第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の十九 精介の自転車に子供達の喜ぶ様に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の十九 精介の自転車に子供達の喜ぶ様に就いて記す事」


 翌朝。

 夜も明けて暫く経ち、辺りはすっかり明るくなっていた。

 明春達春乃渦部屋の力士達四人と祥之助、精介、結三郎は本堂で漸く目を覚まし掛けていた。

「やっと起きたか・・・。」

 本堂の扉を開け、呆れた様な表情の和尚と親方が中に入って来た。

「ほれ、いい加減に起きんか。」

 親方が入り口近くで寝そべっていた春太郎の頭を軽くはたいた。

「うっ・・・。ああ、おはようございます・・・。」

 痛みに軽く顔を顰め、春太郎は大きな欠伸をしながらもぞもぞと体を起こした。

 親方達の遣り取りの声や音で、結三郎達も目を覚ましていった。

「いかん! 寝過ごしたか?」

 辺りの明るさに結三郎は慌てて体を起こし辺りを見回した。

 結三郎の寝ていた両隣では祥之助と精介が横になっており、彼等も目を覚まし始めていた。

「ああ、島津様、慌てなくとも。まだ七時半を過ぎたところですし。」

 本堂の雨戸を開けていきながら和尚が結三郎を振り返った。

「そ、そうですか・・・。」

 ひどい寝坊をしたという訳ではなかった事に結三郎はほっとした様だった。

 空気が流れて入れ替わり始めると、鼻が麻痺していて気付かなかったが酒の回った男達の汗や息の臭いが本堂の中に籠っていた事に、結三郎は今更ながら気付かされた。 

「どうせこいつら、今日は二日酔いで大した稽古も出来ぬでしょうしのう。稽古は明日からというところかのう。」

 結三郎の近くを通りながら親方は、まだ寝惚けた様な表情で欠伸をしている春太郎や明春達を苦笑しながら見下ろした。

 昨夜は宴会だった事もあり、今朝位は少しゆっくり目に起こそうという親方や和尚達の気遣いではあったが、かと言っていつまでも寝かせるつもりは無い様だった。

「あー・・・何か気持ち悪ィィ・・・。」

 もぞもぞと体を起こしながら祥之助は結三郎の隣で頭を押さえていた。

「大丈夫か? もう今日はさっさと藩邸に帰れ。」

 心配そうに眺めながらも、結三郎は小さく溜息をついた。

「えええ・・・。看病してくれよ~。藩邸よりお前んトコで養生・・・あ、いや、宴会二日目するぞ。酒飲むのはしんどいからやめにするが、何か軽い菓子とか茶とかで博物苑の動物とか何か花でも見ながら・・・。」

 頭痛に顔を顰めながらもそんな事を呟く祥之助を呆れた様に見ながら、そう言えば昨日照応寺に来る途中で精介にそんな事を言っていたなと結三郎は思い出した。

「宴会二日目はまた今度な。今日は忙しくなるんだ。」

 結三郎は祥之助にそう言い、祥之助とは反対側で寝ていた精介へと視線を移した。

 のろのろと上半身を起こして伸びをしている精介は、一つ欠伸をすると結三郎の視線に気付き微笑んだ。

「おはようございます! 今日はよろしくっす。」

 今日は忙しくなる――博物苑・奥苑とやらで今日は精介を元の世界に帰す為の話し合いや作業が行なわれる。一週間の行方不明に対しての緊張や不安もあったが、これから先の結三郎との元の世界でのお出掛けや次回の日之許への訪問時は結三郎と何をしようか等、そんな事を考え、期待に精介は心を躍らせていた。

「え? 何だ? よろしくって。」

 二日酔いの頭痛だけでなく、精介が結三郎を微笑みながら見る様子にほんのちょっとだけ嫉妬を感じて祥之助はまた顔を顰めた。

「あ、その・・・今日は、結三郎さん・・・いや、佐津摩の人達?に、俺の家に帰る手伝いをしてもらうって言うか・・・。ええと、その。」

 結三郎よりは敏感に祥之助のヤキモチを感じ取った精介は、慌てて祥之助へと言い訳を口にした。

「ああ、ええと。山尻殿の藩の人達と連絡が付いたので、一先ず高縄屋敷で帰り支度をして待機をする事にしてもらったんだ。」

 結三郎の方は祥之助が顔を顰めているのは二日酔いのせいだとしか思っていない様で、それよりも精介についての言い訳を取り繕うのに考えを巡らせていた。

「そうか・・・。良かったのう。」

 結三郎の言葉を聞いた親方が、雨戸を開ける手を止めて精介を振り返った。 

「御屋敷へ帰るのか~。」

「そっか・・・。寂しくなるなあ。また遊びに来いよ。」

「親御さん達によろしくな。」

「気を付けてな。」

 眠気や二日酔いが一遍に吹き飛んだのか、明春達は口々にそう言って精介の周りに集まり涙交じりに取り囲んだ。

 精介の坊主頭を撫で、肩や背中を叩き、別れを惜しみつつも――帰るべき所に帰る決心の付いた精介の事を彼等は心から喜んでいた。

「み、みんな・・・。ホント、有難うございました! またすぐに遊びに・・・いや、部屋の手伝いに来るッス。」

 精介もまた名残惜しさに胸が一杯になり、涙交じりになりながらも明春達に笑い掛けた。

 たった一週間ではあったが、ここでの日々は精介にとって忘れられない大切なものとなっていた。

「ああ、いつでも歓迎じゃ。しっかりと手伝ってもらうぞ。」

 親方も少し目尻に涙を浮かべながらも精介へと笑みを返した。

 雨戸を開け終えた和尚も、親方や皆の様子を微笑ましそうに頷きながら眺めていた。

 精介達の遣り取りを結三郎の横に座ったまま眺めながら、祥之助はそっと息を吐いた。

 精介は精介で、男色を否定されている自分の藩でそれを悩み、隠しながら苦労して生活してきたらしいと昨日の話で知り――それでも元の生活に戻ろうと決心した様子だった。

 そんな精介が結三郎に憧れたり頼りにするのは無理も無い事ではあった。

 それを嫉妬してしまった自分の器の小ささに、祥之助は反省の思いを抱いた。

「精介。何か困った事があったら杜佐藩邸に駆け込んでもいいぞ。門番には俺が言っとく。男色と言えば杜佐か佐津摩だ。ここなら男色でも困る事は無いからな。」

 いつに無く真面目な表情で精介の両肩に手を遣り、祥之助は言い聞かせるかの様に精介へと言葉を掛けた。

「え? は、はい・・・。」

 祥之助の珍しく真面目な様子に戸惑いながらも、精介は取り敢えず頷いた。

「――まあ、ホントに男色の事で困ったら杜佐藩邸よりは、高縄屋敷の方がいいだろうがな・・・。」

 そう言えば、祥之助が浅右衛門からのお使いで初めてここの土俵を訪れた時には、精介は男色の悩み事で泣いている真っ最中だったではないか。

 男色で苦労してきた精介に、何故かかつての自分の事が重なって見えてしまい、祥之助はぼそっとそんな呟きを漏らした。

「ん?」

「え? 武市様?」

 祥之助の呟きが一応は聞こえたものの、その意味を理解しかねて結三郎と精介は祥之助の顔を見返した。

 しかし祥之助はすぐに笑いながらぺちぺちと精介の坊主頭を叩いて誤魔化した。

「何でもねえよ。・・・ていうか、いつまでも武市様も無いもんだぜ。名前で呼べ、名前で! お前、結三郎の事は名前呼びしてるじゃねえかよ。――そういや結三郎もオレのコトいつまでも武市殿、だしな。折角仲良くなったんだし二人共、この際名前呼びに変更だな。」

 結三郎の方にも顔を向け、祥之助は明るく笑い掛けた。

「は、はい・・・しょ、祥之助・・・さん。」

 精介は素直に祥之助へと返事代わりに名前を呼んだ。

 改めて口にすると精介は照れ臭さを感じてしまったが、祥之助の事も結三郎程ではないが性的な意味も込みで憧れ好ましく思ってはいたので、親しい言葉遣いになるのに抵抗感は無かった。

「――私は、また今度な・・・。」

 明春達の見守る中でそんな事を言う気にはなれず、結三郎は軽く笑って誤魔化し、さっさと立ち上がると辺りにあった上掛けや枕を片付け始めた。

「惜しかったですね~祥之助様~。」

 成り行きを見守っていた明春がのんびりと笑いながら声を掛けたが、周りの利春や春太郎、庄衛門達は少し面白がる様ににやにやと笑っていた。

「惜しくねえよ! もう! お前らもさっさと起きて片付けろ!」

 明春達に八つ当たり気味に声を上げると、祥之助も昨日の食器や銚子を片付けようと立ち上がった。



 皆が協力して行なった御蔭で早く本堂の片付けが終わり、昨夜の食器類は庫裏の台所に運び終えた。

 力士長屋のおかみさん達が今朝食器を片付けに来るとは言っていたが、全部を頼るのは申し訳無いと親方と和尚、利春が出来るところまでは洗っておこうと言う事になった。

「台所も狭いし、何人も居てももう手伝ってもらう事も無くなったしのう。お前達は長屋に帰れ。ワシらも片付けが終わったら今日はゆっくり休むから気遣いは無用じゃ。」

 親方の言葉に甘える事にして庄衛門と春太郎は自分達の長屋に帰る事にした。

 明春、精介、結三郎、祥之助も精介の荷物と自転車を取りに行かねばならないので力士長屋へと向かう事にした。

「精介、気を付けて帰るんじゃぞ!」

「またな!」

「はい! 有難うございました!」

 寺の門前で親方達に見送られ、庄衛門と春太郎とも別れて精介達は力士長屋へと歩き出した。

 暫く歩いたところで精介が昨日子供達とした約束を思い出し、隣を歩く結三郎の方へと顔を向けた。

「あ、帰る前にちょっとだけ子供達に自転車乗せてあげたいんですけど・・・。昨日約束してたんで・・・。」

「ああ、別に少し位なら構わないよ。そこまで大急ぎという訳でもないからな。」

 精介の言葉に結三郎は頷いた。

「良かった! あ、後、明春さんと祥之助さんにも乗せるって約束してたんで、そっちの方も・・・。」

 結三郎の答えに精介はほっとしながら、後ろを歩いている明春や祥之助を振り返った。

 二人もまた長屋の子供達と同じ様に、自転車に乗る事を楽しみにして目を輝かせていた。

「あー・・・。まあいいんじゃないかな。みんな新し物好きだものな。」

 長屋の子供達を押し退けそうな位にわくわくした様子の祥之助と明春に結三郎は苦笑を浮かべた。

 まあ、皆を順番に自転車に乗せていくといっても、そう大した時間は取らないだろうと鷹揚に精介に答えた。

「有難うございます島津様~。」

 意外と自転車に乗る事を楽しみにしていた様で、明春は嬉しそうに笑いながら結三郎へと礼を言った。

「精介の自転車、新聞で見たヤツと違ってシュッとしてて何かカッコイイもんな~。」

「そうそう。きっと特注品なんだろ? 塔京じゃ見た事ねぇもんなあ。」

 精介の自転車を褒める明春に祥之助も頷いていた。

 道々そんな事を話しながら歩いていたせいか、結三郎達は力士長屋へあっと言う間に戻って来た。

 精介がこの一週間ですっかり見慣れてしまった、新旧の木材が混じり合って修繕された力士長屋の木戸口に皆が差し掛かると、二人程の恰幅の良い体格のおかみさん達――梅子と良子が出掛けようとしているところだった。

「おはようございます。」

「おはようございます~。」

 精介や明春達が声を掛けると、梅子と良子も気が付いて精介達の方を向いた。

「おはよう。みんな今朝は大丈夫かい? 二日酔いになってないかい?」

「あ~。少しだけ。」

 良子の問いに明春は苦笑しながら答えた。

「ならいいけど。あ、あたしらは、今から照応寺に昨夜の片付けに行ってくるから。」

「一応明春さんと若様に朝の握り飯作ってあるから、食べ終わったら皿は井戸の近くにでも置いといてね。」

 そう言ってさっさと出掛けようとする梅子と良子へと精介は慌てて声を掛けた。

「あ! あの!」

 精介の声に立ち止まり、二人が何事かと振り返った。

「どうしたの?」

「あ、俺、今日で家に帰るんで・・・。その、お世話になりました! 色々と有難うございました。」

 精介はそう言って梅子と良子に頭を下げた。

 精介の言葉に少しの間、彼女等は驚いて言葉に詰まっていたが、すぐに精介に駆け寄ってばんばんと勢いよく精介の肩や背中を叩き、

「もう! 早く言ってよ、もう!」

「寂しくなるわねえ! もっと居てくれたっていいのよ!」

 笑いながらも少し目尻に涙を浮かべていた。

 それからすぐに二人は木戸口に取って返し、中に戻ると長屋中に声を掛けて回った。

「みんな!! 若様、今日で御屋敷に帰るんだってさ!!」

「早く出て来な! お見送りだよみんな!」

 相変わらずの賑やかな彼女等の様子に精介や明春、結三郎と祥之助も苦笑しながら、自分達も木戸口の中へと入っていった。

「どうしたどうした?」

「何? もう帰るの?」

「あらやだ、寂しくなるねえ。」

 男衆は殆どが仕事に出掛けていて留守だったが、年寄やおかみさん達、子供達が次々に戸を開けて表に出て来た。

「あ、あの! 帰る前に、子供達に自転車乗せる約束があるから・・・! まだすぐには帰らないッス!」

 わいわいといつもの調子でおかみさん達のお喋りが始まり掛けたので、精介は大きく手を振って慌てて皆に呼び掛けた。

「あら、そうなの?」

 精介の言葉に少しだけ拍子抜けした様に、梅子を初めとしたおかみさん達はお喋りをやめて精介の方へ顔を向けた。

 その横で子供達は自転車に乗れる事に喜んでいた。

「やったー!」

「若様、ちゃんと約束覚えててくれた。」

「誰から先に乗せてもらう?」

 小さな子供から年長の子供達まで長屋の子供達全員が嬉しそうにはしゃいでいた。



 明春の部屋に戻ると精介は着物から元の制服に着替え、自分のマワシを風呂敷包みから出してスポーツバッグへと押し込んだ。

「いざ帰るとなると何か名残惜しいッスね・・・。」

 壁の穴を塞ぐ樟脳問屋のチラシや、古びてあちこちがほつれた畳――すっかり馴染んでしまった明春の部屋を見渡し、精介はしみじみと呟いた。

「また遊びに来るんだろ~? 湿っぽいのはよそう。」

 いつもののんびりとした笑顔で、明春は土間からの上り口に腰を下ろして精介を見上げていた。

「そうそう。俺なんかすっかりここの連中からはお馴染み扱いされてるぜ。お前もそれ位になる様に遊びに来ればいいさ。」

「お前はもう少し自重しろ。」

 戸口に立って精介が荷物を用意する様子を見守りながら、祥之助は相変わらずの調子で笑っていた。

 隣で立っていた結三郎は祥之助の様子に呆れて溜息をついた。

「あ、着物、一郎さんに返さなきゃ・・・。」

 脱いだ着物を畳み終えると、精介はその着物を手にして立ち上がった。

 外に出ると長屋の者達が相変わらず賑やかにお喋りをしながら精介を待っていた。

「その恰好を見ると、やっぱり若様って感じがするわねえ。」

 一週間振りに制服姿の精介を見て良子が頷きながら言った。

「迷子も今日で終わりかあ。」

「家に帰れて良かったな、若様。」

 精介が着替えている間に、外で長屋の者達に結三郎は照応寺で親方達に告げた様な言い訳――精介の藩の者と連絡が付いたので、迎えが来るまで高縄屋敷で待機する――を説明していた。

 その説明を聞いた子供達は無邪気に精介が家に帰れる事を喜んでいた。

「やっぱり藩の若様だったんだねー。」

「ま、そりゃそうだ。こんな立派なズボンとシャツ着て自転車も持ってるんだもの。庶民じゃないわよ。」

 おかみさん達がそう言って笑い合い、明春の部屋から出て来た精介を名残惜しそうに見た。

「あの、これ、有難うございました。」

 精介は安子の姿に気付き、手にしていた着物を差し出した。夫の一郎の方はいつもの通り野菜の行商に出掛けていて姿は無かった。

「ああ、着物はあげるわよ。どうせ亭主のお古だし。」

 安子が笑いながら精介の手にしていた着物をそっと押し返した。

「え、でも・・・。いいんですか?」

 申し訳無さそうに精介は安子を見た。

「もらっとけもらっとけ。町歩き用の着物は何着かあった方がいいからな。」

 安子と精介の遣り取りを見ていた祥之助が側にやって来て精介の背中を軽く叩いた。

「そ、そうッスか・・・?」

 藩邸をよく抜け出して町を遊び歩いている先輩から促され、精介は着物を有難く貰う事にした。

「この調子だと祥之助様と一緒にまたすぐここに遊びに来そうだな~。」

「違い無いねぇ。」

「ほんとほんと。」

 明春の言葉に長屋の皆も笑い声を上げた。

 それからまた明春の部屋に戻り精介が貰った着物もスポーツバッグへと仕舞い込むと、やっと子供達お待ちかねの自転車の時間になった。

 精介は明春の部屋の土間から自転車を出し、木戸口をくぐると一先ずスタンドを立ててその前へと停めた。

「――精介、これに乗ったままここに突っ込んで来たんだよな~。」

 木戸口の前に停められた自転車を改めて眺めながら、明春はほんの一週間前の夜の事を思い返していた。

「ほんとあの時はびっくりしたわねえ。」

「ほんとほんと。いきなりどかーん、だの、がらがらだのとんでもない音がして。」

「ウチの亭主なんかさあ、その時布団被って震えてて。」

「あらやだ。」

 明春の言葉におかみさん達もあの時の事を思い出し、口々にまたいつものお喋りを始めていた。

 おかみさん達の事は一先ず置いておき、精介は一番小さい子供達から順番に乗せて行く事にした。

 最初は良子の一番下の子供――松吉を乗せる事にした。

 精介が抱え上げて自転車のサドルに座らせると、松吉は視線が高くなった事に驚きながらも喜んでいた。

「背がお千代姉ちゃんと同じになった!」

「じゃあ、このハンドル――は届かないか・・・。えーと、ここをしっかり持っとくんだぞ。」

 まだ小さい松吉はハンドルまでは手が届かなかったので、精介は松吉に自分の座っているサドルの端を持つ様に言ってから、松吉の体を片手で抱く様にして固定した。

 それから注意深くスタンドを蹴り上げると、ゆっくりと自転車を押し始めた。 

「すごいすごい!」

 松吉は歓声を上げ、ゆっくりと動く周囲の景色を楽し気に見回した。

 他の子供達も進路を邪魔しない様にはしながらも、精介と松吉の周りに集まって一緒に歩き始めた。

 長屋の木戸口から出て前の道を数メートル程歩くと折り返し、木戸口の前へと戻ってくると精介は再びスタンドを立てて自転車を停めた。

「有難う若様。」

「良かったねえ。面白かったかい。有難うよ若様。」

 松吉を抱え下ろしながら良子も精介に礼を言った。

「次、俺だぜ。」

「その次あたし!」

 前もって順番を決めていた様で、素早く一列に並んだ子供達が待ちきれない様子で精介を急かした。

「あ、ああ。」

 精介はすぐに次の子供を自転車へと乗せると再び同じ様に出発した。

 そうして次々に子供達を順番に自転車に乗せていったものの――段々と年長組の子供になってくると背も高くなりペダルに足が届く為に、自分で漕ぎ出そうとする子供も少なくはなかった。

「お、おい! いきなりは危ないから! 転ぶぞ!」

 梅子の所の竹雄が面白がってペダルを踏み締めると、勢いが付いて精介の手を少しだけ離れて自転車が前に進み出た。

 しかしすぐに左右にふらつき始めたので精介は慌ててハンドルを掴んで体勢を立て直した。

「危なかったー。」

 転ばずに済んで精介はほっと息を吐いた。

「もう、駄目じゃないか! ちゃんと人の言う事は聞かないと!」

 自転車から降りた竹雄の頭を梅子は軽くはたいた。

「ごめんよ若様。折角乗せて下すったのに。」

「あ、いえ。怪我が無くて良かったです。」

 頭を下げて来る梅子に、精介は慌てて頭を横に振った。

 そして更に次の子供達を乗せていく事を繰り返していき――流石に精介の方に疲れが出始めた。

 息切れし始めた精介の様子に、結三郎は心配そうに声を掛けた。

「大丈夫か? 少し交代しよう。ハンドルを持って押す位なら私でも出来ると思うし・・・。」

「あ、有難うございます・・・。子供達を気遣いながらのせいか、け、結構きついッス、これ・・・。」

 待っている子供達が残り三人になったところで精介は息を切らしながら礼を言い、結三郎に代わってもらった。

「まあ、短距離でも小走り往復何十周、とかって、結構運動になりそうだなあ。」

 屈み込んで小休止を取っている精介の横にやって来て祥之助が手拭いを差し出した。

「あ、有難うございます。」

 軽く頭を下げて精介は手拭いを受け取り、意外と汗を掻いていた顔や首元を拭いていった。

「島津の若様ー! もっと早くー!」

「あ、ああ判った。」

 余り身分差の事等をよく判っていない様で、良子の所の長男の太一郎が無邪気に足をばたつかせながら結三郎を急かした。

「まあ、俺も精介も結三郎も今更だけど、こいつら、一応は藩の若様に乗り物を押してもらってんだよなー。」

 慣れない様子で子供を乗せた自転車を押す結三郎の様子を、祥之助は面白そうに眺めていた。

「太一郎! あんた、島津様の若様に何言ってんだ! 昔なら無礼打ちだよ!」

 長屋で馴染んでいた精介については余り意識していなかった様だったが、流石に島津公の四男様にその言い草は無かろうと、良子は青褪めた顔で太一郎を叱っていた。

「あ、いやいや! 気にしないで下さい! 無礼打ちなどしませんよ!」

 結三郎の方も必要以上に畏まられるのも本意ではないので、慌てて良子を宥めていた。

 そうして、まだ何回も自転車に乗りたそうにしてはいたものの、子供達は一応は満足はした様だった。

「――あの足踏む所、なーんか上手くいきそうな感じだったけどなー。」

「あー、そうよねえ。ぐいっと踏んでだあーっと勢いが付いたら転ばずに走れそうなんだけど。」

 男女問わず年長のペダルに足が付いた子供達は自力での自転車の運転のコツを掴み掛けていた様で、お互いに熱心に話し合っていた。

「どうやら自転車屋の将来のお客さんが生まれた様だな。」

 屈んで休憩していた精介の前に自転車を停めながら、結三郎は子供達の様子を微笑ましそうに眺めた。

「よーし! やっと俺達の番だなー! ほら、精介。」

 待ちかねていた祥之助が楽し気に笑いながら精介の肩を叩いて急き立てた。

 精介が立ち上がるのを待たずに祥之助は早速自転車に跨ると、一応は子供達と同じ様に注意を守って精介がハンドルを補助するのを待っていた。

「えーと、取り敢えず祥之助さんもハンドルを握って、ペダルに足を掛けたまま動かさないで下さいね・・・。」

 そう言って精介は自転車に跨っている祥之助の傍らに寄り、子供達に言った様な事を繰り返した。

「おう。初心者が余計な事をすると怪我の元だもんな。相撲と一緒だ。」

 てっきり言う事を聞かずに自分勝手に振舞いそうだと思っていたが、祥之助が素直に従う様子が意外に感じられ、精介は自分の真横で機嫌良くサドルに腰掛けている祥之助の顔を思わず覗き込む様に見てしまった。

「じゃあ、行きます。」

 精介は祥之助に声を掛け、ゆっくりと自転車を動かし始めた。

「うっ、結構重いッスね。」

 軽かった子供達の体重に慣れてしまっていたせいで力加減を間違えてしまい、精介は祥之助の体をほんの一瞬だけふらつかせてしまった。

「おいおい気を付けろよ。」

「す、すんません。」

 祥之助が苦笑し、精介は慌てて謝った。

 それから精介は自転車を進めていきながら祥之助の体を支え易い様に体を寄せ、ハンドルを握っている祥之助の手の上へとしっかりと手を重ねた。

 体重は精介と同じ位と思われる祥之助の体が軽くもたれかかり、薄く汗ばんだ着物の布地やその下のがっしりとした体躯が精介の右半身へと感じられ――思わず精介は顔を赤らめ、軽く目を逸らしてしまっていた。

「何だ何だ。明春に結三郎に、次は俺か? なかなか気の多い奴だな。惚れっぽいのか?」

 精介の様子に気が付いた祥之助は、にやにやと笑いながらわざとらしくふっと精介の耳元に息を吹き掛けた。

「あ! いやその、誰でもいいって訳じゃないッスよ!」

 急に息を吹き掛けられ思わず体を震わせ、精介は慌てて言い訳染みた事を言い立てた。

「ん? じゃあ、結三郎とおんなじ位には俺にも惚れてるとかか?」

 祥之助は少しからかう様に精介に声を掛けた。

「え、まあ・・・その・・・好きとか何とかまでは、その、何ですけど・・・。お二人共、その、憧れというか何と言うか、そんな感じでですね・・・。」

 顔を赤くし俯きながら自転車を押し続け、精介はぼそぼそと呟く様に祥之助へと答えた。

「成程なあ。まあ、俺はお前のコトは一瞬嫌いだったけど今は見直して、好ましいとは思ってるぞ。」

「え!?」

 祥之助らしい直截な物言いに精介は思わず顔を上げた。

「嫌いで――見直して?」

「何か知らんが結三郎の事を泣かせただろ。あれは気に入らんかったが、まあ後でお前も自分の藩で男色を隠しながら苦労して来たとか何とか聞いたし、まあ、帳消しにして――後はまあ相撲の取り口も体付きも顔付も俺好みなので、ほんのちょっと好意が勝る・・・といった感じかな。」

 何の取り繕いも無く明け透けに話す祥之助の言葉に、精介は半ば苦笑しながらも結三郎を泣かせてしまった時の事は本当に申し訳無く思い、再び胸を痛めた。

「・・・ていうか、体付とか顔付って・・・。」

 相撲の取り口は兎も角として、自分の顔や体が好みだと面と向かって言われてしまい精介は戸惑い、また顔を赤くして俯いてしまった。

「まあー・・・例えるなら結三郎が俺の正室で、お前が側室、という風にしてもいいかなー。」

「そっ、側室っ!?」

 祥之助の意外と本気で言っている様子に精介は驚きにまた体を震わせてしまった。

「おいおい!! 二人共! 何処まで行ってるんだ!」

 そこに随分と離れた所から上げられた結三郎達の声が聞こえてきた。

「あ・・・!」

 祥之助の話に集中してしまい、精介はずっと道に沿って真っ直ぐに自転車を押し続けてしまっていたのだった。

「武市様、ずるいい!!」

「そうだそうだ! ミブンをカサニキタオウボウだぞ!」

 結三郎の周りで子供達も不満の声を上げ、あまり意味の判っていない様な聞きかじりの言葉も聞こえてきた。

「あー、悪い悪い! すまん! つい話に夢中になっちまった。」

 祥之助は自転車に乗ったまま子供達に謝った。

 精介は慌てて折り返し、自転車を小走りに押して急いで木戸口まで戻ってきた。

「すんませんー。うっかりしてたッス。」

 精介は結三郎や子供達に頭を下げた。

「じゃあ~、俺はちょこっとだけ乗せてもらうから。その分、もう一周だけ子供達を乗せてあげられないかな~。俺も押すの手伝うからさ~。」

 明春が精介や結三郎に伺いを立てると、結三郎は苦笑しながら頷いた。

「いや、明春殿もちゃんと乗って下さい。楽しみにしていた様ですし。山尻殿さえ良ければ、子供達ももう一周分いきましょう。さっきも然程時間は掛からなかったし、私も押すのを手伝います。」

 高縄屋敷での生活で、新しい物や珍しい物を時間を忘れて弄り回したり、隅々まで観察したりする楽しさをよく知っている結三郎は自転車にはしゃぐ皆の気持ちもよく判っていた。

「勝手を言ってすまないが、山尻殿もそれでいいかな・・・?」

「は、はい! 勝手だなんてとんでもないッス。勿論それでいいッス!」

 申し訳無さそうにしている結三郎の問い掛けに、精介に反対の意見がある筈も無く大きく頭を縦に振り笑みを浮かべて承諾した。



 それから明春も子供達も自転車に乗り――というか、精介や結三郎に一回目よりは少しだけ長い距離を押してもらい楽しむ事が出来た。

 そうしてやっと精介は結三郎と共に高縄屋敷へと出発する事にした。

「若様、元気でね!」

「いつでも遊びに来てね!」

「自転車また持って来てよ!」

「気を付けてな~。」

 おかみさん達や子供達、明春に見送られながら精介はスポーツバッグを背負い、自転車を押しながら結三郎、祥之助と共に力士長屋の木戸口を後にした。

 梅子と良子も改めて照応寺で昨夜の食器の片付けをする為に、精介達に手を振ってから反対方向へと出掛けていった。

「お世話になりました!」

 振り向いて手を振り精介は少しの間、名残惜しそうに長屋の皆を見ていたが、またすぐに前を向いて自転車を押し始めた。

「一週間もあっという間だったなー。」

「そ、そうッスねー。」

 祥之助の言葉に精介はまだ何となく戸惑いながら返事をした。さっきの側室にしてもいいという祥之助の言葉がまだ耳に残っていたのだった。

 祥之助と、正室の結三郎と、側室の自分とで日之許で暮らす――それも悪くはないかも、と精介は考え掛け・・・この場合は夜の相撲の取り組みはどうなるのだろうかと、つい思春期男子らしい妄想に意識が逸れ掛けていた。

 祥之助と結三郎と精介の中から二人ずつ順番に取り組みを行なうとして――更に先攻、後攻も考慮して・・・。いや、三人一度に取り組む場合もあり得る訳で・・・。

「どうした?」

「顔が赤いぞ。大丈夫か?」

 祥之助と結三郎から同時に声を掛けられ、精介は慌てて頭を横に振って誤魔化した。

「いやいやいや、何でも無いッス! 大丈夫ッス! ホント!」

 赤くなった顔と、もぞもぞと落ち着かなくなりかけた下半身を誤魔化す様に精介は俯いたまま自転車を押し続けた。

「おいおい、高縄屋敷はこっちだぞ。」

 足早に歩いて結三郎と祥之助を追い越してしまい、精介は結三郎の慌てた声に呼び止められた。

「あ、すんませんっ。」

 急いで自転車を停めて結三郎達の所へと引き返すと、心配気な表情の結三郎と呆れながらも見守っている風な祥之助の様子が精介の目に入った。

「大丈夫か? 何処か具合でも悪いんじゃないか?」

「――大丈夫だと思うぜ。どうせ結三郎や俺のコトを助平な目で見てたんだろ?」

「いや・・・。ハハ・・・。その・・・。」

 見透かしたかの様な祥之助の言葉に精介は否定も出来ず、誤魔化す様に笑いながら二人の後ろに付いて自転車を押し続けた。


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メモ書き


 年度末で色々と慌ただしい毎日ですが如何お過ごしでしょうか。

 ヲカマのおっさんは今般の介護保険の改正によって心身共に大ダメージを負っております。全くもう・・・。現実が辛いので空想の世界にログインしてウフフ、アハハ、キャッキャしないとやってられませんわ。

 そういう意味では昨年末からの高縄屋敷の物語の執筆は随分と精神的に助かっています。イモ臭い雄臭いガチムチ兄ちゃん達がわちゃわちゃしている世界に我が心を遊ばせて永遠に生きていたい・・・(狂人の寝言です)


 さて、第二話もぼちぼち終盤ですが。第三話は取り敢えず小ネタとか短めの話を書きたいと考えております。後、第二話を自分で読み返していると、あれこれと、ここの部分のネタを拾って広げて一つの話に仕立てられるワネ、みたいな箇所もあったりして。

(安吉がお稚児を強制される話とか、博物苑の出張動物園とか、奥苑の中別府達とか、本編では省略してしまいましたが証宮新報の記者達の話とか、力士長屋の子供達のちょっとした冒険話とか、長屋の大家と親方、和尚、浜田屋の残された妻の話とかとか・・・。)

 ほんと、体力と気力と集中力、どっかから湧いてこないかしらねえ・・・。

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