第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の十七 精介の皆との別れが近付きしみじみとするに就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の十七 精介の皆との別れが近付きしみじみとするに就いて記す事」


 夜道の向こうに照応寺の門が見える所まで皆が差し掛かり、寺の門に吊るされた小さな提灯の明かりに誰からと言う事も無く安心した様にほっと息を吐いた。

 普段は節約の為に灯りもつけてはいないのだが、今夜は宴会だと言う事で和尚が来客の為に灯していた様だった。

「あ、みんなは先に行っててくれ。まだ酒売ってたら追加を買って行くから。」

「え? 祥之助様~?」

 明春やおかみさん達が振り返ったが、照応寺に着く少し前で祥之助は皆から離れると、目に留まった寺の近所の酒屋へと寄る事にした。

「店仕舞いのところをすまないなー。何か残ってないか?」

 日も暮れて辺りは暗くなってしまい、店仕舞いをしていた店主らしき老人へ声を掛けると、祥之助は店の中へと入っていった。

 祥之助の問いに振り向くと、老店主は店仕舞い時にやって来た客にも嫌な顔はせず、店の入り口に置いてあった二つの直径五十センチ程の大きさの樽を指し示した。

「へい。この二つが売れ残ってます。覚証寺の夏祭りってんで沢山仕入れたんですけど、思った様には売れなくて・・・。」

「よし、この二つを買おう。代金は杜佐藩邸に請求してくれ。」

 樽を軽く叩く祥之助の言葉に老店主は驚きに思わず声を上げた。

「へっ!? と、杜佐藩邸!?」

 老店主の驚きを気にした風も無く、祥之助は笑いながら頭を下げた。

「いやー、すまん。今日は金があんまり残ってねえんだ。一筆書くから、それを証書にして藩邸に持ってけばきちんと金は支払われるから。」

「ええ・・・? 一筆って・・・。」

 小さな個人商店が藩邸と取引等、今まで行なった事がある筈も無く。

 老店主は祥之助の言葉に驚き、何かの詐欺ではないかと半信半疑の目で祥之助を見つめてしまっていた。

「・・・全く。ちゃんと残金を考えて買い物をしろ。」

 祥之助を追い掛けて後から精介と共に店に入って来た結三郎が呆れて溜息をついた。 

「へ~、酒屋とかってこんなんなってるんスね。」

 精介は結三郎の後ろの方でそんな事を言いながら、初めての日之許の個人商店の様子に店内を物珍し気に見回していた。

 土間に頑丈そうな台や棚があり、その上に一抱えもある様な大きな樽が二つ三つ並べられていた。樽の底に近い場所に棒状の栓がされていて、それを引き抜いて適量を量って売るという商売方法の様だった。

 精介が興味深そうに大樽を眺めている横で、結三郎は老店主に軽く頭を下げて謝った。

「すまない。こいつの代わりに私が支払いをするから。幾らになる?」

 老店主に尋ねながら、着物の懐から巾着袋を取り出したが――。

「あ。」

 結三郎の手持ちの金も小銭が数枚だけ、と、残り僅かで、後は金額部分が空白になっている藩札が一枚入っているだけだった。

「何だよー、お前だって似た様なもんじゃねえかよ。」

 横から巾着袋の中身を覗き込み、祥之助は結三郎の頬を突っついた。

 結三郎は祥之助にむっとした表情を向け、それから老店主に頭を下げた。

「申し訳無い。筆を貸してくれ。藩札で払うから。両替商に持って行くか、高縄の佐津摩藩別邸に持って来てくれればきちんと代金は支払われるので・・・。」

 結局祥之助と似た様な事を言う羽目になってしまい、恥ずかしさに少し顔を赤くしながら結三郎は藩札を見せて老店主に説明した。

 しかし、藩札に書かれていた佐津摩藩や島津結三郎という名前に老店主は更に驚き、言葉も無い様だった。

「そっちが杜佐に、こっちが佐津摩??? え? 島津様???」

 日之許国の藩札は、帝が認めた国内共通の通貨とは別に定められた法律の下に運用されている小切手の様なものだった。

 金額の書かれたものと書かれていないものと二通りあり、書かれていないものは乱用防止の為にごく一部の限られた身分のものしか持つ事は出来なかった。

 両替商――精介の世界で言う銀行や、発行元の藩邸で共通の通貨に換金する事が出来る様になっていた。

 呆然とし続けている老店主を促し筆を借りると、結三郎は代金を藩札に書き込もうとした。

「あ、酒以外にも何か無いか? 子供達にも何か飲ませてやりてえんだが。」

 祥之助が記入しかけていた結三郎の手を止め、老店主に尋ねた。

「へ、へい。甘酒と夏ミカン水なら少し・・・。」

 老店主は祥之助と結三郎の身分が高そうな事に戸惑いつつ、店の奥に置いてあった小さな樽を持って来た。

「じゃあ、酒二つに甘酒一つ夏ミカン水一つという事で。勘定を頼む。」

「へ、へい。」

 祥之助の言葉に老店主は恐る恐る結三郎へと値段を告げた。

 結三郎が藩札に数字を書き入れて渡すと、老店主は今まで縁が無く初めて手にする藩札を何度も引っくり返したりしながら眺めていた。

「あ、一応念の為、俺も一筆書いて手形押しとこうか?」

 初めて入った店で杜佐藩だの佐津摩藩だのいきなり言っても信用されないのは当然だと思い、祥之助は苦笑しながら老店主へと右の手の平を軽く上げた。

「・・・金融の用語じゃなくて、ホントに手形なんスか・・・。」

 祥之助と結三郎の後ろで買い物の様子を眺めていた精介は、呆れた様な感心した様な溜息をついた。

「おう。ちゃんと藩邸の受付には俺の手形を保管してもらってるからな。」

 祥之助は笑いながら自分の右手を精介に見せた。

 大雑把な祥之助は稽古をさぼって遊びに出る時に財布を忘れる事も多く、食事代や酒代等、少額ではあっても支払いに困る場面も多かった。

 一応は掌紋や指紋に個人差があるという知識は日之許に行き渡っており、借用書や公的な申請書等に字が書けない者については、代筆者の署名と本人の爪印や拇印を合わせて行う事で書類に効力を持たせる事が認められていた。

 祥之助のツケ払いの請求書が度重なった為に、杜佐藩邸の門番の受付や会計係の処理が速やかに行なわれる様にと、仕方無く確認用の祥之助の手形が予め藩邸には何枚か保管される様になったのだった。

「要らんよ! 大体、佐津摩の藩札に杜佐藩の人間の手形が添えられていたら両替商が混乱するだろうが!」

 買った樽を一先ず一個抱えて店の表へと運び出しながら、結三郎は呆れた様な目で祥之助を一瞥した。

「あ、俺も手伝うッス。」

 精介も酒樽を一つ抱えて結三郎の後に続いた。

「あ、でも、・・・記念に欲しいな・・・。祥之助様と結三郎さんの手形とか・・・。」

 元の世界で大相撲の力士がサインをして手形を押した色紙が販売されていたり、イベント等の記念品として配られていたのを精介は思い出した。

「せめて・・・思い出に、なんて。」

 寂し気に笑い、精介はそっと呟いた。

 精介が転移して来た時にスマホやデジカメを持ってきていたならば、色々と結三郎達の写真を記念に撮ったりもしていたのだろう。

 しかしスマートフォンを一応は高校入学時に義父から持たされはしていたものの、そうした物の利用に興味の薄かった精介は鞄の底に突っ込んでいるか自宅の充電器に挿しっ放しの事も多く、友人達からも不所持をからかわれる事も多々あった。

 日之許に転移してきた日には自宅の充電器に挿しっ放しのままの状態で学校に行っていたのだった。

 後悔の思いに精介は今更ながら、これからは外出時にはせめて鞄の中には入れておくようにしようと決心した。

「何だ? 手形なんか欲しいのか? 幾らでも押してやるぜ!」

 後ろから甘酒と夏ミカン水の小樽を両脇に抱えて歩きながら、祥之助が精介へと笑い掛けた。

「まあ私も別に手形位は構わないが・・・。」

 結三郎も店の出入り口で酒樽を抱えたまま精介を振り返った。

「あ、有難うございます!」

 結三郎達の答えに精介は喜びの声を上げた。

 結三郎と精介の後に続いて店を出ながら祥之助は、嬉しそうにしている精介の肩に背後から少し爪先立ちをして自分の顎を乗せてもたれかかった。

「あ、何ならついでに俺と結三郎のチン拓・・・。」

「それ以上いかがわしい冗談を言うと公式戦以外でお前と二度と相撲を取らんぞ。」

「大変申し訳ございませんでしたぁぁっっ!!!!」

 祥之助がつまらない冗談を言い掛けたのを結三郎が睨み付けると、祥之助は慌てて体を折り曲げる様にして大きく頭を下げた。

 あそこの手形も貰えるものならば遠慮するつもりは無く、精介も「はい喜んで」と言い掛けていたが――、祥之助を睨む結三郎の視線に言わなくて良かったと心から思ったのだった。

「全くもう・・・。」

 眉を顰めつつも、まだ頭を下げている祥之助の様子に苦笑を浮かべながら結三郎は酒樽を抱えて店を出た。

「あ、待っててくれたのですか。」

 店から少し離れた所で、明春達が立ち止まって待ってくれているのが結三郎達の目に入った。

「まだ荷物積めますからどうぞ~。」

 明春が荷車を示すと、重箱の入った風呂敷包みが荷台の片隅に寄せられていて酒樽を積む準備が出来ていた。

「申し訳無い。」

 結三郎が酒樽を荷台に乗せ、精介も同じ様に酒樽を乗せると丁度良く台の中に納まった。

「あー、流石にこっちは無理か。」

 小樽を一旦地面に下ろして祥之助が残念そうに言った。

「あ、一個持ちます。」

 そう言って精介が小樽を一つ抱え上げた。

 樽は高さが四十センチ程で容量も恐らく二~三リットル程度と思われ、精介にとっても祥之助にとっても然程重い物ではなかったが、二個抱えて歩き続けるのは相撲の稽古の時間だけにしておきたいものだった。

「お、悪ィなー。」

「いえ、これ位はさせて下さいッス。」

 精介は礼を言う祥之助へと笑い掛けた。

「じゃあ、今度こそ寺に行こうか~。」

 明春の声に皆は再びすぐ向こうに見える照応寺へと歩き始めた。

 精介と祥之助の抱えている樽の中の甘酒と夏ミカン水の匂いに惹かれたのか、二人の歩いている周りに段々と子供達が群がり始めた。

「ちょっと匂い漏れてるわよね。若様の方は甘酒ね。」

 精介の持つ小樽に少し顔を近付けながら年長組のおかっぱ頭の少女が笑みを浮かべた。

「ほんとだ。あ! 武市様の方は夏ミカン水だ。」

 彼女の横に引っ付いて歩く妹分の少女も祥之助の方の小樽に顔を近付け、樽から漂う夏ミカンの香りに嬉しそうに笑った。

 お腹が空いて喉も渇いているのだろう、子供達は寺に用意されているであろう御馳走が何だろうかとお互いに話しながら精介と祥之助の周りを歩いていた。

「なあなあ若様、相撲強かったよなー。」

「武市様位強かった。」

 そうやって歩いていると、丸坊主頭の男の子達が精介の横に来て今日の試合の事を楽しそうに話し掛けてきた。 

「あ、今日は応援ありがとう。」

 精介は子供達に笑いながら礼を言った。

「若様、春乃渦部屋に入るんだろ? 明春さんトコ。」

「長屋から通うのか? 御屋敷から通うのか?」

「えー? 御屋敷ってすっげえ遠い所じゃなかったか? だって帰り道判んねぇ位遠いんだろ?」

 子供達が精介や祥之助の周りを歩き、無邪気に笑いながら口々に言い立て喋り合った。

「あー・・・・・・。」

 子供達の問い掛けに精介は一瞬言葉に詰まり、見守っていた結三郎も表情を曇らせた。

「こらっ! 余計な事を言うんじゃないよ。」

 精介に何かしらの事情がある事を察しているおかみさんの一人が、慌てて子供達の頭を軽くはたいた。

「あー・・・まだその、部屋に入るかどうかは・・・お、親と相談してから・・・で・・・。」

 苦しい言い訳だと思いながらも、精介は何とか笑みを取り繕って子供達に答えた。

「そっかー。」

「だよなー。殿様の許可とか要るもんなあ。」

 精介の答えに子供達は残念そうに溜息をついた。

「ご・・・ごめんなー・・・。」

 子供達の様子に申し訳無さが湧き起こり、精介は抱えていた小樽へと視線を落とした。

「山尻殿・・・。」

 精介の落ち込む様子に結三郎も心配そうな目を向けていた。

 そうこうする内に一行はやっと照応寺へと到着した。



「おー! やっと来たか!」

 暗くなった境内で待っていた春太郎が、長屋の皆の姿に気が付いて門から出て寄ってきた。

「ごめんなさいねー。」

「お腹空いたでしょう。あたしらも差入作って持って来てるから勘弁してね。」

「あ、途中で武市様がお酒買い足してたから、みんなで呑みましょ!」

 いつもの調子でおかみさん達が口々に言い立て――一応は謝ってもいるらしい――ながら、今日の祝勝会の会場の本堂へと子供達を引き連れて境内を進んでいった。

「あ、はい・・・。」

 おかみさん達の勢いに春太郎は思わず後ずさり、本堂の方へと進んでいくおかみさん達の後を付いていく様に歩き始めた。

「はー、着いた着いた。」

「ちょっと疲れたかねえ? みんな腹減ったねえ。」

 明春が本堂の前へと荷車を止めると、おかみさん達は差入のおかずの風呂敷包みを手にして子供達と共に先に本堂の中へと入っていった。

「ほらほら、お酒も!」

「は、はい!」

 おかみさんの一人が振り返り春太郎を急かした。

 春太郎が慌てて返事をし、荷台に取って返すと酒樽を一つ抱え上げ本堂へと運び始めた。

 おかみさん達の夫達や明春もその様子に苦笑した。

「――おお。やっと来たか。その樽はこちら側に・・・。」

「あ、はい~。」

 出入り口から和尚が顔を出し、樽の置き場所を指差した。明春はもう一つの酒樽を抱えあげると中へと入っていった。

「少し遅かったなー。」

「もう腹減って倒れそうだったぞ。」

 本堂の中から庄衛門や利春の声が聞こえ、長屋の者達と親方や和尚の挨拶する声も賑やかに聞こえてきた。

「おうおう、待たせたなー。すまんすまん。」

 祥之助と精介は小樽を抱えたまま本堂の中へと入り、結三郎もその後に続いた。

 本堂の中は何処からか搔き集めてきた燭台や行灯が並べられ、普段よりは明るい光に照らされていた。

 精介も長屋での暮らしには幾らか慣れてきていたので、明春の部屋の蝋燭一本、行灯一つの薄ぼんやりとした灯りに比べると、今日の本堂は随分と明るく感じられた。

 本堂の床には食卓や、食卓代わりの木箱が並べられ、その上に料理が既に並べ終っており宴会の準備が出来ていた。

 明春と精介の住む力士長屋だけでなく、庄衛門と春太郎の住む力士長屋の者達も何人か来ており、余り広いとは言えない本堂には意外と大人数が座っていて随分と賑やかになっていた。

 明春の住む力士長屋のおかみさん達の持って来た料理も並べ終えると、やっと宴会が始まる事となった。

 祝勝会の始まりに当たって親方は皆の前に立ち、まずは深く頭を下げた。

「――此度は皆さんの御蔭で、春乃渦部屋の再出発をする事が出来申した。真に感謝に堪えませぬ。」

 弟子達や長屋の住人達、結三郎や祥之助、精介達をほんの少し嬉し涙交じりに見渡しながら、親方は嬉しそうに口上を述べた。

「小さな大会ではありましたが優勝する事も出来、些少ながら賞金を手にする事も出来た。その事は部屋の力士達の励みにもなり申した。そして――この賞金を、部屋の皆からの礼の気持ちとして照安(しょうあん)和尚に贈らせて頂きたい。」

 親方の手にしていた和紙の封筒には優勝賞金と書かれていた。

 開封せずにいた封筒をそのまま親方は、親方の横に座っていた和尚を立たせて手渡した。

「・・・全く。こんな大仰な事をせんでも・・・。」

 照れ臭そうに親方を軽く睨み、和尚は封筒を受け取った。

「大仰な事でもせんと、お主は受け取らんじゃろう。」

 封筒を和尚の手の中にしっかりと押し付け、親方は笑いながら和尚の肩を叩いた。

「全くもう。お前はいつもそうじゃ。」

 少しの間、子供時代の照吉と広保に戻ったかの様に和尚は拗ねた様な表情で口を尖らせ、親方を軽く睨んだ。

 それからすぐに和尚は皆の方へ顔を向け直し、深々と頭を下げた。

「――皆の衆の気持ちはしっかりと受け取りましたぞ。まずは御仏にお供えして、それから寺の為、皆の為に有難く使わせて頂こう。――さ、堅苦しい話はこれまでにして、食事にしよう。」

 和尚の締め括りの言葉に皆が一斉に拍手をしてから、賑やかに喋り始め、お互いに酒を注ぎ、宴会が始められた。

「ほら、飲め飲め。」

 酒がまだ飲めない精介の両隣にやって来た明春と利春が、精介の湯呑へと手にしていた柄杓から夏ミカン水を注ぎ始めた。

 既に明春と利春は二、三本の銚子を片手に顔を真っ赤にしており、短い時間の内に酔っ払っていた様だった。 

「あ、その、俺はメシの方が・・・。」

 明春と利春に挟まれ、精介は戸惑いながら二人の酔って赤くなった顔を交互に見た。

「酒じゃないからいいだろ~。」

「そうそう。俺達の気持ちだ! ホント、助っ人してくれて有難うよ!」

「あ、ハイ・・・。」

 両隣から一遍に話し掛けられ酒臭い息に少し顔を顰めながらも、精介は注がれた夏ミカン水を飲み干した。

「よーし、もう一杯いこう。」

 利春が持っていた銚子を傾け、精介の湯呑に今度は甘酒を注ぎ始めた。その中には予め甘酒が入れられていた。

「俺等は普通の酒な~。」

 へらへらと機嫌良さそうに笑いながら明春が自分の持っていた大き目の徳利を利春へと手渡した。

 こちらの徳利には酒が入っており、受け取った利春はそのまま直に飲み始めた。

「明春さん達、こんな短時間でかなり酔ってないッスか・・・?」

 精介は口の中がべたべたと甘くなるのを我慢しながら、困った様に明春と利春を見た。

 多くの酒を飲んだのかそれとも酒に弱いのか、宴会が始まってまだ間も無いのに、明春も利春もそれぞれ徳利から直飲みしながら真っ赤な顔で楽しそうに笑っていた。

 精介の困惑している様子を向かいの席で面白がりながら、祥之助は楽し気に眺めていた。

「ま、いいじゃねえか。今日までみんな頑張って来たんだ。今日位は楽しめよ!」

 酒に弱いというのを一応は自覚している祥之助は、まだ多くは飲まず、お猪口一杯を舐める様にして専ら酒の風味と宴会の雰囲気を楽しむ事から始めていた。

「そうだな。色々と大変な中みんな頑張って、それで勝ったんだ。今日位ははしゃいだっていいじゃないか。」

 祥之助の隣に座り、酒よりもおかみさん達の作った煮物を美味そうに食べながら、結三郎も精介達に微笑んだ。

 あの怒鳴り合いからの号泣の後で祥之助に自身の身の上話を聞いてもらい、結三郎の気持ちも既に随分と落ち着いていた様だった。 

「あ・・・。そ、そうッスね・・・。ハハ・・・。」

 精介の方はまだ申し訳無さでまともに結三郎の顔を見る事は出来なかったが、取り敢えず結三郎が一応は落ち着いている様でほっとしていた。

 あんた呼ばわりして襟首に掴み掛かってしまった申し訳無さや、身の上話を盗み聞きしてしまった罪悪感や――祥之助の肩にもたれかかって号泣していた結三郎を、自分もまた抱き締めて包んでやりたいと思ってしまった胸の痛みや疼き。そうしたものがまだ精介の胸の中で混乱しながら揺れ動いていた。

 酒は飲んでいなかったが、知らず精介の顔は赤くなってしまい、思わず視線を落としてしまっていた。

「何だあ~。憧れの佐津摩の益荒男殿を見て顔を赤くしてますよ~コイツ~。」

 明春が少し呂律の怪しくなり始めた口調でそんな事を言いながら精介の頬を指で突っついた。

「けしからんなー。俺達のコトもイカガワシイ目で見ていたクセにー。けしからん! そんなヤツはこうしてくれるー。」

 手近に置いてあった徳利や銚子も手に取って次々に直飲みしていきながら、利春も段々と酔いが進んでいた様だった。

 酔って赤くなった顔を精介に近付け、酒臭い息をふうっと拭き掛けると――。

「っ!!」

 利春の酒臭い息に顔を顰めて精介が肩を竦めたところに、利春は唇を突き出して精介の頬へとぴったりとくっ付けた。

「俺もこうしてくれる~。」

 反対側からも明春の酒臭い吐息と唇が迫り、精介は利春と明春に挟まれ両頬へとキスを受ける羽目になってしまったのだった。

「!!!!」

 頬とは言え好みの二人からの突然の口付けに精介は目を丸くして硬直してしまっていた。

「おー! 羨ましいなー!」

 向かい側で握り飯を食べていた祥之助が、半分は本気で羨ましそうな目で精介達を見ながら笑い声を上げた。

「優勝に貢献してくれた精介殿にご褒美だ~。」

「ご褒美ご褒美。夜相撲には付き合えんが、せめてこれ位はなあ。俺等からの気持ちだ。」

 明春と利春も笑いながら精介の顔から唇を離し、また徳利から酒を直飲みした。

「ごごごご、ご褒美って・・・!」

 精介は恥ずかしさに顔を真っ赤にして硬直したまま俯いてしまった。

 嬉しくはあったがキス――とも言えないチュッ程度の触れ合いに、精介は少し残念な様な気持ちも感じてしまっていた。出来ればもう少し濃厚な唇や体の触れ合いを――等と、つい欲張った事を考えてしまっていた。

 ――そう言えば試合の直前に、緊張し過ぎていた精介の気持ちを解す為に明春が、勝ったら俺がご褒美になってやるとか何とか・・・ラブコメ漫画の様な事を言っていた事を精介は思い出した。

 流石にそれを本気にするつもりは無かったし、結三郎に対しての様な強く惹かれる程の慕わしさがある訳ではなかったが――。

 この世界にやって来て同じ部屋で寝起きを共にして、時々は明春の事を考えながら便所で熱い排泄をしてしまっていた位には、明春の事も好ましく思っていた精介は、頬にキスをしてきながら目の前で無邪気に笑いながら酒を飲んでいる明春の様子が少し恨めしくも思ってしまった。

「う、嬉しいけど・・・困るッス。」

 少し拗ねた様な口調で精介は口を尖らせた。

「まあまあ、気持ちは素直に受け取っとけよ。貰えるもんは何でも貰っとけ。」

 祥之助が笑いながら無責任な事を言うのを、隣で結三郎は苦笑しながら眺めていた。

 そうして皆にとって楽しい宴の時間が流れていき、夜も更けていった――。



 食べたりはしゃいだりしていた子供達も疲れが出た様で、本堂の隅で固まって寝始めていた。

 長い時間皆との尽きないお喋りを楽しんでいたおかみさん達も、子供達の様子を見て先に長屋に帰る事にした。

「じゃあ、あたしらは先に帰らせてもらうよ。」

「食器の片付けとかはまた明日来るから、どっかまとめといて下さいな。」

 年長の子供達は起こして、幼い子供を背負うと、おかみさん達は親方と和尚にそう言って酔っ払った亭主達の手も引っ張って帰っていった。

「今日は本当に有難う。」

「気を付けて帰るのじゃぞ。」

 おかみさん達が帰るのを寺の門から見送り、親方と和尚が本堂に戻って来ると、残っていた明春達四人と祥之助もまた酔い潰れてあちこちで寝てしまっていた。

「こいつらは今夜はここに寝かせておくか・・・。」

 気持ち良さそうに手足を投げ出して寝ている庄衛門や春太郎の様子を横目に溜息をつきながら、親方は空になった食器を片付け始めた。

「あ、手伝います。」

「俺も。」

 酔い潰れる程には飲まなかった結三郎と素面の精介が立ち上がると、明春達を起こさない様にそっと食器を集めたり、机を本堂の隅へと移動させた。

「夏じゃから風邪はひかんじゃろうが、取り敢えず枕と布団を取って来よう。――もう遅いし、精介も結三郎様も泊っていくといい。」

 和尚はそう言って布団を取りに本堂を出ていった。

「和尚もああ言っておるし、ここで雑魚寝にはなりますがよろしければ・・・。」

 二つ程残して他の行灯の火を消していきながら、親方は結三郎に声を掛けた。

「そうですね・・・。そうします。」

 幾らかは酔っているというのもあり、今から高縄屋敷に帰るのも面倒ではあったので結三郎は和尚と親方の提案に甘える事にした。

「あ、ちょっと厠に行って来ます。」

 甘酒と夏ミカン水を延々と飲まされたせいで、腹を満たしていた水分はすぐに膀胱に回ってしまっていた。精介が親方にそう断って本堂を出ようとすると、その声でほんの少し目が覚めたのか薄眼を開けた明春がのろのろと顔を上げた。

「厠か~・・・。今度は居なくなるんじゃないぞお~~・・・。」

 半分以上寝惚けた様子で、しかし精介の事を心配している様に声を掛けると明春はまた頭を横たえて寝始めた。

「は、はい・・・。」

 明春にも随分心配を掛けてしまっていたのだと、精介は今更ながら申し訳無さそうに返事をして本堂から出ていった。

 精介が出て行くのを見送りかけて、結三郎は今更ではあったが、やっと精介と余人を交えず元の世界への送還についての話が出来る機会が巡って来たと気が付いた。

 祥之助も春太郎の横で酔い潰れて寝てしまっていたので、今は祥之助の事も気にする必要が無かった。

「! ・・・あ、私も厠に・・・。」

 慌てて結三郎も親方にそう言うと精介の後を追って本堂から出ていった。

「――連れションですか~。島津様も・・・。」

 むにゃむにゃと何事かを呟く明春の声が聞こえたが、すぐによく判らない言葉になって明春の口の中に飲み込まれていった。

 すっかり夜も更けてしまい何かの照明があるという訳でもない境内は、微かな月明りで辛うじて前が見える様な状態だった。

 この一週間の科ヶ輪での生活でそんな暗がりにも慣れ、精介は慣れた足取りで本堂の裏手にある便所へとやって来た。

 和式便器ですらない肥え桶の上に穴の開いた箱を被せただけの便所にも一応は慣れ、何とかこれで大の方の用も足せる事が出来る様にはなってきていた。

 暗がりの中で小用を足しながら、精介は何となく便所に対しても妙な感慨を抱いてしまっていた。

 用を足し終え精介が扉を開けて出て来ると、近くで結三郎が待っていた。

「あ、どうぞ・・・。」

 まだ気まずい様な気持ちを感じながら、取り敢えず精介は扉を開けたまま便所から離れた。

「あ、いや。用足しではなくて・・・。」

 結三郎は慌てて手を横に振って精介の方へとやって来た。

 夜の暗がりの中で結三郎の姿がはっきりとは見えなくて良かったと精介は思いながら、結三郎を真っ直ぐに見据えると改めて頭を下げた。

「あの・・・昼間は本当にすんませんでした! 俺・・・。」

「あ、いや、私こそすまなかった。変に苛々してしまって、山尻殿の気持ちも考えずに・・・。謝るのはむしろ私の方だ。」

「いや、俺の方が・・・。」

「いやいや・・・。」

 少しの間お互いに頭を下げ合い謝り合った後、結三郎は少しほっとした様に一息ついた。

 何はともあれ、これでやっと精介に元の世界に帰す事について詳しい話をする事が出来る。

 そう思い、精介に説明をしようと口を開こうとしたところで――

「あ、あの! 最後に俺と相撲取って欲しいんです。」

 精介の真っ直ぐ自分を見つめて来る真剣な表情が、暗がりの中でも結三郎には判った。

「あ、後・・・、明日でも色紙とかに手形とサインと・・・。あ、後、何か結三郎さんが使ってた古い筆とかノートとか何か記念品的な物とか、もしよかったら・・・その・・・。」

 些細な物でも――それこそゴミであっても結三郎が触れた物ならば思い出の品に、と、精介は思い詰めた様にまくし立てた。

「え? いや、最後って・・・。」

 精介の勢いに押され、結三郎は一瞬言葉に詰まってしまった。

 最後って――精介は何か勘違いをしている?

 ――いや、しているのだ。

「あ・・・。」

 結三郎は、精介があれ程までに元の世界に帰りたくはないと言い、思い詰めていた様子にやっと合点がいった。

 元の世界に帰されたら、もうこの日之許の世界とは縁が切れて二度と来る事は出来ない・・・と。精介はそう思い詰めているのだ。

「す、すまない・・・。」

 結三郎の口から思わず謝罪の言葉が零れた。

 その言葉を勘違いしたのか、精介は悲しそうにそっと息を吐いた。

「あー・・・やっぱ無理ですよね・・・。こっちの物は俺の世界に持ち込んじゃダメとか決まりがあるんスよね・・・? 後、ホントは明春さん達みんなとも一回ずつ相撲を取って元の世界に帰りたかったんスけど・・・。」

 皆との別れを思い涙ぐんでいるのか、少し鼻詰まりになりかけた精介の声が暗がりの中で聞こえてきた。

 日之許の世界に迷い込んで来た者は元の世界に無事送り帰されたら、その後の時空の穴はきちんと閉じられるので日之許には二度と来る事は出来ない――確かに、今までの事例ではそうだった。

 だから精介が思い詰めてしまう事も決して間違いではなかったが。

「いや、すまない。本当に。ちゃんと話をする間が無くてすまなかった。色々と不安にさせていた様で。」

 改めて結三郎は精介へと頭を下げて謝った。

「いいんスよ。そんな謝らなくても。俺も、あんまりちゃんとした話をしたくなくて・・・結三郎さんにはあんまり近付かない様にしてたし・・・。」

 謝ってくる結三郎に精介はそっと頭を横に振った。

「物が持って行けないんなら、せめて結三郎さんと相撲取って帰りたいんです。勝てるとは思えないけど、稽古付けてくれる様な感じで・・・。」

 別れの時間が迫る寂しさや悲しさに胸が詰まってしまっている精介の様子に、結三郎はこれ以上誤解させてはいけないと申し訳無く思い、慌てて精介の言葉を遮った。

「いや! だから私の話を聞いてくれ。――本当に申し訳無い! 色々と説明すると長くなるので詳細は後で言うが。兎に角! 山尻殿の世界とこの日之許の世界を小さな穴で繋ぐ予定があるんだ! 人一人這って通れる程度の大きさだが! 向こうの世界の滅多な場所に繋げる訳にはいかんので、理想を言わせてもらえれば山尻殿の家とか近所とか! そんな場所に繋いで、更に贅沢を言わせてもらえば山尻殿にはその時空の穴の監視に協力してもらいたいと思っている! 勿論、強制ではないので断ってもらっても大丈夫だ! その場合もきちんと元の世界には送り帰す!」

 一気に早口でまくし立てて流石の結三郎も息切れをしてしまっていた。

 ぜえぜえと息を荒げながら、一先ずの説明を終えた結三郎は精介を見つめていた。

 暗くて判りにくかったが、結三郎の説明が一応は理解出来たのか、精介は唖然として立ち尽くしていた。

「・・・な・・・・。」

 僅かの間口をぱくぱくと動かし、精介は結三郎の顔を見つめ返した。

「な、何じゃそらああああああ!!!!」

 精介は余りの驚きに、思わず叫び声を上げてしまっていた。

 

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メモ書き


 三月になりましたがまた寒くなったりと、寒暖差に弱いヲカマのオッサンは相変わらず心身不調でございます。先月から続く慌ただしい介護支援仕事も何とか一区切り出来そうでほっとしております。


 さて第二話終盤に差し掛かりました。当初は前後編位かしらねえ、等と寝惚けた事を言っていたのも懐かしい思い出でございます。多分「其の二十」位まではいくんじゃないかしら。

 それはそれとして、昨年末にいきなり思い付き閃いてしまったこの作品ですが、今更ながら自分が物語を創り出す事、書く事が好きだった事を思い出せてよかったと思っています。前にも書きましたがまだワープロすら無かった大昔、誰の為でもない自分の為に書く大量の物語。あの頃の気持ちを良い意味で思い出せてよかったです。

 ・・・というか、ワープロという言葉(機械)すら、もはや死語に近いですよね。何か、さっきyoutubeでのランダム表示で「折り畳みガラケー持っていた人が、ガラケーを知らない若者から刃物を持っていると勘違いされて通報された」というニュースを見掛けてしまいましたが・・・。道具の進歩や入れ替わり、廃れ具合が余りにも早くてオッサン驚きですわ。

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