第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の二 町角曲がって二秒で異世界転移に就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の二 町角曲がって二秒で異世界転移に就いて記す事」


 六月も最終週に入り、精介達の相撲部の稽古も毎日遅くまで行なわれていた。

 来週にはいよいよ県の総合体育大会が開催される。当然の事ながら、学校の前にある総合体育館が相撲競技の行なわれる場所だった。

 大会の少し後には学期末のテストも控えており、夏休みの合宿や稽古に支障が無い様にと、監督とOB達は部活動の時間の初めは強制的に勉強の時間も取っており、精介達相撲部員達にとっては色々な意味で厳しい日々が続いていた。

「――おっし。次!」

「――ッス!!」

 監督や部員達の指示や掛け声が飛び交う中、精介も四股を踏み続けたり、ダンベルを持って摺り足を行なう等して稽古に励んでいた。

 対人ではなく一人黙々と行なう筋トレや四股、鉄砲等は全く問題無くこなせていたが――申し合いやぶつかり稽古等、誰かと体を合わせる稽古についてはやはり上手くいってなかった。

 稽古の指導の助っ人として来てくれていた大学を出たばかりの若いOBを相手にぶつかった時にも――汗に濡れた体の感触や、相手のマワシに染み付いた汗と土の匂いを意識しただけで精介のマワシの中は強く疼いてしまっていた。

 それによって集中が乱されてしまい、姿勢も崩れてしまって、相手を押そうとする力も上手く入らなかった。

「おいおい、どうした。」

「す、すんません。」

 体勢を崩してよろけた精介を叱る様な口調ではあったが、心配そうにOBは見下ろした。

「――山尻。やる気のある他の奴等の邪魔になる。今日はもういい。帰れ。」

 他の部員の稽古を指導していた監督が精介の様子に気付き、厳しい言葉を掛けた。

 一瞬、皆の手が止まり精介に視線が集中してしまった。

「あ・・・。すんません・・・。」

 皆の視線から顔を逸らし、精介は俯いたまま土俵を離れた。

 他の部員達の指導を手伝いのOB達に任せると、監督は稽古場の出入り口で精介を呼び止めた。

「山尻・・・。きつい事を言ってしまったけど、今日は家で休んだ方がいい。無理に稽古をしても却って良くないと思う。」

 俯いたままの精介の坊主頭を見下ろしながら、監督はそっと精介へと話し掛けた。

「ホントに心配してるんだ。今は決心がつかないだろうけど、困ってるコトとか、いつでも言ってくれていいんだぞ・・・。」

 監督の善意からの言葉に、しかし応える事の出来ない精介は思わず涙ぐんでしまった。

「――はい・・・。すんませんでした・・・。」

 精介は俯いたまま、更に頭を下げて謝る事しか出来なかった。 

 言える訳が無い。

 監督達はこんなに心配してくれているのに――。

 申し訳無さと、信頼し切れなさとが精介の心にずっと淀み続けていた。

「早く帰ってゆっくり休むんだぞ。」

「はい・・・。」

 監督にそれだけを答えて精介は稽古場を後にした。

 ネットで検索した情報ばかりを読み漁ったせいで頭でっかちになってしまっているとは思うが、しかし、相談したものの理解を得られなかったとか、気持ち悪がられたとか――そんなマイナスな方の情報ばかりが心に強く残ってしまい、精介はどうしても他人に話す事が出来なかった。

 クラスの友人達や同じ部の連中とのお喋りや猥談の中で同性愛の事に触れる事はあっても、それは何処か遠い世界の出来事でしかなく。

 皆の中では、ホモとかゲイとか言われるものは、ただ単に何か物珍しいもの、面白がるものでしかなかった。

 ――ケツにナニを突っ込むらしいぜ~。そんで、肛門切れたら一生垂れ流しらしいし~。

 ――うっわ、キッショ!! そういや突っ込む方も突っ込まれる方も雑菌入ってビョーキになるって言うじゃねえかよー。

 ――でもよー。女のアソコより締まり良くって気持ちイイらしいじゃねえか。一度味わったら後戻りできないとか。

 ――こえぇぇぇ。マジ恐怖。恐怖の快楽かよ~。

 無邪気に笑いながらそんな事を喋る友人達の猥談を真横で聞きながら、精介は自分の事を決して悟られまいとじっと身を強張らせ、猥談の聞き役を装い続けていた。

 彼等は余りに無邪気で無知だった。

 彼等が言う所の「キッショイ」存在が、すぐ真横に居る事等思い付きもしなかった。

 無邪気で無知で――。

 だからこそ、それ故に――何も知らずに彼等は、彼等の全くあずかり知らぬところで、残酷に精介の様な者達の心を踏み躙っていた。

 それは一種の傲慢さでもあるのだと・・・精介は漠然と感じ取っていた。

 もしも精介の事がばれてしまったら、彼等はどんな風に精介の事を扱うだろうか。

 笑い者にするのか、腫れ物扱いにするのか、珍獣の様に物珍しいものとして見物するのか。或いは全く無かった事にして遠巻きにするのか。

 ――いずれにしても、今迄の様な「普通の」友人としての「まともな」扱いはされなくなるだろうという恐怖感を伴った確信だけはあった。

 


 更衣室で制服に着替え終わると、精介は外したマワシを一旦軽く丸めた。

 外したマワシは稽古場の裏にある物干し場に干す事になっていたが、物干し場までは一旦稽古場の中を通らなければならない構造になっていた。

 マワシを抱えてまた皆の所に一旦戻るのも抵抗感があり――明日も部活に来るかどうかという迷いもあった。

 そもそも不調を抱えた状態が明日も変わるとは思えなかったので、来たとしてもまた監督に帰れと言われるだろう。

 そんな事をもやもやと考えてしまい、精介はマワシをきちんと円形に丸め直すとそのまま自分のスポーツバッグへと押し込んだ。

 きちんと入りきらずはみ出てしまったが、途中までファスナーを閉めると精介はバッグを背負って更衣室を後にした。

 そのまま真っ直ぐマンションに帰る気にもなれず、精介は自転車に乗ったまま適当に町をうろうろと走り始めた。

 学校やマンションの近所ではあっても、いつもならば行く事の無い方向の地域をうろついていると、大きな公園を見つけたり安いお好み焼き屋を見つけたりと、意外と小さな発見もあった。

 高校入学に合わせてこの町にやって来た精介は、三年の今に至るまでずっとマンションと学校と稽古場の往復だけだったので、自分の住んでいる町の事を殆ど知らなかった事に今更ながら気が付いた。

 住宅地の路地を抜けたりぐるぐると通りの角を曲がり続けたりと、大して学校から長い距離を移動した訳ではなかったが、町のあちこちを改めて見て回り、多少は精介の落ち込んでいた気持ちも紛らわされていた。

 再び学校の前の大きな道路のある通りへと出て来ると、スーパーや本屋や文房具屋、飲食店等の並ぶ一角があった。

「――あ。」

 その中のスポーツ用品店はシャッターが下ろされており、「長年のご愛顧有難うございました」云々と閉店の挨拶を書いた貼り紙があった。

 もうちょっと早くこの店に気が付いていれば来てみたかったかも・・・。

 そろそろ新調したいと思っていた腕や膝のサポーターの事を思い浮かべながら、精介はシャッターの前を通り過ぎていった。

 そうやって初めてうろつく町の様子を意外と楽しんでいる内に、次第に日も暮れ始め、辺りは薄暗くなり始めていった。

「そろそろ帰るか。」

 そう独り言を漏らし、精介はやっとマンションへと帰る事にした。



 帰る気にはなってもやはり、素直に真っ直ぐに帰るという気にはなれず、マンションへの方向ではあっても少し寄り道気味に知らない路地へと入ったりしていた為に、いつの間にか精介は知らない小さな神社の前にやって来た。

 元はもう少し大きいと鎮守の森だったと思われた林らしき疎らな木々の茂みと、小さな駐車場の向こうに、所々剥げていた朱塗りの鳥居が聳えていた。

 神社の敷地を取り囲む苔むした背の低い石の柵――玉垣と呼ばれるその柵の向こうに、小さな土俵がある事に精介は気が付き自転車を漕ぐ足を止めた。

 阿良川神社と書かれた古い木の看板が目に入り、精介は以前祖父の弟が言っていた話を思い出した。

 ――ほんの二十年位前までは阿良川神社という所でも夏祭りがあって、その時に相撲大会もあったんだよ。君のとこの学校の相撲部の人達も参加したりしていてねえ・・・。

 何となく心惹かれるものを感じ、精介は自転車を誰も居ない駐車場の隅に停めると神社の敷地へと足を踏み入れた。

 短い参道は玉砂利が疎らにあるだけで土が剥き出しの所が多く、余り手入れが行き届いていない様だった。

 取り敢えず古びた拝殿で賽銭を放り込んで拝んだ後、精介は先刻見えていた土俵の方へと向かった。

 屋根付きの土俵ではあったものの、柱の木材はあちこち虫食いになって傷んでおり、立ち入り禁止のロープが周囲に張られていた。

 ビニールシートで保護される事も無く剥き出しとなっている土俵は、乾き切って大きくひび割れておりあちこちが崩れてしまっていた。

 神社全体の古びて余り手入れの行き届いていない様子からすると、土俵も傷むに任せて放置されている様だった。

 総合体育館の臨時土俵や、他の施設の常設土俵のしっかりと手入れの行き届いた状態を思い出してしまい、精介は目の前の崩れかけた土俵に何とも言えない寂しさを感じてしまった。

 まだ暗くなりきらない夕暮れの薄赤い光の中で、少しの間ぼんやりとロープの向こうの土俵を精介は眺めていた。

 それからふと、何となくその場で腰を落とすと――ゆっくりと四股を踏み始めた。

 土俵があると四股を踏む――いつもの部活の条件反射でもあり、今日部活で出来なかった分の稽古を、気分だけでも取り返したかったというのもあった。

「――九十七、九十八、・・・。」

 体に染みついてしまっていたいつもの稽古の習慣で、百回の四股を踏み終わる頃には辺りはすっかり暗くなってしまっていた。

 精介は軽く汗を拭うと、土俵に頭を下げてその場を後にした。

 明日も部活はあるが、どうせ行っても今の自分では稽古にならないだろうし――さぼってここの土俵で自主練でもしようか。

 だが、期末テストの勉強の事を考えると部活に出た方が、監督が強制的に稽古前に勉強の時間を取ってくれるので捗ると言えば捗るのだった。不味い成績を取ってしまって夏休み中の部活に支障が出るのは避けたかったが。

 どうしようか――等と精介は考えながら先刻の小さな駐車場に戻ってきた。

 薄ぼんやりとした光を放つ街灯の下で自転車の鍵を開けると、前籠に突っ込んだままだったスポーツバッグを背負い直した。

 明日の部活はテスト勉強だけやりに顔を出して、後は見学という事でも監督は許してくれるだろう――とは思う。勉強に関しては少々頼り無いけれども監督も手伝いのOB達も、一応は教えてくれるし、自分達のツテを頼ってそれなりに勉強の出来る相撲部OBや他の運動部のOBを呼ぶという中々熱心な取り組みも行なってくれていた。

 ――学校側が運動部の生徒の勉学の成績に関して結構うるさいので、出来るだけ難癖を付けられない様にという思惑もあった様だったが。しかし結果的には精介達の為にはなっていた。

 ・・・そんな風に、色々と親身になって関わってくれている監督達に隠し事をし続けている事に、精介はまた自己嫌悪に落ち込んでしまった。

 ――明日部活をさぼるかどうかは、明日の朝考えよう。 

 結論を先延ばしにして誤魔化し、精介は自転車に跨ると、マンションへと帰る――前に、途中、行きつけのスーパーに寄って弁当を買って行く事にした。

 冷蔵庫には何も食べる物が無かった事を思い出していた。

 まだ宵の口という事もあり、スーパーは仕事帰りのOLやサラリーマン等、買い物客が多かった。

 セルフレジも有人レジもはける側から次の客が並んでおり、それを横目で見ながら精介は弁当コーナーへと足を運んだ。

 このスーパーは夜遅くまで営業しており、それにコンビニよりも安くて美味くて量も多い弁当が売られている為、一部の運動部の生徒達の間で秘かに知られていた店だった。

 半額シールの貼られる時間帯は曜日によって少し違うらしく、小遣いの節約に切実な生徒達の中には、部活終わりの時間に半額シールが貼られる日は、ろくに着替えもせずにこの店に走る者も居た。

 精介は余り半額シールの時間を気にしてはいなかったが、今日は運良く多くの品物に貼られたばかりの所に当たった様だった。

 今夜の分と明朝食べる分――牛肉とシメジ・タマネギのコチュジャン炒め丼大盛りと、鮭海苔弁当大盛り。後はペットボトルの茶とおやつの丸いスノーボールクッキー・イチゴ味とオレンジ味大袋を一袋ずつ。

 それだけを籠に詰め、支払いを済ませると、精介は今度こそ真っ直ぐ帰る事にした。

「・・・・・・は~。」

 溜息をつきながら精介は暗くなった夜道を、のろのろと自転車で進んでいた。

「は~・・・・・・。このままどっか遠くに行きたい・・・かも。」

 そんな他愛の無い独り言を漏らし、ペダルを漕ぐ足にも力は入っていなかった。

 勿論、本気ではっきりと遠くに行きたい、という気持ちではなかったが――。

 部活をきっぱりと辞めたい訳でもなく。どうしても続けたいと胸を張って言う事も出来ず。

 性の悩みを監督に正直に打ち明ける決心も付かず。絶対に言わないでおこうという決心が付いている訳でもなく。

 何一つ気持ちも答えもはっきりせず、定まらないまま精介はふらふらとペダルを漕ぎ続けた。

 また一回溜息を漏らすと、マンションへと続く通りの角をゆっくりと曲がった。

 ――第一話で煎賀久寺近くに転移してきた青年は言っていた。

 ――ドアを開けたら二秒で異世界。ようこそパラレル和風ファンタジーニッポン。

 精介もまた、そんな唐突さと脈絡の無さで今正に、日之許国・塔京の町へと転移したのだった。

 第一話の彼に倣って言うならば――。

 ――町角曲がって二秒で異世界。ようこそ、日之許国・塔京へ・・・。 

 だが、夜の暗さと、ぼんやりと考え事をしながら自転車を漕いでいたせいで、精介自身はまだ周囲の景色の変化には気が付かないでいた。



 翌日。結三郎はいつもの書生服と帽子に肩掛け鞄の出で立ちで、科ヶ輪の町へとやって来ていた。

 日が暮れて暫く経ったものの辺りにはまだ人通りも多かった。

 特に科ヶ輪の港へと続く大通りに軒を連ねる飲食店や風俗店からは、これからが夜の本番と、人々の賑やかな笑い声や話し声が聞こえていた。

 奥苑の者達から教えられた時空の穴の開く予想地点は、そんな賑やかな大通りからは大分離れた路地の奥にある、照応寺という小さな古い寺のすぐ近くだった。

 頒明解化による、町の整備の一環として夜間も明るく照らすガス灯が設置され始めてはいたが、古い長屋の建ち並ぶ路地の奥までにはまだ工事の手が届いていなかった。

 日が暮れ辺りには暗がりが満ちており、ささやかな月明りが辛うじて、小石の散らばる未舗装の路地や長屋の閉め切られた戸口や窓を照らし出していた。

 結三郎は少し崩れかけた土塀の向こうの照応寺の様子を見たが、既に住職は寝てしまっているのか、本堂も庫裏らしき建物も真っ暗で小さな明かり一つ無かった。

 人目が無いのは好都合ではあったが、こんな暗い往来に異世界から突然転移してきた者は余計に混乱して落ち着くどころではないのでは――。

 そんな者を説得して奥苑まで連れて行く事が出来るだろうか。

 まだ見ぬ迷い人の心情を心配しながら、結三郎は和綴じ本に偽装した携帯端末の金属板を開き、時空の穴の開く時刻と場所を再度確認した。

 画面の片隅の空間の歪みを知らせる数値が午後九時――予想時刻になると、予想通りに跳ね上がった。

「――!!」

 来た――。結三郎が金属板から顔を上げるとすぐに、寺の土塀の曲がり角から――何の前触れも無く、見慣れぬ小さな乗り物に跨った人影が出現した。

 車輪を縦に並べ、その間に椅子を設置して足で歯車を漕いで進むカラクリは、先頭にかなりの明るさを発する灯火を付けていた。

 周囲が真っ暗な事に慣れ切っていた結三郎の眼は、一瞬その灯火をまともに見てしまい、ほんの僅かの間迷い人の姿を見失った。

 あのカラクリの乗り物は、確か以前に――証宮新報という、帝直属の部署が発行している新聞に掲載されていた自転車という乗り物だったと結三郎は思い出した。

 初めて見る自転車は意外に速く走っており、結三郎の目の前をさっと通り過ぎていった。

 強い光で見えにくくなっていた目が元に戻り始めたところに、自転車を運転している坊主頭の青年の姿が見えた。

 暗くて判りにくかったが、彼はどうやら黒か紺色の様な濃い色のズボンに、結三郎が着ている様なホワイトシャツらしきものを身に着けていた様だった。

「・・・あ、あの! ・・・もし!」

 慌てて結三郎は声を上げ、自転車を漕ぐ彼――精介に呼び掛けたが、精介はぼんやりしたまま自転車を漕ぎ続け、結三郎の声に気付く事は無かった。

 人力で漕いでいるだけの筈なのに、意外と速く走る自転車の能力に結三郎は驚きつつも、急いで後を追って駆け出した。

「もし・・・! そこの御方・・・!」

 住民は殆どが寝静まっているであろう長屋の建ち並ぶ場所柄、大声を出してしまえば目立ってしまう。結三郎は急いで走りながら、抑えめに声を掛け続けるものの――自転車はどんどん遠ざかっていった。

 そして大して時間を置かず自転車は路地の暗がりの中に消え去り、結三郎は相手を追い切れずに見失ってしまったのだった。



 精介は暫くの間ぼんやりと、明日の部活や期末テスト、夏休みの合宿の事等をあれこれと考えながら自転車を漕いでいた。

 しかし暫くすると――流石に周囲が暗すぎる事に精介も気が付いた。

 自転車のライトが白々と照らし出す前方の景色は、いつの間にかアスファルトで舗装された道路ではなくでこぼことした土が剥き出しの道へと変わっていた。

 その土の道も両側が狭く迫っており、粗末な木の板の低い塀が連なっていた。

「何だ・・・・・・?」

 周囲の景色に違和感を抱き始め、精介は一旦立ち止まろうとブレーキを握ろうとしたところで――突然目の前に木戸が現れ、そのまま突っ込んでしまったのだった。

 実際には方向が判らないまま運転をしていた精介が、道の行き止まりにある長屋の木戸に向けて真っ直ぐに進んでいたというだけだったのだが――自転車ごと精介は頭から木戸にぶつかり、そのまま長屋の戸口まで突き破って、その長屋の一室の中へと転がり込んでしまった。

 木材が派手に砕け、精介が地面に転がる音が住人達の寝静まっていた長屋に響き渡った。

「何だ何だ!!!!」

「どうしたどうした!! 強盗か地震か雷か!?」

 その音に近所の部屋から住人達が一斉に戸を開けて飛び出し、何人かは提灯や蝋燭に火を灯してわいわいと騒ぎながら辺りを見回した。

「・・・痛ってえええ。」

 精介は自転車から投げ出されて土間らしき場所に倒れてしまっていた。

 肩や足が少し傷むものの怪我らしい怪我はしていなかった様で、電池式でまだ灯されている自転車のライトによって、自らの無事を確認出来た。

 レジ袋に詰められた弁当やクッキーも幸運にも大して潰れたり砕けたりはしていない様で、横倒しになっていた自転車のハンドルに引っ掛かったままだった。

 精介は自分の怪我よりも弁当が無事だった事にひとまず安心した。

「おいおいおい、誰だよアンタ!!」

「何処から来たんだ?」

「こんな夜にいきなり明春さんトコの部屋壊すなんて、何考えてんのさ!!」

「何だ、この変な車輪は?」

 精介が体を起こすと、周囲に集まっていた者達から一斉に大声で話し掛けられてしまい、うまく答える事も出来ずただ呆然とするしかなかった。

「え? え? 何?俺・・・。」

 精介自身も何がどうなっているのかさっぱり理解出来ないまま、自分を取り囲む人々をその場に座り込んだままおろおろと見回した。

「あ!! これ、ジテンシャじゃねぇか!!」

「俺も知ってるぜ。」

 そんな中、呆然とする精介とそれを取り囲んで騒ぐ大人達の後ろから不意に子供らしき声が上がり、皆の視線が集まった。

 六~七歳位だろうか。あちこち継ぎの当たった着物を身に着けた小柄な男の子が二人、大人達の注目を集めて得意そうに精介の自転車を指差した。

「こないだ武市様が来た時に、俺達にアカシノミヤシンポウっていうシンブンを見せてくれたんだ。」

「そのシンブンってやつにこんな感じのカラクリの乗り物があったんだ。」

 順番に喋る子供達の言葉に、母親らしい若い女性も頷いた。

「あー、思い出したわ。確かに武市様から新聞見せてもらったわねえ。まだ塔京でもあんまり出回ってなくて、大金持ちの商人かお大名が道楽で買ったとか何とか・・・。」

 母親の言葉に周囲の者達は、改めて精介の格好と倒れたままの自転車を交互に見た。

 頒明解化が進みつつある塔京では、今迄着られていた着物以外にもズボンやシャツといった服装も少しずつ着られる様になってきてはいた。

 だがまだまだ普及途上で、出回る品物の大部分が値段も高い事もあり、それらはまだ一部の好事家や洒落者、金持ちの服装という風に見られていた。

 精介が今着ている高校の制服の紺色のズボンに、襟元に校章の刺繍の入ったワイシャツという姿は、彼等にとっては正にそうした金持ち連中の服装に見えていたのだった。

「じゃあ、こいつ――あ、いやこの御方は、どっかの大名の若様なのか?」

「そうじゃないのかい? こんな立派な服装に凄い自転車だなんてさあ。」

「そうよねえ。あたしらみたいな庶民じゃ、その服の切れ端も買えやしないわよ。」

 子供達を挟んでまたわいわいと喋り始めた大人達を、精介はまだ暫く呆然と見上げていたが、少しずつは落ち着き始め、周囲を観察し始める余裕もやっと出始めた。

「――というか、そもそもここって・・・何処・・・?」

 独り言を漏らしながら精介は、自転車のライトや蝋燭に照らされた人達の姿を改めて眺めた。

 スーパーからマンションへと帰る途中に道に迷ってしまった――にしては、この飛び込んでしまった家や、出て来た住人達の様子が余りにも精介が住んでいる新川の町と違い過ぎた。

 時代劇や和風ゲームとかで見る様なイメージの、長屋?とかいう昔のアパート的な? そんな建物と住人達は、精介の住んでいる町には無かった筈だった。

 しかし彼等の話す言葉は日本語で、精介とも話は通じてはいる様で――。

 タイムスリップとか異世界転移とか、SFとかファンタジーの物語でよく聞く様な、そんな感じの出来事が自分の身の上に起きてしまったのだろうか――いやそんな馬鹿な。

「何処って言われてもなあ・・・。」

 精介の独り言が聞こえたらしい、薄い浴衣を羽織った小太りの中年男が精介の方へ顔を向けた。

「貧乏人ばかりが集まってる宗兵衛長屋――皆、力士長屋って呼んでるけどな。」

 中年男の言葉に、その奥さんらしい大柄な女性が続いた。

「大家の宗兵衛さんが元杜佐藩お抱え力士だった事に因んでいるんだけどね。まあその縁で、住人も八部屋ある内の六部屋が杜佐藩邸の相撲に関係した仕事や何かでおまんま食わせてもらってる感じだねえ・・・。」

「ああ、そんでその内の一人は小さい部屋だけど、現役の相撲取りだよ。」

「へえ~・・・。」

 相撲に関係した仕事というのが何なのかいまいち精介には判らなかったが、彼等の話を聞きながら――複雑な思いが胸の裡に湧いていた。

 江戸時代・・・いや、薄暗い中でも男性は皆、チョンマゲをしていないのは判るので、もしかしたら明治とか大正とか――、それ位の時代へのタイムスリップか、その時代と似た様な世界への転移か。

 兎も角も自分が普段生活している町とは全く違う場所へとやって来ている事は、精介も少しずつ納得し、理解し始めていた。

 だからこそ――そんな場所にやって来たというのに、ここでも相撲に関する事柄を聞かされるとは。

 自転車から転がり落ちた時にも外れず、少し肩紐がずれて肩に食い込んだままのスポーツバッグに入っているマワシが、今、妙に重たく精介の体に感じられた。

 無意識に精介がバッグを背負い直したところで、精介の背後の方に居た夫達がバッグの口から覗いていた丸められたマワシに気が付いた。

「ん?」

「――これ、マワシじゃねえのか?」

「ああ、そうだな。マワシだな。」

「何だ、アンタも相撲取りか?」

 知らない者が見たらただの丸められた厚い布地に見えなくもなかったが、力士長屋と呼ばれる所の住人達だけあって、すぐにバッグから見えていた物がマワシだと判った様だった。

 夫達が口々に話をするのに続き、女性達もまたわいわいと口々に精介に話し掛け始めた。

「なんだぁ、アンタも相撲取りなのかい?」

「立派な自転車に立派な服装だし、もしかしてどっかの高給取りの藩のお抱え力士かねえ?」

「それか、大名の若様かもよ。三男四男の若様の相撲取りも珍しくないからねえ。」

 わいわいと精介を置いてけぼりに続けられる女性達――年齢的には中年のおばさんとも呼ばれる者達のお喋りによると、武道の嗜みとして大名の息子達が相撲を取ったり、藩主の継承権の低い三男四男以下の男子達が藩のお抱え力士という立場で相撲を取る事もあるとの事だった。

「たまに遊びに来る武市様だって、元は杜佐の殿様の四男で、武市家に養子に出て杜佐藩のお抱え力士になってるしなあ。」

「あらやだ! そうだったの? あたしゃ聞いてなかったわよ。知らなかったわ~! ただの武市家の冷や飯食いかと思ってたわ。」

 突然飛び込んできて部屋の戸口を壊してしまった精介を大して責めるでもなく、それをネタに際限無くお喋りを続ける力士長屋の人達を、精介はどうしたらいいのか困惑し続けたまま見上げていた。

「――取り敢えず、怪我は無い様で良かったよ。」

 そこに、精介が戸口を突き破ってしまった部屋の主らしい男が、精介へとのんびりした口調で声を掛けてきた。

「あー・・・いや、その。こちらこそ、すんません・・・。」

 のっそりと部屋の奥から現れた男に精介は慌てて頭を下げた。

 精介と大体は同じ様な背の高さと体格をして、やや垂れ目の気の優しそうな少し四角ばった顔立ちの、同じ位か少しだけ上らしい年頃の青年は、この部屋の住人で力士の大坪明春(おおつぼ あけはる)だと名乗った。

 先刻の住人達が話していた小さな部屋の現役力士だった。

「皆、いい人達ばかりなんだが、お節介焼きとお喋りが過ぎるのが玉に瑕でねえ・・・。」

 丸坊主にしてから二~三センチ伸びた様な短髪の頭を掻きながら、明春はのんびりと笑みを浮かべた。

「そ・・・そうなんですか・・・。」

 どう答えたものか困りつつ、精介は曖昧に笑い返した。

「道に迷ったんなら、今夜はこのまま泊っていったらいいよ。明日明るくなって帰り道が判ったら、家の人に戸の弁償もしてもらえばいいし。」

 明春の言葉が聞こえたのか、おばさん達の何人かが振り向いた。

「そうね! それがいいわ。同じ相撲取りのよしみで明春さん、この若様泊めてあげなさいよ!」

「そうそう。後はとにかく朝になってからね。」

「あたしらも朝は早いから、もう寝ましょ。」

「じゃあおやすみよ。」

「おやすみおやすみ。」

 次々に彼女等は口々に捲くし立てると、あっという間に子供達と夫達を引き連れる様にして各自の部屋へと引っ込んでいった。

「あ、え――ええと・・・。」

 それまでの騒ぎが嘘の様に静まり返り、その場には座り込んだままの精介と、背後にのんびりと立っている明春だけが残された。

 呆然と座り込んだままの精介に、明春はゆっくりと声を掛けてきた。

「まあ~・・・取り敢えず中に上がったらどうだい。」

「あ、はい・・・。何かすんません。」

 精介は明春を振り返り、軽く頭を下げてから立ち上がった。

 倒れていた自転車を立て直し、そのまま土間の片隅に止めるといつもの習慣で鍵を掛けた。薄暗くてはっきりとは判らなかったが、どうやら車体は曲がったり目立つ傷が出来たりと言う事も無く無事な様だった。

 ライトのスイッチも切ろうと手を伸ばしかけたが、明春の部屋に蝋燭等の明かりの気配が何も無い事に気が付き、取り敢えずはそのまま付けっ放しにしておく事にした。

 精介が自転車を触っている横で、明春は破られた戸板や障子を一先ずは戸口へと立て掛けた。

「冬じゃなくて良かったよ。寒いのは苦手でね~。」

「ほ、ホントにすんませんん・・・。」

 嫌味ではなさそうなのは薄暗い中でも呑気に笑っている明春の様子で判ったが、精介は再度申し訳無さそうに頭を下げた。

「あ、後、その・・・小さな提灯? 龕灯(がんどう)? かなり明るいけど、蝋燭か油かは知らんが勿体無いから消した方が良くはないかい?」

 節約が身に染みているらしい明春は、自転車のライトを心配そうに指差した。

「あー・・・充電したばっかだし、LEDなんで、まだ暫くは付けっ放しでも多分大丈夫です・・・。」

 これを消すと多分、部屋の中は完全に真っ暗になってしまうと思われたので、精介はもう暫くこのまま付けておく事にした。

「そ、そうなのかい・・・? なら助かるよ。この通り貧乏暮らしなんで、蝋燭も油もあんまり残ってなくてねえ・・・。」

 明春は精介の言う充電とかLEDが何なのかは判りかねたものの、取り敢えず明かりをもう暫くは付けてくれるという好意に甘える事にした。

 それから精介は明春に促され、土間で靴を脱いで部屋へと上がった――ところで、明春から大きな腹の虫の音が聞こえてきた。

「あー・・・・。いや、ははは・・・。」

 明春は誤魔化す様に笑いながら精介を振り返った。

「ははは・・・。この通り貧乏暮らしなものでねえ・・・。一応は三度の飯は食ってるんだけど。」

 自転車のライトの光が照らす薄暗い部屋の中で、明春の困った様に笑う表情が精介の目に入った。

 この人、相撲取りと言っていたし体格自体はしっかりしてそうだが――腹一杯食べる事が出来ていないままで相撲を取るのはきついだろうなあ・・・・・・と、精介は明春への同情心が湧いた。

「あ。」

 精介は声を上げ、土間の自転車の方へと裸足のまま引き返した。

 長屋への突入とその後の住人達の怒涛のお喋りですっかり忘れていたが、ハンドルに買った弁当を入れた袋を提げたままだったと思い出したのだった。

 レジ袋の中身を見ると、先刻ざっと確かめた通り殆ど潰れておらず、容器からはみ出たりという事も無かった。

「えーと・・・、よかったら一緒に食べませんか・・・?」

 精介は自転車のハンドルから袋を外し、明春の方へと歩み寄った。

「え・・・。いいのかい・・・?」

 明春も袋の中身が何かの食べ物らしいと言う事は漂ってくる匂いから理解し、精介の手にある袋へと戸惑いながら視線を落とした。

「遠慮しなくていいっスよ。丁度弁当二個あるし。」

 精介は取り敢えず部屋へと上がり、そのまま適当に腰を下ろすと袋の中身を取り出し始めた。

「すまないねえ・・・。」

 申し訳無さそうに言いながらも食欲には勝てず、明春は精介の向かいに腰を下ろした。

 まだほんのり温かい二つの容器の内、一応は和風メニューの方がまだ馴染みがありそうだと、鮭海苔弁当の方を精介は明春へと差し出した。 

「有難う。頂くよ・・・。」

 明春は申し訳無さそうにしながらも、美味そうな匂いのする弁当を嬉しそうに受け取った。

 精介の方も自分の分としたコチュジャン炒め弁当の蓋を開け、添付の割り箸を割って食べ始める事にした。

 土間からの自転車のライトが照らす薄明かりの中で食事をするというのは、精介にとって初めての体験だった。

 手元の食べ物が今一つはっきりとは見えないというのは、何となく落ち着かない様な妙な気分だと思いながら、精介は箸をつけていった。


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メモ書き

 という訳で2023年もほんとに後少しになってしまいましたね。

 年末の仕事の合間を縫ってちまちまと書き進めております。アタシだけが取り敢えず楽しい「ガチムチガッシリ筋肉質な相撲取り男子の和風ファンタジー」であります。メインキャラは相撲取り男子しか出てきませんというか出しません。

 取り敢えず、結三郎、祥之助、精介の三人をメインキャラクターとしてこの先の物語を作っていく予定です。小ネタとしては結三郎=ケツサブロウ。祥之助は武市=たケツ。精介はそのまま山「尻」。とケツの要素を名前に仕込んでみました。

 で。第三話以降の物語のネタ出しもちまちましておりますが、相撲の神とその眷属、とか、元の世界を追放された相撲取り男子、とか、主たるゲストキャラクターも相撲男子の予定です。

 和風ファンタジーならばニンジャとかサムライとか悪徳商人越後屋とか、相撲取りにしてもでっぷり肥えたいかにもな体型とか色々テンプレあるじゃろう、と文句言われそうですが、そんな事は知った事ではありませぬ。

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