第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」 其の六 精介の性の悩みを分かち合う事に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の六 精介の性の悩みを分かち合う事に就いて記す事」


「――さぁ来い!!」

「――ッッス!!」

 土俵の上では精介と利春がぶつかり稽古をしていたり、その近くでは春太郎や庄衛門、明春が四股や摺り足を行なっていた。

 だが――。

「っと・・・。」

 勢い良く利春に向かっていた筈の精介は、利春の体に組み付いた途端に集中力を乱し足元もふらついてしまっていた。

「す、すんません!」

 顔を赤くしてしまい、利春から目を逸らして精介は頭を下げて謝った。

 やはりまずい――明春や、似た様な筋肉質な体格の利春を相手に稽古をする時には、ぶつかり合った時の汗まみれの肌の感触や、耳元すぐ近くに聞こえる相手の息遣いに欲情しそうになってしまった。

「もう一回!」

「はい!」

 首をかしげながらも利春は精介から少し離れ、手を広げて呼び掛けた。

 何とか自分のマワシの中の疼きを鎮めて、利春の裸の体から気を逸らし――いや、集中し直しというべきなのか――精介は再び利春へとぶつかっていった。

「――おいおいおい。」

 利春は慌てて、自分から少しずれた方向に突進していく精介の体を受け止めた。

 精介は目を閉じて利春に向って行ったせいで、少し方向がずれてそのまま躓いて転びそうになってしまったのだった。

「どうしたんだ・・・?」

 利春や周りの者達も首をかしげ、精介の不調を心配そうに見つめた。

「す・・・すんません・・・。」

 精介はただ謝る事しか出来ず、俯いたままだった。

「――ワシとの時は中々良く相撲が取れていたのにのう・・・。」

 広保親方は俯く精介の様子を見ながら、何事か思い当たる物があった様な気がした。

「ワシや庄衛門、春太郎と当たる時は動きも悪くない――いや、良いと言ってもいい位じゃったが・・・。」

 親方の言葉が聞こえ、精介は少し肩を震わせた。

 こんな異世界に来てしまってまで・・・結局、自分は相手の裸の体を意識し過ぎてしまって、ちゃんと相撲は取れないのか。

 自分が悪いのか? ――しかし、相手の事を性的に意識し過ぎる事がそんなにも悪いのか?

 精介の中で自責的な思いや開き直りの思いがごちゃごちゃと絡まり合ったまま、未だ解れる事は無かった。

「親方~。俺とおんなじッスよ~。」

 考え込み始めていた親方に、土俵の外から明春の呑気な声が上がった。

「あ、ああー!」

 明春の声に、利春や庄衛門、春太郎も思い当たる事があり、納得した声を思わず上げていた。

 弟子達の声に、親方も思い出す事があり、ふっと笑みを浮かべた。

「そうかそうか。――いやはや、懐かしいのう。こんな子・・・という程でも幼くはないが、確かに。この様な子は久々に見たぞ。」

 急に緩んだ空気の中で、微笑ましいものでも見る様な皆の様子に、精介だけが緊張に硬くなったまま親方達を見回した。

「な・・・何の・・・話・・・ッスか・・・?」

「杜佐に居った頃に藩が開いた子供向けの相撲教室にも、確かに居った居った。」

 精介の緊張を余所に、親方はひとり微笑みながら頷き、昔の思い出を懐かしがっている様だった。

「え・・・ええと・・・。」

 親方の様子に精介は困惑しながら利春や明春達へと目を向けたが、彼等も精介の事を微笑ましく懐かしそうに見ていた。

 自分のせいで稽古が止まってしまった事に申し訳無く思い――部活でも同じ様な事があった事や、部の皆や監督達を心配させてしまった事も強く思い出してしまっていた。

 緊張し、怯えてすらいる様な精介を気の毒そうに親方は見つめ、優しく声を掛けてきた。

「――精介。そう心配せんでも――恐がらんでもいい。明春に言われて思い出したよ。稽古で組み合う時の動きの硬さや目線、気の散り方・・・。お前も男色の者だろう。」

 男色――精介の元の世界での日常生活では縁遠い言葉だったが、それが男性同性愛を示す言葉だというのは一応の知識で知ってはいた。

 それが自分に向けて言われた事に、精介は一層緊張し、青褪めていった。

「あ・・・その・・・。」

 稽古で流していた汗は冷や汗に変わり、精介は俯いたまま震え始めた。

 あっさりとばれてしまった――どうしたらいいのか。

 こんな裸で密着するスポーツで、ホモだのゲイだのという事がばれてしまったら、どんな蔑みの目で見られ責められるか・・・気持ち悪がられるか。

 だが、そんな精介の様子を親方は笑い飛ばした。

「ハハハハ! そんなに恐がらんでもいいと言ったじゃろう! ――まあ、今すぐには難しいじゃろうが・・・。」

 精介に明るく笑い掛けながらも、精介の怯え続ける様子に親方は憐れみ混じりの目を向けた。

「お前が元々所属していた藩だか相撲部屋だか――ああ、学校の課外活動と言っておったな。そこは男色への理解が元々無いか、廃れてしまった所なのじゃろう・・・。そこまで男色の事を怯えて隠そうとするのは。」

 親方の言葉に精介は顔を上げ、肯定も否定もせず聞き続けた。

 親方は土俵の外で見守っている明春と庄衛門に少し視線を移し、また精介を見た。

「杜佐は元々男色の気風の色濃い土地柄。――なので、男色の者が居たら何となく判るものじゃよ。・・・女人に対してでもなく、お稚児の様な女性的な男を可愛がりたいというのでもなく――芯から男らしい男に対して性愛の気持ちが芽生えてしまうという、狭い意味での男色の者も決して珍しい訳ではない。」

「この部屋では俺と庄衛門が男色の者だよ。部屋を辞めてしまった連中の中にももう二人位は居たな~。」

 明春がいつもの調子で呑気に精介へと声を掛けた。

「ええ!?」

 思わぬ明春の話に、精介は思わず声を上げて明春の方を向いた。 

 もしかしたら昨夜は・・・いや、部屋の助っ人で何でもするという話をした時も、成り行きによってはあんな事やこんな事があり得たかも知れなかったのか――精介は現実逃避気味につい、いかがわしい事を考えてしまった。

「――まあ、そんな訳でな、昔から杜佐ではお稚児相手でも益荒男相手でも、男色の者は特には珍しい訳ではないし、忌み嫌われておる訳でもない。相撲や水練(水泳)の鍛錬の様な裸になる場でも、若い内は己の思いを隠し切れない者も居るが、それについても周りの者は気にしたりはしておらぬ。」

「そう・・・なんですか・・・。」

 精介は親方の話を聞きながら呟いた。

 そう言えば日本史の授業等で、武士の男色とか衆道とかについての話を教師から余談として聞いた覚えもあった。この日之許の国でも似た様なものなのか・・・。

「この春乃渦部屋に限らず、杜佐本国や塔京の杜佐藩邸所縁の相撲部屋――何処にでも男色の相撲取りは居る。皆が皆、男色の事をはっきりと公表してはいないが、何となく察せられておる場合もある・・・。」

 立ち続けて話をして疲れたのか、親方は少し自らの腰を叩いた。

 まだ不安気な表情で居る精介に、親方は改めて優しい目を向け言葉を続けた。

「・・・お前はきっと性愛の芽生えが遅かったのじゃろう・・・。二、三人、似た様な子が杜佐でも居った。・・・今はまだ芽生えたばかりの性の感情が過敏に働き過ぎなのじゃ。その内落ち着いてくる。」

「――!!」

 親方のきっぱりと言い切った言葉に、精介は先刻の怯えとは反対の意味で肩を震わせた。

「杜佐の男色の相撲取りは、皆、ちゃんと相撲が取れる様になっている。強い相撲取りになった者だって大勢居る。だから、何も心配する事は無いのじゃ。」

 親方の言葉は力強く――しかし温かく精介の胸に染み込んでいった。

 男色の者でも相撲が取れる――強い相撲取りになった者だって居る――世界が違っていても、同じ事で悩みながらも大成した者が居るというのは、精介にとってどれだけ心強い励ましになっただろうか。

「――お、俺・・・。」

 精介は暫くの間、そのまま土俵の上で立ち尽くしていた。

 ただ――ほっとして、全身の力が抜けてしまったかの様な錯覚があった。

 あんなに必死に隠していたのに。

 監督達にも言うに言えず、あんなに悩んで困っていたというのに。

 ――もう、部活には出られないし、出たくないとさえ思ってしまったというのに。

 そうした精介の中に淀んでいた色々な思いが、今はゆっくりと剥がれ落ちていく様だった。

「――・・・・・っっ・・・。」

 意識せず、ただはらはらと、精介の両目から涙が零れ落ちていった。

 手で拭っても拭っても止まる事は無く、精介は両手で顔を覆い隠し上を向いた。

「俺・・・。俺・・・・・・。」

 手で押さえても全く涙は止まらず、幾つかの粒が零れ落ち、土俵の土の上に小さな跡を付けた。

 親方も弟子達も、そんな精介の様子をただ微笑ましく温かな目で見守り続けていた。

「少し休憩するか。ワシも腰が痛くなった。」

 腰を摩りながら親方は土俵から下りていった。

「ほら、ちょっと向こうで座れ。」

 利春が泣き続ける精介の肩を叩き、長椅子の方へと導いた。

 返事が出来ず、泣きながら黙って頷くと精介はよろよろとした足取りで土俵を下りた。

 決して悩みが全て解決出来たという訳ではなかったものの――怯えや恐れ、悩みで硬く強張って凝り固まってしまっていた精介の心の在り方は、随分と解されたのだろう。

「・・・・うう・・・。」

 止まらない涙を手で拭き続ける精介に、明春から手拭いが渡された。

 まだ言葉が上手く出て来ず、精介は軽く明春に頭を下げた。

 これは嬉し涙でもあるとは思うけれども――ただ、ひたすらほっとして、何だか自分から力が抜けてしまい、凄く柔らかく――ふにゃふにゃなってしまった様な気がしてしまっていた。

「ほら、座れ座れ。」

 春太郎が長椅子の上の自分達の着替えや手拭い等を端に寄せて、ふらふら歩いて来た精介を座らせた。

 手拭いで顔を隠したまま精介は長椅子に座り込むと、親方や明春達もその場の地面に腰を下ろした。

 少しはこれで精介も落ち着いて相撲が取れるだろう――そんな明るい予感を抱きながら、親方達は精介が泣き止むのを待つ事にした。

「んんん!!? 何だ何だ!! 誰か泣かせてんのか? シゴキかイジメか!?」

 そこに、焦った声を上げながら土俵の方にやって来た、風呂敷包みを背負った逆毛頭の青年――祥之助の姿があった。

「杜佐所縁の相撲取りは公明正大、正々堂々を守らんとホントに土地神様の呪いがあるのを忘れた訳じゃないだろう!?」

 いきなり乱入して来て焦りながら騒ぎ立てる祥之助の姿に親方達は驚いたものの、相撲取りの身を案じての言葉だと親方はすぐに理解した。

 杜佐の土地神の相撲取りへの呪詛とも言えるものは、杜佐出身の相撲取り達ならばよく判っているものだった。

「いやいや、落ち着かれよ。これは誤解じゃ。今しがた、この精介なる若者の悩み事を皆で分かち合っていたところなのじゃ。」

 親方の言葉を受け、幾らか涙の治まり始めた精介が顔を上げ、祥之助に向かって何度か頷いた。

「――何だ、そうなのか・・・。それなら良かった。」

 どんなものかは見た事は無かったものの、土地神の呪詛の発動する様な不穏な気配も無く、落ち着き始めていた精介の様子を見て、祥之助は安心しほっと息を吐いた。

「・・・土地神様の呪詛って?」

 杜佐出身ではなかった春太郎が明春に尋ねると、明春はのんびりと笑いながらとんでもない内容を口にした。

「ああ~、杜佐の相撲取りは正々堂々とした勝負をせずに、八百長とか陰謀とか悪い事をして相撲を取ったら物凄い苦しみながら死んでしまうという呪いを受けてるんだ。」

「えええっ!? ホントか!?」

 春太郎は小太りの体を大きく震わせて驚き、真っ青な顔になってしまった。

「知らんかったぞ、そんな事! ・・・え、じゃあ、他の皆・・・いや、部屋を辞めた今迄の杜佐の出の奴等も皆・・・!?」

「・・・!?!?!?」

 近くに居た春太郎の様子と余りの話の内容に、精介も驚いてしまい涙も引っ込んでしまった。

「後は多分、イジメとか、度を越した痛めつけるだけのシゴキとかも、土地神様の呪いが発動するんじゃないかな~。」

 あっけらかんと恐ろしい内容を話す明春の様子に、春太郎も精介も言葉も無かった。

「いや、発動するぞ。本人の不摂生や油断で体調が悪いとかは許してくれるが、悪意のあるイジメやシゴキで心身不調という事になれば、公明正大・正々堂々の条件に引っ掛かり、イジメたヤツが相撲取りであろうがなかろうが、イジメたヤツは死ぬ。武市家の土地神様との問答集に書いてあった。」

 風呂敷包みを背負ったまま、杜佐の相撲に関する事は意外と真面目に勉強していた祥之助は、明春達の所に近寄り詳しく説明してきた。

「マジか・・・。やべぇよ、杜佐藩・・・。」

 呪詛とか土地神とか、精介にはまるで現実感の無い明春達の話だったが、彼等の大真面目に話しをする様子から只事ではないという事だけは判った。

 明春の手拭いを思わずきつく握り締め、精介は呆然と祥之助を見た。

「――というか、どちら様かな? 聞けば杜佐の相撲取りにお詳しい様じゃが。」

 親方が尋ねると、祥之助は今更ながら頭を下げて挨拶をした。

「お、うっかりしてた!申し訳無い。」

 浅右衛門爺やに事前に教えられた、広保親方が援助の品物を受け取る様な言い方を思い出しながら、祥之助は言葉を続けた。 

「俺は武市祥之助。杜佐の相撲の事を司る武市家の者だが、俺自身の旧姓は曽我部だ。杜佐藩相撲指南役の朝渦浅右衛門のたっての願いがあり、朝渦家からの差し入れ一式を持って来たぞ。」

 一々大仰な言い回しで面倒だと思いながらも、日頃世話になっている爺やの願い事を無碍にも出来ず、祥之助は何とか頑張って言い終えた。

「武市?曽我部? 真ですか!」

 親方は思わず身を乗り出して祥之助に迫った。

 春太郎以外の杜佐出身の明春達も、杜佐藩のお偉い家柄と大名家の名前を聞いて目を見開いていた。

「曽我部というと杜佐の殿の・・・。ああ、確か武市家に養子に行かれた四男の祥之助坊ちゃん・・・。いやはや、実に御立派になられまして・・・。見違えましたぞ。」

 親方はしみじみと呟き、目尻に涙が浮かんでいた。

 親方の記憶には二歳か三歳の幼い頃にお目見えした時の祥之助の姿しか無かったが、十五年近くの年月の流れと祥之助の成長に感慨深いものがあった様だった。

「坊ちゃん呼びはよせ。――まあ、そんな訳で、浅右衛門爺やからの――あ、いや、浅右衛門殿からの差し入れだ。」

 祥之助は背負っていた大きな風呂敷包みをその場に下ろし、結び目を解いた。

 中には大根や人参、青菜等の野菜や、木箱に入った味噌や、竹皮で包んだ肉の塊が入っていた。

「あ、この三つの内、二つは春太郎と庄衛門という人の世話になっている方の長屋の人達に渡して欲しいそうだ。」

 祥之助は風呂敷包みの中に入っていた小さめの風呂敷包みの内の二つを指差し説明した。

 春太郎と庄衛門は明春とは別の長屋で世話になっていた。宗兵衛長屋は全部で三つあり、部屋の空き具合の都合で一人一つの長屋にばらばらに割り当てられてしまっていたのだった。

 利春は空き部屋が無かったので親方と共に照応寺に厄介になっていた。

 風呂敷包みの残り一つは明春の住む長屋用の物だった。

「確か残った弟子は四人て手紙に書いてあったけど――泣いてたお前が新入りか?」

「祥之助様・・・もう少し物言いを・・・。」

 祥之助の大雑把な物の言い方を親方は窘めた。

「あ・・・すまん。」

「いえ・・・。よ、よろしくお願いします・・・。」

 謝りながら頭を下げる祥之助に、精介も改めて挨拶をした。

「しかし一人でも増えて良かった。俺も助っ人に入りたかったが、一応杜佐藩お抱え力士だからなー。二重の所属は出来ない決まりになってるんだ。」

「そ、そうなんですか・・・。」

 にこにこと人懐っこく笑いながら話す祥之助の体を、普通の意味で精介が見ると、精介よりも少し背の低い体格ではあったが――着流しの下に見える胸板や腕、足等はしっかりとした筋肉が付いており、硬くはありながらも滑らかな力強さを感じさせた。

 きっと相撲も強いのだろうと思わせる雰囲気を感じさせる体だった。

 勿論、性的な意味でも祥之助は精介にとって良い感じに見えていたが。

「祥之助様・・・。その、お気持ちは大変有難いのではありますが・・・。」

 広げられた荷物を見ながら親方は、申し訳無さそうな表情で口を開いた。

「人の手は――。」

「――いいから受け取ってくれよ。」

 言い掛けた親方の言葉を遮り、祥之助は溜息交じりに言い放った。

「一応爺やからは、親方殿が畏まって受け取る様な口上ももう少し習っては来たけどな。うだうだ言い合うのは性に合わないから、兎に角受け取ってくれ。四男の冷や飯食いとはいえ、杜佐の殿様の元御子息様が自ら足を運んで荷物を持って来たんだ。建前としては充分だろ?」

「う・・・・・。判り申した。謹んで・・・。」

 祥之助の勢いに押され、親方は観念して頭を下げた。

「伯父上には感謝しているとお伝え下され。後日必ず礼に伺うとも。」

「判った判った。」

 半ば聞き流しながら祥之助は中の三つの小さな風呂敷包みを取り除くと、野菜や肉等を包み直した。

「今から作れば丁度昼飯に間に合いましょう。和尚に台所を借りてちゃんこ鍋を作って来ます。祥之助様もよかったらご一緒に。」

 親方は祥之助から風呂敷包みを受け取ると、寺の庫裏へと向っていった。

「おう。よろしく頼むぜ。」

 親方へと軽く手を振った後、祥之助は取り敢えず明春達の稽古の邪魔にならない様に、残りの三つの包みを長椅子の近くへと運んでいった。

「えーと・・・これだけ、明春んトコの力士長屋の分な。」

 祥之助はそう言って長椅子の上に置いた包みの一つに、取り敢えずの目印にとその辺で拾った小石を置いた。

「祥之助様、力士長屋って全部力士長屋ですよ~。」

 明春が笑いながら指摘した。

 元杜佐藩お抱え力士の室戸宗兵衛(むろと そうべえ)は、引退後塔京で長屋の経営を始めて現在三つの長屋を科ヶ輪の町に所有していた。――と言っても他の大家が高齢で管理しきれなくなった等の理由で、成り行きで引き受けてしまった貧乏長屋ばかりだったが。

 しかし元杜佐藩力士が大家だと言う事で、それらの長屋はいつの間にか力士長屋という通称で呼ばれる様になっていた。

「明春の所だけ、何か違うんですか?」

 そろそろ稽古の再開もしようかと立ち上がり、軽く体操を始めながら庄衛門が尋ねた。

「あー、あそこだけ子供が居るだろ? 爺やが飴玉も用意してるんだ。」

「成程~。」

 明春達も風呂敷包みの目印に納得した。

 それから立ち上がり、そろそろ稽古の再開を、と庄衛門に続き皆は準備体操を始めた。

「精介ももう大丈夫だな?」

「は、はい!」

 庄衛門の問いに精介も頷いた。

 そんな皆の様子を見ながら、祥之助はどうしようかと腕を組み、長椅子の空いた所へ腰を下ろした。

「このまま昼飯食ってすぐに藩邸に戻るのもなあ・・・。」

 帰ったところで浅右衛門爺やに親方達の事を報告して、後はそのまま相撲道場でいつもの面子で稽古を行なうだけだろう。

 近い町とはいえわざわざ重い荷物を持って科ヶ輪までやって来て、そのまますぐに帰るというのも面白くはなかった。

「俺もここの稽古に混ざってもいいか――あ、マワシ持って来てなかったな。」

 準備体操から四股に移っていた明春達に声を掛けようとして、祥之助は自分のマワシが無かった事を思い出した。

「――あ、それなら部屋を辞めたヤツの置いていったマワシがありますから、それ使って下さい。」

 利春が四股を踏む足を休め、祥之助へと答えた。

「稽古がやっぱり厳しいからって、相撲をやめて、杜佐に戻って親の後継いで鯨漁師になるとか言って・・・。」

「ええ・・・。相撲取るより厳しそうなんだがな、それって・・・。」

 名も顔も知らぬ鯨漁師見習いとなった者の先行きが良い事を軽く祈りながら、祥之助はマワシを借りる事にした。



 利春が持って来てくれたマワシを受け取り、祥之助はそのまま長椅子の所で着物を脱ぐとマワシを締め始めた。

「手伝います。」

「お、悪いな。」

 利春が祥之助の背後に回り装着の補助に入った。

 四股を踏みながら精介は横目でちらちらとその様子を見続けた。

 浅黒く焼けた祥之助の肌は既に薄く汗ばんでおり、それがひどく精介には男の裸の体が強調された様に見えてしまっていた。

 男色でも気にせず相撲を取ればいいと親方達に励ましてもらい、気持ちが解れたせいもあるのか、部活の時と比べてつい余所見しがちになっていた。

「・・・精介、気持ちは判るが稽古に集中しような。」

「――!! は、はひっ。」

 そんな精介の様子に気付き、庄衛門は苦笑しながら注意をした。

 精介は慌てて四股の姿勢を直し、稽古に集中し直した。

「おーし、よろしくなー。」

 マワシを締め終わった祥之助は柔軟体操を終えると、精介達と四股を踏むべく皆の近くにやって来た。

 高く上げられた足はぴんと伸び、足腰に力の通った踏み込みが何度も何度も繰り返され、精介達がへばって休憩している間も祥之助は大して息も乱さずに四股を踏み続けた。

 摺り足や四股、柔軟体操等にしても、手本が目の前で示されている様なものだったので、明春達は自然と姿勢や力の入れ方等を見直し、何度も稽古を続けた。

「あー・・・。そうか。ここ、鉄砲柱無いのか・・・。」

 いつもの一通りの稽古をこなそうとしたところで、祥之助は鉄砲の稽古の為の柱が無い事に気が付いた。

 境内には太い木は無く、寺の建物の柱も無理だろう。

「も・・・申し訳無いです。」

 利春が四股を踏みながら謝った。

「いや別に謝らなくても・・・。――まあ、取り敢えず出来る分の稽古を皆、頑張るしかないよな・・・。」

 古い寺の敷地の、老朽化したままの土俵では充分な稽古が出来るとは言い難かったが、祥之助は皆がここの環境でも出来そうな事が他に無いか、後で考えてみようと思った。

 そうする内に庫裏の台所の方からちゃんこ鍋の味噌の香りが土俵の方まで漂って来て、昼飯時になった事に皆が気が付いた。

「飯が出来たぞ~。」

 親方が呼びに来たので皆は一旦稽古を休み、食事の用意された本堂へとマワシ姿のまま向かった。



 本堂の御本尊の仏像の前には縦に長い大きな座卓が二つ並べられ、食事の用意がされていた。

 既に親方と照安(しょうあん)和尚が座っていたが、祥之助の姿が見えると立ち上がって近寄ってきた。

「武市様、此度は真に有難うございました。大変助かりました。こやつも頑固じゃったが、御志(おこころざし)を受け取る位には大人になっていた様で良かったですわい。」

 洗い晒しの色の薄くなった水色の作務衣を着た小柄な老僧――照安和尚が親方の背中を笑って叩き、祥之助へと深々と頭を下げた。

 流石幼馴染だけあって、親方の意固地な性格を和尚はよく知っており、朝渦家からの支援の贈り物を突っぱねはしないかと心配していた様だった。

「頑固は余計じゃ。」

 和尚の横で親方は口を尖らせたが、すぐに明春達に向き直り、

「さ、腹も減っとるじゃろ。早く食べよう。」

 親方が立ち続けていると弟子達が座りにくいだろうと、親方と和尚はまたすぐに座卓の前に座り直した。

 たっぷりの野菜と豚肉の入った濃い味噌仕立ての鍋は、温かく滋味に満ちた香りを本堂一杯に広げていた。

「いただきまーす。」

 麦飯を山の様に盛り付けた飯茶碗を手に、皆が鍋へと箸を伸ばした。

 昨夜はスーパーの弁当を食べ、朝も長屋のおかみさん達からの差し入れを食べた精介は普通の程度の腹の減り具合だった。

 だが明春達四人は、飢えると言う事は無かったものの、最近は腹一杯食べる事が出来ていなかった為に、暫くの間は無言で掻き込む様に食事を続けた。

 鍋の中身が空に近くなって、やっと皆は人心地ついてお喋りを始めたのだった。

「――っ! やばっ、足が攣った・・・。」

 胡坐の足を組み直そうと春太郎は足を延ばしかけたところで、思わず悲鳴の様な声を上げてしまった。

「おいおい、四股の姿勢どんだけ悪かったんだよ。」

 利春はこっそりと自分の太腿を摩りながら、春太郎の蹲る様子をからかった。

 祥之助の行なう四股や摺り足の姿勢や動きを手本にしたお蔭で、彼等の姿勢や動きも随分と改善された様だったが、まだ体に馴染んでいないせいもあり手足の筋肉が引き攣ってしまっていた様だった。

「ま~でも、強い人と稽古するのは勉強になるし、いいよなあ。」

 自分の足の裏に拳骨を当てて解しながら明春は笑った。

「先月の藩交流大会の総当たり部門だって四位だろ? 総当たりって言やあ巨漢から何から無差別だろ? あちこちの藩のそんな大勢の力士と戦って四位って強ぇえよなあ・・・。」

 明春の隣で鍋に残った出汁を椀に注ぎながら、利春は祥之助の成績に感心し大きな息を吐いた。

「いやー、それ程でも。」

 褒められるのは素直に嬉しい様で、祥之助は照れ笑いを浮かべながら頭を掻いた。

「俺等もその試合見に行ったんですよ。――入場券は買えなかったけど、外の銀幕で見ました。」

 大会の試合を思い出しながら利春は椀に注いだ出汁を啜った。

「あの銀幕もスゲエよな~。本物そっくりの絵が垂れ幕の上で動いてて。」

 明春も試合の様子を思い出したのか、利春の横で何度も頷いていた。

 ――精介の世界でいうところの場外スクリーンの試合中継とか、そんな感じのものなのだろうかと、意外に進んだ日之許の国の文明の技術に精介は横で皆の話を聞きながら感心していた。

「ああ、総当たり部門と言やぁ、祥之助様に勝った佐津摩の島津結三郎、色々な意味で凄かったなあぁー。折角いいとこまで勝ち進んだのに不浄負けだもんなー。」

 足の痙攣の痛みは治まった様で、胡坐を崩して足を伸ばしながら春太郎は苦笑を浮かべ、試合の様子を思い出して少し噴き出した。

 緩んだマワシが解けてしまった様子は、会場外の銀幕にもはっきりと映し出されていた。

「不浄負けって・・・。」

 春太郎の向かいで話を聞いていた精介は、詳しい様子が判らないなりに、不浄負けは余りに恥ずかし過ぎる負け方だと島津結三郎という力士に同情した。

「ああー、島津のケツサブロウ殿な。誰が言い出したか知らんが中々シャレが効いているよな。」

 春太郎の言葉に利春は笑い声を上げた。

「――やめないか。」

 それを静かに諌める声があった。

「あ・・・。えーと。」

 利春と春太郎は笑うのをやめて気まずそうに祥之助の方を向いた。

「ひとの失敗や恥をからかうのは良くないぞ。・・・実は俺もあいつをそうやってからかってしまったが、今は反省してるんだ。」

 普段へらへらしている祥之助には珍しく、口を引き結んだ真面目な厳しい表情をして春太郎達を見た。

「俺はあいつをからかって傷付けてしまった事を、きちんと謝り、以降は不浄負けをからかうヤツはぶん殴ってやるとあいつに宣言したんだ。」

 握り締めた自らの拳に視線を落としながら祥之助は、自らにも春太郎達にも言い聞かせるかの様に話を続けた。

「結三郎をケ・・・あ、いや、そんな不名誉な仇名で呼ぶ事は誰にも許さんと、俺は心に決めたんだ。」

「は・・・はい・・・。」

 春太郎達は冷や汗を掻きながら、静かに語る祥之助を見つめた。

「――ていうか、祥之助様も島津様をケツサブロウ呼ばわりしてからかったんですね~?」

 食後の麦茶を飲みながら、明春だけが相変わらずのんびりとした声で祥之助の事を指摘した。

「だっ・・・だからっ、反省したと言ってるだろお!?」

 明春の指摘に一瞬で顔が真っ赤になり祥之助は慌てた様子で反論した。

「ちょっ・・・ちょっと仲良くなろうと、親睦を深めようと、ちょっとだけからかったら・・・。本気で怒らせてしまって・・・。」

 ――つ・・・次はちゃんと勝って、その汚名も返上だ!!

 煎賀久寺の茶店での結三郎の泣きそうにもなっていた怒った顔を思い出す度に、祥之助は胸の奥が重苦しくずきずきと痛むのを感じていた。

「あ・・・あんなに本気で嫌がって怒るとは・・・思ってなかったし・・・。その・・・何と言うか・・・。」

 顔を真っ赤にしたまま祥之助は俯き、春太郎達から目を逸らしながらぶつぶつと言い訳を口にした。

「祥之助様~・・・。」

 明春は少し呆れた様にそっと溜息をついた。

「しょ・・・小学生男子か・・・。」

 精介も祥之助の様子を見ながら思わず小さく呟いてしまっていた。

 あれだ――好きな子に対して意地悪をしてしまう小学生男子の様なあれだ。精介は俯いたままの祥之助を苦笑しながら眺めた。

「い、いやいや! だからだな、俺は反省もしたし、正式な謝罪もした。結三郎は受け入れてくれて、相撲の再戦も約束したし、博物苑で動物園デエトもして仲直りした・・・・・・筈・・・だと思う。」

 祥之助は一人で何度も自分に言い聞かせる様に頷いた。

 ――ま、次も俺が勝つけど。

 にやりと笑い掛けてきた結三郎の意外と好戦的で男らしかった表情や、その後の博物苑を散策した事も思い出し、祥之助は知らず頬を緩ませた。

「デエト・・・ですか。」

 にやにやと思い出し笑いを浮かべる祥之助に、利春は呆れた様な目を向けた。

「デエトっていうとあれだろ? 恋仲の男女が互いの親睦を深める為の外出とかいう外来語の・・・。」

 皆の話す様子をまだ食べながら見ていた庄衛門が、やっと箸を置いて口を挟んだ。

 庄衛門の指摘に祥之助は勢いよく顔を上げて、慌てて言い直した。

「いやいやいや! 動物園の散策だ! 珍しい動物を一緒に楽しみながら見物をしてだな・・・。」

「はいはい。」

 皆は生温かい目で、言い訳を捲くし立てる祥之助を眺めていた。

「先月の交流大会の後で、御二人だけの交流をなされたのですね。」

 利春達はにやにやと笑いながら祥之助をからかった。

「あのなー!!」

 精介は祥之助の慌てる様子を微笑ましく眺めながら・・・結三郎という力士に対しての表情や話し振りからして、この祥之助という人ももしかして男色の者なのだろうかと、疑問と期待の混じった思いを抱いた。

 結三郎という力士との仲が既に発展しているのかはともかく、やや短躯気味の筋肉質な体格とやんちゃ坊主の様な雰囲気を持ちつつも意外と男らしい顔立ちは精介の心をときめかせるものではあったし――何より、相撲大会の総当たり部門四位という強さを先刻のお喋りで聞き、男色でも相撲が強いという見本が目の前に居るのならば、純粋に憧れずにはいられなかった。

「――やはり夜も交流相撲大会でハッケヨイですか。」

「――佐津摩と杜佐、共に益荒男振りを競う御土地柄ですからなあ、ハッハッハ。」

 酒も入っていないのに大声で楽しそうに笑いながら、庄衛門や利春が祥之助の横で囃し立てていた。

「――ええい、うるせえよっっ!! 飯食って少し休んだらさっさと稽古の続きだ!! お前等、そんな弛んだ雰囲気のままで来週の大会で勝てるのか!?」

 祥之助は真っ赤な顔のままで、誤魔化す様に声を上げた。

「何か知らんけど、大会で勝って賞金を貰うんだろ!? ヒトの事からかってないで真面目に稽古しろ!!」

「おっす!! 勿論っすよ!!」

 祥之助に対し、庄衛門達は途端に表情が引き締まりつつも、やる気を感じさせる笑みを浮かべて大きな声で返事をした。

 そんな皆の様子を微笑ましく眺めながら、照安和尚は隣に座っている広保親方にそっと語り掛けた。

「皆の楽しそうな様子を久し振りに見れて良かったじゃないか。意地を張らずにお前が差入を受け取って、良かった良かった。」

「そうじゃな・・・。」 

 親方は和尚の言い草にむっとしつつも、仲間達が次々に辞めていき生活も困窮していき、落ち込んだ気持ちのままで相撲を続けていた明春達四人の今日の楽しそうな様子に、大きな安堵の気持ちと浅右衛門伯父上と祥之助への感謝の気持ちが湧いていた。


--------------------------------------------------------------------------------------------

メモ書き

 えええー、ちょっとアタシ、執筆ペース近年に無く早くない? やっべえよ、ただでさえ残り少ない生命力削ってねぇかい。

 という訳で、第二話其の六です。

 あ、其の五の杜佐藩邸相撲道場の場面、一部少しだけ書き足しました。宗兵衛長屋の人々が既に祥之助の事を馴染みの者として知っている様子を先に書いてしまっていたので、なるべく話の流れに矛盾が無い様にと・・・。


 さて。其の六、精介はらはらと泣いてしまうの段。別にアタシは男子が泣くのに萌える属性は無いのですが、どうも今回の物語はイモ男子が泣く場面がある感じです。まあ人物の心情の描写に丁度いい手法なんで、つい使ってしまうというか・・・。

 ちなみに第二話内では結三郎ギャン泣き場面が控えております。後は、第何話になるかは未定ですが、祥之助の武市家への(婿)養子のエピソードの回想で泣いたりとか、久々に再会した結三郎に精介がギャン泣き・嬉し泣きしながら抱き着いて、嬉ションならぬ嬉射精・・・とか。

 そんなろくでもない事ばかり考えている2024年の新年のもう若くはない更年期のヲカマのオッサン。世はまだ松の内であった・・・(ナレーター 若山弦×)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る