第二話ふたつめ、しるすこと「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の四 精介の春乃渦部屋の助っ人に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の四 精介の春乃渦部屋の助っ人に就いて記す事」


 翌朝。夜も明け始め辺りは薄明るくなり始めていた。

 いつの間にか寝入ってしまっていたものの、眠りは浅かったのか精介は明春よりも先に目を覚ました。

 まだぼんやりとした頭のまま体を起こし、欠伸をしながら辺りを少し見回した。

 昨夜の事は夢ではなかった様で、あちこち継ぎの当てられた古い煎餅布団の上で精介は座っていた。

 布団の敷かれている部屋の畳も、あちこちがほつれて穴が開いていた。

 朝の明るくなり始めた中で見る部屋は、いかにもな古い貧乏長屋の眺めだった。

 昨夜、どういう原因によるものなのかは全く何も判らず、精介は突然この塔京の科ヶ輪という町に転移してきた。

 夢ではなくて――精介にとっては良かったのかどうか。

 ただ、同じ男性に対して性的に意識してしまう事によって、今迄出来ていた相撲が取れなくなってしまった事に悩む日々から一時的にでも逃げられた事は、精介に少し安堵の気持ちをもたらしていた。

「で――今日はどうすっかな・・・。」

 世界を違えるレベルで迷子になってしまい、帰り道が判る訳も無く。番所とかいう所に行った所で意味も無いだろう。

 寝ている間に蚊に刺されたらしく、いつの間にか赤く小さな点が出来ていた左腕を掻きながら、精介はこれからどうしたものかと溜息をついた。

 何となく横でまだ寝ている明春の方へと目を向けると、明春は畳の上で浴衣の前を大きくはだけたまま大の字で横たわっていた。

「・・・・・・!」

 江戸や明治の様な世界なので褌を締めているのは当然とも言えたが、明春の褌の前の部分は男性の朝の生理現象によって大きく硬く膨らんでいた。

 精介はそれを目にしただけで自分の前の部分も熱くなってしまいそうだったので、慌てて明春の寝姿から目を逸らした。

 自分は男なのに、男性のその様な姿を見て――何の理屈も挟まず、瞬時に体の芯が熱くなってしまった。

 友人達はそんな事はないのに・・・。 

 精介の頭の片隅の冷静な部分が、女性の裸をネタにした猥談に興じる友人達と、そうではない自分自身との違いを精介に自覚させていた。

 ――それでよう~。もうたゆんたゆん溢れるオッパイとかよ~、ぬっるぬるに湿ったアソコとかよ~。動画とかで目にしただけで、もおオレのアレが超速攻ドーンでグオオオオオって超即反応のドリルがスピンでたまらんていうかよお・・・・・・。

 そんなサカリのついた動物がはしゃいでいるかの様な、友人達のお喋りを精介は思い出してしまった。

 性的な事を自覚する前までは何の事やら判らなかったが――女性の事を男性に置き換えれば、確かに友人達の言う通り、オレのドリルがスピンで云々・・・というのは判らないでもなかった。

 取り敢えず頭を軽く振ってドリルの話は一先ず頭の中から追い出し、精介はトイレに行こうと布団から立ち上がった。

 一応は部屋を見回したもののトイレらしきものがある筈も無かった。

 こういう所だと共同便所なのだろうと、便所を探そうと精介は部屋を出ていこうとした。

「・・・ん・・・?」

 精介が歩き出した気配に明春も目を覚ました様で、大きな欠伸をしながら体を起こす様子が精介の目に入った。

「あ、おはようございます。ちょっと便所が判らなくて・・・。」

 精介の言葉に、明春はまだ目覚め切っていないぼんやりとした表情で外を指差した。 

「ああ~。厠は外に出て左手の奥の端だよ。」

「あ、有難うございます。」

 まだ眠いらしく明春は前を膨らませたまま再び横になった。

 精介は明春の股間を見ない様にして礼を言ってから、昨夜自分が突き破ってしまった部屋の戸板をよけて外へと出た。

 明春の部屋は長屋の敷地の一番端にあり、外の道と隔てている木戸口がすぐ目の前にあった。

 基本的な玄関口である木戸口から敷地の中に入ると、共用の通路とも小さな広場ともいえる様な小さな長方形の空間があり、その両端に住人が住む建物がある――そうした建築様式が日之許の国ではよくある長屋の作りだった。

 井戸や便所は共用で、通路の中の適当な場所に設置されていた。水脈の関係で井戸の位置は長屋によってまちまちだったが、便所は出来るだけ井戸から離れた場所に設置される様になっていた。

 夜が明けて明るくなった中で改めて精介が見てみると、木戸口の戸板の内の一枚は大きく割れたり砕けたりしており、不可抗力ではあったものの申し訳無い気持ちが改めて湧き起こった。

 力士長屋では通路の真ん中に井戸があり、その周りで二人程のおばさん――いや中年位の年頃の女性が朝食の支度なのか青菜を洗っていた。

 彼女等は精介の姿に気が付くと、顔を上げ挨拶をしてきた。

「あら若様、おはよう!」

「ちゃんと寝れたかい? 御屋敷と違うだろうから寝付けなかったんじゃないかい?」

 幸いにも昨夜の長屋への突入騒ぎはそれ程には恨まれていない様で、彼女等の様子に精介は一先ずほっとした。

「お、おはようございます・・・。昨夜はどうも・・・。」

 ぎこちなく笑顔を返し、精介は軽く頭を下げた。

 その近くを天秤棒を担いだおじさん――中年位の年頃の小太りの男性が通り過ぎた。

「おはよう若様。まああんまり気にするな。戸の修理は隣の長太郎さんの知り合いの大工に頼むみたいだから、すぐ直るさ。」

「あ、はい・・・。すんませんでした・・・。」

 精介が頭を下げると、

「気にすんな。――じゃあ、安子、行ってくるぜ。」

「あいよ。」

 天秤棒の小太りの男性は井戸端の小柄な中年女性――そちらが安子の様だった――に笑い掛けると、軽やかな足取りで長屋から出掛けていった。

 亭主は野菜の行商をしていて、いつも長屋で一番に起きて仕入れに出掛けていくのだと安子は精介に説明してくれた。

 安子達に頭を下げ、精介は敷地の奥の便所の方へと歩いていった。

 すっかり何処かの大名か豪商か――いい所の若様が相撲を取っているという風に思い込まれてしまった。

 誤解を解くにしても精介自身が今の自分の状況を理解し切れないでいたし、違う世界の学生で相撲部員で・・・と言う様な説明をしたところで長屋の人達が理解し納得するとも思えなかった。

 精介はどうしたものかと溜息をつきながら、便所の戸を開けて中に入った。

 便所の作りは精介の世界の工事現場や野外イベント等で使われる様な、所謂簡易トイレを木造にした様なものだった。

 中に入ると、大き目の箱の様な物がありその上に長方形の穴が開いていた。穴の中には排泄物の入った大きな桶が見えていたので、どうやら箱の上の穴に跨って用を足すと思われた。

 一応はトイレットペーパーに相当する物らしい、拭き取り用の紙の束が隅に置かれた籠の中に積まれていた。

「・・・・・・。」

 大便や尿の臭気が鼻を突き、精介は思わず息を止めてしまった。

 江戸や明治の様な雰囲気の世界だから薄々は覚悟をしていたつもりだったが、昨日までの生活環境との余りの違いに少し途方に暮れてしまった。

 和式便器の様な陶器すら無く、穴だけとは――。

 取り敢えず今回は尿だけで良かったと思いながら精介は急いで用を足し、便所から飛び出す様に出て来た。

 いつまで居るのかは判らないが、何処の便所でも庶民が使う様なものはこの様なものなのだろう。慣れる様に本当に覚悟をしておかなければ・・・。

 慣れ親しんでいた温熱便座付きの温水シャワートイレというものが、今は文字通り異世界の産物になってしまった・・・。

 精介は便所の外の臭いの無い空気をゆっくりと吸い、大きな溜息をついた。

 溜息ついでに、便所からもう少し離れた場所で軽く背伸びをして、いつもの習慣になっているストレッチを軽く行なった。

 日が上り始めた空は雲も少なく、今日もよく晴れていた。

 ――いや、世界が違うのだから今日もという言い方はおかしかったか。そんな事を思いながら背中や腕を伸ばし、精介は体を解した。

 背中を伸ばし頭を逸らすと力士長屋やこの近所の長屋の屋根しか目に入らず、後は青空だけだった。

 ビルの様な高層建築物は、この世界ではまだ建てられていないのだろう。精々が何処かの宿とか商店とかの二階建て位しか辺りには見えず――。

「――んんん!?」

 頭や体を回す体操をしていたところで――この世界には随分と不釣り合いに巨大で、高く聳えている白い塔が、精介の目に飛び込んできた。

「・・・・・・・え? ・・・・・・は?」

 体操をしていた体の動きが止まり、精介は呆然と、長屋の屋根の向こうに高く高く聳えている白い塔を見つめていた。 

 ナントカツリーとかナントカタワーとか――精介の世界でもそうした高い塔はあったが、古びた木造の粗末な長屋が建ち並ぶ中から聳え立つ白い塔の風景は、何ともちぐはぐで不思議な印象を与えていた。

「どうしたの若様?」

 そこに洗い終わった野菜を籠に入れた安子が通り掛かった。

「あ・・・その・・・。あれは・・・?」

 精介は呆然と見上げたまま白い塔を指差した。

「ああー。若様は塔京の出身じゃないのかね。まあ、そこらのお寺の五重の塔よりも桁外れにでかいからねえ・・・。」

 安子は籠を持ったまま精介と同じ方向を見て笑った。

「何か多華尾とかその辺りの遠くの村からでも見えるっていうらしいしねえ・・・。あたしらは学問の事とかはよくは判らないけど、何でも、帝様が神様仏様からの有難いお告げを聞く為に建てたっていう証宮離宮殿(あかしのみやりきゅうでん)っていう有難い塔だよ。」

 


 こんな江戸や明治の様な世界で、何百メートルもありそうな塔を建てる事の出来る技術がある事に驚き、感心しながら精介は明春の部屋へと戻ってきた。

「――ん? どうした~?」

 既に浴衣から紺色の着流しに着替えていた明春が、まだ呆然としている様子の精介に問い掛けた。

 精介は外を指差しながら、

「あ、えーと・・・。アカシ何とかっていうデカイ塔があって・・・。」

「ああ、証宮離宮殿か~。俺も杜佐から出て来て初めて見た時には驚いたの驚かないのって。下手な山よりも高いもんなあ・・・。」

 精介の様子に、明春も自分が塔京に出て来た頃を思い出しながら微笑んだ。

「おはよう! 二人共、昨夜は大変だったねえ。」

「若様もちゃんと寝れたかい?」

 そこに先刻の井戸端で見たのとは違う二人の中年女性達が、賑やかな声を上げながらおにぎりと汁椀の乗った盆を持ってやって来た。

「あ~。おはようございます。いつも申し訳無い。」

 明春は頭を下げ、おにぎりの乗った盆を受け取った。

「おはようございます。・・・昨夜はどうもすんませんでした・・・。」

 明春の横で精介もぎこちなく頭を下げた。

「いいのよ気にしなくて。まあでも、戸を壊したのがのんびり屋の明春さんトコで良かったわよ。二つ向こうの太吉さんだったら喧嘩っ早いんできっと朝まで大騒ぎだったわよ。」

 色の褪せた紺色の着物の恰幅のいい女性――良子(よしこ)が、けらけらと笑いながら汁椀の乗った方の盆を精介へと押し付ける様に渡した。

「え・・・? これ・・・。」

 精介が盆を持ったまま戸惑っていると、おにぎりの盆を持って来た方の――こちらも良子よりは少しだけ痩せていたがやはり似た様な体格だった――梅子と名乗った女性が精介に笑い掛けた。

「二人の朝飯だよ。いつも明春さんに差入してるんだけどね。あ、遠慮は無しだよ。」

「あたしらの死んだ亭主達も杜佐の出で、怪我で引退するまでは杜佐藩の所縁の相撲部屋で相撲取ってたんだよ。まあ言ってみれば明春さんの先輩みたいなもんだね。後輩の面倒を見るのが先輩の務めだってんで、後輩にはちゃんと飯食ってもらって力を付けてもらわなきゃ、と、あたしらの出来る分は手助けしてるんだ。」

 梅子が話している横から良子が割り込み、精介に事情を説明した。やはり昨夜、明春がぽろっと言っていたお喋りなのが玉に瑕と言っていた通り、誰もが話好きの様だった。

「若様も相撲取りだっていうじゃないか。御家がもし構わないって言うなら、明春さん達に力を貸して欲しいんだよ。」

「明春さんトコの相撲部屋、人数が減って今ホント大変なのよ。頼んだよ、若様。」

「え、と・・・。その・・・。」

 恰幅が良い事も相まって結構な迫力を感じる梅子と良子から一遍に捲くし立てられて、精介は返事に困って立ち尽くしていたが、二人は言うだけ言ってすっきりしたのかそのまま立ち去っていった。

「ええと・・・。」

 その場に取り残された精介は、盆を持ったまま二人を呆然と見送った。

「ま~、いつもの事だから。それより飯にしよう。」

 明春は大して気にした様子も無く、のんびりと精介に声を掛けた。

「あ、はい・・・。」

 明春に促され、精介は部屋に上がり畳の上に盆を下ろした。どうやら食卓とか机の様な物もこの部屋には無い様だった。

 おにぎりは握り拳二つ分位の大きさの物が二個あり、何かの菜っ葉の漬物を混ぜ込んで海苔に半分包まれていた。味噌汁の方は蜆入りだった。

「いただきます。」

「あ、いただきます・・・。」

 明春が軽く手を合わせ、おにぎりの一つに手を伸ばした。

 精介もそれに倣って手を合わせてからおにぎりを手に取った。

 一口齧ると、菜っ葉に染みていたまろやかな酸味と塩気のある風味が口の中に広がっていった。

「――で、御屋敷への帰り道は判りそうかい?」

 味噌汁を一口啜り、明春は精介に尋ねた。

 精介は返答に困りながら、おにぎりから口を離すと、

「えーと・・・。全然見当が付かなくて・・・。」

 嘘ではないものの、正確とも言えない返事を口にした。

 見当が付かないどころか――。

 どうも時空というか次元というか、そういうところからして迷子になっている状態なので、帰り道の見当が付かないのは本当の事ではあった。

 ただ精介自身もよく判っていなかったので、それを明春に説明する事も無理な話ではあった。

 精介の困惑した様子を、迷子になった不安によるものだと思った明春は、味噌汁を飲み干すと真面目な表情で精介を見た。

「やっぱり今日は町の番所で迷子の届けをした方がいいよ。御屋敷の人達も心配してるんじゃないのかい?道が判らなくなる所まで遠出してしまったんじゃなあ・・・。」

「えーと・・・。そうですねえ・・・。」

 精介ははっきりした返事も出来ず、誤魔化す様におにぎりを食べ続けた。

 番所というと、精介の世界でいう所の交番とかそんな感じの所だろう。父の弟――叔父さんが時代劇が好きで、引き取られてからの生活でよく見る事があり、そんな言葉を聞いた覚えがあった。

 だが、この世界の交番に行ったところで・・・。

「・・・・・・。」

 おにぎりを食べ終わり、ちびちびと飲んで時間を少しでも引き延ばしていた味噌汁もついには飲み終わり、精介はどうしたものかと明春から少し目を逸らした。

 この世界の交番に行ったところでどうしようもないし――例え、もしも元の世界に帰れるとしても・・・今帰ったところで部活には行き辛い。

 今はまだ、あの宙ぶらりんで何も気持ちも定まらない、裸の男を性的に意識し過ぎて相撲が取れなくなってしまった毎日には戻りたくはなかった。

 精介は思い切って顔を上げた。

 真面目に精介を見つめているのだろうけれども、少し垂れた目と優しそうな雰囲気の顔立ちのせいで、何処かのんびりとした様にも見えてしまう明春の顔を見てから軽く頭を下げた。

「すんません・・・。あの・・・もしも、迷惑じゃなかったらしばらくここに置いてもらいたいんです・・・。何でもするんで・・・。何か俺でも出来るような仕事があれば働き――。」

「――お! 何でもするって言ったね~! よし。ウチの部屋で相撲の助っ人を頼む!」

 働きます、と精介が言い終わらない内に明春は被せる様に声を上げた。

「ええええ!?」

 精介は明春の言葉に驚いて目を見開いた。

 昨夜は冗談だと笑いながら下心がどうとかと明春は言っていたが、本音のところでは本気だったのか。

「え・・・。でも、俺、今は相撲は困るって言うか・・・。」

 焦って精介は断ろうと大きく両手を振った。

 今、相撲を取るのはまずい――。もし対戦相手が好みのタイプだったりしたら、自分のマワシの中が大変な事になってしまう。即反応のドリルがスピンでどうとか喚いていた友人を笑えない事になってしまうのは絶対に避けたかった。

「・・・若様に何か事情がありそうだというのも判るよ。」

 焦る精介を見ながら、明春はひどく真面目な表情になり姿勢も改めて正座になった。

「でも・・・すまない。本当に困ってるんだ。この通りだ。むしろ俺の方が何でもすると言うべきなんだ。」

 土下座の様に深く頭を下げて頼み込む明春の頭を見ながら、精介は何と答えていいか困ってしまった。

 何でもする――という言葉に思春期男子らしい、裸に剥いた明春と布団の上での相撲がどうのこうのという妄想が一瞬頭の中に浮かんでしまったが。

 かと言って、明春の頼みを断ってしまうと、この長屋で世話になり続ける事も難しいだろうという判断は精介にも出来た。

「あー・・・。その・・・俺、そんなに相撲強い方じゃないんですけど・・・。いいんですか?」

 相撲の強い人材を欲しているので――と、断られる事を一応は期待しながら、精介はそんな曖昧な言葉を返事の代わりにした。

「そうか~! 有難う~。いやいや少し位弱くても大丈夫だよ。兎に角一人でも増えてくれたら大助かりなんだよ~。」

 喜びに明春は立ち上がり、にこにこと垂れた目を細めて精介の手を取った。

「飯も食ったし、今から行こう。親方や皆に紹介するよ。」

「は、はい・・・。」

 困った事になった、と思いながら精介は内心溜息をついた。



「――自転車はちゃんとあたしらが見張ってるからね。」

「まあこんな顔見知りばかりの長屋だから、泥棒とか余所者はすぐに判るからね。すぐに捕まえてやるよ。」

 梅子や良子、安子達が頼もしい言葉を、頼もしい笑顔で言い放った。

 空の盆を精介と明春が梅子達の所に返しに行き、明春が精介が助っ人をするのを承諾した事を話すと、留守の間の精介の自転車を見張ってくれると請け合ってくれたのだった。

 明春達の相撲部屋は、今は臨時で照応寺という所にあると、明春は精介に説明した。

 店主の急死により樟脳問屋「浜田屋」からの支援が打ち切られ、浜田屋が今迄貸してくれていた物件の家賃を春乃渦部屋の親方達では新しい貸主に支払う事が出来ず、出て行かなければならなくなったのだという事だった。

 この長屋からは歩いて大体十五分――のんびりと向かっても二十分位で着くという。

 それ位の距離は歩くのが当たり前だったし、そもそも日之許の庶民は徒歩以外の移動手段がまだ無かった。精介一人が自転車に乗って寺まで行くというのも、変に目立ってしまいそうでそれも憚られた。

 一応は自転車には鍵を掛け、土間の隅に外からは見えにくい様に置いていく事にしたものの、部屋の戸板は精介が昨夜突き破ってしまったので、防犯上はかなり無防備な状態になってしまっていた。

「外で内職したりして交代で見てるから、安心して行って来なさいよ若様。」

 安子がそう言う後ろで早速何処からか長椅子や縁台の様な物を、家に残った女性達だけで明春の部屋の前へと運んでいた。

 内職のちょっとした縫物や封筒貼り等、今日は風も無いし外でも出来る作業をしながら見張ってくれるとの事だった。

 明春の部屋の戸板や長屋の木戸口の修繕は、今朝安子の夫が精介に言っていた様に、先刻左官の仕事に出掛ける前に長太郎が知人の大工に頼みに行っていたと安子は精介に教えてくれた。

「あ・・・そうだ、これどうぞ。皆さんで食べて下さい。中に・・・ええと、お菓子が入ってるんで。」

 マワシを入れたままのスポーツバッグを背負いながら、精介は昨夜自転車の前籠に突っ込んでいたクッキーの事を思い出した。

 籠から取り出して取り敢えず近くに居た安子に二袋を手渡すと、安子は申し訳無さそうにクッキーの袋と精介の顔を見た。

「いいのかい? そんな気を使わなくてもいいんだよ?」

 精介は慌てて頭を振り、

「見張りのお礼っていうか・・・。昨夜のお詫びというか・・・。」

「そうかい。折角だから皆で頂くとするかねえ。有難うよ、若様。」

 安子の横に立っていた梅子が軽く頭を下げた。 

「じゃあ行こうか。」

 少しだけ物欲しそうにクッキーの袋を見ていた明春が精介を促した。

「あ、はい。――じゃあ行って来ます。」

 長屋のおかみさん連中に見送られながら、精介は明春と共に照応寺に出掛けていった。



 夜が明けて朝食を食べ終わり――精介の元の世界の感覚で言うと今は午前七時から八時位の時刻だろうか。

 明春に先導されて後ろを歩く精介の周囲を、仕入れが終わって行商先に急いでいるらしい天秤棒を担いだ男達や、風呂敷包みを背負った夫婦らしい男女、木箱を沢山積んだ荷車を引く褌一丁の姿の男等が慌ただしく行き交っていた。

「あっちの通りからは科ヶ輪の港への大通りに行けるから、この辺もぼつぼつ人が多くなるから気を付けるんだよ~。」

 物珍しそうにきょろきょろと辺りを見ていた精介を微笑ましそうに振り返り、明春は道の隅に寄る様に注意をした。

「は、はい・・・。」

 ただ、物珍しそうな目で見られるのは精介の方も同様だった。

 長屋にはすぐには適当な着替えが無かったので、精介は今も昨夜の制服のままの姿だった。

 幾らかは普及しているとは言っても、科ヶ輪港前の賑やかな町から離れた地域ではシャツにズボンという精介の姿は通行人達からは少しだけ珍しがられていた様だった。

「・・・おっと・・・。」

 精介の感覚では路地より少し広い程度の小さめの道でも、意外と人通りが多く、足早に歩く風呂敷包みの行商の若い女性にぶつかりそうになってしまった。

 精介は慌てて道の端へと体を寄せた。

 道の端の板塀には広告らしき貼り紙が貼られていて、「滋養強壮、健康第一。薬種問屋・本村屋。港から歩いて八分」「良書安価。科ヶ輪堂書店。港から歩いて十五分」――と言う様な文句が書かれていた。

 ざっと見た限りでは基本的な言葉や文字、時間の単位は、江戸や明治の雰囲気の世界の割には意外に尺貫法ではない様で、精介の元の世界と大差無い様だった。

「こっちだよ~。」

 小さな路地を指差す明春を追い掛け、精介も路地へと入っていった。

 この分だと相撲のルールも元の世界と似た様なものだろう・・・と、精介はなるべく楽天的に考えた。

「もうすぐ着くよ。親方達も部屋の皆もいい人達ばかりだから。」

 助っ人の当てが出来て安堵したのだろう。明春は長屋からずっとにこにこと機嫌の良い様子だった。

 そんな明春を、朝になってすっかり明るくなった往来で改めて見てみると――。

 坊主頭に近いかなり短く刈った髪の毛に、男らしいやや四角張った輪郭の顔で、きりりと眉も太くはあるものの目はやや垂れていて穏やかでやさしい雰囲気を感じさせる青年だった。恐らく年齢は精介と一つ二つ位しか変わらないだろう。

 体格も所謂ソップ体型と呼ばれる少し痩せ型の、しかしがっしりとした筋肉質でしっかりとした体付きをしていた。

「皆、喜ぶよきっと。ずっと、辞めていく人ばかりだったからねえ。」

「そ・・・そうッスか・・・。」

 精介を振り返り、嬉しそうに笑う明春を見ながら、精介は何とか曖昧な返事をした。

 明春は、悪くはない・・・というか、なかなか良い感じで精介のタイプだと言えなくも無かった。

 ノンケ――異性愛者の思春期男子が、綺麗だったり可愛らしかったりする女の人に魅力を感じて心がときめく様な感じで・・・精介は明春を見てしまっていた。

 稽古では明春と組み合う事もあるだろうし、他の相撲部屋等との試合の時にも対戦相手にタイプの男が居ないとも限らなかった。

 そんな状態で相撲がきちんと取れるのか――精介は頭を痛めながら、明春の後を付いていった。



 路地の奥にあちこち崩れ掛けた背の低い土塀が続いており、その更に奥にやはり崩れかけた古い寺の門があった。

 その門をくぐって中に入ると、すぐ左手に小さな土俵があった。

 そこではマワシ姿の三人の若い男性と、恐らく親方と思われるでっぷりと肥えた白髪頭の初老の男性が相撲の稽古を行なっていた。

 しかし兄弟子達の体格は一応は筋肉質だったり肥えた体格だったりと、一見は立派な様には見えたものの、その表情は何処か暗く今一つ生気に欠けたものだった。

「おはようございます~。」

 明春はのんびりした調子で親方や兄弟子達に声を掛けた。

「おお。おはよう。」

 白地に紺色の波模様をあしらった浴衣を身に付けた、貫禄のある体格の初老の男性――春乃渦部屋の親方、朝渦広保(あさうず ひろやす)が、明春に気付き顔を上げた。

 広保親方は明春の後ろに居る制服姿の精介を少し物珍しそうに見た。

「ん? そちらは・・・?」

「ああ、助っ人です。」

 親方の問いに、明春はにこにこと笑いながら精介を紹介した。

 明春の言葉が聞こえ、兄弟子達も稽古を止めて親方の方へと急いでやって来た。

「何だ?」

「助っ人? 本当か? でかした!」

「やったな! 凄いぞ!」

 口々に言いながら兄弟子達は嬉しそうに精介を見て、明春の肩を叩いて褒め称えた。

「ウチの長屋に昨夜自転車で飛び込んできた、どっか遠い所の藩の若様だ。迷子になってしまって帰り道が判らんらしくて、暫く力士長屋に住む事になったんで、家賃代わりに部屋の助っ人をしてもらう事にしたんだ。」

 明春の大雑把過ぎる紹介に精介と――少なくとも親方は困惑していた様だった。

 三人の兄弟子達は明春同様、呑気に精介の加入を喜んでいた。

「えーと・・・山尻精介です・・・。よろしくお願いします・・・。」

 かと言って精介も、異世界転移の事等を上手く説明出来る自信も無かったので、明春の雑な紹介を訂正する事も無く親方達に頭を下げた。

「藩の・・・?しかし山尻という家名は聞いた事は無いから・・・かなり辺境の小さな藩なのか・・・?ならば少々手伝ってもらっても・・・ううむ・・・。」

 日之許の国では、藩主の継承順位の低い三男四男がその藩のお抱え力士として相撲を取る事は珍しくはなかった。

 実力があって独立心が旺盛な者の場合は、藩同士の関係の良い他藩でのお抱えとなったり、大手の相撲部屋に所属する事もあった。だが二重に所属する事は許されてはいなかった。

「・・・一つ尋ねるが、藩のお抱え力士という身分ではないのかね・・・?」

「いえ、違います・・・。ええと学校の相撲部で・・・。」

 親方はそっと精介に尋ねたが、精介は取り敢えず正直に答えた。

「学校? やはりなかなか良い所の子息の様じゃな・・・。しかし相撲部・・・ああ、学生の鍛錬としての課外活動の集まりか・・・。ならばお抱えとも相撲部屋とも関係無いか・・・。」

 弟子達の喜んでいる横で、親方は少しの間ぶつぶつと独り言を漏らしながら考え事をしていたが――やがて腹を括ったのか、顔を上げるとにこやかな表情を精介へと向けた。

「歓迎するぞ! 山尻殿。ワシは春乃渦部屋の親方をしておる朝渦広保。見ての通り弱小な部屋で弟子達も今は四人だけになってしもうたがな・・・。本当に助かった。」

「えーと・・・。あんまり相撲強くないんですけど・・・その・・・。」

 親方達の笑顔の歓迎に、精介は少し腰が引けてしまい、思わず言い訳染みた言葉を漏らしてしまった。

 しかし親方は笑いながら精介の肩を叩いた。

「構わぬ構わぬ。弱ければ鍛錬すればいいのじゃ。今は兎に角、人数が五人になった事が大事なのじゃ。」

「そうそう! これで来週の夏祭りの相撲大会、団体戦に出られるぜ!」

「団体戦で勝って、その賞金で和尚に恩返しだ!」

 親方のすぐ後ろで、兄弟子の内の大柄な一人が嬉しそうに頷いていた。

「え? 夏祭り? 相撲大会・・・って?」

 明春や兄弟子達の喜ぶ様子に、精介は戸惑いながら親方の方を見た。

 精介の様子に、親方の横に立っていた腹の出たアンコ体型の青年――田村庄衛門(たむら しょうえもん)が呆れながら明春の頭を軽く小突いた。

「おい。ちゃんと説明してなかったのか? 駄目じゃないか。きちんと説明して納得してもらった上で協力してもらわんと駄目だろう。」

 真面目な性格の様で、庄衛門はそう言って溜息をつき、精介へと謝った。

「すまないな・・・。明春も悪気は無いんだが結構大雑把な奴でな・・・。」

「あ・・・いえ・・・。」

 精介は頭を振りながらも、確かに明春は大雑把だった――と庄衛門の言葉を否定する気にはなれなかった。尤もそのお蔭で力士長屋の明春の所に、有耶無耶の内に世話になる事が出来て助かったのだが・・・。

「まあ、部屋の責任者のワシから話をするのが筋じゃろう。・・・ええと、何処から話したらいいのかのう・・・。」

「あ~。浜田屋さんの御主人がお亡くなりになってしまった事は話しました。」 

「最初だけしか話しておらんのか・・・。」

 明春の言葉に親方は一瞬悲し気な表情になったが、改めて精介の方へ向き直り、事情の説明を始めた。

 ――確か、同じ杜佐藩出身の幼馴染だと、明春が昨夜少し話していた事を精介は思い出した。

 幼馴染が亡くなってまだ何か月も過ぎていないのならば、まだ親方の悲しみは癒えていないのだろう。

「吉右衛門・・・ああ、樟脳問屋の浜田屋の主人の亡くなった後、店は人手に渡ってしまった。浜田屋が無料で貸してくれていた相撲部屋の物件も、ワシらでは家賃を払い続ける事が出来なくて追い出されてしまってのう・・・。」

 樟脳問屋の吉右衛門、力士長屋の宗兵衛、親方の広保・・・そしてもう一人、この照応寺の和尚の照吉――今は照安(しょうあん)和尚と名乗っている――が、杜佐藩出身の仲の良い幼馴染四人だった。

 吉右衛門の死後、住む場所にも稽古場所にも困っていた春乃渦部屋の者達を寺に住まわせたり、寺に昔作られていた土俵を稽古場所として提供してくれたのは照安和尚だった。

 しかし幼馴染とはいえ、小さな相撲部屋であっても金銭的な支援を続ける事はなかなか大変な事で、和尚にも借金が増え始めていた。

 このまま春乃渦部屋への支援を続け、借金も続いていけば、近い将来寺も借金のカタに金貸しに取り上げられてしまう――。

 それを何とかする手始めに、一先ずは少額とはいえ賞金の出る相撲大会に出場して金を稼ごうと親方達は考えたのだった。

「そ・・・そんな事情があったんですか・・・。」

 精介は気の毒そうに視線を落とし、小さく息を吐いた。

 参った――。こんな事情を聞いてしまっては、余計に断れないし、かと言って今の精介では親方達の力になれるのかどうかも判らなかった。

「で、来週、この近隣の小さな寺社四つが合同で夏祭りを開く事になってのう。客寄せの一環で賞金付きの相撲大会を開くのじゃ。個人戦と団体戦の二つがあって、団体戦の方が少しだけ賞金が高いのじゃ。」

 団体戦の出場は一団体五人での申請を行なうという決まりになっていた。

 その為、先日までは個人戦にしか出られないと思っていたが、精介の助っ人で団体戦に出る事が出来る様になった。

「本当に良かった。」

 そう言って親方達は安堵し喜んだ。

 精介は自分がきちんと相撲を取る事が出来るかどうか判らないまま、なし崩しに春乃渦部屋の助っ人をする事になってしまったのだった。

  

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メモ書き

 2024年あけましておめでとうございました。

 新年早々大地震は起こるは空港は火事になるわで中々大変な年明けになってしまいましたが皆様如何お過ごしでしょうか。被災地の皆様のご安全を祈っております。

 そう言えば今回能登半島・・・石川県が地震の範囲に入っていますが、石川県も相撲の有名な県でもあります。あそこの学校とかどこそこの学校とかの相撲部の皆様も無事かしら・・・と、つい考えてしまいました。

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