第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の十四 夏祭りの相撲大会の結果に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の十四 夏祭りの相撲大会の結果に就いて記す事」


 夏祭りの相撲大会は、あっと言う間に決勝戦となった。

 決勝戦に進んだのは春乃渦部屋と科之川部屋で、弱小部屋とはいえ一応は相撲部屋の者達による対決と言う事で観客達は大いに盛り上がっていた。

 力士長屋の者達も全員ではなかったが、おかみさんや子供達が何人か応援に駆け付けていた。

 明春の所の力士長屋以外にも、春太郎や庄衛門の所の力士長屋の住人達も来ていた様で、互いに春乃渦部屋の者達の事を楽しそうに話している様子が精介達の目に入った。

 休憩時間ももうすぐ終わりに近付き、出場選手達は東西の土俵だまりへと集まって来た。

「ここまで来たら、悔いの無い様に精一杯頑張るのじゃぞ。」

 親方は土俵だまりで目の前に並んだ精介達にしっかりと語り掛けた。

「おっす!」

 皆は力強く返事をし、程良い緊張感に引き締まった表情で親方へと頷いた。

 精介は土俵を掃き清めて準備している手伝いの神職達の姿や、賑やかに声援を送る周囲の観客達や――傍らの春乃渦部屋の仲間達を順に見ていった。

 ――明春達がどう思っているかは判らなかったが、精介の気持ちの中では、たった一週間の短い間ではあったが春乃渦部屋の皆の事を仲間と思える程に、親しく離れ難い気持ちが湧いていた。

 部活動での大会に出場する時とはまた違った、緊張感はありながらも何処か心地良く居られる夏祭りの相撲大会の雰囲気はとても楽しく、いつまでもそこに浸っていたかった。

 だが、勝っても負けてももうすぐここでの生活は終わる――精介は、元の世界に帰される。

 ――けれども精介は今ここに至っても、はっきりと帰りたい、帰らなければならないとはどうしても思えなかった。

「今日は照応寺の方で祝勝会してくれるってさ。」

 精介の少し物思いに耽ってしまった様子を見た利春が、気負って緊張しているのかと思い、元気付ける様に声を掛けて来た。

「祥之助様や島津様からもきっと何かまた酒とか食事とか差入れしてくれると思うよ~。」

 明春がいつもの様に緊張感とは縁の無さそうな呑気な笑みを浮かべた。

「そうッスね。あの方達、気前いいッスものね。」

 精介もそう言って笑い――明春達や親方を見回した。

「あ・・・あの。も、もし・・・力士長屋で部屋借りて生活していくとして・・・。俺でも働けるトコあるッスかね・・・?」

 思わず口をついて出てきた精介の言葉を、世間知らずの若者の他愛の無い願い事だと――そう否定する者は誰も居なかった。

「・・・幾らか給料貰う仕事しながら、春乃渦部屋で相撲取って生活していけたら・・・って思うんスけど・・・。」

 自分でも夢みたいなあやふやな事を言っているという自覚があったが、ただの思い付きの夢想だと精介には切り捨てる事は出来ないものだった。

「おー! いいな、それ!」

「やっと精介も正式に部屋に入ってくれんのか。」

 庄衛門や春太郎が嬉しそうな声を上げ、明春や利春、親方達も笑顔を浮かべた。

「高い給金は難しいだろうが、ワシや和尚・・・いや、ここの宮司達にも相談して働き口を探せば何とかなるじゃろう。」

 親方も笑いながら精介へと優しい眼差しを向けた。

「いいなあ~。嬉しいなあ~。・・・もし、そうなれたらなあ・・・。」

 のんびりと明春は笑いながらも、少しの間、何処か遠い目をして精介や春乃渦部屋の仲間達を見ていった。

 垂れ目がちの目で微笑み――しかし少し寂しそうな表情で明春は精介へと顔を向けた。

「・・・今までちゃんとした詳しい話を聞かない様にはしてたけど~、ちゃんと帰る場所、あるんだろ・・・? 俺達には難しいコトは判らんけど、元の藩の家族の所に帰って、学校に通って、そこの相撲部屋で相撲を取る元の生活があるんだろ・・・?」

 明春も、他の皆も、嬉しそうな寂しそうな何とも言えない――しかし優しい眼差しで精介を見ていた。

「そ、それは・・・。」

 明春の言葉に、精介は俯いてしまった。

「精介の事を家族の人達とか、心配しているんじゃないのか・・・?」

 明春達もまた、精介の事を心配しているが故の言葉だった。

「・・・・・・。」

 精介は言葉に詰まり俯いたままだった。

 家族としての縁は薄いものの――自分を引き取って育ててくれた叔父夫婦。義理の妹。マンションでの生活を見守ってくれている祖父の弟。彼等は彼等なりに精介の事を気に掛け、大事に思ってくれていた。

 部活の皆や監督、OBの人達、学校で同じクラスの友達――。彼等も精介が本当に居なくなってしまえば心配し、心を傷めてくれるだろう。

 ただ、それでも彼等は精介の男色の事は何一つ知らなかった。

 無理に打ち明けたり、必要も無いのに開けっ広げにするというつもりは毛頭無かったが――しかし何かの拍子にその事が皆に知られてしまったとして、彼等が今まで通りに精介の事を受け入れてくれるのかどうか・・・。

 そんな恐れや怯えの感情を抱き、隠し持ってまで元の生活――元の世界に帰りたいとは思えず。

「・・・あ~、すまん・・・。こんな試合直前に話し込む様な事じゃなかったな~。」

 戸惑いの感情に思わず立ち尽くしてしまっていた精介に、明春は頭を掻きながら謝った。

「あ、いえ・・・。大丈夫ッス。」

 精介は気持ちを切り替え、半ば無理矢理ではあったが笑顔を浮かべた。

 パンッ、と強くマワシの片腹を叩き、土俵の向こうに並んでいる科之川部屋の相手へと目を向けた。今は兎に角、目の前の試合に集中しよう。その後の事はまたゆっくり考えればいい――。

「そうだな。試合に集中だ。」

 庄衛門もでっぷりと突き出た自らの腹をパンパンと叩き、皆に声を掛けた。

「おお! 勝って賞金を和尚に渡さなきゃなあ。」

 春太郎が隣の利春の尻をわざとらしく強く叩いた。

「痛ぇよ。叩くなら自分のケツにしろ。」

 そうして皆の気持ちが試合へと切り替えられ、宮司の呼び出しの声で土俵の前へと整列していった。



 立ち見の場所から祥之助と春乃渦部屋の者達の様子を遠目に見ていた結三郎は、彼等の話し声は観客達の歓声に紛れて全く聞こえなかったものの――。

 だが、少しの間見えた精介の不安に立ち尽くす様子に心配そうな表情を浮かべた。

 やはり元の世界に帰れるかどうか等、色々と精介は不安に思っているのではないのか――。当の精介からすると全く見当外れな心配ではあったが。

 結三郎の心配を余所にいよいよ対戦が始まり、精介の様子も試合への集中で落ち着いた引き締まったものへと変わっていた。

 土俵だまりで並んだ順番からすると、春太郎、利春、庄衛門、精介、明春の順で戦っていく様だった。

 例によって近くで賑やかに話をしている観客達の声から、対戦相手の科之川部屋も春乃渦部屋とそう大差は無い規模の相撲部屋らしく、所属力士も八人か九人程だという事が判った。

 先に二軍の者が個人戦に出ていた様で、いい所まで勝ち進んでいたという事も結三郎達の耳に聞こえて来た。一軍に出場する五人は個人戦に出た者達よりはずっと強いだろうという観客達の話だった。

 今回の団体戦はそれぞれ順番に戦っていき、三人勝てばその団体の勝ちという事になっていた。

「東~。三島春太郎~。」

「おっしっ!」

 審判の宮司の声に、春太郎は両手で自分の頬を叩き、緊張しつつも対戦相手を睨みながら土俵へと上がっていった。

 対戦相手も春太郎と似た様な体格のやや背の低い小太りの男だった。

「はっけよい――!」

 祥之助達に稽古を付けてもらったのは精介だけではなかった。皆、一通り結三郎と祥之助を相手に実戦を意識した稽古も行なっていた。

「――西。山田六郎の勝ち!」

 だが、科之川部屋の者達も決して弱い訳ではなく、小太りの体に似合わず素早く動き相手に突っ込む春太郎とも充分に戦い、しっかりと春太郎のマワシを掴むと土俵の外へと寄り倒した。

「惜しかったな・・・!」

 息を切らしながら土俵を下りる春太郎の体を労う様に、皆がポンポンと手の平で軽く叩いていった。

「よーし。次は勝つぜ。」

 次の利春も意気込んで土俵へと上がっていった。

 しかし、相手の選手も力強い踏み込みと共に利春へとぶつかっていき、何とか受け止めたものの今一歩という所で片足が僅かに揺らぎ――その僅かな隙を狙われ利春は土俵に倒されてしまった。

「す、すまん・・・。」

 利春は土俵を下りるとがっくりと項垂れ、まだ少し落ち込んでいる春太郎の横へと座り込んだ。

「落ち込むのはまだ早い。まだ三人も残っておるじゃろうが。」

 親方は座り込んだ利春の頭をぽん、と軽く叩き叱り付けた。 

「東~。田村庄衛門~。」

 呼び出しの声に庄衛門は黙ったまま皆を見て頷くと、しっかりとした足取りで土俵へと上がった。

 庄衛門の相手は細身ですっきりとした筋肉質の――所謂ソップ型の青年だった。

 体格としては相手は軽量ではあったので、体重で勝る庄衛門が有利かと思われたが、意外に力強いぶつかりを行なってきて庄衛門が押されてしまった。

 だが、何とか庄衛門は相手のマワシを両手で掴み取り、少しの間四つに組み合って硬直してしまったものの――何とか相手を土俵の外へと倒す事が出来た。

「っしゃああーっっ!!」

「やったぜっ!!」

 やっともぎ取った一勝に利春達が喜びの声を上げた。

 そうしてとうとう精介の出番がやって来た。

 相手は既に二勝しており、ここで精介が負けてしまうと相手の勝ちが確定してしまう。

 自分がチームの勝敗の分岐となってしまったプレッシャーは、部活で出た県大会等の時と全く変わらない重さと緊張感だった。

 精介は先刻の試合前の、夏祭りの相撲大会の雰囲気が楽しくてどうのと呑気な感慨に浸っていた自分を叱り飛ばしてしまいたい気持ちになってしまっていた。

「い、いい・・・行って来ます・・・!」

「お、おい・・・。」

 少し青褪め、肩も小刻みに震えている精介の様子を皆が心配そうに見てしまっていた。

 この一戦でどちらが勝つのか決まってしまう重圧感は判らないでもなかったが、これでは普段の力を発揮する事も出来ないだろう。

「あ~・・・。精介。」

 見かねた明春が、困った様に眉を顰めながら声を掛けて来た。

「な、何スか?」

「・・・あ~。えーと、島津様には及ばないけど、この試合に勝ったら、俺がご褒美になってあげよう。一晩、夜の相撲に付き合ってやるよ~。」

「!!!!」

 その言葉に精介の青褪めていた顔が一気に真っ赤になってしまった。

「またまたー。そんなラブコメみたいなありがちな励まし方するなんて。イヤだな~。ハハハ。冗談キツいッスよ。全くもう・・・。」

 そもそも明春は三十代以上の男性を好むオッサン専ではなかったか。

 明春の励ましを苦笑しながら受け流し――きれず、精介の視線はさまよい、明春の体のあちこちを見てしまっていた。

 蒸し暑い夏の空気に明春の体も汗ばんでおり、がっしりとした胸板も薄く脂肪の乗った滑らかな腹筋も妙に艶やかに光って見えていた。

「少しは落ち着け・・・。」

 明春の横に立っていた庄衛門が呆れた様に溜息をつきながら精介を見た。

「あ、は、ハイ・・・。」

 このままだと違う所が緊張して落ち着かなくなってしまいそうだったが、ショック療法とでもいうのか、御蔭で精介の試合への過剰な緊張感は随分と穏やかになっていた。

「東~。山尻精介~。」

「で、では、行って来ます。」

 精介は皆にそう言うと、土俵の上へと足を踏み出した。

「若様ー!! しっかり!」

「落ち着いていけよっ!!」

 力士長屋の八百屋の一郎夫婦も応援に来ており、彼等の他にも長屋の子供達やおかみさん達からの応援の声が精介へと掛けられた。

 精介は一瞬だけ彼等の方を見て軽く頷き、仕切り線の前にやって来た。

 相手の選手は精介にとって幸いなのか、いかにも相撲取りと言う様なアンコ体型の大柄で太った体格の青年だった。

 精介の好みのタイプではなかったので、気持ちを乱す事無く試合に集中する事が出来そうだった。

 いや――例え、精介にとって魅力的な者が対戦相手だったとしても、今の精介であればきちんと試合に集中する事が出来る筈だった。

「――はっけよい!!」

 仕切り線に相手が先に手をついており、精介が両手をついたと同時に取り組みが始まった。

 相手はそれ程早い動きではなかったが、しかし足腰のしっかりとした確実な踏み込みで精介へとぶつかって来た。重く硬い筋肉と脂肪の混じり合った塊が精介目がけて圧し掛かるが――精介はそれを正面から受け止め、押し留めた。

「!!」

 そのまま土俵の外へと押し出そうとした意図があった様で、受け止められてしまった事に相手の青年は少しの驚きと悔しそうな表情を浮かべていた。

 確かに重く強い勢いのある当たりだったが――結三郎や祥之助と稽古をした時に受けた彼等のぶつかって来る勢いは、これよりも遥かに強く、精介は何度も吹っ飛ばされていた。

 それに比べればまだ充分に精介は耐える事が出来ていた。

「――っっ!!」

 精介は相手が体勢を立て直そうとした一瞬の隙をついて相手のマワシへと手を伸ばした。

 しかし相手の青年もすぐに精介の手を払いのけ、体勢を低くして再び精介へと体をぶつけ、手を突き出して来た。

 ――強い相手との実戦的な稽古を出来る様にと祥之助が気遣っていた意味が、今更ながら精介は理解出来た様な気がしていた。

 相手がどんな風に攻めてきても惑わされず、しっかりと相手に集中し、ぶつかっていく――。

 結三郎も祥之助も、春乃渦部屋の者達と実戦稽古をする時にはあの真剣勝負からすると随分と手加減はしてくれてはいた様だが、それでも確かにそうした稽古は精介達皆の身になっていた。

「――っ!」

 精介が相手のマワシを掴もうと手を伸ばし、或いは横側へと回り込もうと足を踏み込もうとする内にも、相手からもまたがんがんと張り手や突きが繰り出されて来るが――結三郎や祥之助との稽古に比べたらそれらは随分と軽いものの様に感じられた。 

 彼等の藩のお抱え力士という立場は飾りではなかったのだった。殿様の実子や養子だとかいう事による忖度ではなく、彼等の実力でその立場を勝ち取り維持しているのだと――精介は今更ながらに理解した。

 相手の繰り出す腕や手ががんがんと精介の体に当たり、赤く腫れた跡を残していくが、精介はそれに構わず真っ直ぐに相手のマワシへと手を伸ばした。

 結三郎との稽古の時は本当に強く重い塊が絶え間無く、ずんずんがんがんという音を立てながら自分の体に飛んで来る様な感じだった。

 それに比べたら何という事も無い――相手の攻撃の手を耐えきった精介は、ついに相手の懐へと飛び込み、しっかりとマワシを掴み取ったのだった。

「!」

 相手も息が乱れ始めており、精介にマワシを取られた事で余計に息も足の踏ん張りも乱れてしまった様だった。

 精介はマワシを掴み、この機を逃さない様にと相手の体へと覆い被さるかの様に一気に突進していき――そのまま土俵の上へと浴びせ倒す事が出来たのだった。

「――っしゃあ!! 勝った!!」

「若様勝ったああ!!」

 利春達春乃渦部屋の者達や、応援の長屋の者達両方から一気に歓声が噴き上がった。

 見守っていた祥之助や結三郎も、精介の勝利に思わず大きな拍手をして喜びの声を上げていた。

「おおーっ! やったぜ!! あいつ勝ったぜ!!」

 祥之助が何度も手を叩く横で、結三郎も嬉しそうに何度も頷いた。

「ああ! 稽古を頑張った甲斐があったな!」

 ぜえぜえと息を切らして頭をふらつかせながら、精介も対戦相手も東西のそれぞれの定位置へと下がり審判の判定を待った。

「――東、山尻精介の勝ち!」

 軍配を上げた審判の声が響き、精介は礼をして土俵からふらふらしながら下りて来た。

「っしゃ! よくやった!」

「頑張ったな!」

「やったやった!!」

 下りて来た精介の体を既に優勝したかの様な勢いで皆が喜びにパンパンと叩いていき、坊主頭を撫で回し、精介の勝利を褒め称えた。

 これでどちらも二勝となり、春乃渦部屋にも優勝の望みが出て来た。

「よーし、これで明春が勝てば俺達の優勝だ。」

「頼んだぞ!」

 庄衛門や春太郎がそう言って、明春の背中や尻を気合入れに両手で叩いていった。

「おう!」

 いつもののんびりとした表情や雰囲気は鳴りを潜め、程良い緊張に引き締まった目付きで明春は太い声で返事をした。

「東~。大坪明春。」

 呼び出しの声に、明春はしっかりとした足取りで土俵へと上がっていった。



「西~。村田安之進。」

 明春の対戦相手もまた、アンコ型の体形の――しかし先程の精介の相手よりも背も高く、勿論腹の出た脂肪の下の筋肉も分厚くなっており、しっかりと鍛えられていた事がよく判る大柄な青年だった。

「――はっけよい!!」

 精介達が見守る中、すぐに取り組みは始められ――明春と安之進はお互いに真っ向からぶつかり合い、それぞれが体勢を崩す事も無く即座にマワシを掴み合った。

 激しい力で安之進が明春のマワシを引き寄せ、明春もまた同様に力強く相手のマワシを自らの身へと引き寄せた。

 二人の腕が、太腿が、背中が、ぶるぶると震え、筋肉が膨れ上がり――しかし四つに組み合ったままそれ以上には動けず硬直してしまっていた。 

「明春ーっっ!!」

「行けーっ! 勝てる勝てる!!」

「村田ーッ! 頑張れっっ!!」

「負けるなっ!!」

 双方の部屋の者達や観客達からの応援の叫び声が上がる中、明春と安之進は暫くの間、お互いに歯を食いしばりながら足を踏ん張り、両腕を小刻みに震わせながら睨み合っていた。

 体全体の筋肉が膨れ上がり、張り詰め――けれどもそれ以上には動かず・・・いや、動けないでいた。

「っっ!!」

 明春も安之進も、何とか相手を攻めようと足を何度か踏ん張り直し、相手の体を押し返そうと力を込め直したが、大きく動く事は無く。

 一見して二人には大きな動きは見られなかったが、全身からどっと汗が噴き出して流れ落ちていき、どちらの白いマワシにも黒ずんだ汗染みが広がっていった。

「――っ!!」

 何度かの踏ん張り合いの後、体力を消耗する一方で埒が明かないと思ったのか安之進は明春の体を突き放す様にしつつ後ろへと飛び退いた。

 明春はそのまま相手のマワシを掴み続けようとしたものの、軽く体勢を崩されると今まで力んでいたせいもあり手に力を込めにくく、マワシを掴み直そうとする隙に安之進は明春から離れてしまっていた。

 明春が体勢を崩した隙を狙って安之進は再び明春へとぶつかって来たが、幸い明春が身構え直す方が一瞬早く、再びお互いに同じ力で先刻の様に四つに組み合ってしまう――かと思われたが。

 安之進の疲労か、明春の踏み込む足の力が僅かに勝っていたのか、お互いに頭からぶつかり合ったものの――ほんの少しだけ安之進が当たり負けて体が揺らめいてしまった。

「!!!!」

 明春はその僅かな隙を逃がさず相手のマワシを掴むと、残った全身の力を込めて一気に土俵の外へと押し出していった。

「――っ・・・っ!!」

 何とか安之進は明春を押さえ込もうとしたものの、体勢を大きく崩されたのは安之進の方で足の踏ん張りも利かず、そのままずるずると土俵際まで押されていき――ついには俵の外へと足がついてしまったのだった。

「東、大坪明春の勝ち!」

「――っっっっ!!!!」

 審判の声に、春乃渦部屋の者達も力士長屋の者達も大きな声を上げて喜んだ。

 汗びっしょりになってふらつきながら土俵を下りて来た明春を、春太郎達は笑いながら取り囲みバシバシ、バンバンと背中や尻を叩き、頭を撫で回してもみくちゃにした。

「勝った勝った勝った!!」

「俺達、勝てたんだ!」

「――よくやったぞ。よくやった・・・。」

 皆が嬉しがりはしゃぐ様子を見ながら、親方も涙ぐんでいた。

 小さな大会ではあったが、部屋の皆が再起を図って頑張ってきた努力が実を結び――これからへの励みになる大事な意味のある勝利に、親方の感慨もひとしおだった。

「やった・・・! すげぇッスよ! 勝ったんだ!俺等・・・。」

 春太郎達に混じって明春の背中を叩きながら、精介もまた感慨深い思いに浸っていた。

 部活の大会出場でも勝った事はあり、部の皆ともこうした勝利の喜びを分かち合った事はあったが――この小さな大会は、精介が自身の男色の事を気にせずに相撲を取る事が出来る様になって初めての試合で、その試合で勝てた事は精介にとっても大事な意味のあるものになっていた。



 五分程の休憩が宮司達から知らせられ、その間に土俵の掃き掃除が行なわれ表彰式の準備が行なわれていった。

 試合を見終わって気が済んだ観客も多く、春乃渦部屋や他の団体の感想を楽しそうに話しながら観客達は少しずつ会場から去っていった。

 精介達の試合への集中を乱さない様にと立ち見客の中から見守っていた結三郎と祥之助だったが、試合も終わったので彼等に声を掛けに土俵だまりの所へとやって来た。

「やったなお前等!」

 祥之助が笑いながらまだ汗の流れている明春の背中を叩いた。

「はい! 有難うございました!」

 精介や庄衛門達が祥之助と結三郎へと口々に礼を言い頭を下げた。

「この度は御二人には真にお世話になりました・・・!」

 嬉し泣きに少し顔を顰めながら親方は二人へと深々と頭を下げた。

「いえ、こちらこそ今回は良き勉強になりました。こちらこそ有難うございました。」

 親方の肩へと手を置いて結三郎も礼を言った。

 祥之助との本当に本気の真剣勝負や、親方からの、これからも皆の相撲は続いていくという言葉――佐津摩藩のお抱え力士として過ごしている中だけでは経験する事も気付く事も出来なかったそれらの事は、結三郎にとって忘れられない大事なものとなっていた。

「相変わらず堅苦しいなー。」

 親方と結三郎の遣り取りを横で見守りながら、祥之助は微かに苦笑した。

 そうする内にも土俵の方では表彰式の準備が出来た様で、宮司達が春乃渦部屋の皆に土俵に上がる様にと呼び掛けてきた。

「おら! 行ってこい!」

 自分が勝ったかの様に喜び笑いながら、祥之助は皆の背中を順番に叩いていった。 

「おーっす!」

 背中に薄赤い手形を付け、明春達は嬉しそうにしながら土俵へと再び上がっていった。

 宮司達の前には既に個人戦で優勝した青年が立っていた。

「――個人戦での優れた成績を表彰し・・・・・・。」

 精介の世界の様な表彰台やトロフィー、メダルと言った物は無く、簡素な賞状と白い封筒に入った賞金が宮司の手から青年へと渡された。

 次に春乃渦部屋の者達への賞状が読み上げられ、代表で明春が賞状と封筒を受け取った。

 居残って表彰式の様子を見ていた力士長屋の者達が一斉に拍手を行ない、部屋の皆への称賛を送った。

「おめでとう!」

「みんな、よくやったよ!!」

 宮司が選手達へと軽く頭を下げて土俵を先に降り、それから明春達も長屋の皆へと頭を下げながら土俵を下りていった。



 表彰式の賑やかな様子を遠くから見ながら、帝は祭の客達の間を縫う様に歩き本堂へとやって来た。

 祭りと言う事で本堂の正面の扉は開放され、奥の本尊の仏像もよく見える様になっていた。

 きちんと掃除はされており決して汚れている訳ではなかったものの、修繕する金銭的な余裕が無い為か、あちこちの柱や床の傷みはどうしても目に付いてしまっていた。

 賽銭箱へと小銭を放り込み、帝はそっと手を合わせると境内をぶらぶらと歩き始めた。

「支援言うけんど、どうしたもんかねえ・・・。」

 帝は小さな独り言を呟きながら、寺の敷地から僅かに見える証宮離宮殿の白塔の先端を振り返った。

 日之許の世界では神仏や精霊は現世に生身の肉体を以って顕現する事もあり、人間達と交流する事もごく稀にはあったものの、基本的には人間は神々からはそっと見守られているという名の下に放置に近い状態にされていた。

 実際のところは現世と神の世の物理法則等の差異がある為に、神々が現世に力を振るうには制限がある事等が大きな理由の一つではあったが。

 そうした事情があるものの、かと言って人間達の信仰心が薄いという訳ではなく、神社や寺を建てたり、村々では小さな祠や道端の神仏の像に手を合わせ祈り拝む事は人々の日常の風景として定着していた。

 何処へ向かうと言う事も無しに帝が庫裏の建物の裏手にやって来ると、滅多に参拝客の立ち入らない場所のせいか、そこには薪の束が無造作に積み上げられていた。

 他にもこれから薪として割られるであろう古く傷んだ何かの板や、朽ちかけた柱等もその近くに乱雑に積まれているのが帝の目に入った。

 その中に古くなって傷んだ大きな絵馬がある事に帝は気が付いた。

 絵具も薄くなったり所々剥げ落ちたりしていたものの、海からの日の出と空に昇っていく龍が描かれたものだと判別出来た。

 海難避け祈願と左の方に達筆な筆文字で大きく書かれており、文字通り漁師達の無事を祈願して奉納されたものだった。

 科ヶ輪の町は海も近く昔から大きな港もある為に、この大きな絵馬に限らず海難避けや大漁祈願等の小さな絵馬や札を納める事が町のあちこちの寺社でずっと行なわれてきていた。

「ほおお、こら仁科舟彦(にしなふなひこ)の絵ぇやなあ・・・。」

 帝は傷んだ絵馬を両手で抱え上げ、隅々までじっくりと見た。

 決して世間に広く知られた売れっ子絵師という訳ではなかったが、好んで龍を題材にした絵を描く事で一部の好事家達に知られていた者だった。

 覚証寺では価値が知られていなかったのか、他の絵馬と同様にそのまま飾って傷むに任せていたのだろう。

 海難避けの絵馬に込められた想いに優劣や金銭的価値の多寡の判断を行なうというのは勿論間違ってはいるが、しかし優れた絵師の手による絵馬を適切に保存して多くの人々の目に触れる様に取り計らう事もまた、人々の信仰心や文化教養等に何かしらの足しになる事だと帝は信じていた。

「こんなに傷んで・・・。勿体無いなぁ。」

 試しにオークションに出品したらここの和尚の小遣い銭程度にはなるのではないか――そんな事を考えながら帝は、取り敢えず龍の絵馬を地面に置いた。

「お! そうやなあ・・・。」

 良い事を思い付き、帝はぽんと手を叩いた。

「ここみたいな小さい寺社を今回は主体にして、何か昔から伝わる神仏の像とか経典とか、奉納された絵馬とか色々持っとったら、文化財保護という名目で少しだけ補助金を出す制度を作るか。」

 誰かに説明するかの様に帝は思い付いた事を口にしていった。

 規模が大きかったり古い時代からある寺社は、各藩の大名や豪商等が菩提寺であるとか氏子であるという様な縁で寄付を行なう等して維持されてきた。

 今回はそうした縁を持たなかった規模の小さな寺社への支援を行なおうと帝は考えていた。

 代々の帝達も全く無策という訳ではなかったものの、当代の帝と違い神々から大量の知識や情報を神降ろしによって得る事が無かった為に、どうしても視点や価値観は京の宮廷の中だけに限定されがちで充分な施策が行われてきたとは言い難かった。

 信仰や文化・文物に関しては規模の大小、財力のある無しだけで判断して切り捨てる様な事があってはならない――神々の祭祀を司る長としての側面も強く持っている立場の帝としては、遅くなってしまったが取り掛からなければならない事柄だった。

「後は、取り敢えず各寺社にどの様な文化財が眠っとるのか、調査費用という名目で一時的な補助金も・・・まあ、ばらまきやけどな・・・。まあ、それを元手に何や副業始めてもええし、節度を守るんやったら投資とかに回してもええやろ。何もせんと補助金食い潰して廃寺、廃社になったとしてもそこの文化財の確保は国としては出来るしな。」

 帝の説明が終わると、何処からともなく紺色の簡素な着流しを纏った老夫婦と、ベージュ色のスラックスに半袖のホワイトシャツを着た白髪頭の痩身の老人が現れた。

 老夫婦の方は屋台で焼鳥を食べていた者達で、祭の客に扮して帝の護衛をしていた者達だった。

「流石、当代の帝は頒明解化を進めるだけあって、文化や芸術の保護にも理解がおありであらせされる。」

 蓄えた口髭も白くなっているホワイトシャツの老人はそう言って帝へと微笑みかけ、ゆっくりと頭を下げた。

「よう居場所が判ったの。そこの連中が宮内庁に連絡入れる前から来とったやろ。」

 帝は老人――宮内庁副長官に明るく笑い返した。

 日之許国の宮内庁は帝居にあり、帝に関する国事事務等を司っていた。証宮離宮殿の図書館に入り浸ったり、調査研究と称して無断で日之許国内各地に出掛けてしまう帝を捕まえて帝居で仕事をさせるのも彼等の仕事となっていた。

「――それはまあ、帝とは長いお付き合いでございますから。」

 副長官は背筋を伸ばしたまま澄ました表情で答えた。

「それと、急ぎのお仕事で署名代筆の出来る物は全て片付けておきました。どうせ今日明日は高縄の博物苑での「研究」にかかりきりになるのでございましょう?」

「せやな。――いつもすまんなあ。おおきに。」

 長い付き合いで色々と見透かされてしまっている帝は、副長官に苦笑を向けた。

「ではわたくしはこれで。――小規模な寺社への補助金の件につきましては議会の方へと伝えておきます。」

 副長官は背筋を伸ばし折り目正しく礼をしてその場から去っていった。

 老夫婦に扮した護衛達は、帝と副長官の遣り取りが終わるか終わらないかの内に姿を消してしまっていた。また何処かに潜んで帝の護衛を続けるものと思われた。

「ああ。あんじょう頼むわ。議員さん達にもよろしゅう。」

 去っていく副長官の背に帝はそう言葉を掛けると、再び古い板や絵馬の積み上げられた山の前に立った。

 議会に諮るといってもまだまだ形ばかりが先行しており、今回の補助金の案も帝からのものだという事ですぐに承認されるものと思われた。

「――それではホンマはあかんのやけどな・・・。」

 日之許国の政治体制は――いや、日之許も、というべきか。どの国の政治体制も、その運営も、頒明解化が始まり神々から政治に関する知識もまた多くもたらされたものの、まだまだ試行錯誤の最中だった。

 多くの国々が王政の様な中央集権的な体制で長い歴史を経てきていたので、そこから急に民主主義国家に変更する事は難しく、また弊害の方が大きかった為に、緩やかに少しずつ変えていくという手段を取っていた。

「さて。舟彦の絵馬以外は特にはこれというモンは無いみたいやな・・・。」

 積み重ねられた板をずらして覗き込んでみたが、後は普通の古い板ばかりの様だった。

 帝は手に付いた汚れを払うと、まだ土俵の方で春乃渦部屋の者達と話をしている結三郎よりも先に高縄屋敷へと戻る事にした。

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