ、義父上達には、山尻殿の世界に用事がある際には、まず何かしらの先触れの手紙を必ず書く様に言っておくから安心してくれ。」
いつもの水晶製の大きな釘や、巻き尺等を手にしながら、
「何日後の何時頃に出向くとか何とか、予め手紙を書かせて、「門」からこちら側に押し出す様に言い聞かせておくから。山尻殿の規則正しい生活は守らねばな。」
「あ、有難うございます。そうしてもらえると助かるっす。」
結三郎の言葉に精介も安堵の息を吐いた。
結三郎だけでなく精介も、茂日出や帝が異世界の探検についてかなりの熱心さを持っているのはよく判っていた。
彼等自身や命令を受けた鳥飼部達が毎日の様にやって来かねないというおそれは充分にあった。
「――ゆ、結三郎さんだけなら、毎日来てくれてもいいんすけどね。」
冗談にかこつけて本気の思いを精介は口にしてみたが、水晶の釘を手に何かしら調整作業をしている結三郎はそのまま冗談だと受け取った様で、軽く笑うだけだった。
「ハハ…有難い事だ。それは嬉しいな。」
結三郎のがっしりとした背中を眺めながら、本気にしていない様子に精介は不満気に口を尖らせた。
そうする内にも台所の壁の一隅に二個の長方形の小箱が設置され、それぞれに一本ずつ水晶の釘が挿入された。
巻き尺で測り、お互いに百三十五センチ離した位置で小箱を置いてスイッチを押すと、床の上に吸着して起動し始めた。
数分の内に両方の小箱からいつもの薄青く揺らめく光の幕が立ち上がり、日之許の世界と繋げられた時空の穴が現われた。
「無事繋がったすか?」
精介も結三郎の隣に座って青い光の幕へと目を向けた。
「ああ、繋がり始めた。でもいつもと違って時間が掛かるみたいだ。――ここにずっと長期間安定的に穴を開ける訳だからな。色々と手間が掛かるみたいだな。」
片手に持つ和綴じ本を開き、中の板状携帯端末機械の示す様々な計測数値を横目に結三郎は「門」の様子を見守っていた。
「そうなんすか……。」
結三郎の真剣な様子に見惚れながら、精介は結三郎の手にした板状の端末機械を見て不意に、ベッド横のサイドボードに置きっ放しにしていた自分のスマートフォンの事を思い出した。
「あ!!」
精介は思わず声を上げ、結三郎の邪魔にならない様にそっとその場から離れると引き戸を開けて寝室へと飛び込んだ。
「どうしたんだ?」
「いえ、何でもないっす。」
結三郎の問いにそう答えながら、精介は慌てて充電スタンドからスマホを掴み上げると再び結三郎の横へと戻ってきた。
日之許で昨夜、これっきりで結三郎達とお別れなのだとまだ思い込んでいた時に、スマホやデジカメがあれば記念写真を撮りたかったと考えていた事を精介は思い出した。
こうして時空の穴の「門」も開通し、日之許と行き来出来る様になったとは言え――それはそれ、これはこれ、と、精介は結三郎の写真を自分の手元に残しておきたかった。
「あ、えーと、これ、俺の世界の通信機器で、写真も撮れるんすけど、結三郎さんの写真撮らせてもらってもいいっすか?」
スマホを握り締め、勢い込んで結三郎に問い掛けてくる精介の必死の様子に、結三郎も思わず腰が引けてしまっていた。
「あ、ああ、それは構わないが……。」
「有難うございますっ!」
結三郎の何処か引き気味の返事にも精介は笑顔で頭を下げ、早速スマホのスイッチに触れた。
当然の事ながら充電は完了しており、時計が大きく表示された画面の片隅には100%という数字があった。
だが――。
「あ、ええと……。」
同じ相撲部の部員達が見たら絶対に苦笑しながらも軽くからかわれるに違いない――精介は今までの生活で余りにもスマートフォンを初めとする電子機器の利用に興味が薄く、ろくに使った事が無かった。
精介は一瞬、使い方が判らず硬直してしまい、画面を睨む様に見つめていた。
電話としては使った事はあり、昔ながらの古風な黒電話のイラストのアイコンを触ればどうにかなるというのは辛うじて理解していた。
付き合いでインストールした無料版ゲームの美少女の顔のアイコンや、相撲部の連絡事項の遣り取りで使う通信アプリ「FINEアプリ」のFをデザイン化したアイコン――他に精介が判りそうなものはその程度だった。
もしかしたらスマホが無くても似た様な機械を使いこなしている結三郎の方が、もっと理解して使用出来るかも知れなかった。
「うう……。」
スマホを見つめたまま唸っている精介の様子に、流石に結三郎も心配気な目を向けた。
そうする内にも時空の穴の「門」の装置の方は安定して動き始めた様で、薄青い光の幕の向こうに奥苑の研究室の様子がうっすらと見え始めていた。
装置が安定し始めた気配を精介も感じ取り、ますます焦りを感じながらも――何とかカメラらしきアイコンを発見し、カメラ機能を起動させた。
しかし――。
「え? え?」
カメラは何とか起動したものの、「被写体の撮影はこのボタンを押して下さい」「画質を指定する事が出来ます」「撮影データの保存先を指定する事が出来ます」「インカメラ、アウトカメラの切り替えが出来ます」――次々に画面のあちこちのボタンに対しての解説が噴き出しては消えていき、精介は完全に混乱してしまった。
兎に角、兎に角結三郎を撮影せねば――それだけが意識の中に残り、闇雲に撮影ボタンを押して何枚か困惑したまま精介を見ている結三郎を撮影したつもりだった。
「もしかして、操作方法をまだきちんと覚えておらんのでは……?」
精介の様子に結三郎は困惑した様に問い掛けてきた。
「っ――……。すんません……。」
自分の持ち物を使いこなせていない事や、何より、結三郎の写真をきちんと撮る事が出来ているかどうか曖昧な事に、精介は情けない思いで俯いた。
「いやいや謝る事ではないだろう。またすぐ来させてもらうし、その時にまたゆっくり写真撮影を受けよう。」
結三郎の優しい言葉に精介も顔を上げ、ゆっくり頷いた。
「――結三郎はん……。聞こえるかいな…? 」
そこに「門」がきちんと繋がったか確認している帝の声が聞こえてきた。
結三郎と精介が「門」の幕へと目を遣ると、薄青く揺れる光の向こうに帝と茂日出のこちらを覗き込んでいる顔が見えていた。
「は、はい! 聞こえます。山尻殿の家の中に「門」を設置する作業も無事終えました。」
結三郎も光の幕に顔を近付けて帝達に返事をした。
「うむ。よくやったぞ結三郎。では今日のところは帰って来るがよい。」
精介の所に余り長居しても迷惑だろうと思っていた事もあり、茂日出の言葉に頷くと、結三郎は和綴じ本の端末機械を鞄の中へと仕舞い込んだ。
「では今日のところはこれで失礼する。――明日は寝坊せずきちんと学校に行くんだぞ?」
最後の方は何処か弟にでも言い聞かせるかの様な口調で結三郎は精介に声を掛けると、屈んだままの体勢でそのまま目の前の「門」へと体を潜り込ませていった。
「あ、ああ……。」
引き止める間も無く結三郎の姿が「門」の中へと消えていき、精介は残念そうに手を伸ばしたまま暫くその場を動けないでいた。
またすぐに来る――結三郎の言葉を信じ、精介はその日は物寂しい気持ちを感じながらも床に就いたのだった。
◆
回想を終え、精介は自分のスマホを一旦卓袱台の上に置くと大きな溜息をついた。
あの日、余りにも不慣れなカメラの操作で撮影された結三郎の姿は余りにもピンボケで、更に何をどういじってしまったものなのか、途中からはインカメラに切り替わっていて自分のピンボケの顔が二、三枚写ってしまっていたのだった。
二度とあの様な不覚なぞ取ってたまるものか――何故か日之許の侍の様な口調で、精介は内心で強く決心をしてスマホの操作方法を一つずつ覚えていっていた。
「少しは使い方覚えたか?」
気を利かせてくれたのか、上西がからかいまじりにそう言いながら、自分の分と合わせて大き目のタンブラーに麦茶を注いで持って来てくれた。
「あー、まあ――少しは。」
上西からタンブラーを受け取り麦茶を飲んでいると、土俵の隅に出しっ放しのデジタルビデオカメラに監督がコンセントを繋いでいるのが目に入った。どうやら充電するのを忘れていた様だった。
――ビデオカメラで本格的な動画撮影と言うのも面白そうだな……精介は何となく興味を惹かれ、三脚で立てられたまま充電中のビデオカメラの前へとやって来た。
精介達の相撲部も、稽古中や対戦時の体勢や体の動き、技の姿勢等、選手本人が自分の様子を客観的に見て勉強する事が出来る様にとビデオカメラとテレビを繋いで設置していた。
他にも大会や練習試合等、対戦相手の様子を撮影したり、普段の部員達の様子をお遊びで撮影したりと、意外と部活の中で出番は多かった。
「おいおい、下手に弄って壊すなよー。」
興味深そうに閉じられたレンズカバーを覗き込む精介の横に、麦茶を飲み終えた上西がやって来た。
「結構高くてスペックもいい奴買ったって監督言ってたぜ。」
そう言いながら上西がビデオカメラのパネルを開くと、自動でジャッと音を立ててレンズカバーが開いて覗き込んでいる精介の顔を反射させた。
「そうそう。超高精細高画質、光学四十倍ズーム! スポーツ撮影特化の動く被写体クッキリAI補正撮影! 卒業生が売り込みに来た時は金の工面に苦労したぞ。」
家電業界に就職した卒業生が居たのだろう、何かの売り文句を思い出して口にしながら監督も太い腹を揺らしながら再びビデオカメラの方へとやって来た。
監督が近付いてくるところに上西がふざけてカメラを向け、光学四十倍ズームとやらの拡大を行なった。
「おー! 流石っすね!」
後輩の小柄な一年部員――松口がふざけて稽古場のテレビのスイッチを入れると、ビデオカメラにそのまま繋がっていた様で、監督の顔――頬の皮膚の様子がくっきりと鮮やかに映し出されていた。
「こらこら、何撮ってんだ。」
テレビのスイッチが入った事に気が付いた監督が、呆れた様にしながらもわざとらしく顔を顰めたりして上西達を咎めた。テレビ画面の中では監督の顔の皮膚がぐねぐねと動いて皺を作っていた。
「す、すげええ!!」
監督も含めてふざけた様子だったが、精介だけはただ一人真剣にビデオカメラの拡大画像の鮮明さに感動していた。
こ、ここ、こここここここのビデオカメラで結三郎さんのあちこちを隈無く撮影すれば、ばばばば……。
「監督! これ貸して下さい!」
思わず精介は声を上げていたが、監督は困った様に溜息をついて精介を眺めるだけだった。
「山尻、何を撮りたいかは知らんが部の――と言うか学校の備品だから私的に持ち出すのは駄目だ。」
「……そ、そんな…。」
監督にあっさりと却下され、精介はがっくりと肩を落とした。
「――ていうか、精介のスマホってアレだろ? カメラと時計で有名なクロノ=ミコンの。確かカメラ機能だってかなりのスペックだってCMでやってたじゃないか。」
肩を落とす精介を気の毒そうに眺め、上西はビデオカメラの電源を切ると卓袱台の自分達の席へと精介を伴って戻ってきた。
精介を座らせると上西は精介のスマホを手に取り、設定画面を開くとカメラ機能に関する様々な設定を調整していき、最高画質で撮影出来る様にと修正した。
「ほら。」
あっさりと設定を済ませた上西がスマホを精介に手渡すと、精介は笑みを浮かべた。
「おお!! 有難う、心の友よ!!」
思わず祥之助の様な事を口にしながら精介は深々と上西に頭を下げた。
これで一応は鮮やかな画質で結三郎を撮影出来そうだった。
しかし――とは言うものの、備品のビデオカメラの様な高精細高画質の動画というものにも心惹かれるものはあった。それにスマホで撮影したものをもう少し大きな画面で――結三郎の姿を大きな画面で観賞したいという気持ちも無い訳ではなかった。
鑑賞――というか、堪能、というか。思春期男子的な意味で。
「テレビにビデオカメラか……。」
監督がテレビのスイッチを切ってからトイレの方に歩いて行く様子を眺めながら、精介は溜息をついた。
何となくファイルに綴じた方のスマホの説明書をぱらぱらと捲っていると、「スマホの画面をテレビ画面で見るには?」という記事が目に付いた。
これならばさっきの監督の顔の皮膚がテレビに映っていた様に、スマホで写した結三郎をテレビ画面で楽しむ事が出来そうだったが――精介の部屋にはテレビも無かったのだった。
テレビだけ買うにしても、欲張ってビデオカメラも、と手を伸ばすにしても――まずは先立つ物が精介には何も無かった。
それに、写真や動画はまあ今のスマホで間に合わせて、テレビも先送りにするとしても。
こちらの世界を案内し、結三郎と共にデート――いや、探検調査をするにも金が必要だった。結三郎は精介の世界の身近な普段の町の様子を見て回るだけでも面白そうだと言ってはいたが。
だがそれはそれとして、何かしら買い物や食事に出掛けたり、観光地を散策したりと、精介としてはきちんとしたデートの様なものもしてみたかった。
「色々金が掛かるなあ……。」
独り言を漏らした精介の様子を、トイレから戻ってきた監督が大きな溜息をついて見下ろしていた。
「危なっかしくてしょうがないな……。夏休みにやくざバイトに引っ掛かる世間知らずの典型か?」
監督は上西と精介の座っている卓袱台の向かい側にどっかりと腰を下ろした。
「大学の方の学生課には負けるが、一応、高校の方の学生課にもアルバイトの情報が幾らかはあるから、変な検索とかせずに学生課でちゃんと探したり相談したりしろよ?」
「は、はい……。」
精介や上西、周りの部員達も思わず姿勢を正して監督の話を聞いていた。
よくある夏休み、冬休みのみの郵便局の配達や内勤のバイトや、学内のコンビニの店員、ドラッグストア店員やホテルや病院施設等の掃除――そうしたものを初め、週末のみ、一~二時間だけでもOKという超短時間の学生可のアルバイト等、意外と学生に配慮した条件の情報も多く学生課では取り扱っていた。
「変にネットとかで検索して胡散臭いバイトとかに引っ掛かって、犯罪に巻き込まれたりしない様に気を付けるんだぞ?」
「は、はい……。」
特に精介に向けて監督から注意が行なわれ、精介は神妙に頷くしかなかった。
「――そういやウチの母ちゃんから聞いたけど、昔は女子高生の下着とか体操服とかをスケベなオッサンに売りつけるバイトがあったとか言ってたなあ。それで補導された子も居たとか何とか。」
そんな精介の横で上西が呑気な調子で声を上げた。
「あー、俺ん家も母ちゃんと親戚のおばちゃんが何か言ってたっす。フリョーショージョとかいうの。下着売って一人で何十万も稼いで、その内警察に捕まったとか何とか。」
一年部員の松口も上西の後に続いて話し始め、すっかり皆の試験勉強の手は止まってしまっていた。
監督もすぐには止める事はせず、苦笑交じりに部員達の話を聞いていた。今の学生達にとっては社会問題になった事もある未成年の少女の衣類の売買や、不良少女という様なものすら大昔の珍しい出来事でしかないのだろう。
「――んー、じゃあ、逆にスケベなオバサンとかに俺等の使用済み下着とか制服とか売れねえのかなあ?」
無邪気ではあったが余りにも考え無しに口にした松口の発言に、流石に監督も呆れ、軽く頭をはたいて注意をした。
「お前等のそういうトコ! 悪気は無いかも知らんが気を付けろ。ホントに犯罪に巻き込まれるぞ。下着売って云々は例え話に過ぎんが――ホントに悪い大人はホントに上手に子供を……お前等を食い物、いや売り物にして金を稼ぐらしい。悪ぶって調子乗った子供をとことんまで使い潰し、稼ぐだけ稼いだらポイだ。」
何かの受け売りなのかそうでないのか、妙に怖さを煽り立てる語り口の監督の言葉に部員達もはしゃいでいた勢いはすっかり消え失せていた。
ただ――安易におかしなバイトには引っ掛からない様に気を付けようとは思いつつも、精介は結三郎の使用済みの褌やマワシだったら――是非とも購入したいと思ってしまっていた。
――よろしい。購入だ。金は幾ら出しても構わん。
精介の脳内で謎の金持ち紳士が札束やクレジットカードを振り翳していた。
「――まあ、OBのツテとかでも割と夏休みとか冬休みのバイト情報は入るから。今年も何かあったら教えるから、くれぐれも変なバイトには気を付けろよ?」
脅かし過ぎたと反省したのか、監督も声音を和らげ部員達に言い聞かせる様に言葉を掛けた。
「はーい。」
それから気分を切り替え、時間まで精介達は試験勉強の続きを行なったのだった。
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メモ書き
先週末からヲカマのオッサンは何と今頃新型コロナに感染してしまいまして、一週間近く寝込んでいました。まだ体調的には本調子ではござりませぬ。五類に移行したとはいえ注意せねばならぬ感染症ではありますから、皆様もお気を付け下され。
で、寝込んでいるとはいえ、仕事も園芸も出来ず、しかし寝続けるのも逆にしんどくて、結局やる事と言えば小説書きですよ・・・。
お蔭で高縄屋敷の物語、第三話其の一、ゲホゲホ咳き込みながら書きましてござりまする。
其の一の後書きの段階で先にお断りしておきますが、第二話の時に後書きで書いた「第三話は小ネタ」――すまんのう、あれも嘘じゃった。いつものエクセルのセルのマス目にプロットを書いていくメモですが、第二話と同じくらいの80幾つのセルを書いていながら物語の内容的には半分しか終わっていないです・・・。
と言う訳で第三話用に考えていた一つのネタは、今回第三話と第四話に分割します。一体何奴じゃ。第三話は小ネタの短い話で済ますと言っておったのは・・・。一応、今回の話のオチとか終わりの場面のメモは出来ているんですがねえ。
ヲカマのオッサンはどうやら物語の分量もガチムチガッシリしたものが好きな様でございます・・・。
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