第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の八 精介達の居酒屋での楽しげなる飲食に就いて記す事
第二話ふたつめ、しるすこと
「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」
「其の八 精介達の居酒屋での楽しげなる飲食に就いて記す事」
精介、明春、祥之助、結三郎の四人は力士長屋を出て暫く歩き、表通りにある小さな居酒屋へとやって来た。
そうする内にすっかり日も沈み、辺りは暗くなっていた。
「あー、ここです。大分前に、一回だけ親方に連れてきてもらったんですけどね~。」
明春が「居酒屋・ふかの」と看板の出ている小じんまりとした店の前で立ち止まった。
「旦那さんが元板前の深野さんていう名前のご夫婦と、その娘さんの三人でやってるお店なんです。小さい店ですけど、酒も飯も美味かったですよ~。」
明春の説明を聞きながら、皆は店の中へと入っていった。
「――へえ。割と近くなんだな。この店は知らなかったなー。」
皆と一緒に縄暖簾をくぐりながら、祥之助は軽く店内を見回した。
それなりに繁盛している店の様で、四つ置かれた小振りのテーブルは三つが塞がっており、四、五人の客が酒を飲みながら食事をしていた。
その内の一つのテーブルでは丸刈り頭に鉢巻を巻いた大工の衣装の青年――まだ少年と言えない事もない顔立ちや体格ではあった――が酒を飲みながら、店の娘と思われる少女と楽しげに話をしていた。
黄色い絣の着物姿の少女は盆を片手に持ったまま、明るい笑顔で大きく頷いたり相槌を打ったりしながら楽しそうに大工の青年の傍らに立っていた。
「――あ、いらっしゃいませ! お席にどうぞ!」
明春達の姿に気付いた少女は顔を上げ、一瞬だけ精介の制服姿を珍しそうに見たものの、すぐににこやかに笑いながら明春達へと近付き席へと案内した。
「お客さん達、ウチの店初めてですか? あ、今日は鶏の照り焼き定食がお勧めですよ。」
店に来る客の大部分が常連客で大抵の客の顔を彼女は覚えているらしく、明るく笑いながら、席に着いた明春達に御品書きを手渡した。
「あ~、大分前に一回だけ親方に連れられて来たよ~。その時は海鮮丼定食が美味かったなあ。」
「そうなんですか。――親方?って、お兄さん達、何かの職人とかですか?」
「いや、相撲取りだよ~。俺は小さな貧乏相撲部屋の力士だけどね~。」
呑気に笑い、皆と御品書きを見ながら明春は少女に答えた。
「凄い! ・・・え、じゃあこっちの皆さんは違うお相撲部屋なんですか?」
力士と聞いて少女の目が輝いた。
話が聞こえていた他の席の客達も、興味深そうな目を明春達へと向けた。
芝居の役者や三味線等の弾き手、或いは踊り手や歌い手の様な芸事で興行を行なう者達と共に、相撲取りは塔京の町に限らず日之許の国では人々から好まれ人気のある職業だった。
小さな貧乏相撲部屋の力士であっても、人々は温かな好意の目を向ける事も多く、侮られる事は少なかった。
「あ・・・ええと。まあ、私もそんな感じだな・・・。」
お勧めの鶏の照り焼き定食にしようかと決めかけていた結三郎は、少女からの期待に満ちた視線にどう答えたものかと戸惑いながら、祥之助の方へと少し目を逸らした。
正直に自分の所属や身分を明かすと面倒そうだったし――もしも先月の藩交流大会の話になれば、再びケツサブロウ呼ばわりの事態になりかねなかったので、出来れば結三郎はそれは避けたかった。
「おう! 俺は杜佐藩お抱えで、こっちは佐津摩藩。そんで、そっちの精介は何かどっかの学校の中の相撲部屋の所属だ。」
曖昧に誤魔化そうとした結三郎の思惑に反して、祥之助は馬鹿正直に自分達の事を答えた。
「ええええ! お抱えに学校? 杜佐に佐津摩!? すっごおい! 何でウチみたいな店に!?」
少女の表情が驚きと好奇心とで輝いた。
騒ぎ立てる事は無かったが、他の席の客達も一斉に驚き顔を上げ好奇の視線を祥之助達へと浴びせ掛けた。
その様子に精介は、元の世界でいう所の有名スポーツチームの選手なんかが下町の飲食店にお忍びでやって来た様な感覚なのだろうか――とも思った。尤もその憧れを向けられる対象が今は自分だというのが何とも照れ臭く居心地が悪かったが。
昨夜明春が言っていた様に、この世界ではまだ、学校に通い続ける事が出来ているという事自体が金や力を持っていると見做されると、少女の様子から改めて精介は実感した。
「おいおい、徳子、いつまでくっちゃべってんだ。お客さん達に迷惑だろ。」
奥の方から父親らしき中年の男が顔を出し窘めた。
「あ、ごめんなさい・・・。あ、ええと、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さいね。」
浮かれてしまっていた自分に気付き、徳子と呼ばれた少女は軽く頭を下げて父親の居る厨房に下がっていった。
「――ちっ。」
徳子が下がっていくのを精介は見送ったが、先刻の大工の青年が軽い嫉妬なのか面白くなさそうな表情で精介達を一瞥し、小さく舌打ちをした様だった。
徳子と楽しんでいたお喋りを途中で打ち切られ、更に関心を奪われてしまった青年は精介達に余り良い感情を持っていなかった様だった。
「・・・・・・。」
精介が彼に申し訳無い気持ちを抱きながらも、取り敢えず注文を何にしようかと御品書きに目を向けると、結三郎も太い眉を下げ、何処か申し訳無さそうな表情を彼に向けている事に気が付いた。
――精介と結三郎は、それぞれ同じ様な事を考えてしまっていた。
大工の彼よ――彼女との楽しいひと時を邪魔してしまって申し訳無い。
この四人の面子では、誰一人、この店の娘さんに恋心やときめきどころか、何かしらの関心を持つ事すら絶対にあり得ないと断言出来た。
下手をすると、関心を持たれときめかれてしまうのは君の方だ。
本当に申し訳無い――お互い口に出す事は無かったが、精介も結三郎も大工の彼に謝罪の念を送ったのだった。
◆
今日のお勧めの鶏の照り焼き定食と酒を四人分注文する事にして、先刻の店の少女――徳子を呼ぼうと明春が手を上げかけたところで、精介が慌てて明春を止めた。
「あ、俺は酒はまだ駄目で・・・。」
「ん、精介ももう十八位じゃなかったっけ~? あれ・・・?」
日之許の国では十五歳が成人と見做されていた。飲酒や喫煙、また婚姻等に関する法律も頒明解化の際に明文化されはしたが、その内容は単に十五歳を成人として、大人の嗜好品や婚姻等もそれに準じて許可するという従来からの慣習を文章にしただけのものだった。
明春が首をかしげると、
「あ、ああ! 国や地域によって未成年の年齢の定義とか、飲酒の許可の決まりや風習が違うものな。塔京に出て来ているとはいえ、故郷の決まりには従っておかねばな。」
結三郎が慌てて精介を庇う様に言葉を補足した。
「そ、そうなんです・・・! 俺の故郷(くに)では二十歳が成人式で、大体そんな感じなんで・・・。」
結三郎の言葉に精介はほっとして頷いた。
飲酒に全く興味が無いではなかったが、法律の違う異世界に来たからと言って、どうしても酒を飲みたいと言う程の強い興味は精介には無かった。
「へえ、そうなのか。藩によって随分違うものだなー。」
祥之助と明春は無理強いする事も無く、精介や結三郎の言葉を素直に信じた様だった。
「じゃあ~、二十歳になったら皆で酒を飲もうな~。」
明春は精介に笑い掛け、それから徳子を呼んで酒と定食を注文した。精介の飲み物は麦茶を頼む事にした。
お勧めの定食はあらかじめある程度下準備が行なわれており、大した時間も掛からずに皆の所へと運ばれてきた。
「お待たせしました~。ごゆっくりどうぞ。」
机の上に並べ終ると、徳子はそう言って頭を下げて厨房の方へと戻っていった。
「今日はお疲れ~。」
日之許にも乾杯の習慣はある様で、明春達がお猪口に酒を満たして軽く掲げるのを見て、精介も麦茶の入った湯呑を持ち上げた。
「お疲れっした~。」
お猪口や湯呑を軽く近付けてから、皆は口を付けていった。
「うん、美味いな。」
あらかじめ刻まれていた照り焼きの鶏肉を口に運び、結三郎は満足そうに頷いた。
「そうだね~。今度は部屋の皆とも来たいな~。」
「だなー。・・・ん? 鶏の揚げ浸し定食もあるのか。そっちも良さそうだなー。」
机の上に置きっ放しにしていた御品書きに他の定食や飲み物が書かれてあるのを見て、祥之助は次の機会にはそれを頼んでみようかとも思った。
その隣で明春も美味そうに定食を頬張り、酒を飲んでいた。
精介も食事をしながら皆の様子を眺め――そう言えば、この席の面子の内三人は男色の者なのだと今更ながら思い出していた。
結三郎については精介はまだよく判ってはいなかったが――結三郎の事も知れば、この席の全員が男色の者だと、精介はまた一層感慨深く食事をしていたと思われた。
そんな事を思いながら食事をしていたせいで、昼間、照応寺の土俵で明春が、自分も男色の者だと言っていた事も精介は思い返していた。
明春のその言葉で親方も、杜佐で昔指導していた子供達の中にも男色の者がいた事を思い出して――精介が男色の者だと思い至って、あの言葉を掛けてくれたのだった。
――杜佐の男色の相撲取りは、皆、ちゃんと相撲が取れる様になっている。強い相撲取りになった者だって大勢居る。だから、何も心配する事は無いのじゃ。
その言葉を思い返す度に、精介の胸に温かく染み込んだものが、不安に挫けそうになる心を励まし力付けてくれている様な気がしていた。
「――どうした~? 足りなかったらお代わり頼むか?」
明春が精介の視線に気付き、飯茶碗を手にしたまま軽く顔を上げた。
「あ、いえ・・・。」
少し角ばった明春の男らしくも人の良さそうな顔を見ながら、精介は食べていた鶏肉を飲み込んだ。
明春も自分もお互いに男色の者だと知れたので――もしかしたら今夜は、貞操の危機的なアレコレな出来事が起きたり起きなかったりはしないだろうか・・・・・・。いや、自分は明春が迫って来たとしてもそんなに嫌ではないので、この場合は危機という表現は適当なのか・・・?
そんな思春期男子に相応しい性的な妄想に心が乱れてしまい、酒も飲んでいないのに精介の顔はあっという間に真っ赤になってしまっていた。
「――明日はもうちょっと稽古の量を増やすからお前さん達、頑張れよー。」
ちびちびとお猪口の酒を舐める様に飲みながら、顔を赤くした祥之助が指導者気取りで機嫌良く笑みを浮かべて明春と精介を指差した。
「は、はい・・・。」
祥之助の酒に酔い始めた赤い顔と、その指先とを交互に見ながら精介は小さく頷いた。
祥之助は祥之助で、やや背が低くともがっしりとした筋肉質な体付きをしており――まだ今日一日だけの付き合いではあったが、性格の方もやんちゃ坊主というか小学生男子というか、明るく親しみ易い印象で、しかも相撲も強いという事で、精介の中では中々の好印象だった。
祥之助からの夜のお誘いがあったとしても、やはり精介は承知してしまうと思われ――。
「あ・・・!」
そこまで妄想していき――そんな性的に好ましい二人を相手に、本当に親方の言う通りちゃんと相撲が取れるのだろうか、と、まだ少し残っている不安感に精介は思わず声を上げてしまった。
「・・・何だ、まだ男色の事で心配してるのか~?」
精介の不安感が何となく判った様で、明春は小声でそっと精介へと問い掛けてきた。
「あー・・・はい・・・。まあその・・・明春さんとか、武市様も島津様も・・・何て言うか・・・。イイ感じの人達なんで。立ち合い稽古とか、やりにくいかなー・・・なんて・・・。」
顔を赤らめ、色々な意味で憧れの熱を帯びた視線を三人に向けながら、精介は小声で答えた。
「おー! 嬉しいコト言ってくれるねー。立ち合い稽古が勃ち合い稽古になっちまうなー。ハハハハ。」
食事を終えて銚子に残った酒をちびちびと飲みながら、祥之助は機嫌の良い表情で――酔っ払い始めたとも言うが――明るい笑い声を上げた。
「――・・・・・・。」
それから一瞬だけ間が空き、酒の酔いではなく怒りと呆れで顔の赤くなった結三郎が、半ば反射的に祥之助の後頭部をはたいた。
「――な! おっ、おっ前というヤツは・・・!」
発音が同じだったので一瞬判らず聞き流しかけたが――これは過度に性的で、外食の席ではよろしくないのではないだろうか。
結三郎はもう一回祥之助の後頭部を叩くと、祥之助の顔を覗き込んで睨み付けた。
「よさないか、その酔っ払いの中年のおじさんの様な品の無い過剰に性的な冗談は! もう少し場所を考えろ。」
「おー。すまんすまん。」
結三郎の注意もきちんと聞こえているのかどうか、祥之助はそう言ってへらへら笑いながら軽く頭を下げただけだった。
「勃ち合い・・・って・・・。」
性的にも素敵に思えている祥之助から発せられた性的な冗談に、精介は更に顔が赤くなっていくのを感じていた。
「祥之助様~・・・。」
流石に明春も呆れ、明春もまた酒の酔いではない恥ずかしさで少し顔を赤くしていた。
しかし祥之助は彼等の様子を意に介した様子も無く、一人機嫌良くにこにこと笑いながら小皿の白菜の漬物を齧っていた。
「兎に角、来週の相撲大会で朝乃渦部屋が優勝して賞金を獲得してもらうというのが、一先ずのお前さん達の目標だな。――で、他にはどんな連中が出場するんだ? そもそも何処で開かれるんだ?」
酔っぱらっているとはいえ、一応は色々と真面目に考えを巡らせている様で、祥之助は明春に問い掛けた。
「――あら、お兄さん達、来週の相撲大会に出るんですね! 応援に行きますね!」
不意に徳子の声が聞こえたので皆が顔を上げると、丁度隣の席の客に追加注文の酒を持って来ていたところだった。
客の藍色の浴衣姿の老人も酒を受け取りながら、明春の方へと話し掛けてきた。
「どっかで見た顔だと思ったらそこの力士長屋の相撲取りさんじゃねえかよ。――そっちの杜佐と佐津摩の兄さんに説明してやるよ。来週の大会は科矢輪(シナヤワ)神社、科葉(シナバ)神社、覚証(カクショウ)寺、そんで春乃渦部屋の世話んなってる照応寺。ここら近辺にある四つがだな――。」
老人は明春の事を知っていた様だったが、明春の方は覚えがなかった。明春が春乃渦部屋の力士だと言う事は近所の者もよく知っていたので、老人も力士長屋の近所に住んでいるのだろう。
彼の説明によると、この四つの神社と寺はどれも小さく貧乏な所だった。氏子や檀家の数も少なく、参拝者も少ない為に経営が苦しかった。特に照応寺は春乃渦部屋を引き受けた為に、他の三つの寺社よりも経済的事情は厳しくなっていた。
そこで知恵と――少額ずつではあったが何とか資金を出し合い、夏祭を合同で開く事にした。祭の客寄せの催し物として小さくはあるが相撲大会も開いて、何とか祭りを盛り上げようという事情の様だった。
祭への屋台からの出店料も幾らかは入るし、その日は絵馬やお守り、破魔矢と言った寺社関連の物も直売する共同の屋台も出す予定との事だった。
相撲大会の個人戦と団体戦には優勝者には少額ではあるが賞金も用意されていた。
「――まあ村祭りの相撲大会に毛が生えた程度の大会だろうから、参加する団体とか個人とかも少ないって話ではあったがなあ・・・。」
「――成程なー。」
四つの寺社の涙ぐましい努力を思わずにはいられない老人の説明を聞き、祥之助達は今回の春乃渦部屋の者達の相撲大会参加に関連した色々な事情がようやく理解出来た。
「まあ、当日は応援に行くからよ。頑張れよ。」
酒を飲み終わった老人は勘定を台の上に置くと、明春の肩を叩いて励まし、機嫌良さそうに店を出ていった。
「単に相撲大会というだけだと、正式な興行許可とか手続きが面倒だが、寺社内の祭の催し物の一つという体裁なら、まあまあ手軽で融通が利くものな・・・。」
結三郎は運営の厳しくなっている寺社の内情に同情しながら溜息をついた。
「それはまあそれとして。やらなければならん事は変わらんからなー。稽古を頑張って大会に勝つ事。単純明快な話だ。」
祥之助は酒に酔った赤い顔のまま腕組みし、明春と精介の顔を見た。
「それは勿論頑張りますよ~。」
「は、はい。」
二人の返事に祥之助は満足気に頷いたが、すぐに溜息をついた。
「やる気があるのはいいんだが・・・。しかし稽古場所がなあ・・・。寺の敷地の隅っこだからきちんとした集中的な稽古が難しいな・・・。鉄砲柱も無いし、鍛錬用の重石とかも無いし・・・。爺やに話をつけて大会までの一週間の期間限定で藩邸の稽古場に出入りさせてもらうとか・・・。うーむ。」
爺や――杜佐藩相撲部門総監督・朝渦浅右衛門ならばそもそも春乃渦部屋の広保親方の伯父なので、親戚の誼で少し位であれば便宜を図れない事も無いと思われた。
そもそも日之許の国の一般論として、余程関係が悪くなければ、出稽古として他藩や他の相撲部屋の者達が杜佐藩邸の相撲道場に出入りする事は珍しい事ではなかった。
「申し出は有難いのですけど・・・・・・多分、ウチの親方は断ると思います・・・。」
明春は眉を寄せ、垂れ気味の目がすっかり垂れてしまい、困った様な表情で祥之助に口を開いた。
「そうなのか?」
横で聞いていた結三郎が軽く首をかしげた。
明春は頷き、
「朝渦家の本家や御自分の御実家とかと、決して仲が悪い訳ではないんですけど~。親方から以前に聞いた話だと、親族一同、皆、同じ様に自立心、独立心が旺盛というか・・・他人の手を借りたがらず、頼りたがらない人達ばかりとかで・・・。」
「ああ、今日藩邸出る時に爺やからそれは聞いた。」
明春の言葉に、祥之助も今朝の相撲道場での浅右衛門からの話を思い出していた。
「じゃあ、やっぱり俺が来週まで毎日稽古の手伝いに通うしかないか・・・。」
町への外出自体は毎日の様に行なう事もあったので、祥之助にとってはむしろ堂々と外出出来て有難い話ではあった。藩邸の道場でいつもの面子と相撲の稽古をするよりは、たまには変わった場所で稽古をする方が気分転換にもなると思われた。
「結三郎も、もしよかったら一日位は何とかならないか?」
「あ、ああ・・・そうだな。」
祥之助から不意に話を振られ、結三郎は少し驚いてしまい顔を上げた。
「今日一緒に稽古してみて判ったけど、春乃渦部屋の奴等、筋は悪くないけどまだまだ鍛錬の余地があるんだよな・・・。本気で俺や結三郎と試合したら、多分すぐに勝負がついちまう。もっと実戦で強い相手と練習した方がいいんだよなー・・・。」
相撲に関しては意外と真面目に考え、分析している祥之助の様子に結三郎は感心していた。
町中でひとの尻を触ってきたり、ケツサブロウ呼ばわりする様ないい加減な奴だという印象が強かったが――。
ケツサブロウ呼ばわりを真面目に謝罪して来た時の、真剣ではあったが、それが長続きせず顔を赤らめ俯いてしまった祥之助の様子を思い出して、結三郎は知らず微笑み温かな目で祥之助を見ていた。
――嫌な気持ちのままとか、力み過ぎたままの気持ちで試合に臨んで欲しくはないっていうか・・・その・・・。外来語で言う所の「べすとこんじぃしょん」というか何と言うか・・・。
あの時と同じ赤い顔をして、更に今は酔っぱらっていたが――真面目に考え込んでいる今の祥之助の表情も結三郎は好ましく思えていた。
「今日藩邸に帰ったら義父上に相談してみよう。多分手伝いは問題無いと思う。」
結三郎は祥之助にそう答えた。
迷い人絡みの案件なのだから、精介に問題無く近付く事が出来る様にと、すぐに稽古の手伝いの許可は出るだろう。
「おおー。有難うよ、友よー。」
大分酔いが進んでいるのか、祥之助は結三郎の答えにふにゃりと人懐っこく笑い、段々と呂律も姿勢も怪しくなり始めていた。
そうする内にも、祥之助は結三郎の方へとふらふらと被さる様に抱き着き、そのまま寝入ってしまっていた。
「え・・・ええええええ!? おい、武市殿・・・!」
酒の匂いの濃くなった祥之助の呼吸に少し顔を顰め、結三郎は軽く祥之助の体を揺すった。
だが目を閉じたままの祥之助からは、何も返答が無かった。
短時間で多くの酒を飲んでしまったのだろうかと、結三郎は祥之助の手元へと目を向けたが、定食の膳の他には銚子が一本あるだけだった。
「杜佐者にあるまじき酒の弱さだな~。」
祥之助の様子に明春は軽く笑い、やれやれと溜息をついた。
「あ、やっぱ、こっちの世界でもトサって酒豪のイメージがあるんだ・・・。」
明春の言葉を聞き、精介が小さく呟いた。
「ん? こっち・・・?」
「あ、いやその、何でもないッス。」
精介の呟きが聞こえたのか明春が首をかしげたが、精介は慌てて手を振り誤魔化した。
「祥之助様も酔い潰れてしまった事だし、今日はもう帰りましょうか~。」
明春はそう言うと席を立ち、祥之助の所にやって来ると背を向けてしゃがみ込んだ。
「これじゃ流石に藩邸までは帰れんでしょうし、今夜はウチで寝かせます。俺が背負いますから~。」
「ああ、判った。」
結三郎は祥之助をそっと引き剥がすと、明春の背中にしがみ付かせた。
結構祥之助は結三郎へと体重を預けて来ていたので、祥之助が離れると随分と体が軽くなった様な錯覚があった。
「先に出てますね~。」
祥之助を背負うと、明春はゆっくりと立ち上がり先に店を出ていった。
「あ、今日は御馳走様でした。」
明春に続いて精介も立ち上がり、結三郎に食事の礼を言って店を出て行こうとした。
「あ――!!」
その様子に結三郎は反射的に手を伸ばし、精介のワイシャツの裾を思わず引っ張って止めてしまった。
結三郎達が話し込んでいる内に他の客達も殆ど帰ってしまっており――結三郎達に面白くなさそうな表情を向けていた大工の彼も既に居らず、店の者も厨房の方に引っ込んでしまっていた。
今ならば小声であれば異世界転移の話も出来ると思われた。
「――え? 島津様・・・?」
突然の結三郎の行動に精介は混乱したまま、席に腰を下ろし直した。
「山尻殿・・・。」
真剣に自分を見つめて来る結三郎の男らしさを感じる表情に、精介は少し顔が赤くならないでもなかった。
「は、はい。」
精介は結三郎を見つめ返し、頷いた。
「――あの、あなたは、この国・・・というか、この世界に昨夜、突然迷い込んで来た人ですよね・・・? いきなりこんな訳の判らない話をして申し訳無いのですが・・・。急な話で信じてもらえないかも知れないですが、私は迷子を元の世界に送り返す仕事をしているのです。」
「は、はい・・・!」
結三郎の言葉に、精介は思わず強く結三郎の顔を見返した。
やはり、夕方に結三郎が言っていた「どれ程遠い世界からの迷子でも力になる」という言葉は、そのままの意味だったのだと精介は理解した。
「え、ええっと・・・。俺、ゆうべマンションに帰る途中で、いつの間にかこっちの世界に来てしまって・・・。」
突然の結三郎からの話に多少混乱しながらも、異世界転移の事情を理解している様子にやはり精介は安堵した。帰りたい、帰りたくないと迷う気持ちとは別に、やはりたった一人で見知らぬ世界に迷い込んでしまった緊張感や不安感に、精介は無意識に疲れを抱いていた様だった。
「今日はあんまりゆっくり説明も出来ないですが、また明日にでも改めて詳しい話を――。」
外で待たせている明春の事や他人の耳目もある居酒屋という事もあり、結三郎は早々に話を切り上げ席を立った。
「は、はい。」
精介も頷き、結三郎の後に続いた。
会計を済ませ、結三郎と精介が店の外に出ると、眠り込んだままの祥之助を背負った明春が待っていた。
「・・・すっかり寝てしまってるな。」
赤い顔のまま気持ち良さそうに眠ってしまっている祥之助の顔を、結三郎は呆れつつ眺めた。
「まあ、今日はこのまま俺の部屋で寝てもらいます。丁度良い鍛錬にもなりますし~。」
祥之助を背負ったまま、明春はその場で軽く足踏みをした。
「あー・・・。そういやそんなトレーニングもやってたな・・・。」
相撲部でも誰かを背負ってグラウンド何周走る、という様なトレーニングをしていた事を精介は思い出した。
柔道部の友達はどっかの山に合宿に行った時には、その状態で更に坂道の上り下りまでやらされてとんでもなくきつかったと言っていた。
「では、私もまた明日、照応寺の方に顔を出すよ。」
結三郎は明春と精介にそう言って、高縄屋敷へと帰る事にした。
「おやすみなさい~。」
「おやすみッス。」
精介は去っていく結三郎の背中を見送りながら、取り敢えずは異世界でこのまま迷子という事にはならずに済みそうだと安心した。
「じゃあ帰ろうか~。」
「は、はい。」
力士長屋へと歩き出した明春の後に続き、精介も歩き出した。
安心はしたものの――しかし、かと言って、どうしても絶対に帰りたいという程の強い思いがある訳でもなく。
今日、親方達に杜佐の男色の相撲取り達の話を聞かせてもらって、確かに精介の強張って凝り固まっていた心は解れたとは思う。今迄程には部活に出る事に対して緊張や怯えは少なくなったとは思うものの――本当に大丈夫なのか。やっていけるのか。
そんな不安はまだ精介の中から拭い切れないでいた。
「・・・あ~。」
夜道を歩きながら精介がそんな不安な気持ちに思いを巡らせていると、不意に前を歩いていた明春が困った顔をしつつも笑いながら振り返った。
「どうしたッスか?」
精介が尋ねると、明春は少し立ち止まり軽く体を揺すって祥之助を背負い直した。
「祥之助様の御子息だけ先に起きたみたいだ~。背中に硬い物が当たってる。」
「御子息って・・・。」
明春の呑気な物言いに精介は苦笑した。
リラックスして気持ちよく眠り込んだ男性の生理現象なのだろう。精介にも明春にも覚えはあった。
「祥之助様のコレで・・・何か、杜佐で相撲道場に通い始めた頃の事を思い出しちまったな~。」
精介の横に並んで歩き始めた明春が、背負った祥之助の顔を振り返り、懐かしそうに目を細めた。
「俺も男色だって昼間言っただろ~。男性の事を意識し始めたばかりの時に、この、人を背負って走り回る鍛錬やらされたんだけど・・・最初は俺が背負われる重石の役だったんだ。」
「あー・・・。」
明春の話を聞き、今の祥之助の様子を見てどんな事になったのか精介は予想が付いた。
「もう判っちまったと思うけど~、お互いマワシ一丁で、裸の相手にしがみ付くだろ? マワシの中が大変な事になってしまってなあ・・・。」
「そ、そんな事が・・・。」
最近の相撲部の練習メニューに人を背負うトレーニングが無くて助かったと精介はほっとした。
「――そんなになった俺の事を、気持ち悪いとか何とか言うヤツも勿論居たけど・・・。逆に先生とかはわざとらしかったけど、誉めてくれたんだよ~。天晴、女人に心を惑わされぬ、杜佐の気風に違わぬ益荒男振りよ、とか何とかな~。正直、何も言わず何も触れずにさらっと流してくれた方が良かったんだが・・・。」
明春の言葉に精介も頷く所があった。誉め言葉であっても下手に触れられると、却って気まずく居心地が悪い事はあった。
「女人には心を惑わされなかったけど、男には惑わされるからなあ・・・。まあでも~、それでも杜佐で助かったよ~。男色の者が居るのが当たり前の藩だから、道場でもそれっきり特には何も言われなかったし。」
明春の昔の話は微笑ましくもあり――また、精介にとっては羨ましくもあった。
明春は隣を歩く精介に、もうすっかり見慣れてしまった呑気な笑顔を向け、
「――だから、短い間だとは思うけど~、精介にはウチの相撲部屋で、男色でもちゃんと相撲が取れるっていう経験を積んで御屋敷に帰って欲しいと思ってるんだ~。まあ~、男色の相撲取りの先輩としての気持ちというか・・・。」
「・・・!」
明春の思い遣りの言葉に精介は思わず顔を上げた。
「・・・昼間、あんなに泣く程、元の藩で自分の男色の事を隠してたのかって・・・。俺は杜佐藩で恵まれてたんだな~って、ちょっと申し訳無くてな~・・・。」
「そ、そんな事は・・・。申し訳無いだなんて・・・。」
精介は大きく頭を横に振った。
確かに明春の事や、この世界の杜佐藩の男色の気風は羨ましくはあった。
そして、まだ今日一日だけの付き合いだったが、春乃渦部屋の人達の雰囲気も、相撲に対する姿勢も良くて男色への理解もあって――春乃渦部屋は、とても居心地が良かった。ずっと春乃渦部屋に所属して相撲を取っていたいと思う程に。
このまま結三郎によって元の世界へ送り返されたなら、もうこちらの世界には来る事は出来ないのだろう。
――自分は本当に元の世界に帰りたいのだろうか。
悩みながら歩く精介の前に、力士長屋の木戸口が見えてきた。
「明日も稽古頑張ろうな~。」
「は、はい・・・。」
精介にそう言って笑い掛け、明春は先に木戸口をくぐって中に入っていった。
自分は一体どうしたいのか――それはまた明日考える事にして今日はもう寝よう。稽古の疲れが今頃出て来たのか、眠気が出始めたのに精介は気付いた。
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メモ書き
ツイッターで、第二話は其の十くらいまでかしらねえ・・・と書いた事がありましたが。
・・・すまんのう・・・。あれは嘘じゃ。
いいえ、無限の可能性で無限に枝分かれした並行世界の内の一つを垣間見ただけなのでござりまする。
という訳で第二話其の八であります。
この調子だと、其の十五・・・いや、二十くらいかしら・・・。
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