第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の七 精介達、相撲の楽しさを思い出した事に就いて記す事
第二話ふたつめ、しるすこと
「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」
「其の七 精介達、相撲の楽しさを思い出した事に就いて記す事」
昼食後、皆は暫く本堂で休憩し、その後は再び外に出て稽古を再開した。
しっかりと食事を摂り、祥之助という杜佐藩お抱え力士と共に行なう稽古は明春達にとって、とても実りあるものになった。
そうした充実した稽古の時間はあっという間に過ぎ、夕方の時刻になってしまっていた。
「お疲れッした~!」
今日の稽古を終え、寺の井戸で軽く水を被って汗を流した後、皆はそれぞれ帰り支度を始めた。
「今日は真に有難うございました。御蔭様で皆がしっかりと稽古が出来て良かったです。」
「――祥之助様、今日は本当に有難うございました。伯父上にはくれぐれもよろしくお伝え下され。」
寺の門で祥之助達の見送りに立った和尚と親方は、それぞれそう言って頭を下げた。
「おう。明日も――いや、一先ず来週の相撲大会までは毎日来るからな。よろしく頼む。」
祥之助はそう言って二人に笑い掛けた。
力士長屋宛ての小荷物は明春に持たせ、祥之助は空になった大風呂敷を折り畳んで着流しの袂に仕舞い込んだ。
「じゃあ、力士長屋に寄ってから帰るから。」
親方達に軽く手を振り、祥之助は明春と精介を伴って力士長屋――明春の住む方の――へと向かう事にした。
「今日は有難うございました。」
「おやすみッス。」
庄衛門と春太郎も親方達や祥之助へと挨拶をして、祥之助からの風呂敷包みを手に自分達の長屋へと帰っていった。
和尚と親方、利春達も皆を見送った後、門の中へと戻っていった。
◆
日が傾きかけ、昼間の蒸し暑い空気が少し和らぎかけていた路地は、夕食の支度をする女性や腹を減らした子供達の声が聞こえ、煮付けや焼き魚等の香りが漂い始めていた。
濃い橙色の夕日の光を受けて帰り道を急ぐ風呂敷荷物の行商人達を時々避けながら、明春、精介、祥之助の三人はのんびりと話をしながら歩いていた。
「――精介は昼からは随分と動きも良くなってたから、ほっとしたよ~。最初に俺と稽古した時はひどかったもんなあ。」
「はは・・・。すんませんでした・・・。」
明春の言葉に精介は申し訳無さそうに頭を掻いた。
「でも良かったよ~。ちゃんと相撲に集中出来る様になったみたいだし。」
「あ、有難うございます。」
親方の言葉で強張っていた気持ちも随分と解れ、精介の稽古での体の動きは明春の言う通り随分と滑らかで力強く動く様になっていた。
「親方の御蔭ッスよ・・・。」
変な緊張感や力みが解れたという実感を精介もはっきりと感じていた。
男の裸にときめいてもいいし、性的な魅力を感じたっていいし――それはそれ、これはこれとして、稽古は稽古として頑張ればいい・・・。
自分の体が変に強張らずに動けると言う事を、精介は随分と忘れていて――今日やっと思い出した様な気がしていた。
「何か、今日は凄く・・・楽しかったです。」
そんな感想が自然に精介の口から零れ落ちた。
「あ、その、稽古は勿論、ガッツリやったんでしんどかったし、疲れてるけど・・・。」
誤解されない様にと慌てて言い足す精介に、明春は温かな目をして頷いた。
「うん。判るよ~。――俺達も、久し振りに今日は楽しかった。」
相撲部屋の支援者が亡くなって慣れ親しんだ部屋を退去しなければならなくなり、共に稽古してきた仲間達も段々と辞めていき――この三ヶ月程は、食事も住む所も充分ではない中で相撲を続けていく毎日だった。
まだ三ヶ月しか経っていないとはいえ、明春達もまだ十八歳や十九歳の若い青年で、そんな彼等にとっては三ヶ月は長かった。
そんな毎日の中で、気持ちが擦り減って暗くならない筈が無く――。
「相撲は楽しかったんだ。忘れてたよ~。」
「・・・はい!」
いつもの調子で呑気に笑う明春に、精介も笑いながら答えた。
「そうそう! 相撲は楽しいし、相撲を取る男を愛でるのも楽しい。忘れんなよ!」
先を歩いていた祥之助が二人を振り返り、心底楽しげに二人へと笑い掛けた。
「あ、はい・・・。」
楽しそうな祥之助の様子に流石だと感心し掛け――発言の内容を時間差で理解して精介は少し呆れてしまった。
――この人、やっぱり男色の人だよな・・・。こんなに堂々と男が好きだみたいな事を言っていながら、大きな大会で四位の実力って・・・。
色々な意味で強さを持っていると思われた祥之助の様子に精介は憧れながらも、それは呆れの為に随分と割り引かれてしまっていた。
「――他の相撲取りを性的な目で見過ぎるのは、土地神様の呪いの対象にはならんのですかね~? ちょっと祥之助様の事が心配になってきましたよ~。」
明春も呆れながら祥之助に生温かい目を向けていた。
◆
夕方になった科ヶ輪の町は仕事帰りの者達や、夜の繁華街に勤めに出る者達とが賑やかに行き交っていた。
表通りや路地裏、小路に至るまであちこち聞き込み、探し回ったものの――結三郎や鳥飼部達は大した手掛かりも得られず、時間だけが過ぎてしまっていた。
仕方無く一先ずは、朝に捜索を始めた照応寺に程近い路地で結三郎達は合流した。
「――昨夜、照応寺の近くの路地で目玉が光る鉄の獣に乗った若武者だか坊さんだかが居た・・・と、酔っ払いからの情報です。」
「同じく、その酔っ払いが飲んだくれていた屋台の爺さんも、光る獣とそれに乗った人間を見たとの事です。」
中別府と津田山の拾ってきた情報だけがそれらしいものだった。
光る鉄の獣というのは恐らく明かりをつけて走っていた自転車の事だろう。
「他にはそれらしい目撃情報が無いというのも、どうしたものか・・・。」
報告を聞きながら結三郎は、路地の板塀に軽くもたれかかり溜息をついた。
周りに集まった鳥飼部達の表情もうかないものだった。
「鉄の獣というのはまあ、今の日之許には殆ど普及していない乗り物だから誤解したとしても――。」
例えば全く知識も馴染みも無い外国の動物をほんの一瞬見ただけだと、とんでもない化け物や異形の怪獣の様に見えてしまうというのはよくある現象だった。道具や乗り物についても同様の誤認識があるのは博物苑に勤める鳥飼部達はよく判っていた。
上池田が腕を組んで考え込む横で、中別府も頭を捻っていた。
「しかし普及していなくて見慣れない物だからこそ逆に目立つ筈なのに、目撃証言が無さ過ぎるのもなあ・・・。」
「夜は兎も角、昼間は昼間で見掛けたら乗り物だと判らなくても、何かしら珍しい物だと注目を集める筈だ。それも無いというのは、何処かに隠れてしまっているのだろうか?」
「そうだなあ・・・。」
磯脇、西原田達も迷い人の行く先や隠れ先を思い付けず唸るばかりだった。
鳥飼部達の話を聞きながらも、結三郎も何も良い知恵は思い付かず首を捻るだけだった。
「――一先ず屋敷に帰ろうか。義父上に報告して出直そう。」
結三郎はそう言って、仕方無く一旦撤収する事にした。
高縄屋敷へと帰ろうと鳥飼部達と歩き出そうとしたところで――路地の角から祥之助達が出て来たところに出くわした。
「おー!! 結三郎・・・殿、じゃないか。」
結三郎の姿を目にし、祥之助は嬉しそうに手を振りながら足早に歩いて来た。
呼び捨てにし掛けて、結三郎の背後に居る磯脇の咎める様な表情が祥之助の目に映り、慌てて言い足した。
「お、おう。」
結三郎もぎこちなく手を振り返した。
「逃げた動物とやらはどうだった? 見つかったか?」
「あー・・・いや。残念ながら・・・。」
心配そうに問い掛ける祥之助に、結三郎はそう答えつつ――祥之助の後ろに居る二人の青年達に気が付いた。
一人は紺色の着流しで、もう一人の五厘刈りの坊主頭の青年の着ている物に結三郎や鳥飼部達は注目した。
逃げた動物――いや、人物、見つかったかも知れない・・・。
結三郎はそう直感した。
「あ、そちらの方達は?」
結三郎が尋ねると、祥之助は振り返り背後の二人を紹介した。
「昔杜佐藩でお抱え力士していた人が、今、この向こうの照応寺ってトコで相撲部屋を間借りしてて。こいつ等はそこの力士なんだ。こっちが大坪明春。で、こっちが今日新しく入った・・・ええと。」
「――精介です。山尻精介。」
名前が思い出せず詰まってしまった祥之助の言葉を引継ぎ、精介はそう言って結三郎達に頭を下げた。
自己紹介をしながらも精介の方は、こうして色々な人達と面識が出来て行く事に漠然とした警戒感や緊張感を持たないでもなかった。
異世界からやって来たという様な自分の事情を上手く説明出来る訳ではなかったし、今の精介の身分はここの世界では身元不明の不審者と言えなくもなかった。
「島津結三郎だ。よろしく・・・。」
何処か緊張している様な精介の様子を気にしつつも、結三郎は精介と明春に軽く頭を下げた。
少し緊張してしまっているのは結三郎も似た様なものだった。恐らくこの精介という青年は、結三郎達の探していた異世界からの迷い人なのだろう。
だが時空の穴の転移事故については、まだ日之許の国の一般人には秘密にされていた。
祥之助やもう一人の明春という力士には、博物苑の奥苑で働く結三郎達の事情を説明する訳にもいかず――結三郎はどうしたものかと少し緊張しながら考えを巡らせていた。
「島津結三郎?」
精介と明春は結三郎の自己紹介を聞きながら、何処かで聞いたばかりの様な名前に少し首をかしげた。
「ん?」
二人の様子に結三郎も少し不思議に思っていると、結三郎の作務衣の裾を後ろに立っていた磯脇がそっと引っ張り耳打ちしてきた。
「結三郎様、少し・・・。」
「あ、ああ・・・。――すまない、少しだけ待っててくれないか?」
磯脇の言葉に頷くと、結三郎は祥之助達に軽く手を上げて謝り、鳥飼部達と共に少し離れた場所へと走った。
精介という青年の着ている物はホワイトシャツに黒に近い濃い紺色のズボン――と、未だ着物の多い塔京の町では少しだけ目立つものだった。
少し、という表現で済んでいたのは、頒明解化後の塔京の人々の衣装が比較的多様化してきている御蔭で――それが良かったのか悪かったのか、学校の制服姿の精介は今の塔京ではそれ程奇異なものではなかった。
精々が、いい所のお坊ちゃん――金持ちの豪商か、大名の若様が新しい物好きで、ワイシャツとズボンを着ているという風に見做される程度だった。実際、力士長屋の者達は精介の事をそういう風に勘違いしていた。
「――やはり彼が迷い人なのでしょうな。」
磯脇は精介の衣類だけでなく、背負っていた背嚢――スポーツバッグにも注意を向けていた。
綿や絹、麻とは違った繊維で作られた品物は、現在の日之許国にはあり得ないものだと見抜いていた。
「これだけ大勢ぞろぞろと彼等に付いて行くのも不審がられるだろうから、取り敢えず私だけ付いて行く。皆は一先ず奥苑に戻って殿に報告して待機していてくれ。」
結三郎の指示に鳥飼部達は頷いた。
「何かあれば、連絡はこれでするから。」
結三郎は肩掛け鞄を軽く叩き、中に入っている和綴じ本の携帯端末を示した。
「判りました。御気を付けて。」
磯脇達は了解し、結三郎へと頭を下げてから高縄へと帰っていった。
そうした結三郎達の遣り取りを遠目で眺めながら、明春はやっと思い出した。
「祥之助様~、今思い出しましたけど、島津結三郎ってあのケツ・・・。」
「それ以上は言うなよ?」
明春に軽く握った拳を見せて祥之助は笑いながら脅した。
「あー、何かの大会で武市様に勝ったとか昼飯の時に話してた・・・。」
精介も、祥之助と明春の遣り取りで島津結三郎が誰なのか思い出した。
「そうそう。俺に勝った優れた相撲取りだ。体付きも美味そうで・・・あ、いや、立派な体格で、相撲の技量も素晴らしい。佐津摩藩でも随一の相撲取りだ。」
祥之助は精介の言葉に、自慢気に結三郎の事を説明した。
「で、後は、他の連中は佐津摩藩高縄屋敷の博物苑の仕事熱心な鳥飼部(とりかいべ)達ご一行様だ。・・・何か飼ってた動物が逃げたらしくて、探してるとか言ってた。」
「鳥飼部(とりかいべ)?」
明春と精介は聞き慣れない言葉に祥之助の自慢気な顔と、結三郎に頭を下げて去っていく作務衣姿の者達を交互に見た。
明春も高縄屋敷の博物苑については馴染みが無い様だった。
「高縄にある佐津摩藩の別邸には博物苑という施設があってだな。そこでは珍しい動植物を飼ったり育てたりしてて、そこで働いている者を鳥飼部という風に呼んでるんだ。」
祥之助は何故か自分の事の様に得意気に二人へと説明を行なった。
「俺の父上・・・いや、元父上? 養子に出た後はどう呼べばいいんだっけ? ――まあいいや、取り敢えず杜佐の殿様からも、そこの施設に杜佐のオナガドリという珍しい尾のとんでもなく長い鶏を寄贈したんだ。少し前に俺も見に行ったな。」
「へ・・・、へえぇ・・・。」
何と言う事も無さそうに話し続ける祥之助の言葉を精介は聞いていたが、博物苑の説明だけでなく、祥之助が養子で元は杜佐の殿様の子供らしいという事まで聞かされ、驚きに言葉も無かった。
男色だけど相撲が強いこの人――意外とこの国では偉い身分の人なんじゃなかろうか。今日一緒に稽古したり昼飯食ったりして過ごした中では、ただの、好きな子に素直になれず悪口を言う小学生男子という様な印象でしかなかったが・・・。
「――まあ兎も角。あいつに不名誉な悪口は言うなよ? 二人共。」
「は、はい。それはもう~。」
明春は祥之助の脅す様な笑顔に大きく頷き返した。
精介は悪口を言うつもりは毛頭なかったが、明春の隣で釣られて同じ様に頷いた。
「――何か、また不浄負けの話が聞こえた様な気がしたが・・・。」
そこに不審そうに首をかしげながら結三郎がやって来た。
「気のせいだろ。――それより博物苑の仕事とやらはもういいのか?」
結三郎が来た事に笑顔を浮かべながらも、祥之助は気遣った目を向けた。
「あ・・・、ああ。まあ、今日はもう仕舞だ。」
祥之助の問いに結三郎は歯切れの悪い返事をしながら、ちらりと精介の方を見た。
「?」
精介は結三郎からの視線に何となく気付いたものの、深く気にする事は無かった。
――佐津摩の不浄負けの人か・・・。この人が土俵でマワシが解けてしまったのか。でも――ちょっとその場面は見てみたかったかも・・・。
精介はそんな事を考えながら結三郎に同情した。
改めて結三郎を見ると、祥之助の言う通り、背丈は自分と同じ位だが厚みのあるがっしりとした骨太の体格で、筋肉の上に滑らかな脂肪が薄く乗っており、そうした様子は力強さを感じさせるものだった。
それでいてまだ幼さも残った愛嬌のある丸顔の、しかしきりっとした太い眉は男らしさも感じさせて、精介にとってはかなり好みのタイプで――って、何を品定めしているのか。
精介は結三郎から軽く目を逸らし、慌てて内心に湧き起こった煩悩を打ち消した。
親方は昼間、芽生えたばかりの性の感情がまだ過敏に働き過ぎているのだと説明してくれたが、本当に働き過ぎだと精介は思った。
精介のそうした内心を知る訳も無く、結三郎は結三郎で、これからどうしたものかと頭を痛めながら祥之助へと取り敢えず話し掛けた。
「折角だし、もしよかったらこの後、皆で夕食でもどうかと思うのだが・・・。勿論私が奢ろう。この前の煎賀久寺の茶店の代金の礼というか・・・。」
取ってつけた様な理由付けで心苦しいとは結三郎も思ったが、何とかこの迷い人と繋がりを持たなければと、結三郎なりに必死だった。
幸い祥之助は結三郎からの誘いというそれだけで舞い上がり、横の明春もタダ飯にありつけるのを呑気に喜んでいた様だった。
「あ、でも、博物苑案内してもらった事で相殺なんじゃなかったか? いいのか? 奢ってもらうなんて悪いぜ・・・。」
喜びつつも一応は遠慮らしい言葉を祥之助は口にした。
「ま、まあ・・・折角だし。遠慮するな・・・。」
何とか笑いながら誤魔化そうとする結三郎の言葉に、祥之助はあっさりと同意した。
「おう。奢りは兎も角、一緒に飯食おうぜ。」
「良かったですね~、祥之助様。」
明春は微笑ましそうな表情で、素直に喜んでいる祥之助の肩を叩いた。
◆
祥之助が持って来た力士長屋宛ての荷物があったので、一先ずはそれを置いてから近くの適当な居酒屋に行こうという事になった。
「あ・・・。」
途中、祥之助と結三郎の後ろを明春と歩きながら、精介は思わず声を上げてしまった。
「ん? どうした~?」
「あ、いえ。何でもないです。」
明春が不思議そうに尋ねてきたが、精介は慌てて誤魔化した。
明春の部屋に自転車が置きっ放しだった事を精介は思い出していた。
昨夜の長屋の人達の会話からすると、この世界では自転車はまだ珍しい物の様だったので、祥之助や結三郎に奇異の目で見られ不審がられる事は避けたかったが――。
しかし今更どうする事も出来ず、精介は気を揉みながらもそのまま皆と長屋へ戻る道を歩き続けるしかなかった。
そうして力士長屋の木戸口の所へ四人が差し掛かると、二、三人の仕事帰りの者達も空になった桶を天秤棒に引っ掛けて帰ってきたところだった。
「お! 明春さんに若様、稽古帰りかい? お疲れ様!」
「ああ、武市様も一緒かい。明春さん達に稽古つけてやったのかい?」
「お、戸口もちゃんと直ってるじゃねえか。」
そんな事を言いながら彼等は先に敷地の中へと入っていった。
「大工さんが早速直してくれたんだね~。」
真新しい木材と古い木材の混じり合った木戸口の戸板を、明春は軽く触れたり押したりしてみた。
「故障でもしていたのか?」
結三郎が木戸口を見ながら尋ねると、精介は気まずそうに目を逸らした。
「精介が昨夜うっかり突き破ってしまったんですよ~。じてん・・・。」
「さ、入りましょう。な、何か荷物もあるんでしょ?」
明春が何の気無しに結三郎と祥之助に答えようとしたのを精介は慌てて遮り、明春の背中を押しながら木戸口を入っていった。
「どうしたんだ?」
「さあ・・・? まあ、自分の失敗をあんまり言われたくなかったんじゃないか?」
結三郎が精介の慌てた様子に首をかしげたが、祥之助は大して気にせず、そのまま精介と明春の後に付いていった。
「お帰りー!」
「あんた、今日は酒も買っておいたよ。」
奥の井戸端で洗い物をしていたおかみさん達が、帰ってきた夫達の姿に気付き出迎えていた。
「――あら、武市様じゃないの。いらっしゃい。」
明春と共に居た祥之助の姿にも気付き、彼女等は洗い物の手を止めて軽く頭を下げた。
「おー! 武市様じゃねえの!」
「いらっしゃいー!」
「今日はシンブンは?」
井戸の近くで座り込んでいた何人かの様々な年齢の子供達も、母親達の挨拶する声で祥之助がやって来た事に気付いて、嬉しそうに立ち上がった。
「おーっす。今日は新聞は無ぇけど、野菜と飴玉持って来たからなー! 後で飴は仲良く分けろよ。」
子供達には懐かれているらしく、祥之助は駆け寄って来た小さな子達を順番に抱き上げたり、軽く左右に振ったりして子供達とふざけ合った。
お土産に飴玉があると判り、子供達は年上も年下も喜びながら祥之助の周りに集まり、井戸端は急に賑やかになった。
「――あっ。」
井戸の横から子供達が祥之助の方に移動した為に、子供達の陰に隠れていた精介の自転車が現われ、精介は思わず小さく声を上げてしまった。
自転車の鍵は精介が持っていたので、長屋の男達の誰かが抱えて移動した様だった。
年長らしい男の子が一人だけ座り込んで、まだ物珍しそうに自転車のあちこちを見ていた。
精介の声に気付いたおかみさんの一人――朝に会った小柄な方の女性――安子が明春の部屋の方を指差した。
「ああ、若様の自転車、修理の作業の邪魔になるし壊したらまずいってんで、井戸の方に持って来てたのよ。」
そう言えば精介が壊した明春の部屋の戸口を修理すると言っていた事を思い出した。
悪い事をしている訳ではなかったものの――祥之助と結三郎に自転車を見られてしまった事に、精介は何となく不味い様な気がしてしまっていた。
「ああ、大工の安五郎さん、ちょっと他の用事が立て込んでたとか言ってたし、ここに来るのが遅かったみたいだな。でも、もうすぐ終わるみたいだぜ。」
今朝精介と会った、野菜の行商の安子の夫が明春の部屋をちらりと見てから井戸の方へとやって来た。
井戸から水を汲んで汚れた顔を洗った後、安子の夫は自転車をまだ見ている子供に声を掛けた。どうやら彼等の子供の様だった。
「触って壊さねえ様に気を付けろよ? 乗せてもらいたかったらちゃんと若様に頼むんだぞ?」
「うん。」
近くでそんな遣り取りを見ながら、少し位ならば乗せてあげてもいいかなとは精介は思いながらも――今は取り敢えずこれ以上、祥之助と結三郎の関心を惹かない様にと、さりげなく二人の視線が自転車に向かない様にと移動した。
祥之助と結三郎の前に立ち、自転車への視線を遮る様に精介が振り返ったところで、明春の部屋から紺色の腹掛けに股引といったいかにもな大工の衣装を着た初老の男が出て来た。
「あ、安五郎さん! 終わったのかい?」
安子達も大工の安五郎の姿に気が付き顔を上げた。
「ああ、今やっと終わった。」
腰を摩りながら安五郎は皆の居る井戸の方へとやって来た。
「あ、どうも・・・。」
精介や明春、祥之助、結三郎も安五郎へと軽く頭を下げた。
「お代は親方――いや今は大家か。大家の方に請求書回しとくよ。」
安五郎の言葉に精介ははっとして、安五郎の背後に見える明春の部屋の戸口を見た。
「あ・・・。弁償、どうしよう・・・。」
誰のせいでもない事故とは言え、精介が壊してしまったのは事実なので弁償はしなければ・・・と精介は思った。
「ああ、あんたが自転車の若様かい。宗兵衛親方が弁償は要らないって言ってたよ。」
いつもの癖でまた大家を親方と呼んでしまいながら、安五郎は精介の心配そうな様子に気付き、笑いながら精介の肩を軽く叩いた。
「広保親方んトコでちゃんと助っ人をしてくれるんなら、それでいいってさ。」
午後に安五郎がこの長屋にやって来た時に、大家である宗兵衛も壊れた戸の様子を見に来ていて、その時に安五郎にそう話をしたとの事だった。
「へえ~、流石、元杜佐藩のお抱え相撲取りだねえ。体も度量もでかいねぇ。」
今朝精介と明春に朝食の差し入れを持って来た良子が、大いに感心した様子で、その恰幅のいい体を揺らして頷いていた。
「え・・・ホントにいいんですか・・・?」
大家の有難い申し出ではあったが、申し訳無さそうにしながら精介は安五郎を見た。
「いいっていいって。俺自身はちゃんと手間賃は貰えるんだから損はしてねぇしよ。親方の親切に甘えとけ。」
「は、はい・・・。有難うございます。」
精介は安五郎に深く頭を下げた。
弁償すると言っても、今の精介の財布の中には二千円と少しの小銭しか入っておらず――その金もこの世界では通用しないものなので、彼等の言葉に甘えるしかなかったが。
「まあ、礼は宗兵衛親方に言いなよ。そんで来週の相撲大会で勝ちな。それが今日の手間賃だ。――そんじゃあ。」
「は、はい!」
頷く精介に笑い掛け、安五郎は道具箱を肩に担ぐと長屋を後にした。
彼等のそうした遣り取りを見ながらも、結三郎は精介の向こう――井戸の横に置かれていた自転車へと目を向けた。
昨夜は真っ暗でよく判らなかったものの、恐らくは――いや、あれが確実に昨夜の自転車だろう。流石に結三郎も、塔京で販売されている全ての自転車の事を知っている訳ではなかったが、使われている素材や自転車全体のデザインといったものからして、日之許の自転車とは異質なものだった。
「――さ、夕飯の支度しなきゃね。」
洗い終えた野菜や米を笊に入れ、おかみさん達が井戸端から立ち上がった。
「ああ、今日のメシには間に合わなかったけど、明日のメシにでも使ってくれ。」
祥之助が明春に持たせていた風呂敷包みを指差した。
明春が地面の上に荷物を下ろして風呂敷を解くと、青菜やジャガイモ、紙袋に入った飴玉が現れた。
ジャガイモはこの世界でもジャガイモという名前で流通していた。
「イモは去年のヤツだけどちゃんと食べれるからよ。」
「いいわよ~。去年だろうが一昨年だろうが食べれるだけで有難いわよ。」
祥之助の説明におかみさん達は口々に礼を言い、野菜を取り分け始めた。
「飴はー?」
「――はいはい、みんな一列に並びな。」
食事の支度の間、空腹でうるさいだろう子供達を黙らせる為に先に飴を配る事にしたらしく、安子が長屋の子供達全員を一列に並べ、一個ずつ配り始めた。
「――って、そういや、そちらの人は? 武市様の知り合いかい?」
分けられた野菜も笊に突っ込み終えたところで、おかみさん達はやっと祥之助の隣に立っていた結三郎の姿に気が付いた様だった。
「ああ! こちらにおわす御方は、佐津摩藩前藩主・島津茂日出様の四男、そして佐津摩藩お抱え力士であらせられる島津結三郎殿だ!」
時代劇で似た様な口上があったな、と、精介が内心思っているのも知らず、祥之助は得意気に結三郎の事を長屋の者達に紹介した。
「よ、よろしく・・・。――おい、ちょっと大袈裟だぞ。」
皆に軽く頭を下げた後、結三郎は小声で祥之助を咎めた。
「まあいいじゃないか。気にすんな。」
祥之助は全く気にした様子も無く楽し気に結三郎の背中を叩いた。
「へええええ!? 島津様の四男かい!」
「佐津摩のお抱え力士だって? そりゃぁ大したもんだよ!」
「えええ!? 武市様とどっちが強い?」
おかみさん達やその子供達、夫達も、祥之助の紹介を聞き感心し驚きながら結三郎の事を見た。
「島津様の四男って言ったら、佐津摩のお偉い若様じゃねえか。そんな若様がまあ、こんな貧乏長屋に何か用があんのかい?」
男達の一人が感心しながら漏らした言葉に、祥之助も笑いながら、
「おいおい。俺だって一応は杜佐藩主・曽我部様の四男だぞー。まあ、今はもう武市家の養子だけどな。」
「そういやそうだったわねー。武市様、ここの長屋に馴染み過ぎだからすっかり忘れてたわよ。」
「あたしゃ、その事、ゆうべ初めて知ったけどねえ。どっかの相撲部屋の稽古を怠けてばかりの相撲取りの兄さんだとしか思ってなかったわよ。」
おかみさん達が口々に賑やかに捲くし立て、笑い声を上げた。
彼等の賑やかな様子に圧倒されてしまっていた結三郎の横で、祥之助は結三郎や精介へと声を掛けた。
「まあ、何か知らんが戸の修理も終わったらしいし、俺達もそろそろ出掛けようか。」
「あ、ああそうだな。」
結三郎は少しほっとした様に頷いた。
「自転車、取ってきたらどうだ~?」
「あ、はい。」
明春に言われ、精介は井戸の横へと行った。
鍵を開けてスタンドを跳ね上げると、精介は自転車を押して明春の部屋へと運んだ。
「へ~、これが自転車か。新聞で見たけど実物は初めて見るな。」
祥之助は物珍し気に精介の押している自転車を見た。
自転車が目立たない様にという精介の隠れた努力は空しく、祥之助の方は初めて見る自転車に強い興味を惹かれていた。
「そうですね~。俺も、昨夜から色々あったんでちゃんと見る間が無かったけど。大した乗り物ですねえ。」
祥之助に相槌を打ちながら、明春も改めて物珍しそうに精介の自転車を眺めていた。
「こんな輪っかが縦に並んでるのに、倒れたりせずに走るんだろ~? 大したカラクリだよな~。」
「そ、そうッスね・・・。」
感心している明春の言葉に精介は何処か硬い表情で返事をした。
長屋の者達は大らかな気性なのか精介の事を大して追求せずにいてくれたが、長屋の外の者達はそうもいかないだろう――。
異世界転移の事を上手く説明出来る自信も無かったし、精々が狂人でも見る様な目で見られるか。或いは納得し理解してもらえたとしても、この世界でどんな扱いを受けるのかも予想出来ず――それを考えると精介はどうにも心配で落ち着かなかった。
「そうだよなー。それに鉄と・・・木じゃなくて何か妙な硬い物で出来てるよなー、これ。」
精介の横を歩きながら祥之助は、プラスチックの部品をとんとんと指先でつついた。
「おー、流石安五郎さん。きれいに直ってるな~。」
明春は自分の部屋の新しく取り換えられた戸板を開き、精介と自転車が通れる様に体をどかした。
土間へと自転車を入れる精介の後ろで、祥之助は新しい玩具を見つけた子供の様な雰囲気で目を輝かせながら、
「なあなあ。来週の相撲大会が終わって少し落ち着いたらよー、自転車少し乗せてもらえねえかなー? 無理ならお前さんが乗ってるところを見せてもらうとかでもいいんだけど。」
「あ~、俺も、ちょっと乗ってみたいな~。」
意外と明春も珍しい物好きの様だった。
「あ、いいッスよ。大会終わったら乗って下さい。」
精介は気軽に二人にそう答え――その後で一瞬考え込んでしまった。
来週の相撲大会まではこの長屋で世話になってもよさそうな明春達の雰囲気ではあったが――その後は。
その先はどうしたらいいのか――そもそも元の世界に帰れるのか? いや、帰りたいのか?
そんな迷いや不安に曇った精介の表情に気付いた明春は、心配そうに精介の顔を覗き込んだ。
「あ~。来週までずっとここの長屋で泊まる事、御屋敷の御家族に知らせとかないとなあ。何日も行方不明だと皆さん心配するんじゃないか~?」
「あ・・・えーと・・・。」
明春の善意の言葉に精介は返答に困り口籠った。
「ん? 何だ? 御屋敷って? 行方不明って?」
精介と明春の会話を横で聞いていた祥之助が不思議そうに明春に尋ねた。
「あ~。精介はどっかの遠い所の藩の若様らしくて、藩の御屋敷もここからは遠いみたいで。自転車に乗って遠出でうろうろしてたら道に迷ったらしくて~。で、ゆうべは道が判らなくなって俺の部屋に突っ込んで来たんですよ。いや~、長屋の皆も俺もすっごいびっくりしたんですよ~。」
大して驚いた様には感じられない呑気な笑顔で、明春は祥之助に昨夜の精介の事を説明した。
「どっかの若様って・・・。遠いみたいでって・・・。」
大雑把な明春の説明に流石の祥之助も困惑した様だった。
「――そ、そうか・・・。」
彼等から少し離れたところで呑気な遣り取りを眺めながら、結三郎は明春達力士長屋の住人達が大雑把――いや、大らかで寛大な気性で助かったと安堵した。
一応、遠い所からやって来て道に迷って明春の部屋に突っ込んでしまった――基本的な事は間違ってはいない説明だと、結三郎も精介も内心では苦笑した。
「しっかし、そら大変だ。 一晩だけとはいえ連絡もしてないんじゃ、家族も心配してんじゃねえのか?」
自分が相撲の稽古をさぼって無断外泊する事がたまにある事を棚に上げ、祥之助は心配そうに精介に声を掛けた。
「あ・・・でも・・・。ええと・・・。」
困惑する精介に祥之助は笑い掛けた。
「俺も結三郎も力になるぜ。遠慮すんなよ。」
勝手に頭数に入れられた事に呆れてしまったものの、精介の力になりたいというのは本当の事だったので結三郎は祥之助の言葉に乗っかる事にした。
「ああ。遠慮するな。ええと・・・佐津摩の前の殿様からも、迷子で困っている者にはしっかりと手助けをする様にと仰せつかってる。――どれ程遠い世界からの迷子でも、必ず力になる様に、と・・・。」
困惑していた精介の目をしっかりと見つめながら、何とかこちらの思惑が伝わる様にと祈りながら結三郎は精介へと語り掛けた。
「!!」
精介の方も、強く見つめて来る結三郎の様子に違和感を感じてたじろいでいたものの、結三郎の言葉の内容にはっとして小さく肩を震わせた。
「おいおい、大袈裟だなあ。まあでも、そんだけ、迷子の手助けはしてくれるってコトだな。」
「あ、ああ・・・。物の例えが大袈裟過ぎたか・・・。」
祥之助が結三郎の物言いに軽く笑い、結三郎も言ってしまった自分の言葉に少し恥ずかし気に頭を掻いた。
結三郎が精介の方をちらりと見ると、精介は少し驚き――また困惑した表情で結三郎の方を見続けていた。
「どれ程遠い世界、って・・・。」
誰も聞き取れないかの様な小さな声で、精介は思わず呟きを漏らした。
この佐津摩の前藩主の四男で相撲取りだという人は、精介の事情を何かしらの形で既に知っているのだろうか? 一生懸命な表情で語り掛けてきたのだから、悪い人ではないとは思うものの――。
頼っていいのか、異世界転移の事情を打ち明けてもいいのかどうかもすぐには判断できず、精介は困惑したまま結三郎の事を見つめていた。
「――まあ、取り敢えず込み入った話はメシ食ってからにしようぜ。腹減ったしな。」
結三郎と精介の腰に手を回し、祥之助は戸口へと促した。
「そうですね~。腹減った~。」
祥之助の後に続き、明春もいそいそと外に出ていった。
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メモ書き
2024年の1月も半分が過ぎてしまいましたが皆様如何御過ごしでしょうか。
更年期のヲカマのオッサンは本業のカイゴシエンの自営業がヤッテランナイ状態なので再びお掃除バイトを昨秋から始めましてございます。
海辺のリゾートバイトだぜ~ウェェーイ、と喜んでいたのは最初の内だけで、冬の時期は寒風吹きすさぶ状態と、一応は南国の気候+昨今の温暖化で、日が高く上った昼間は意外と暑い状態という一日の内の寒暖差が激しくて、オッサンの更年期の自律神経に大ダメージでございます。
という訳で、第二話其の七であります。ねちねちくどくど文章書くのが好きなので、ほんとに話の展開が遅いワネと我ながら・・・最高!素敵! 物語の世界を構築しているっていう手触りが実感出来てゾクゾクするううう(若い子ドン引き)
まあそれはともかく、男色相撲取り男子達の物語、お楽しみいただけると幸いです。
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