第二話ふたつめ、しるすこと「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」 其の十六 結三郎の身の上話に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の十六 結三郎の身の上話に就いて記す事」


 初めて聞く結三郎の身の上話を、祥之助は結三郎の傍らに肩を寄せて座ったままじっと聞いていた。

「・・・すまんな。他人の亡くなった両親の話など、余り楽しい話ではないが・・・何故か聞いて欲しかったんだ・・・。」

 少しくたびれた様な雰囲気でそっと笑い、結三郎は小さな溜息をついた。

「そんな事はないぞ! 他人だなんて・・・、そんな情けの無い事を言うなよ・・・。」

 思わず声を上げた祥之助に少し驚き、結三郎が横を向くと――そこには結三郎を思い遣る祥之助の真っ直ぐな眼差しがあった。

「・・・お前が辛くて嫌だったら話さなくてもいいけど、嫌じゃなかったら話してくれないか・・・? お前の話、もっと聞きたいんだ。・・・こ、こ・・・心の友じゃないか・・・。」

 言葉の最後の方は口籠り視線を彷徨わせてしまい、祥之助はまた顔を赤くして俯いてしまった。

「そうだったな――。俺達、心の友だったな。」

 結三郎がふっと笑みを浮かべた時に漏れた柔らかな吐息が、そっと祥之助の顔を撫でて流れていった。

「――ここから先は両親共に亡くなった時の話なんで、辛くないと言うと嘘になるんだが・・・。聞いてくれるか? ――いや、聞いて欲しいんだ・・・。」

「ああ・・・。お前の話、もっと聞かせてくれよ・・・。」

 結三郎が少し目を伏せ、前を向く様子を祥之助は静かに見守っていた。

「――父の気持ちとしては過去形で話す事で自分の故郷に帰る事を諦めたのだろうけど、それでもやはり諦め切れない思いはずっとあったんだと思う。義父上が――茂日出公が時々訪ねて来る事もあったけど、毎回色々と父は茂日出公と難しい話をしていたが・・・今から思うと故郷へ帰る方法が何か無いものかと話し合っていたのだろう。」

 島津家の家族旅行として温泉地へ保養にやって来たとか、保護した者が問題無く生活出来ているかどうかの様子を見に来たとか、色々な用事を口実にして茂日出は結三郎の父を小まめに訪れていた。

 茂日出は当時は現役の藩主であったから忙しかった筈だったが、それでも時間を作って村にやって来て父と話をしたり、結三郎一家との交流をしてくれていた。

 幸いにも現役藩主が直々に何度も会いに来る人物だと言う事で、結三郎の父が村から爪弾きにされたりする様な事は無く、良い意味で一目置かれて村での生活をつつがなく送る事が出来ていた。

 ――茂日出の養子となり高縄屋敷での生活をしていく中で茂日出の気質を知った今となっては、当時の訪問はそうして結三郎の一家を保護する意図もあったのだろうが。

 だがそれと同時に、知的な興味から父から異世界の事を聞き取ったり、また、どうにかして父が元の世界への帰還が出来ないものか、何か手掛かりが無いものかという研究も行ないたくて村を訪れていたのだろうと今はよく理解出来ていた。

「・・・まあ、そんな感じで俺が七歳位の頃までは村で家族三人で、何事も無く暮らしていたんだけども・・・。俺が七歳か八歳位の時に、佐津摩藩や近隣の藩の間に質の悪い肺病が流行ったんだ。」

 感染しても最初の内は軽い発熱や鼻水、咳と言ったよくある風邪の症状だけだったが、二~三日程ですぐに重症化し、重い肺炎になって死亡する事も多かった。

「元々体が丈夫ではなかった母上もその病気に罹ってしまい、夏場で体力の消耗も大きかったので・・・呆気無く・・・。」

 村には島津家専用の温泉以外にも村人達の利用するものが大小幾つかあり、体の弱い結三郎の母も温泉治療としてよく村の温泉を利用していた。

  しかしその流行病によって当時の村人達の内、四分の一が死亡し、結三郎の母もその中に含まれてしまった。

「――でも、俺の村はまだましな方だったみたいだ。茂日出公の公衆衛生の教えが幾らかは広まっていて、病気が取り返しがつかない程大きく広がる事は無かったから。・・・けれども、地域によっては隣り合った村の三つ四つが一遍に全滅した所もあったらしい。」

 結三郎の話に祥之助も顔を顰め悲痛な表情を浮かべた。

 頒明解化の始まるほんの数年前ですら、辺境の土地ではちょっとした病気で人は簡単に命を落としていた。

 冠西、冠東どちらの京からも遠く、海と山に囲まれた辺境の土地の典型である杜佐藩も昔から流行病で全滅した村々の話は珍しいものではなかった。

「幼かったし、暗く殺気だった村人達が怖かったとか――ぼんやりとしか当時の事は覚えていないんだが・・・。」

 本堂の裏の林の向こうに幻視する結三郎の思い出の中の真夏の村の風景は、同じ様な照りつける夏の日差しが注がれながらも、その太陽の暑さは村人達の心を焼き、体力も気力も――命さえも焼き尽くしていくものに変わってしまっていた。

 茂日出の持つ進んだ医療や公衆衛生の知識も、当時はまだ佐津摩藩の隅々にはまだ充分には行き渡っておらず、勿論薬も全然足りていなかった。

 藩主として陣頭指揮を執り流行病への対策に奔走していた為に、結三郎の村を訪れる余裕は茂日出には全く無くなっていた。

 そうする内に、佐津摩の人々の間に迷信や流言飛語もまた病気と共に蔓延してしまっていた。

 茂日出がどれだけ否定しても、茂日出自身は好まなかったがやむを得ず藩主の威光で力ずくで強制しても、一部の無知な人々は間違った考えや思い込みに囚われて、却って流行病を悪化させてしまっていた。

 有難い神様の蝋燭の火で病人を生贄にして焼き殺せば助かる、とか、病人の糞尿や血液が薬になる、とか――挙句の果てにはまだ生きている内に病人の生き胆を取り出して食べるのが一番の薬だ・・・等と、まことしやかに囁かれ、実行した者達も居たらしい。

 ――無知蒙昧の闇に足掻く人間達に、どうか神仏や精霊達の持つ正しい知識や技術を下ろし給え。

 証宮離宮殿の天に聳える白塔の礎にはこの様な帝の言葉が刻まれている。

 日之許の世界では、神降ろし以外では現世に受肉したり何らかの形で実体化しない限りは神仏や精霊達と人間が言葉を交わす事は出来なかった。

 それなのにまことしやかに神々のお告げの言葉を聞いたとか言い出し、間違った思い込みに囚われおかしな方向へと人間達は突き進んでいく。

 無知で愚かな人間達の闇に正しい知識の光を灯す――当代の帝の願いは、後に頒明解化の象徴たる証宮離宮殿の何処までも高く天へと聳える白亜の塔として日之許国民の前へと示される事となった。

「・・・もっと、村の人達が茂日出公の話を聞いていれば・・・、例え物や薬が足りない田舎の村とはいっても、母上ももしかしたら死ななかったんじゃないかと今でも思う事もあるんだが・・・。」

 結三郎は今更もうどうしようもない、やりきれない思いに唇を噛み目を伏せた。

 特定の誰かが悪いとかいう様な事ではないものの――あの時の佐津摩藩の状況ではどうしようもなかったものの――もっとどうにかなったのではないか、例え些細な事でももっと何か出来たのではないか・・・そんな気持ちが湧き起こってしまうのだった。

 当時の村の状態としては、幸いにも川や井戸の水は清潔だったし、火を起こす薪や炭も山の恵みとして充分にあった。

 肺病は流行してはいたが、飢饉とは重なっておらず食料もそれなりにあった。

 茂日出の教える通りに、身の回りを清潔に保って栄養をきちんと摂り、病人には必要以上には近付かず――それだけでも随分と流行病の進行や拡大は遅らせる事が出来た筈だった。

 だが、病弱な母を心配した村の親戚の者が――確かにそれは善意からのものだったが、病人の血が病気への薬になるという話を真に受けて、まだ病気に罹っていない母に予防薬の様なつもりで飲ませてしまった。

 今となってはそれが直接的な原因かどうかは知りようはないが、病弱な母が病原菌に侵された血液に触れたり摂取したりして全く何の影響も無かったとも考えにくかった。

 善良ではあっても――無知で愚かな人間達と責めるのは簡単ではあるが、知識も教育も充分ではなかった当時は仕方が無かったのだろうが・・・。

「母上が発病して・・・看病をしていた父上も倒れてしまった。俺は、茂日出公の教えを守って清潔を保ち、辛かったが両親には必要以上には近付かない様にしていた御蔭なのか、幸い病気には罹らなかったが・・・。でも二人共寝付いてしまい・・・父上はその時は助かったが、母上は残念ながら・・・。」

 結三郎も幼かった為に母の死に顔もぼんやりとしか覚えてはいなかったが、夏の暑い日の夕暮れの部屋の中で、布団に横たわったまま息もしなくなり、もう動かなくなった母の姿を呆然とへたり込んで見つめている自分自身の事はよく覚えていた。

 ――その後、暫くして流行病も落ち着き、父も一応は回復したものの――それ以来めっきりと体が弱ってしまった。

 後に茂日出から聞かされたが、肺病によって片方の肺の機能が駄目になってしまった事によるものだという事だった。

 それからすぐに結三郎の家には、体調を崩しがちでよく寝付く様になってしまった父の看病や家事を行なう為に、島津家から初老の夫婦が派遣されてきた。

 所謂、召使とか家政婦の様な仕事をしてくれる者達だったが、茂日出の直属の部下で実際には身分の高い家の者達だという事だった。

 ――幼い結三郎には判らなかったが、父・喜一郎の妻を死なせてしまったのは、村人達の迷信に囚われた心をきちんと教育出来なかった藩主たる自分の責任だという思いが茂日出にはあった様で――せめて信頼出来る部下を派遣して、手厚い世話を行ないたいという気持ちがあった様だった。

 その一方で、母の方の実家からは母の葬儀をした後は交流が殆ど無くなり疎遠になってしまった。流行病で母の実家の方も大勢が亡くなり、自分達の生活を立て直す事だけで精一杯だという事情も勿論あったが――。

 後になって茂日出との当時の村の話をお喋りする中で漠然と濁されてはしまったが、藩主の庇護を手厚く受けている人物だとはいえ、基本的には何処の出身の誰とも素性の知れない者と結婚してしまい死なされてしまった――母の両親や親戚達はそうした捉え方をしており、もやもやと鬱屈した思いも抱いていた為に、母の死後は疎遠になってしまった様だった。

「・・・何だよそれ。母ちゃんが病気になったのだって自分達のせいかもしれないのに! それに、母ちゃん亡くなった後の孫はほったらかしかよ・・・。」

 結三郎の話を聞き、祥之助は自分の事の様に眉を顰め不快感を露わにした。

「そうだな・・・。母の方の祖父母とか親戚とかの事は余り覚えてないな、そう言えば・・・。」

 結三郎の母方の親戚に対して不愉快そうにフン、と息を吐く祥之助の様子を結三郎は微笑みながら見つめた。自分の事の様に悲しみ、怒りを表してくれている祥之助の様子が結三郎には有難く嬉しかった。

 むしろ結三郎達の家に親し気によく訪れ、まるで親戚の様に楽しく温かく接してくれたのは茂日出やその実子達の方だった――。

 そのせいもあり、茂日出が父・喜一郎の死後に結三郎を養子として引き取るという話を持って来た時も、結三郎は心情的には何の抵抗も無く受け入れる事が出来た。

「まあ・・・母上が亡くなってから、父上も一年後位に亡くなって、それからすぐに島津家に引き取られて村を出たからな・・・。彼等の記憶が曖昧なのは仕方が無いとは思うよ・・・。」

 母の死後、流行病の終息後の村の生活の再建で村人達が慌ただしい中、母の実家からの交流も途絶え――他の村人達も、悪意は無いもののやはり昔からの村の仲間である母の実家の方に同調して、父と結三郎に対しては次第に疎遠になってしまっていった。

 そして結三郎が九歳の夏のある日――父は些細な風邪をこじらせてしまい亡くなってしまった。

 片方の肺が機能していないので体調管理には気を使いながら生活してはいたものの、完璧に体調を崩さずに生活していくというのも不可能な話ではあった。

 風邪をひいて何日も経たない内に父はあっと言う間に衰弱していき、死の床で故郷に帰りたいと呟き続け――母の幻に語り掛けながら亡くなってしまった。

 召使の老夫婦からの知らせを受けて茂日出は仕事を放り出して村へと駆け付けた。

 父の死の間際にはぎりぎり間に合ったものの、死に掛けた父は既に意識も朦朧としていて母の幻に辛うじて話し掛けているのみで・・・父の手を取る茂日出の事も母だと幻視していた。

「――声を出して母じゃないと気付かれて、もしも、父上が正気に戻ったら可哀想だと思ったんだろう・・・。義父上は一言も喋らずただ父上の手を取るだけで・・・・・・でも、ずっと泣いてたんだ。」

 茂日出公、という呼び方が義父上に変わっていた事に結三郎は気付いてはいない様だった。

 当時の佐津摩藩の藩主――佐津摩の国の言わば支配者が、ただの一人の人間として、父・喜一郎の友として声も漏らさずに耐えて泣き続ける姿は、幼い結三郎の心に強く焼き付いていた。

 幻の中の母に、結三郎と一緒に自分の実家に帰省しよう・・・自分の親に紹介しよう・・・。楽しそうに語り掛けながら、父は亡くなった。――茂日出の手を、妻のものと思い込んだまま穏やかな表情で。

 茂日出の手の中にあった父の手から力が抜け落ち、呼吸も途切れ――命の尽きた父の手を握り締めたまま、そこで初めて茂日出は激しく吠えるかの様に泣き出した。

 筋骨隆々の大男が、痩せ細った父の骸の側で小さく身を丸めて恥も外聞も無く大泣きをしていたのだった――。

 茂日出の泣く勢いに押されてしまい、結三郎はその時自分が泣いていたのかどうか覚えてはいなかった。

 だが、茂日出の慟哭よりも何よりも、死の床で母を幻視する父を気遣い――一言も発さず、ただ黙ったまま耐えて声も無く涙を流していた茂日出の姿に、幼いなりにも結三郎はこの人物への同情や悲しみを感じずにはいられなかった。そして何より、彼には父への深い思い遣りの心があるのだと理屈ではなく感じ取っていた。

 例え朦朧とした父の耳には届かなかったとしても、何か言葉を掛け、呼び掛けずにはいられなかっただろうに――茂日出は死に往く父・喜一郎が安らかな幻の中に居るのを壊したくはなかったのだった。

 父の死後すぐに、それまでの村の雰囲気も結三郎にとってよろしくはないという事もあり、茂日出は結三郎を養子として島津家に引き取りたいという話をしてきた。

 ――ワシの子供にならんか? ・・・いや・・・。どうか、ワシの子供になって欲しい。

 迷い人であり佐津摩藩や日之許には何の縁も所縁も無い父と、佐津摩藩主の茂日出との間に短い年月の間にどの様な交流や思いの積み重ねがあったのかは幼い結三郎には判らなかったが、茂日出が大事な友の忘れ形見の行く末を真摯に案じている事は朧気ながら理解出来ていた。

「で、弥富結三郎から島津結三郎になって、佐津摩の島津本家の屋敷で生活する事になった訳だが・・・。」

「・・・あ、そういや名字違うんだったな。」

 曽我部家から武市家に養子に出た自分の事は棚に上げ、祥之助は今更ながら結三郎が元は違う名字だった事に気が付いた。出会った時から島津結三郎だったので、元の弥富結三郎という名前は何となく別人の様なささやかな違和感を抱いてしまっていた。

「武市殿だって武市じゃなかっただろうに。」

 結三郎の方も武市祥之助という名前ではなく曽我部祥之助だと何となく違和感を感じてしまっていた。

 ――島津本家での新しい生活が始まったと思ったのも束の間、すぐに日之許国の頒明解化が始まり、茂日出は佐津摩藩主の座を長男に譲って帝の塔京遷都に付いて行く事となった。

 引き取ったばかりの結三郎と出来れば近くで生活したいという茂日出の希望に、結三郎も特には拒む理由も無く、結三郎もまた茂日出と共に塔京に行く事になったのだった。

 慌ただしく上京して塔京の佐津摩藩別邸・高縄屋敷での生活が始まり、博物苑・表苑の雑用を手伝いながらの暮らしが始まった。

 相撲については、高縄屋敷に仕える多くの者達が嗜んでいたので、大した考えも無く面白そうだと思い自然と相撲を始めたのだったが、すぐに実力を伸ばしていき十四歳の時には藩のお抱え力士としての身分も手に入れる程になっていた。

 そうして十五歳で成人を迎え――茂日出から、博物苑・奥苑に関する秘密が明かされて茂日出の直属の助手という扱いで奥苑の仕事に関わる様になった。

 奥苑の仕事は実父・喜一郎の本当の事情にも関わりのある事で・・・そこで初めて結三郎は、父が本当はどの様な出自の人物なのか、どの様にして日之許にやって来た――迷い込んで来たのかを知る事が出来た。

「――ええと。」

 十四歳でお抱え力士になったというところまで話をして、成人してからの事をどう話したものかと悩み結三郎は少し言葉に詰まってしまった。

 流石に奥苑の秘密や父が異世界の人間だと言う事を祥之助に話す訳にはいかなかった。

「ん?」

 結三郎の話に少し間が空いた事に祥之助は軽く首をかしげたが、大して疑問には思っていない様で結三郎の次の言葉を待っていた。

「ああ。ええと――それで、十五で成人になったのを機に、博物苑の奥苑の仕事にも関わる様にと義父上から言われて。義父上の直属の助手として奥苑の職員――正式に鳥飼部になったんだ。」

「あー、奥苑て一般人は立ち入り禁止の、何か表苑よりももっと珍しい動植物とかが居たり、とんでもなく古い骨董品というか学問の上でのお宝とかを保管してたりっていうトコだよな。」

 結三郎とお近付きになりたくて佐津摩藩の事や高縄屋敷の事をそれなりに勉強していた祥之助は、奥苑の一般人向けの説明については既に知っていた。

「そうそう。奥苑は専門的で高度な学問を行なう為の施設なんだ。」

 祥之助が意外と博物苑の概略について知っていた事を感心しながら結三郎は頷いた。

「――それで、義父上は学問以外にも・・・うーん、学問の一環でもあるのか・・・? 異世、いや異国からの迷子というか遭難者というか。日之許にそうした人達が迷い込んで来た時に保護して手助けする事にも力を入れているんだ。」

「へえ~。あ、そうか。異国の事も色々と知りたいとか勉強したいって感じなんだな。その迷子の人達を通して。」

 どうやら祥之助は結三郎に都合良く勘違いをしてくれた様で、異国の事情についても勉強熱心な茂日出公に感心していた。

「俺も、奥苑の仕事の一つとして迷子の保護に関する仕事を任されているんだ。――俺の本当の父上は、故郷に帰れなかったけど。・・・せめて、俺が自分で出来る範囲だけでも、日之許に迷い込んで困っている人達の力になりたいと・・・。」

 実の父は帰る事が出来ないまま死んでしまったけれども。

 たった十年程しか経っていなかったが、あの頃から比べると格段に進んだ知識と技術を手に入れた今は、日之許に迷い込んで来た者達をきちんと元の世界に帰してあげたいと――、そう心に強く思って結三郎は今まで迷い人の送還に関する仕事に励んできたのだった。

「それで迷子の精介の事も放っとけなかったんだな。」

 流石に異世界からの迷子とまでは思ってはいないものの、祥之助は結三郎が精介の事を今まで気に掛けていた理由を理解した。

「だから・・・・・・。」

 先程の精介との言い合いを思い出してしまい、また結三郎の目尻に涙が滲み始めてしまった。

 元の世界に帰る事を余り望んでおらず、怒りすらして拒否をした――しかし精介がそんな風に怒るのも尤もな事だった。

 結三郎は精介の気持ちや事情をちっとも知らずに、一方的な自分の思いを押し付けていた事も初めて知り・・・申し訳無さや情け無さも入り混じり、また泣きそうになってしまっていた。

「お、おい・・・。」

 唇を噛んで涙を堪えようとしている結三郎の横顔を見て、祥之助は慌てて横から思わず腕を伸ばして抱き寄せてしまった。

「・・・!」

 そっと結三郎の頭を抱える様に胸元に抱き寄せ、祥之助は何処か子供をあやすかの様に二、三度ぽんぽんと優しく肩を叩いた。

「何か・・・子供扱いしてないか・・・?」

 祥之助の腕の中から結三郎の声が聞こえてきた。

「す、すまん・・・。」

 思わず祥之助も謝ってしまったが、そうやって結三郎を抱き寄せたまま軽くその背中をさすり続けた。結三郎もまた、そのままされるに任せ、祥之助の胸板に顔を押し付けたままじっとしていた。

 祥之助の汗と体の匂いがまた結三郎を包み込み、あの離れ難い慕わしさと安らぎを呼び起こしていた。

 結三郎の目に滲んでいた涙もいつの間にか止まってしまっていた。

 祥之助の匂いを感じながら、結三郎は腕の中で静かに深く息を吸い込んだ。

「でも・・・何だか、子供みたいで恥ずかしいが・・・こうしているとほっとするな・・・。」

 祥之助の胸板に顔を埋めたまま、結三郎は照れ臭そうに呟いた。

「結三郎・・・。」

 結三郎の気持ちが幾らか落ち着いた様子に祥之助もほっと息を吐いた。

「汗臭いけどな。」

 照れ隠しなのか結三郎は苦笑した。

「汗臭いは余計だ。」

 結三郎の言葉に祥之助も笑い、わざと着物の胸元をはだけて汗ばんだ肌に結三郎の顔を押し付け始めた。

「あっ、すまんすまん。」

 流石に息が苦しくなってしまい、結三郎は笑いながら祥之助の胸から顔を上げた。

 一瞬だけすぐ目の前にお互いの顔が迫り見つめ合う様な形になってしまったものの――お互いに少し困った様に微笑み合い、そっと体を離した。

 お慕い申し上げ御座候についての立ち合い勝負を行なうのは、まだ今日ではない――取り敢えず今日のところは二人共納得の上での勝負預かりの様だった。



 本堂裏へと続くツツジや椿の植え込みの木々の陰で立ち止まり、精介はじっと気配を殺して結三郎の話を聞いていた。

 結三郎の前から走り去ったものの、やはり謝ろうと思って引き返してきて――しかし、結三郎が祥之助に泣きながらもたれかかるのを目撃するに至ってとてつもなく気まずくなり、出て行く事が出来なくなってしまった。

 そうする内に結三郎が話を始めてしまい、そのまま盗み聞きをする様な形になってしまったのだった。

「結三郎さん・・・。」

 すんません・・・と、小さく呟くと精介はマワシの入った風呂敷包みを手にしたまま、ゆっくりと音を立てない様にしてその場から再び離れていった。

 本当にすんません――あんなに泣いてしまう程傷付けるつもりは無かったのに。

 あんなに泣く程の深い思い入れを持って、迷い人を元の世界に送り返す仕事をしているだなんて――精介には想像も付いていなかった。

 祥之助へ話して聞かせる都合上、濁した言い方ではあったが結三郎の父親が元の国に帰りたいと言っていたのは、元の世界へ帰りたいという事だったのだろう。

 父が元の世界に帰れずに亡くなってしまった分を、精介の様な異世界からの迷い人の送還の仕事に励んでいたのだろう・・・。

 ――父上・・・母上・・・。

 子供の様にそう漏らし、祥之助の肩にもたれて泣く結三郎の様子を思い出すと、精介は自分も泣きそうな――胸が詰まり苦しくなる様な気持ちになってしまっていた。

 自分が泣かせてしまったのではあるが、泣いている結三郎をそっと抱き締めて泣き止むまで包んでいてやりたい様な・・・ひどく切なく落ち着かない気持ちが精介の中に湧いていた。

 祭りも終わり屋台もすっかり片付いて人気の無くなった境内を横切り、精介は足早に寺から出ていった。

 夕暮れから少しずつ宵へと暗くなり始めた路地を歩きながら、だが次第に精介の歩く速さは遅くなってしまっていた。

 何処へ行くという当てがある訳でも、何処かに行きたいというはっきりとした気持ちがある訳でもなく。

 辺りの古い長屋の建物や板塀が並ぶ細い道をだらだらと歩いている内に、この前結三郎達と食事をした「居酒屋ふかの」の前まで精介はやって来てしまった。

 ここまで来てしまうと力士長屋はもうすぐ近くだった。

 精介がゆっくりと歩いていると、この前の店員の少女が入口に暖簾を掛けた後、店の前を軽く掃除しようと立て掛けていた箒に手を伸ばしたところが目に入った。

「――あら? 学校の力士の人?」

 少女の方も精介が通り掛かった事に気が付き、にこやかに顔を上げた。

「あ・・・。どうも・・・。」

 精介は何となく気まずい様な思いをしながら軽く頭を下げた。確か徳子という名前の、ここの居酒屋の娘だったか――と、朧気ながら思い出した。

「今日は優勝おめでとうございます。亮吉(りょうきち)さんと一緒に応援に行ったんですよ。みんな凄く強かったですね!」

 徳子は笑顔で精介に話し掛けた。

 亮吉というのはどうやらこの前の大工の青年の様で、徳子は彼と応援に来ていたと言う事だった。彼等は祥之助の言うところの相撲観覧デエトを実際に行なっていたのだろう。

 この前の自分達を面白くなさそうに睨んでいた亮吉の表情を思い出し、今日は楽しく過ごせたみたいで良かったと精介はほっとした。

「また何か大会があったら応援に行きますね! あ、それで祝勝会の場所は次はウチをよろしくお願いしますね!」

 ちゃっかりと店の売り込みもして徳子は明るく笑った。

「あ、ハハ・・・。親方に言ってみるよ。――そ、それじゃ・・・。」

 精介はぎこちなく笑って答え、頭を下げると店の前から立ち去った。

 次の大会は、精介には無かった――その事が精介にはひどく寂しく思えてしまった。

 春乃渦部屋の力士として明春達と次の何かの大会を目指して稽古に励んだり、出場して試合の勝ち負けに一喜一憂する未来は、精介には決して訪れない。

 徳子に見送られ、のろのろと路地を歩き続けそんな寂しさに沈んでいる内に――精介は結局力士長屋へと戻ってきてしまったのだった。

 木戸口の前へと差し掛かると、長屋の皆が小さな荷車を出して風呂敷包みの荷物を積み込んでいる様子が見えた。

 明春も長屋に戻ってきており、荷車を牽く役割らしく前方で持ち手を握って立っていた。

「あ、若様! お帰り!」

 おかみさんの一人が精介の姿に気が付き声を掛けてきた。

「お~。やっと帰って来たか~。」

 明春も何処かほっとした様に息を吐き、いつもののんびりとした笑顔を精介に向けた。

「何処行ってたのさ。まあ、入れ違いにならなくて良かったわよ。」

「若様も戻って来た事だし、行きましょ行きましょ。」

 おかみさん達がいつも通り賑やかにまくし立て、荷車に荷物を積み終えると皆を急かした。

 風呂敷包みの中身はおかみさん達が作った煮物等が入っている様で、精介もすっかり馴染んだ濃い目の醤油の香りが荷車から漂ってきた。

「す・・・すんません・・・。心配掛けた様で・・・。」

 荷車を牽く明春の横を歩きながら精介は皆に謝った。

「ほんと心配したぞ~。・・・・・・このまま帰って来ないんじゃないかって・・・。」

 明春はいつも通りのんびりと笑いながらも、傍らを歩く精介へと少し悲しそうな目を向け――小声で呟く様に声を掛けた。

「!!――す、すんません・・・。」

 精介は明春のその言葉と表情に、自分がどれだけ心配を掛けてしまっていたのかを知り、思わず申し訳無さに泣きそうになってしまった。

「駄目だぜ明春さん、若様を責めちゃ。何か用事があって出掛けてたんだろ。」

 近くを歩いていた長屋の年長の子供の一人が二人の話を断片的に聞いていたらしく、大人びた口調で割って入って来た。

「自転車置いてそのまま居なくなる訳ねぇじゃねえか。自転車って高級品なんだぜ。幾ら若様が金持ちだって言っても、そんな勿体ねぇコトしねえだろ。なあ、若様。」

 得意気に笑って言う少年に一瞬明春と精介は呆気に取られたが、彼の言葉に思わず噴き出してしまった。

「そ、そうだな~。あんないい自転車、そのままにはしないよなあ~。」

 明春は荷車を牽きながら自分の部屋の土間に置いたままの精介の自転車を思い出していた。

 証宮新報の記事に乗っていた無骨な木製の自転車よりも遥かに洗練された形の、金属やらよく判らない硬い素材で出来たあの自転車は少年の言う通りさぞかし高級で値の張る品物だろう。

「・・・それに、約束してたもんな~。夏祭りの相撲大会が終わったら、俺、祥之助様の次に精介の自転車に乗せてもらうって~。」

 明春はそう言って精介に笑い掛けた。

「そういや・・・そうでした。」

 自転車に乗せて欲しいと祥之助や明春が言っていた事を精介は今更ながら思い出し、申し訳無さそうに眉を下げ苦笑いを浮かべた。

「あ、ずりぃなあ。俺達もジテンシャ乗りてえよ。」

 近くを歩いていた他の子供達も精介達の話が聞こえたらしく、口々にそう言いながら精介と明春の周りに集まって来た。

「あー、判った判った。明日、順番にな。転ぶといけないから俺が横で支えるけどな。」

 精介は子供達の勢いに押されながらもそう答えると、子供達は――明春も――一斉に歓声を上げた。

「やったぜ!」

「楽しみだなあ~!!」

 そんな調子で賑やかに力士長屋の一同が照応寺へと歩いていると、路地の曲がり角から祥之助と結三郎の話し声が近付いてきていた。

「――ホント、精介のヤツ何処行っちまったんだ。」

「取り敢えず一度長屋の方を覗いてみようか・・・。」

 二人の話し声が段々と近付いてきている事に明春や精介達も気が付いた。

「そうだなー。案外、みんなが寺に出掛けた後に戻ってきてて隠れて潜んでるかもな。」

「いや、犯罪者じゃないんだからその言い方は如何なものかと思うぞ。」

 そんな風に結三郎達が話しながら角を曲がると、精介や明春、長屋の者達の一行と丁度鉢合わせた。

「あ、武市様だー!」

 長屋の子供達が嬉しそうな声を上げ、祥之助へと駆け寄った。

「おー! みんな寺に向かってんのか。――ほら、やっぱり戻ってきてたじゃねえか・・・・・・。」

 子供達へは笑顔を向けながらも、祥之助は精介には何処か不機嫌そうにむっとした表情を向けてしまっていた。

 理由や経緯等はよく判らなかったものの、兎に角こいつのせいで結三郎があんなに泣いてしまったのだと思うと、内心穏やかではいられなかった。

「ホント、何処ほっつき歩いてやがったんだよお前・・・。」

 掛ける声も低くなりがちで、何処か脅しの様にも聞こえてしまう響きがあった。

「っ・・・。す、すんません・・・・・・。その・・・色々と御迷惑をお掛けしてしまって・・・。」

 祥之助の不機嫌な様子に精介も思わず後ずさってしまった。

 そこに子供達の心配そうな声が掛けられた。

「武市様ー。あんまり若様を怒らないでよ。」

「そうだよー。長屋に帰ってくんのが少し遅くなっただけじゃねえか。」

 精介を庇う子供達の様子に怒る勢いも削がれ、祥之助は困った様に溜息をついた。

「あ、ああ・・・。そうだな・・・。」

 祥之助にいつまでもまとわりついている子供達を引っ張りながら、おかみさん達が皆を促した。

「ほらほら、のろのろ歩いてないで。早くお寺に行きましょ。」 

「そ、そうだな~。腹も減ったしな~。急ごう。」

 おかみさん達に急かされ明春は精介を睨む祥之助の様子を気にしながらも、荷車を牽く足を速めた。

 皆の後ろから付いて行きながら、結三郎は不機嫌になってしまっている祥之助の腕を引っ張った。

「あんまり山尻殿を責めないでやってくれ。」

 皆から少し離れる様にゆっくり歩きながら、結三郎は小声で祥之助に囁き掛けた。

「そ、その・・・。すんませんでした結三郎さん・・・。色々とその・・・。」

 精介も皆から離れて後ろの方へとやって来て結三郎と祥之助に改めて頭を下げた。

 あんな怒鳴り合いや、その後の結三郎の号泣等があったすぐ後では、余りにも気まずく精介は結三郎の顔をまともに見る事が出来ないでいた。

 全くその通りだとでも今にも言いそうな表情の祥之助を、結三郎は着流しの裾を引っ張って宥めた。

「いいんだよ。私も山尻殿の気持ちを全然考えてなかった。・・・男色が皆から否定されている世界で、それを隠しながら生活しなければならない所に戻される辛さを、全然判ってなかった・・・。私の方も謝らなければならない・・・。」

 長屋の皆には聞こえない様に小声で喋りながら、結三郎は精介へと頭を下げた。

「えっ!? 男色を否定って・・・お前のトコの藩ってそんな所なのか?」

 結三郎の言葉に祥之助も驚きの声を上げてしまった。

「そっか・・・。そら、戻りたくはないか・・・。」

 その話に精介を睨み付けていた不機嫌な様子もすっかり消し飛んでしまっていた。

 同情や憐れみすら混じる声音で呟きを漏らし、祥之助は大きく息を吐いて、俯いている精介を見た。

 男色とは単に自分を形作るもののごく一部に過ぎないし、自分の全てだとは言わないものの――しかしそれでも誰かを好きになるという事柄は小さくはないものの筈で。

 それを否定されたり隠して生きなければならないというのは、随分と不自由で辛いものなのだろうと祥之助にも想像は付いた。

「お前も苦労してたんだな・・・。」

 一転してひどく同情のこもった眼差しで祥之助は精介を見ながら、そっとその肩を叩き、軽く抱き寄せた。

「――男が好きなだけなのに周りから色々うっとおしいコト言われたかねえよなあ・・・。」

 祥之助もまた軽く俯き、悲しそうな――悔しそうな、そんな呟きをそっと漏らした。

「え? 武市様・・・。」

 少しだけ背の低い祥之助の髪の毛が頬に当たるのをくすぐったく思いながら、精介は祥之助の沈んだ様な顔を見た。

「よし、今日は、ぱーっと飲み食いしようぜ! 何なら明日は俺とお前と結三郎とで、宴会二日目だ! 嫌なコトは美味い飯と酒とカワイイ兄ちゃんを楽しんで忘れようぜ!」

 祥之助は精介の肩を抱き寄せる手に力を込め、わざとらしく頬擦りをして楽しそうに声を上げた。

「そこはやっぱりカワイイ兄ちゃんなんスね・・・。」

 祥之助の言うカワイイという形容詞が指し示すのがどの様な兄ちゃんなのかは、精介も充分に判っていた。

「ええ~、武市様駄目だぜ!」

「明日は俺達、若様のジテンシャに乗せてもらうんだから!」

 祥之助達の会話が少し聞こえたらしく、先刻の年長の男の子達が不満そうに言い立てながら祥之助の周りに集まって来た。

「あー! そうか、自転車! そうだったな。俺も乗せてくれって頼んでたんだった!」

 祥之助も自転車の事を思い出し、子供達に謝った。

「わりぃわりぃ。自転車の事があったな。じゃあ明日は皆で順番に自転車乗せてもらおうな!」

「やったー!!」

「流石武市様だぜ!」

 祥之助の言葉に子供達は一斉に笑顔になった。

「お前が仕切るなお前が。」

 宴会二日目や自転車の事を楽しそうに決めている祥之助の横を歩きながら、結三郎は溜息をついた。

 そんな風に話ながら歩いていたせいか、照応寺には後少しの所までやって来ていた。


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メモ書き


 二月は色々と仕事が立て込んでしまいストレスたまりまくりでしたが、三月に入るもののまだ片付かず月末業務第二ラウンドの趣でございます。

 ついには利用者だけでなく取引先の人までまた不手際やらかしやがりまして、今までの積み重ねもあってヲカマのオッサン何年かぶりにブチキレですよ。

 三月半ば以降は何事も無くそれなりに仕事をこなして、楽しく小説書きや園芸や何か色々とやりたいものでございます。


 さて。

 次は祥之助の泣く話をその内書くと前回の後書きで書いていましたが・・・すまんのう。先に茂日出パパを泣かせてしまいました。プロットメモ書きにはちゃんと書いてあったのですがすっかり忘れてしまっていました。

 茂日出の過去の物語もその内には書きたいとは思っているのですが、さて、どの様に物語に仕立てたものかと。

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