第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の二十一 結三郎、逆鱗に触れられ常に無く怒るに就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の二十一 結三郎、逆鱗に触れられ常に無く怒るに就いて記す事」


 精介の背よりも遥かに高い場所から声を掛けてきた主は、精介の世界にも存在しているダチョウだった。

「あ・・・えーと・・・。」

 どうやらこの目の前のダチョウが挨拶をしてきたのだと、一応は理解は出来たものの――まさか人物の認証を行なって自動で開いた機械の扉の向こうに人語を話すダチョウが居るとは思ってもおらず、精介は呆然とダチョウの姿を見上げるばかりだった。

「あー、まあ初対面では普通は驚くよな・・・。奥苑で私と同様に義父上の助手として働いているダチョウ殿だ。――ああ、日之許から遠く離れた国、エイテオーピャという所のダチョウの精霊だ。」

 戸惑い立ち尽くしている精介に結三郎はダチョウの事を紹介した。

「丁度、神仏や精霊の話をしていたところだったし、実物に会えて良かったな。」

 結三郎の呑気な紹介の言葉を聞きつつ――そうは言われても、せいぜいがテレビかネットの動物園を取り上げた動画で見た事がある程度の、殆ど馴染みの無い大きな動物(というか精霊らしいが)が目の前に聳え立っている現状は、精介にとっては余り良かったなと言えるものではなかった。

 ダチョウは精介の困惑も承知している様で、そっと微笑みを浮かべながら首を曲げて精介の目の前へと下ろしてきた。

「初めまして。迷い人殿――山尻精介殿。私は奥苑で働いておりますダチョウの精霊です。名前はそのままダチョウとお呼び下さい。」

「は、はい・・・。」

 友好的な表情ではあるものの、自分の世界の動物園でもここまで至近距離で大きな動物を見た事も無く、精介は緊張したままダチョウの顔を見つめていた。

「――精霊や私の故郷についての御喋りをゆっくりとしたくもありますが、まずは元の世界に御帰りになる為の御話が先ですね。屋敷の奥で帝と殿が御待ちです。」

 理知的で優し気な眼差しで精介へと話し掛け、ダチョウは再び首を上げると結三郎と精介を奥苑の屋敷へと促した。

「は、はい。」

 精介は先に歩き始めたダチョウの後を追って慌てて自転車を押した。

 門から中へと進み、奥苑の事務所として使われている屋敷の正面玄関にやって来ると、そこでは年嵩の坊主頭の鳥飼部――磯脇が水の入った桶と雑巾を手にして待っていた。

 一週間前の精介の捜索の時に結三郎に同行していた鳥飼部の一人だったが、精介は彼には近くできちんと会った訳ではなかったので当然の事ながら全く覚えてはいなかった。

 磯脇も特にはその事に触れる事も無く、結三郎と精介に会釈をした。

「お帰りなさいませ結三郎様。――山尻殿、自転車の車輪をこれで拭きますのでこちらに。」

 結三郎に言葉を掛けた後、磯脇は精介に手桶と雑巾を見せた。

「あ、はい・・・。えーと・・・。」

 磯脇に言われるまま精介は頷いたもののいまいち判っていない様だったので、結三郎が付け足した。

「元の世界への時空の穴はここの屋敷の一室に開けている筈だから、自転車もそこまで運んでおいた方がいいだろう。」

「あー! はい。そうでしたね・・・。」

 結三郎の補足に精介もやっと理解が出来た様だった。自分の身一つだけで元の世界に帰ってしまったら忽ち通学手段に困ってしまうところだった。

 車輪やタイヤの土汚れを磯脇に拭いてもらい終わると、屋敷の中に精介は自転車を押して入っていった。

「あ、有難うございました・・・。」

 下がっていく磯脇へと礼を言い、精介は結三郎とダチョウと共に屋敷の広い廊下を奥の方へと進んでいった。  

 板張りの廊下の上を自転車を押しながら歩くというのは、行儀が悪い様な、板の木材を傷めてしまいそうな・・・。精介はそんな何とも落ち着かない気持ちになってしまっていた。

 そう言えば目の前を先導しながら歩いているダチョウも土足――いや素足のまま屋内外を出入りしていた事に精介は今更ながら気が付いた。

「どうした?」

 屋敷の中をきょろきょろと落ち着かない様子で見回しながら歩く精介の様子に、結三郎は訝し気に問い掛けた。

「あ、いや何でもないっス・・・。」

 結三郎に声を掛けられ精介は誤魔化す様に笑い、前を向き直した。

 屋敷に入ってすぐのいつもの大広間を通り過ぎて、それから更に二つ程広間を過ぎた所にある「中会議室・睡蓮の間」と名札の掛かった襖の前へと一行はやって来た。

「御二人を御連れしました。」

「うむ。」

 ダチョウが部屋の中へと声を掛けると、襖の片方が開けられ大柄な白髪頭の初老の男性が顔を出した。

「・・・義父上・・・。また徹夜ですか?」

 出迎えてくれた茂日出の充血した目や少し疲れの出ている顔色を見て、結三郎は心配しつつも呆れた口調で声を掛けた。

「まあ、少しのう・・・。」

 角刈りの白髪頭を掻きながら茂日出は誤魔化す様に笑った。

「殿。こちらが迷い人の山尻精介殿です。」

 ダチョウの言葉に茂日出は精介へと目を向けた。

「よ・・・よろしくお願いします・・・。」

 穏やかな物腰で笑みを浮かべてはいながらも、その筋骨隆々で大柄な茂日出の肉体からは強い圧力が発せられているかの様に感じてしまい、精介は震えそうになりながらも何とか声を絞り出した。

 この人が佐津摩の侍達千人と自分の父を相手取って勝ち抜き、佐津摩藩主の座を勝ち取った人物なのか――春乃渦部屋での稽古の休憩の時に広保親方から聞いた話を精介は思い出していた。

 六十歳というのは精介の世界ではまだそれ程老いた者だという認識ではなかったが、日之許の世界ではどうなのだろうか。

 しかしそうした精介の疑問以前に、目の前の大柄な初老の男性から感じられる気配や圧力は、ただの一般人である精介にもはっきりと感じられ――親方の話を聞いた時に想像した格闘ゲームのラスボスの様なイメージは、そう間違ったものではなかったと思ってしまった。

「うむ。ようこそ山尻殿。貴殿を送り返す前に色々と話もある。一先ずは中で。――ああ、自転車は」

「ここに置いておきますからね。」

 茂日出の言葉を断ち切る様にダチョウが被せてきて、結三郎が精介にこの部屋の前に停めておく様にと一隅を指し示した。

「う・・・うむ。」

 残念そうに茂日出は頷き、未練がましく精介の自転車を見つつ皆を会議室の中へと招き入れた。

「後で少しだけ時間を取って山尻殿の自転車を――。」

「ささ、どうぞ中に。」

 尚も見苦しく言い募ろうとする茂日出の言葉を遮り、ダチョウが結三郎と精介を促す様に羽をぱたぱたとさせながらさっさと部屋の中へと進んでいった。

 取り敢えずダチョウに任せておけば、茂日出が精介の自転車に気を取られ過ぎる事は無さそうだと結三郎は安心した。

 会議室とは言っても、襖の向こうにあったのは程良い広さを感じさせる十二畳の畳敷きの和室だった。

 部屋の中央には掘り炬燵があり、今は夏の初めだったので炬燵布団は取り除かれていた。

 部屋の奥にある窓側には雪見障子が設置されていて、障子の下側からは小さな庭石と小さく可憐な花を咲かせている薬草を組み合わせた庭が見えていた。

「よう来たの。まあ好きなとこに座りや。」

 掘り炬燵の座卓の上に置いていた煎餅を齧りながら、帝が結三郎達を待っていた。

 証宮離宮殿図書館の書庫で茂日出と話をしていた通りに、有言実行で覚証寺の夏祭りにやって来ていたのだから、今日の奥苑の精介の送還に帝が顔を出すのも当然とは言えたが・・・。

「は、はい・・・。」

 結三郎は何処か諦めた様に力無く答え、精介と共に帝の向かい側へと腰を下ろした。

 帝は今日は図書館で会った時の様に髪は顔の両脇でみずら結にしており、着ている物も同じ白い直衣ではあったが、それも今日はきちんと火熨斗(精介の世界で言うところのアイロン)を当てられて皺は無かった。

 だがその顔が茂日出と同様に目が充血しており、目の下にも隈が出来ている事に結三郎は何となく察せられるものがあった。

 どうせ、茂日出と共に今日使用する時空の穴についての装置を徹夜でずっと弄り回していたのだろう――。

 茂日出も結三郎から見て右隣の面に腰を下ろし、ダチョウも掘り炬燵の中には足を入れなかったが左隣へと座った。

 皆が腰を下ろし終えるとすぐに襖が開かれ、大振りの茶瓶と四つの湯呑を載せた盆を持った老齢の鳥飼部が中へと入って来た。

「どうぞ。」

「あ、有難うございます。」

 目の前に湯呑と小皿の煎餅が置かれ、精介は軽く頭を下げた。

 茶瓶の中身はよく冷えた麦茶で、注がれると暫くして薄っすらと湯呑は水滴に覆われた。

 老鳥飼部が下がっていったところで帝が煎餅を丁度食べ終わり、皆を見渡した。

「さてさて――。本日は御日柄も良く、御若い御二人の出発には真に相応しき・・・。」

「待て待て待て! 何の挨拶じゃ何の!!」

 今日は殴れる物を持っていなかったので茂日出は声を荒げるだけだったが、慌てて帝の言葉を遮った。

「何や。山尻君と結三郎はんを異世界に送り出すにあたって一応挨拶しとかんとと思うたんやが、何ぞあかんかったか?」

「いかぬわ! そもそも今のは婚儀の仲人の挨拶ではなかったか!? ワシはまだ結三郎を婿に出すつもりは無いぞ!」

 帝と茂日出の遣り取りを見ながら――、帝とは先日証宮離宮殿の図書館で会ったばかりではあったが二人の関係性が何となくではあったが段々と判り始め――結三郎は彼等の様子に呆れ、眉間に皺を寄せ始めていた。

「取り敢えず、あの白いのがこの日之許国の帝で、こっちの大きいのが佐津摩藩前藩主・島津茂日出です。」

 外国の精霊という立場故の敢えての尊大な物言いで彼等をぞんざいに紹介し、ダチョウはさっさと話を進めるべく、困惑しながら結三郎と帝と茂日出を順に見ている精介へと説明を始めた。

 結三郎もダチョウの振舞いに特には異論は無い様で、少し疲れた様に溜息をつくと麦茶で喉を潤していた。

「え? あ、はい・・・。」

「山尻殿の世界に繋げている時空の穴の装置は、この会議室から少し離れた別棟の研究室の一つに設置しています。装置の穴を潜ったら元の世界には帰れますが、その前に少し我々から貴方に御願いしたい事等がありまして、その為にここに御出で頂いた次第でございます。」

 親離れ子離れがどうとか、武市家にも異世界にもまだ結三郎は婿にはやらんとかどうとか、まだ言い合いをしている帝と茂日出を完全に無視してダチョウは精介へと説明を続けた。

「は、はい・・・。何か、俺のマンションの部屋のどっかに穴を開けっ放しにして日之許の世界に繋いでもらいたいとかどうとか、昨日結三郎さんから聞いてます・・・。」

 帝と茂日出の様子が気になりながらも、取り敢えず精介はダチョウの言葉に頷いた。

「――そうなんや。この世界ではちょっと事情があってな。空間に穴が開き易くなっとって、余所の世界と繋がってしまう事故が時々起こるんや。」

 茂日出から精介達に目を移して帝が話に割り込んできた。

「お主っ!」

 話を逸らされた――と言うよりは本題に戻っただけなのだが――茂日出が帝を睨み付けたが、帝は意に介した様子は無かった。

「あ・・・あの、山尻殿に協力を願うのですから、ちょっとの事情、と曖昧にするのは如何なものでしょうか・・・。」

 一応は相手が帝と言う事で、結三郎は恐縮しつつ口を挟んだ。

「せやなあ。確かに尤もな話やな。――シゲやんと違うて真面目やな。ええ事やで。」

 結三郎の発言にも特には気分を害した様子も無く、帝は頷き結三郎の真面目な様子を褒めた。

「あー・・・そこから長々説明するのか・・・。」

 帝を軽く睨み付けてから茂日出は結三郎と精介の方を見たが、背景の事情の説明の面倒臭さに頭を掻いた。

「あ、あの! 俺は専門的な事は判らないし・・・そこまで細かい事情は知らなくても大丈夫です! ・・・その・・・結三郎さん達の所と行き来がきちんと出来たらそれで・・・。」

 ほんのりと好意のこもった温かな眼差しを精介は隣に座る結三郎へと向け、坊主頭を掻きながら俯いた。

 精介のそんな様子に帝はにやにやと面白がる様な表情を浮かべていたが、茂日出の方はむっとした様子で精介を軽く睨み付けた。

「何だ。ウチの子供を泣かせておきながらちゃっかりと仲良くなりおって。全く図々しい。」

 茂日出の言葉に精介は思わずはっと顔を上げたものの、筋骨隆々とした大柄な体から放たれる威圧感と射抜く様な視線に命の危機を感じてしまっていた。

 茂日出にとっては軽く睨んだだけだったが、せいぜいが部活の相撲位しか武道の心得の無い一般人の精介にとってはとてつもない圧力を受けた様に思えていた。

「・・・あ・・・ぁ・・・あ・・・。」

 恐怖に青褪めた表情で言葉にならない呻き声を漏らす(幸い尿は漏れてはいない様だった)精介を睨んだ後、茂日出は結三郎にも厳しい視線を向けた。

「そう言えば、曽我部・・・いや今は武市だったか。四男坊からも婚儀の申し込みがあったというではないか。お前と相撲を毎日取りたいだ等と、全く生意気でけしからん。幾ら佐津摩や杜佐が男同士の所帯を認めておるとは言うても、きちんと正室や側室の区別を付けないままの不誠実なお付き合いはお父さんは許さぬぞ。」

 子供への結婚の申し込みを激しく拒む頑固親父そのものの、茂日出の不機嫌な表情と発言だった。

「殿・・・。今はその様な話はしておらんでしょう・・・。」

 ダチョウが苦笑を浮かべ口出しをしたが、茂日出は不機嫌な表情のまま子供の様に唇を噛んでそっぽを向いた。

 精介と違い結三郎は茂日出からの厳しい表情や威圧感にも慣れており、堪えた様子は無かったものの、色々とこの一週間の色々な事柄が帝や茂日出に筒抜けになっている事に恥ずかしさや苛立ちを抱いてしまった。

「なっ、何でそんな事まで知っておられるのですかっ!! というか、そもそも武市殿からは婚儀の申し込み等されておりませんっ!!」

 恥ずかしさを誤魔化す様に座卓を叩き、結三郎は思わず腰を浮かせて茂日出を睨み付けた。

 幸いというべきか、結三郎の叫びにはっと肩を震わせ、精介は硬直が解けて青褪めていた顔色も元に戻り始めた。

「あー、すまんすまん。先週の、山尻君の探索の手伝いに派遣した連中を、ワテがそのまま皆の見守り業務に就かせとったんや。そっから色々報告が上がっとったんや。」

 一応は悪いとは思っている様で、帝は結三郎へと軽く頭を下げた。

 精介が日之許に転移してきた日の翌日、精介の行方を捜して奥苑の鳥飼部達と結三郎が科ヶ輪の町に行った時に、証宮新報の記者として普段は働いている者達も結三郎達とは行動は共にしなかったものの探索を行なっていた。

 結三郎達が精介を見つけた後も、帝の命令により異世界から来た人間の護衛や観察を秘かに続け、彼等が見聞きした事柄は当然帝へと報告されていた。

「いつもと違うて今回は何日か滞在する訳やったし、異世界の人間が日之許に悪させんか心根を確かめたりとか、後は環境の違いで体調とかに変わりは無いか確かめとかんとあかんかったからなあ。」

 一応は帝の言う事も尤もな事ではあったが――それでもプライバシーが筒抜けだったという事で、結三郎だけでなく精介も思わず声を上げてしまった。

「なっ何スか! ずっと覗いてたってコトっスか!? ひどくないっスかっ!!」

 秘かに観察――覗かれていたという事は、夜中に長屋の便所であんな事をしていた事も知られていると言う事なのだろうか・・・。精介は恥ずかしさと怒りに顔を赤くしてしまっていた。

「そうです!! 最低限の護衛や観察は仕方が無いにしても、祥之助殿との事とか色々と立ち入った個人的事情の詳細まで報告する必要は・・・。・・・あ・・・!」

 精介と共に再び声を荒げた結三郎だったが――個人的事情の詳細、と口にしたところで嫌な予感が脳裏をよぎった。

 覚証寺の裏の林で精介と怒鳴り合い、探しに来た祥之助の前で泣き喚き――実父の事を語ったあの時の事も、無遠慮に覗かれていたというのか。

 その予感は忽ちに、触れられたくない所に触れられたかも知れないという不快さや不安を呼び起こし――結三郎の目付きは鋭く厳しくなっていた。

 反射的に――理性では抑え様も無く、そうした不快さや不安が怒りへと変わっていこうとしているのを結三郎は感じた。

 ――祥之助の笑顔や体の匂いにどうしようもなく安心して泣いてしまった事や、実父の事を打ち明けた事。昨夜の照応寺の裏手で精介と相撲を取ったものの転んでしまい、地面の上で抱き合ったまま精介の謝罪や不安を聞いてあげた事。

 それらは気安く余人に覗き見されていいものでは決してないものだった。

「なっ、下の名前で呼ぶとは、そこまで親しくなっておったのか。」

 祥之助との仲の進展が気になるのか、茂日出は結三郎が思わず祥之助の事を名前呼びしてしまった事に驚き目を見開いた。

「――少し御黙り下さい。」

 しかし――頭に血が上り過ぎて却って落ち着いてしまった結三郎は、茂日出の言葉を一言の下に切り捨てた。

「っ・・・。」

 常に無く結三郎の怒っている様子に茂日出は言葉を失った。

「ゆ、結三郎さん・・・。」

 茂日出と同様に、精介も結三郎の様子を息を詰めて見守るしかなかった。

 覚証寺の裏で自分と言い合いした時とはまた質の違った怒りの様子に、精介は言葉を掛ける事が出来なかった。

 実父の事は結三郎の心の奥に普段は仕舞い込んでいた大切な事柄で、誰彼に気安く見られていいものでも、無闇に触れて欲しいものでもなかった。

 祥之助に打ち明けた時にこっそり戻って来ていた精介に見られていたのは、まあ、心を許した精介にならば仕方が無いと納得していたからで――。

 決して帝の部下達に見せてもいいとは思っているものではなかった。

「・・・・・・。」

 相手は帝ではあったが――身分というだけでなく、先日の図書館で感じさせられた圧倒的な強者の気配を持つ格上の相手ではあったが、そうしたものも関係無しに今にも飛び掛からんばかりに結三郎は帝を睨み据えていた。

「・・・流石は佐津摩に生まれた子ぉよな。帝にそんな気概のある目を向けるんは佐津摩の人間位のもんやで。」

 結三郎の鋭く睨む視線を受け止め、帝は感心しながらそっと溜息をついた。

 それからいつに無く真面目な表情になると背筋を正した。

「・・・申し訳無い。・・・信用出来んとは思うけど大丈夫や。シゲやん――いや茂日出殿には山尻殿の性格とか健康状態とか、結三郎殿との友達付き合いの様子の大雑把な事は知らせて共有はしたけど――それだけや。山尻殿や結三郎殿の深いところの個人的な事については茂日出殿にも誰にも何も言うてない。」

 いつもの軽くふざけた様子とうって変わって、帝は結三郎と精介へと頭を深く下げて謝った。

 帝もまた、かつては神降ろしによって何十人もの人間の人生の追体験を強制させられた事があった。一人の人間が何を感じ、考え生きていき死んでいったのか――心の深い所までも体験させられたからこそ、人間のそうした場所に無闇に触れてはいけないとよく判っていた。

 人間には誰しも、触れられたくない深い所に潜む様々なものがあり――そこに無思慮に踏み込むべきではない。

 それを弁えたが故の帝の真剣な様子に、結三郎の気持ちも何とか鎮まり始めていた様だった。

「判りました・・・。信じます・・・。」

 結三郎はゆっくりと息を吐いた。

「そうか・・・。おおきに・・・。」

 帝に対して不敬な態度ではあるかも知れないが、私的なこの場では誰も咎める者も無く、帝は結三郎が許してくれた事に安堵の微笑みを浮かべた。

「――はいはい。随分と話が逸れてしまいましたね。仕切り直しましょう。山尻殿を送り返すにあたっての打ち合わせが全然まとまってないではありませんか。」

 重苦しくなってしまった空気を打ち消す様にダチョウが明るい声を上げ、茂日出も頷いた。

「うむ。・・・しかしそれはそれとして、すまぬがせめて――、どちらが正室で側室かだけでも教えてはくれぬかのう・・・。」

 怒りの鎮まったばかりの結三郎の顔色を窺いつつ、茂日出は恐る恐る結三郎へと問い掛けた。

 茂日出のその様子にしつこいとは思いつつも、確かに帝は祥之助や精介との立ち入った細かい事については茂日出には教えていないのだと結三郎は確信も出来、一先ずは安心した。

「ですから、祥之助殿とも山尻殿とも、正室だの側室だのという話をする様な仲にはまだ至っていないです!!」

 安心はしたものの、茂日出の問いが煩わしい事には変わりは無かったので、結三郎はつい声を荒げてしまった。

「まだ!?」

「えっ!?」

 結三郎の言葉尻を捉えて茂日出と精介の声が重なった。

「まだ、という事はこれからそうした事を検討していくという事なのか・・・?」

「ですからそれは言葉の綾というものです! そんな深い意味は無いです!」

 苦い表情で息子の婚儀について色々と思案し始めていた茂日出を、結三郎は照れ隠しなのか顔を赤くして睨み付けた。

 結三郎達のそんな様子を眺めながら、精介はぼんやりと結三郎や祥之助と所帯を持つ事について考え始めていた。

 ――そうか・・・。こっちだと一対一の関係にこだわらなくてもいいのか・・・。

 時代劇や中世ファンタジー物語等でしか見聞きした事の無かったハーレムとか一夫多妻制が日之許では認められているのだろう。祥之助も茂日出もごく当然の様に正室や側室という言葉を使っていた。

 ――でも、結三郎さんを独り占めするというのも捨て難いし・・・。昔のハーレムとか武家の側室の奥さんとかって気持ちの折り合い付けるの大変だったのかなあ・・・。

 精介はぼんやりと、茂日出を赤い顔で睨み続ける結三郎の横顔に見惚れながらそんな事を考えてしまっていた。



 場の空気を改めるべく、麦茶を飲み終えた後の茶瓶や湯呑が下げられると、老鳥飼部が次は小鉢に入った果物の寒天寄せと冷えた薬草茶を人数分持って来た。

「甘い物でも食べて気分を変えましょう。」

 ダチョウの言葉に皆が頷き、小鉢と匙を手に取った。

 小花の模様の描き込まれた青磁の小鉢の中には、器の形に寒天で固められた野イチゴや桑、山桃の実が入っていた。

「うん、よお冷えとるし美味いな。博物苑で取れた野イチゴかいな。」

 帝が寒天の中の小さな赤い実を口の中へと運んだ。

 それから精介の方へと顔を向けて本題の説明に入った。

「――で、山尻君。ちょっと、の細かい事情はまたその内説明するとして。取り敢えず、この世界では時空の穴というモンがたまに開いてしもうて、それに巻き込まれた人間とか物体とかが日之許に迷い込んでくる事故が時々あるねん。君もそんな穴に巻き込まれて日之許に来てしもうたんや。・・・ここまではええか?」

「は、はい。」

 帝の説明に精介も頷いた。

「幸いまだ例は無いもんの、可能性としては逆に日之許から余所の世界へと迷い込む事も有り得るし。他にも、もしも余所から日之許に、山尻君みたいな人間とかやなくて大量の海水とか土砂とか――或いは隕石とか、そんなもんが日之許の町ん中に転移してきたりしたら大災害になってまう。国を治めるワテとしては中々に頭の痛い問題なんや。」

「そ、そうっスね・・・。」

 精介は相槌を打ち、寒天と野イチゴを飲み込んだ。

 漫画やアニメで取り上げられる様な異世界転移や異世界召喚の華やかで勇ましい物語とは違い、この日之許の世界では異世界転移というものは事故や災害としての対策が求められるものの様だった。

 今回の当事者である精介にとっても、確かに突然の事故に巻き込まれたという印象の方が強かった。

「そんで、そうした時空の穴が開くのを何とか出来んものか研究をしたところ、敢えて余所の世界と小さな穴を開けて繋いで維持する事で、他の余計な穴が開くのが減少するかも知れん――というところまでは判ったんや。」

「――まあ、治水工事の様な感じでしょうか。水路を新しく作ったりして水の流れを整えるというか・・・。」

 帝の説明にダチョウが補足し、精介は一応何とか理解出来た様で頷いた。

「勿論、穴が開くのが全く無くなる訳やないけんど、このまま何もせんよりは遥かにましやからな。――そんで、今回丁度良く繋がった山尻君の世界と、固定して維持した穴を繋げる事によって実際にどうなっていくかの研究をしたい、と。山尻君には出来れば協力をお願いしたい、と、まあワテ等の考えはこんなトコや。」

「は・・・はい。」

 ただの学生の精介にとっては、異世界からの転移事故とか世界を繋げる穴とか、それらについての帝達の思惑とか――自分の理解を超えるものではあったが、取り敢えずは結三郎の力になれる事ならばと承諾の意思は固まっていた。

 帝は小鉢に残った汁を飲み、話の続きを始めた。

「それでやな。小さい穴――人が一人這って通れる位の大きさやが、それでも山尻君の方の世界のいい加減な場所に開けて繋ぐ訳にはあかんからな。例えば山尻君トコの家の一室とか、庭先とか、そんな感じの場所に設置させてもろうて、君には簡単な見張り係として協力してもらいたいんや。勿論報酬はきちんと払う。・・・まあ、通貨が違うから実際には金額相当の何かしらの品物とかが報酬と言う事になってしまうけどな。」

 精介は帝の話に頷き、ちらっと結三郎の方を見た。

「は、はい。協力するのは大丈夫です。報酬とかも・・・別に・・・。その、日之許と行き来が出来ればそれで・・・。」

 精介の結三郎を見つめる眼差しがほんのりと憧れの熱を持っている事に気付き、茂日出は渋い表情を浮かべた。

 精介と茂日出――それに精介からの眼差しに余り気が付いていない様子の結三郎を、帝は面白そうに眺めながらも頭を軽く横に振った。

「山尻君の心意気は買うけんど、報酬の話はきちんと決めとかなあかんよ。タダ働きは後々揉め事の元やさかいな。――取り敢えず、山尻君の日之許での身分は・・・そうやな。博物苑奥苑の鳥飼部、シゲやんの直属の助手として雇って、それに準じた給料を出す。その給料で買うたモンを実際の報酬という事にしようか。」

「判りました。それでお願いします。」

 帝の提案に精介も頷いた。

「まあ、博物苑が雇わんでもワテの方で証宮新報社の社員という形で雇うてもええしな。山尻君、安心しいや。日之許でなら帝直々に雇用の保証しとるで。」

「そ・・・そうっスね・・・。」

 帝の冗談交じりの言葉に精介は苦笑するしかなかった。

 茂日出は薬草茶を飲み干すと、余り面白くもなさそうな表情で溜息をつきながら口を開いた。

「いや、きちんと奥苑で雇うとも。結三郎の婿候補ならば尚更ワシの目の届く所に置いておかねばのう。」

「義父上! だからまだ違うと言っておるでしょう!」

 結三郎が否定の声を上げるが、茂日出は頑固親父の様な不機嫌そうな表情のまま精介を睨んでいた。

「殿。そこは一応建前でも、時空の穴の装置は奥苑に設置しているのだから、現地協力員を奥苑の職員として雇います、と、言うべきところなのではございませんか・・・。」

 義父としての本音を隠さず言い放った茂日出をダチョウは呆れた目で見ていた。

「っ・・・。」

 ダチョウの指摘に、茂日出は悔し気に唇を噛み顔を逸らして黙り込んだが、精介は茂日出からの強い圧力を感じる視線から逃れられて安堵の息を吐いた。

 それに結三郎の「まだ」違う、という発言は、この先の結三郎との関係の希望が感じられて精介にとっては嬉しいものだった。

「ほしたら、めでたく話もまとまった事やし、山尻君には一先ずお家に帰ってもらおうか。家族や友達も心配しとるやろう。」

「――あ!」

「あ、あの!」

 帝が話を締めて立ち上がろうとしたところで、結三郎と精介は同時に声を上げた。

 家族や友達が心配している――精介にとって元の世界に帰るにあたっての一番の問題があった。

「ん?」

 立ち上がり掛けたのを再び腰を下ろし直し、帝は結三郎と精介を見た。

 結三郎は不安気にしている精介の顔を一度見てから、帝へと問い掛けた。

「その――山尻殿が日之許にやって来てから一週間経過していますが、元の世界に帰った場合も一週間経ってしまっているのでしょうか? もしそうだとすると、彼にとって色々と不都合がある様なのですが・・・。あの、以前に、異なる世界同士を行き来した場合に時間の流れにずれが出来る事もあるという話も聞いた覚えがありまして・・・。今回は何ヶ月とか何年とかのずれがあっても困るのですが・・・。」

 精介の不安を代弁して帝へと尋ねる結三郎の横で、精介は何度も頷いていた。

 結三郎からの質問に、帝は以前に読んだ時空間に関する資料の内容を思い返していた。

「せやなあ・・・。時間の流れのコトがあったわなあ。」

 座卓の上に頬杖を突き、帝は目を閉じて今回の様な問題について書かれていた資料を記憶の中から探した。

「確かに時間の流れの早さは世界によって違う。異なる世界の間を行き来したら百年二百年過去や未来にずれとったという資料もあったな・・・。」

「二百・・・!」

 帝の言葉に精介は目を剥いて青褪めた。

 隣に座る結三郎も、その年数に思わず顔を顰めていた。

 帝は顔を上げると二人を安心させる様に微笑んだ。

「まあ、しゃーないな。此度は日之許と異世界を繋ぐ穴の開通イベントのスタァトダッシュ・キャンペエンや。大盤振る舞いしたる。ワテもシゲやん同様、異世界の研究は興味があるさかいな。」

 帝の俗な――というか、自分の世界のゲームのCMを思い出させる様な物言いに、精介は少し困惑した表情を浮かべてしまった。

「山尻君が日之許に転移して来た時間から十分二十分位の誤差に抑えて元の世界に帰したるわ。元の世界の家族や友達にとっては、山尻君はちっと自転車で遠回りしてお家に帰った、めでたしめでたしや。」

 帝の言葉に精介は明るい顔になり、安堵の息を吐いた。

 元々あの日はすぐには家に帰る気にはなれず自転車であちこちに行っていたので、更に十分二十分帰るのが遅くなったとしても精介にとっては何の問題も無かった。

「――よいのか? そこまで時間のずれを調節するとなると、結構なエネルギーを使うぞ。証宮の起動も二ヶ月以上は出来なくなるぞ。」

 帝の話に茂日出は証宮離宮殿の神降ろしの儀に必要なエネルギーの事を考え、溜息をついた。

 しかし帝は茂日出の懸念を有難く思いながらも、笑いながら手を横に振った。

「かまへんよ。使わん時は半年位間が空く時もあるしな。大体、しょっちゅう神降ろしなんぞ出来るかいな。幾らワテでもほんまに廃人なるでアレは。」

 帝はへらへらと冗談めいた笑みを浮かべながら恐ろしい事をさらっと口にした。

「それに、今回は元々ある程度は時間の流れについては、それなりに注意して確認するつもりやったやろ。ただ穴を繋ぐだけやったらそれこそ資料の通り百年平気でずれる事もあるかも知れんしな。そんな世界に送り返しても現地協力員の意味が無いやんか。」

 一応は時間のずれについての配慮を元々してくれる心積もりであったらしい事を知り、精介も結三郎も安心して表情を和らげた。

「まあ、そんな訳で、山尻君を送り返すとするか。」

 精介の不安も払拭された様で、帝は満足気な顔で頷くと掘り炬燵から立ち上がった。

 何処に控えていたのか老鳥飼部が襖を開けると、帝が意気揚々と先頭を切って部屋を出ていった。

「何とか無事帰れそうで良かったな。」

 結三郎も立ち上がり、精介へと明るく声を掛けてきた。

「はい!」

 帰れる事もそれなりには安堵し嬉しい事ではあったが、その先の、自分の世界で結三郎とあちこち出掛ける事を思い――精介は期待に胸を躍らせていた。


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メモ書き




 新年度も始まり4月も半ばとなってしまいましたね。全くもう。時間の流れが速いのよ。

 さて、第二話其の21でございます。・・・うーむ。結三郎をこんなに怒らせるつもりではなかったのですが。プロットのメモの段階ではちょっとプンプン、さ、次の話題はー、という感じで考えていたのですけども。当初の考えから少し変わってしまいました。物語を書くのって中々に難しいですわ。

 取り敢えず、あんまり惚れた腫れたに重点を置き過ぎない様な物語作りを心がけてはいるのですが、その辺りの加減も難しいですね。当初は結三郎と祥之助、精介と明春がくっつく感じで考えていたのですけども、まあ武家のイメージも背景にあるし、正室側室オチでもいいかなーと軌道修正したりして。

 それにそう言えば、結三郎の名前、ケツサブロウの尻ネタが由来ではありましたが、よく考えたら三人の野郎が結び付くと書いて結三郎じゃないの! あらやだアタシ天才じゃないかしら! 無意識の内にオチを名前に仕込んでたじゃないのさ!(狂ったオッサンのうわごと)

 ・・・それはまあそれとして、物語を楽しんで頂けると有難い事でございます。

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