第二話ふたつめ、しるすこと 「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」其の一 精介の性の悩みに就いて記す事

第二話ふたつめ、しるすこと

「相撲部員 山尻精介の日之許国への迷い込みに就いて記す事」

 「其の一 精介の性の悩みに就いて記す事」


 昨日からは雨もやんでおり、夕方になってもまだ強い日差しが校庭の植え込みの紫陽花を照らしていた。

 梅雨明けも近く、もう夏は目の前に迫っていた。

 そんなある日の放課後。

 帰宅する生徒や、部活動に向かう生徒達が楽しげに話しながら校舎の前を行き交っていた。

「――ッしゃッッ!!」

「――もういっちょ!!」 

 校舎から暫く離れた校庭の片隅にあるプレハブ小屋の相撲場では、五人の部員達の汗まみれの体のぶつかり合う音や掛け声が大きく響き渡っていた。

 クーラーや扇風機を最大に働かせていても、激しい稽古に励む部員達の発する汗や熱が部屋に籠り、それがまた更に余計に彼等に汗を掻かせていた。

「こら!! 山尻! 腑抜け過ぎるぞッッ!! いい加減にしろ!!」

 部員達のぶつかり稽古を指導していたOBの一人から、太い怒鳴り声が上げられた。

「――ッス。すんませんッッ!!」

 ぶつかる時の腰が入っておらず姿勢も悪いまま転がされ、体力だけを無駄に消耗していたその部員――山尻精介(やまじり せいすけ)は、相撲部員としては軽量の体を慌てて起こし、掠れた声で返事をした。

 軽量とは言っても身長は179センチ、体重は98キロと、がっしりとした筋肉質な体付きで、充分に相撲で戦える体格ではあったが。

 この前散髪屋で五厘刈りに丸めたばかりの精介の坊主頭は、天辺から汗と土俵の土を被って汚れていた。薄く泥と混じり合った茶色い汗が、その精悍な顔の上を滴り落ちていった。

 他の部員達も、調子が良いとは言えなさそうな精介の様子を一瞬心配そうに見たものの、自分の稽古に集中しなければならず、すぐに各自のやる事へと顔を向け直した。



 無限の可能性で枝分かれした並行世界の内の、よくある地球型の惑星のある世界。

 その、よくある日本型の世界の一つ――。

 よくある地方都市の、よくある高校の――よくある相撲部の部活動の風景だった。

 この世界の日本でも学生相撲の人気は昔と比べると低迷しており、精介の通う高校もその例に漏れず入部希望者も減少していた。

 現在の部員数は七人で、三年生の精介ともう一人がこの夏の大会で引退してしまうと五人になってしまう。

 学校で既定された部活動として認定される人数ぎりぎりになってしまう状態であり、部員の確保に監督達は日頃頭を痛めていた。

 相撲場の隅のホワイトボードには大きく「七月五日・県総合体育大会まで〇日」と書かれ、相撲場の壁には各部員毎に重点的に行なうトレーニングのやり方や目標を書いた物が貼り付けられ――少ない部員数ではあったが、決して士気は低くはなかった。

 ただ――精介だけが、ここ最近になって集中力を欠いた状態のまま稽古を続けていて、部の監督や仕事の合間を縫って手伝いに来ているOB達を心配させていた。

「よーし、今日は終了!!」

「有難うございましたッッ!!」

 監督の声に、部員達が頭を下げ一息ついた。

 練習で使った器具の汚れを拭き取ったり土俵を掃き清めたりと、掃除や片付けの作業に入る部員達の――特に精介の様子を監督やOB達は心配そうに見守っていた。

「あー終わったー!」

「お疲れッしたーッ。」

 相撲場の片付けと掃除が終わり、着替えも終えると、部員達はまだ土俵に残って考え事をしていた監督に挨拶をして帰っていった。

 精介も稽古が終わった事にほっとしながら相撲場を出ようとしたが、監督に呼び止められてしまった。

「――山尻、ちょっといいか?」

「・・・あ、はい・・・。」

 自分を呼んだ監督の硬い表情に、精介の表情も少し強張ってしまっていた。

「ここんとこずっと調子悪いみたいだけど・・・何かあったか? みんな心配してるんだ・・・。」

 相撲部OBでもある監督は、稽古の時は厳しい表情と声で部員達を指導し、時には大きな怒鳴り声を伴う事もあったが、今はその恰幅の良い大きな体で精介を見下ろしつつも穏やかな声音で問い掛けてきた。

「五月の大会の時は、いい感じで相撲取れていたじゃないか。病気とか怪我でもなさそうだし・・・。何か精神的な事とか・・・?」

 監督の言葉に精介はすぐには答えられず、太い眉を寄せ唇を噛んで俯いた。

「えーと・・・。」

「ああ、すまんな。今すぐには言いにくい事もあるだろうけど・・・。その内でいいから、何か悩み事とか困り事とかあったら遠慮せず言って欲しいんだ。」

 精介を気遣いながら掛けられる善意の言葉に、精介は余計に委縮してしまい内心そっと溜息をついた。

 ――言える訳が無いのに。

「あー・・・。えーと、・・・何て言うか。スランプって言うか・・・。自分では一生懸命頑張ってるつもりなんスけど・・・。何か、自分でもよく判んなくて・・・。頑張ってるつもりなのに力が入らないというか、集中力が落ちてるっていうか・・・。」

 監督から少し目を逸らしながら、精介は何とかそれらしい言い訳を口にした。

「そうか・・・。」

 何となく精介が誤魔化している事を察しながらも、監督はそれ以上追求する事はしなかった。

「――まあ、お前ら三年生は進学とか将来の生活の事とか色々、何やかや迷ったり困ったりする時期だからな・・・。親切の押し売りをするつもりは無いが、気が向いたら、何でもいいから、困った事とか言ってくれよ。」

 精介の肩を軽く叩き、監督は笑顔を向けた。

「・・・はい・・・。」

 だが、今の精介には曖昧な返事を口にする事が精一杯だった。

 それだけを言うと軽く頭を下げ、相撲場を後にした。

 自転車を漕ぎながら精介が校門を出ると、大きな道路を挟んだ向こう側にある県の総合体育館の建物が目に入った。

 精介の通う新川大学付属高校は丁度、総合体育館と向かい合わせという立地になっており、大会参加に熱心な運動部の学生にとっては、良くも悪くも目標の一つが目の前にはっきりとした形になって日常的に示されていた。

 五月の県の相撲新人選手権大会――新人と言っても単に新入部員を意識して名付けられたというだけで、当然他の学年の部員も参加出来る大会だが――その大会も道の向こう側の体育館で開かれ、精介達の学校も出場した。

 ほんの一か月位前でしかなかったその大会を、精介はとても遠い昔の様にも感じてしまっていた。

 青に変わった信号を渡り、精介の漕ぐ自転車は体育館の正門前を通り過ぎた。

 ゆっくりと走る自転車に合わせてゆっくりと流れていく白いフェンスと、そこに沿って植えられたツツジの生垣の向こうに、屋外プールや小さな土俵があった。

 大会の時には館内に臨時の土俵が作られるので、屋外の小さな土俵は出番待ちの者達が練習に使用される事になっていた。その土俵も今は保護用の青いビニールシートを被せられて使えない様になっていた。

 ――やっぱガッコーの目の前に体育館あるとプレッシャー半端無ぇよなぁ。

 ――剣道部の奴等、予選敗退したから、目の前で賑やかに大会開かれるの見てるのマジ辛過ぎって言ってたぜ。

 精介の所属する相撲部は、幸いここ何年かは県大会の上位の常連ではあった。

 だが、それでもやはり良い成績を残したいという欲は精介や皆にあり、それが同時にプレッシャーを良くも悪くも強く与えてはいた。剣道部や柔道部、合気道部、バスケ部にバレー部・・・。同じクラスの運動部の友人達の感じるプレッシャーや、敗退時の悔しさは精介達の相撲部も無縁の事ではなかった。

 彼等が昼飯時に喋っていた事を何となく精介は思い出しながら、ペダルを漕ぐ足を強め、総合体育館を通り過ぎた。

 大通りから住宅街へ続く細い道に入り、暫くすると精介は人の気配の無い小さな公園の前に自転車を停めた。

 その公園は少し古びた小さなブランコや鉄棒が設置されている程度で、後はちょっとしたボール遊びが出来る程度の広場があるだけだった。

 手早く自転車に鍵を掛けると、精介は公園や周囲に誰も居ないのを確かめる様に見回しながら公衆便所へと足早に入っていった。

 古びた白いタイル張りの男子便所の――個室の方に入ると、しっかりと鍵を下ろした。

 


「――・・・・・・・ッッ。・・・・・あ・・・・。」

 大便所の個室には入ったが――出すのは便ではなかった。

 この年頃の男子の性的な放出は排泄欲とも深く結び付いているので、便所で排泄を行なうという表現は決して間違っているとも言えなかったが・・・。 

 先刻のまだ生々しい稽古の記憶を精介は何度も思い返しながら、熱く煮えてしまった自分の下半身の塊を弄び続けた。

 マワシを締めただけの裸でぶつかり合う筋肉質な厚みのある相手の体の感触や、汗でテカテカに光った肌の様子――それらを何度も思い返していた。

 暫くの後に――潤んだ眼を細め、声を押し殺しながら精介は熱く煮凝ったものを吐き出し終えた。

「――・・・。」

 ひと段落終えて、ふう、と息を吐くと精介は後始末を済ませてズボンを下ろしたまま便器に座り込んだ。

 それからぼんやりとトイレの天井を見上げながら、今度は大きな溜息をついたのだった。

 ――こんな事、監督に言える訳が無い。言えないし、恐い。

 相手の体を性的に意識し過ぎて相撲の対戦に集中出来なくなってしまっているだなんて。

 そんな事がばれたら、皆から気持ち悪がられ――部活からも追い出されるのではないか。

 そんな恐怖感が精介の心にずっと居座り続けていた。

 自分のこんな事がばれるのも、部を辞めさせられて完全に相撲が出来なくなる事も――どちらも精介にとっては嫌で、恐ろしくてたまらなかった。

 ――別に相撲部の仲間達の特定の誰かが好きだ、という程に気持ちがはっきりとしている訳ではなかった。

 この年頃にありがちな、相手の体に妙に興味が湧いたり、欲情を刺激されてしまったりするだけで・・・特定の誰かをどうこうしたいという事でもなく。

 ただその為に精介は今は全く相撲に集中出来なくなってしまっていた。

 所謂ノンケ――異性愛者の思春期男子に例えれば、美人でオッパイの大きなお姉さん達と裸で取っ組み合って冷静で居られるだろうか。

「・・・帰るか。」

 昂っていた下半身の熱を排泄し終えた今は、妙な脱力感と物悲しさだけが体の中で淀んでいた。

 精介は溜息をつきながら独り言を漏らすと、のろのろと立ち上がりズボンを穿き直した。

 美人のお姉さんと裸で取っ組み合ったとしても、今の精介は何とも思わないだろうという謎の自信があった。

 ・・・自分はホモとかゲイとか言われる人間になってしまったのだろうか。

 この年齢になるまで、精介は性的な事に関する精神面での成熟は遅かったという自覚は確かにあった。一応は、下半身がチンなる毛の物へと成熟し、精を出す(性的な意味で)、という事は人並みにはあったが――クラスの他の友人達が大騒ぎする様な女性への興味は、全く抱けないまま今迄過ごしてきたのだった。

 そうかと言って、男性の方に対しても今迄は性的に意識する事も無いままだった・・・筈なのに。

「――ママ~! 今日はあたしがお散歩するの~。」

「はいはい。ちゃんと持っておくのよ。」

 犬の散歩と夕食の買い物を兼ねたのだろうか、小学校低学年位の小さな女の子と柴犬の仔犬を連れた若い母親が、買い物袋と犬のリードを手にして公園の前を通り過ぎていった。

 薄化粧をして短く切り揃えた髪を明るい栗色に染め、こざっぱりとした薄い色合いの花柄のワンピースの女性と、娘の方もお揃いの花柄のTシャツで、母親は笑いながら犬のリードを娘に手渡し、何事か楽しそうに喋りながら歩いていた。

 クラスの奴等の何人かは美人の若奥さんだあ~!とか言って騒ぎそうだな・・・と、ひどく他人事の様に思いながら精介は親子連れと犬が立ち去る様子を眺めていた。

 同じクラスや同じ部の友人達との猥談の中で、エロ動画やエロ画像を見せられる事もあった。ああ、いいんじゃない?ケツとかオッパイとかすっげえなあ・・・等と曖昧に誤魔化してやり過ごす中で、自分以外の者達は勝手に盛り上がっていた。

 ――聞けよ精介。だからなー、何と言うかあ、理屈じゃねえのよ。もお、うっわぁぁ~!! オオーッッ、てな感じで。

 ――そうそうそう!! もう、女体の神秘カッコ笑い、に、もおおおおうううたまらんんんん、ていうか。女の体中、女の裸っちゅうか、オッパイやらアソコやらケツやら、オレの全部がおっ勃ちまくりの集中しまくりの!!

 ――判る分かる解る!! 

 ・・・いや、さっぱり判らん・・・。サカリのついた動物の様にはしゃぎまくる友人達の様子を横で見ながら、精介はその言葉を絶対に漏らさない様に飲み込んでいた。

 その時は友人達の様子が全く理解出来ないでいたけれども――今ならば、確かにその通りだったと、判り過ぎる位に判ってしまったのだった。

 ――但し、男性を相手として。

 しかも、クラスの文芸部系の女子達が時々話をしている少女漫画か何かの漫画にある様な、女性と見紛う様な美しい男性とかに欲情するという訳ではなく。

 自分自身と似た様な感じの、汗臭かったり筋肉質だったりする――男臭いとかむさくるしいとか言われてしまう様な、そんな男性に対して、あんな事やこんな事を・・・致してみたいと思う様になってしまったのだった。

「・・・何で今になって。」

 思わず愚痴めいた独り言を漏らしながら、精介は自転車に乗ると家へと帰る事にした。

 汗臭い、筋肉質で、脛毛や腋毛や髭も生えている・・・所謂、男性的と言われるような男性。

 そんなものがどうしようもなく魅力的でたまらないものとして見えてしまう。

 こんな事になる位ならば、どちらにも何の興味も感じないままの方が良かった・・・。

 そんな事をもやもやと考えながら自転車を走らせる内に、精介は自分の住む小さなマンションの前へと戻ってきたのだった。



 ひと昔ふた昔前のセンスと言われないでもない赤茶けたレンガ模様の外壁と、深緑色のガルバリウム合金の屋根の三階建ての小さなマンションは、精介の亡父の方の祖父の、一番下の弟が所有し管理しているものだった。

 マンションの裏手の自転車置き場に自転車を停めようとしていた所に、買い物帰りらしいビニール袋を提げた小柄な老人が声を掛けてきた。

「精介君か。君も今帰りかい?」

「あ、はい。」

 声に気付いて精介が振り返ると、このマンションの持ち主兼管理人の、祖父の弟が立っていた。

 祖父の弟といういまいち近いとも言いにくい位置の親戚ではあったが、精介に時々声を掛け生活で困っている事は無いかと気に掛けてくれていた。

 精介が高校進学にあたって一人暮らしを始める時に、学生寮にするかどうか養父母達と話し合っていた時に、自分の持っているマンションに空きが出たので入ればいいと気安く勧めてくれたのだった。

「来月、また大会らしいじゃないか。君トコの学校も出るんだろ? 部員少ないらしいのに頑張ってるじゃないか。応援してるからね。」

「あ、はい・・・。どうも・・・。」

 祖父の弟――取り敢えず精介はおじさんと呼んでおり、彼も面倒だからそれでいいとおじさん呼びで定着していた――は、そう言って精介に笑い掛けると先に階段の方へと去っていった。

 今は善意の応援も少し重たく感じてしまい、そっと溜息を吐くと精介は自転車に鍵を掛け、のろのろと階段の方へと足を向けた。

 精介の部屋は二階の端の方にあり、エレベーターに乗るまでも無かった。

 鍵を開けて中に入り、台所の椅子の上に鞄と部活用のバッグを置くと、精介は制服を脱ぎ散らかしてからそのままパンツ一丁で奥の部屋のベッドの上に倒れ込んだ。

「あー~~! 何か疲れた。」

 倒れた姿勢のまま大きく背伸びをして窓辺の方に体を回すと、ベッド横の小さなサイドボードのガラス扉越しに、中に仕舞われている埃を被ったいつもの写真立てが目に入った。

 精介のセンスではない、洋風の白い額縁風の木の板が二枚連なったそれは、祖父の弟が高校入学にあたって贈ってくれたものだった。

 二枚の額縁風の木の板には一枚ずつ写真を収める事が出来、一枚は精介の亡くなってしまった両親と赤ん坊の精介が写っており、もう一枚は養父母と幼い精介、そして彼等が抱いている赤ん坊の四人が写ったものだった。

 二つの家族のどちらも君の家族だから――祖父の弟の善意の言葉に複雑な気持ちを持ちながらも、かといって贈られた物を邪険に扱う程には反発心がある訳でも無かった。

 なので一応は目に付く所に置いてはいたものの、しかし丁寧に掃除をする気持ちにもなれず――。

「暑っ・・・。」

 精介は汗の滲み始めた体を起こすと、窓へと手を掛けた。

 クーラーを付けると寒く、付けないと少し蒸し暑い――そんな中途半端な時期はまだ少し続きそうだった。

 窓を開けると、暗くなり始めた空に薄赤く染まった雲と、最終便だろうか――点滅する小さな光とその後ろに細く一直線に流れる飛行機雲の様子が目に入った。  

「・・・・・・。」

 飛行機について――精介自身は何か思うという事は余り無かったが、祖父の弟や養父母を初め、親戚の者達は飛行機に対して強弱の違いはあるが嫌悪感や拒否感を持っていた。

 無理も無い話ではあったが――精介の実の両親が、精介が十歳の時に、山の中に落下したという飛行機事故で死亡したからだった。

 母親の遺体は見つかったが、結局父親の遺体は見つからずじまいだった。

 一般的には飛行機事故の遺体と言うものはかなり損壊しているという話だったが、それでも何かしらの手掛かりになるものは発見されるものだった。

 しかし父親の分についてはそもそもが何一つ見つからなかったので、もしかしたら何処かで生き延びているのではないか――。親族の多くはそんな幻想を気休めであっても持ち続けていた。

 野生動物が食い荒らしたり、巣に引きずって持ち去ったりすれば遺体も散り散りになってしまい捜索も発見も困難なので、そうした事例かもしれない――と、専門家達は気の毒そうに当時のニュースの中で解説してはいたが。

 しかしそれでも・・・ドラマの見過ぎだと親戚同士でお互いに苦笑しつつも、例えば山奥でサバイバルをしながら生きているのではないか、記憶喪失のまま身元不明の人間として何処かの町で生きているのではないか――。そんな幻想を否定しきれないまま何年も皆が過ごしてきたのだった。

 結局、精介は、子供が出来なかった父の弟夫婦に引き取られた。

 子供にはっきり話す事でもない、と当時も今も明確には精介には説明されていなかったが、父の弟が精子が少ない体質である為、子供が出来ないという事情もあっての様だった。

 心の優しい人達だし、精介が彼等に馴染むまで辛抱強く接してもくれていた。

 また、実父も親戚達も元々は出身が田舎の相撲の盛んだった地域で、その影響で精介も相撲を取り始めた事も快く応援してくれていた。

 そうして、精介が引き取られてから二年後に、当時不妊治療の研究が進んだと言う事で叔母が女の子を産む事が出来た。勿論、実子が出来たとは言っても分け隔てなく育ててくれたとは精介も思っている。

 だが、世の中の――引き取られた先の親戚と上手くいっていない人達からすれば贅沢な悩みなのだろうが、それでも何処か線を引いてしまい甘え切れず馴染み切れない気持ちが精介にはずっとあった。

 そんな家族背景の中で――遅まきながら今、性の成長が本格的に始まりを迎えた。しかしそれがまるで一般的とは言い難い形で、自分の中にはっきりと現われてしまった事を精介は自覚してしまっていた。

 本当の家族にも言える訳が無い事を、義理の家族になんて言える訳が無い。

「――何かなあ・・・・・・・。」

 ぐだぐだと悩み疲れた。

 こんなにあれこれうじうじ考え込むだなんて、自分らしくもない。

 精介は大きな溜息を吐くと網戸を閉め、手近に放り出していたバスタオルを掴んだ。

 取り敢えず風呂に入って寝よう。兎に角ぐだくだと考え込み過ぎた。

 ――いっそ何処か遠くに行きたい。旅行とか。

 ――或いは消えて無くなりたい。死にたいんじゃなくて、単に消えたい。ふわっといつの間にかみたいな感じで。

 色々悩むのも面倒臭い。

 ――自分の事を誰も知らない所とか、自分がホモとかゲイとかでも構わない所とか、後、それで相撲も取れる所。そんな都合のいい所が無いだろうか。

 そんな事をあれこれと考えながら精介はパンツを適当に脱ぎ捨てると浴室へと向かった。

 ――何処かに行ってしまいたい。

 それもまた、悩みが多く多感なこの年頃の者にはありがちな、他愛の無い願い事に過ぎなかった筈だったが。

 精介のその願い事は、後日叶えられる事になってしまったのだった。



 日之許国、塔京――。

 塔京の町も梅雨が終わりかけ、蒸し暑い夏が始まろうとしていた。

 六月下旬の晴れた日、佐津摩藩高縄屋敷博物苑は、やっと乾き始めた敷地の地面のゴミを掃き清めたり、黴が生えて腐り始めた獣舎の壁や屋根の修繕にと、鳥飼部の者達が忙しく働いていた。

 奥苑の事務所兼研究所として使われている方の屋敷の中でも、また別の理由で鳥飼部達が慌ただしく屋敷内を行き交っていた。

 木造ではあるが真っ直ぐ伸びた廊下と、順番に引き戸とガラス窓の組み合わせの部屋が並ぶ奥苑の屋敷の一角――学校の校舎内を連想しないでもない区域で、台車に載せられた木箱や筒、何かのパイプらしい物等が次々に運ばれていっていた。

「――殿。資材は運び終えました。」

「――夕方からは作業に入れます。」

「すまぬが今から出来る部分から始めてくれ。少し急ぎたい。」

「かしこまりました。」

 鳥飼部達の報告を聞きながら、屋敷内の一室――自分の研究室の一つの戸口の前で、屋敷の主である茂日出があれこれ指示を行なっていた。

「――殿。戸口を塞いでいては他の者の邪魔ですよ。」

 筋骨隆々とした背の高い茂日出よりも更にひょろ長い陰が、背後から声を掛けてきた。

「う、うむ。すまんな。」

 背後のダチョウを振り返り、茂日出は慌てて戸口から退いた。

 その隙を縫う様に若い鳥飼部の一人が資材のパイプを抱えて茂日出に頭を下げながら、慌ただしく室内へと入っていった。

「時空の穴の開く予想が大分はっきりしてきました。取り敢えず広間の方までお願いしますよ。」

 ダチョウは鳥飼部達の作業の邪魔にならない様に、戸口から遠ざかりながら茂日出へと声を掛けた。

「あい判った。」

 二人――一人と一羽が屋敷の白木敷きの大広間に戻ると、中央の大きな円卓で書類を書いていた老齢の鳥飼部が二人に気付いて顔を上げた。

「殿。測定結果はあの者が。」

 老鳥飼部は、円卓の反対側で金属板から映し出された映像を睨みながら何事か書き付けているもう一人の老齢の鳥飼部を指し示した。

「うむ。」

 茂日出とダチョウがその者が座っている隣の席に腰を下ろすと、彼はすぐに茂日出に説明を始めた。

「――時刻は明日の夜・・・午後九時頃。場所は科ヶ輪(シナガワ)ですね。」

「ふむ――。ここ高縄からはかなり近いな。」

 茂日出は金属板の上の空中に映し出された数値や地図を睨みながら呟いた。

「はい。そのお蔭で今の時点でもかなり詳しい事が測定出来ています。」

 老鳥飼部は別の資料を空中に映し出した。

「――成程。日之許と結構似通った世界の様じゃな。穴が繋がる部分の地域の言語に文字、人種を示す数値はかなり近い。これならば明日現場で一通りの測定をしておけば、穴が一旦閉じても十日位の内であれば同じ世界の任意の場所に繋げ直す事も出来るのう。」

 茂日出は表示された情報を一通り読み終えると、機嫌良く頷いた。

「この前の帝の論文の実験が出来るのは良うございました・・・・・・・・。」

 機嫌の良い茂日出の様子に反して、ダチョウや老鳥飼部達は良うございましたとは言いながらも少しうかない表情をしていた。

 この前の帝の書いた論文というのは、時空の穴が開く事に対しての対策を研究したものだった。

 日之許国――特に塔京に時空の穴が開く事故が比較的発生している為、何らかの対策を講じるべく帝自らが先頭に立って研究に励んでいる事柄だった。

 大まかに言うと、治水工事で決まった水路を作って水の流れを適切に制御する様に、時空の穴についても敢えて小さな穴を固定して開け続ける事により、他の穴が開く事を低減させるという狙いがあった。

 ただ――帝もまた、茂日出と同様に学問やその研究に熱心であり理解がある気質ではあったが・・・それに付随する現場での行動もまた大変好んでいるという性格でもあった。

 「頒明解化」よりもかなり前の茂日出が藩主ですらなかった時代から、帝が即位前の証宮(アカシノミヤ)と呼ばれていた時代から、二人は佐津摩と冠西(カンサイ)を行き来し親しく交流を持っていた。

 彼等に付き従う侍従や側仕えの監視の目を振り切って、山奥や無人島に調査研究の為に遠征する事も珍しい事ではなかった・・・。

 そうした話をよく知っているダチョウや老鳥飼部達は、今回のこれからの事を考えるとうかない――というよりは渋い表情を作っていた。

 あの帝が論文を茂日出に託しただけで大人しくしている訳が無い。茂日出と組んで現場主義だと言って二人してまたあちこち出歩くのではないか――。

「――では、後でワシは知代田の帝居に行ってくる。帝達に今回の工事の作業についての根回しをもう少しして来なければならん。」 

「最初から証宮離宮殿の図書館に行った方が早いのではないですか?あの御方は最近は書庫に布団敷いて寝泊まりしているらしいですから。」

 ダチョウは帝の行動に呆れながら茂日出を見た。

「ワシもそうは思うが、一応は帝居の受付に面会許可を申請して手順を踏まぬと、最近は帝居の大臣達がうるさくてのう・・・。」

 そんな遣り取りをしていると、広間へと鳥飼部としての藍色の作務衣を身に着けた結三郎が入ってきた。

「殿・・・あ、いえ、義父上、お呼びとの事で・・・。」

 結三郎は円卓の前に陣取っている茂日出の方へとやって来た。

「うむ。奥苑のいつもの迷い人の仕事についてじゃが。」

 角刈りの白髪頭を掻きながら、茂日出は金属板に触れて映写された資料を結三郎の近くに移動させた。

「科ヶ輪に明日の夜・・・ですか。」

 いつもならば、時空の穴の開く場所に合わせて徒歩で移動出来る時間を織り込んでの呼び出しを受けていた。今回に限って、科ヶ輪という近所の町なのに何故、前日に呼び出されたのだろうかという疑問が結三郎の顔に浮かんでいた。

「今回はだな――。」

 茂日出は結三郎を席に座らせ、先程の時空の穴を敢えて開ける実験について説明した。

「で、今回は迷い人はその場ですぐには送り返さず、何とか説得してこの奥苑に来てもらい、二~三日滞在してもらうようにしたいのじゃ。その間に穴の固定等の作業をして・・・。」

 説明しながら茂日出は空中の映像を順番に切り替えていった。 

「後はまあ、大して期待はしていないがその者が向こうの世界での現地協力員になってもらえそうであれば、それの詰めも・・・。まあどんな人間が迷い込んでくるかは判らぬから、あくまで楽天的な希望の話ではあるがな。」

 茂日出は溜息をつきながら結三郎への説明を終えた。

 迷い人は仕事を任せるには難しい子供や老人かも知れないし、年齢や理解力に問題が無くても性格や考え方に問題があるかも知れない。

 茂日出達に都合の良い人材がやって来るとは限らなかった。

「そうですね・・・。」

 茂日出の話を聞き終えて、結三郎も少し溜息をついた。

 人付き合いが決して得意な方ではないという自覚のある結三郎が、果たして異世界に来て混乱していると思われる迷い人を上手く説得して奥苑まで連れて来れるだろうか・・・。

 自信は無いものの、大事な奥苑の仕事であるのだから頑張らねば・・・と結三郎は気を引き締めた。

「――まあ、ちゃんと人間が迷い込んでくるといいんですけどね。」

 帝と茂日出がまた現場主義的行動――フィールドワークに飛び出しはしないかと不安を抱いている老鳥飼部の一人が疲れた様な表情で呟いた。

「おいおい。随分と悲観的であるな。――まあ、無理な様であればいつもの通り、すぐに送り返しても構わぬぞ。」

 当の茂日出はいつもと違う任務に緊張し始めている結三郎へとそう声を掛け、老鳥飼部の言葉を呑気に笑いながら聞いていた。

 そもそも塔京等に開く時空の穴は、多くの場合は開いても物体の通り抜けが可能な事は少なかった。異世界の景色が蜃気楼の様に映し出されるだけとか、或いは人間の五感には感知出来ない電磁波が日之許へと届くだけ、という様に、大して日之許に影響も害も無い事が多かった。

 まだ日之許には普及していないが、もしもその様な穴の近くにテレビやラジオが置かれていたとしたら、おかしな映像や音声が受信される程度の影響しか無いと思われた。

「予測される穴の大きさとしては、大人が一人二人程度並んで通れる位ですね。人間でなくても精々が虎や獅子が通れる位。そう心配する事も無いでしょう。」

 映写された資料をひょろ長い首で見下ろしながら、ダチョウは老鳥飼部達の雑談に応じた。

 ケニィエヤ国周辺の広大な草原の広がる大地を所狭しと疾走し、その脚力で己を襲おうとする肉食獣を文字通り蹴散らしてきたダチョウの精霊にとっては、虎や獅子等は脅威にもならない様だった。

 ――茂日出達が不安視し問題として捉え、対策を取っているのは、実際に穴を通り抜けて日之許へとやって来る者や物に対してだった。

 人間――世界によっては知的生命は人間に限らないが――や野生動物、世界によっては神や精霊、魔物等も時空の穴を通り抜けてやって来る。――日之許の神々によると、自分の意志ではなく穴に巻き込まれてやって来るのは低級な神々との事だが。

 しかし野生の肉食獣が塔京の町中に出現するだけでも犠牲者が出かねないし、他の世界の悪意ある人間や神々が日之許に良からぬ事を仕出かす場合も考えられた。

 また――そうした生き物や意思のある存在だけでなく、隕石や大量の土砂、海水等が塔京の町の中に転移して来られても大災害を引き起こしてしまう――。

 時空の穴の問題は日之許を治める帝にとって見過ごせないものとなっていた。

「という訳で、明日の夜は頼んだぞ。」

 茂日出は実に残念そうに結三郎へと告げた。

「は、はい・・・。」

 茂日出の言葉に結三郎は少し硬い表情で頷いた。

「ワシも結三郎に付いて行きたかったのう・・・。時空の穴の現場仕事なぞ、もう三年位は行なっておらぬぞ。」

 緊張しつつある結三郎とは反対に、茂日出は心底から残念そうにわざとらしく大きな溜息をついた。

「帝はともかく、帝居の大臣連中と面倒な手続きを行なうのは実に面倒じゃ。誠に面倒臭い。嗚呼面倒じゃ。大臣連中の半分は帝の昔の学友じゃし、皆本音では研究や実験や現場探索に没頭したいのじゃ。全くもう・・・。」

 段々と子供染みた愚痴になりつつある茂日出の言葉を、老鳥飼部達はまた始まった、と呆れ半分憐れみ半分で眺めていた。博物苑に喜んで籍を置いて日々学究に励んでいる者達ばかりなので、茂日出の愚痴は判らない訳ではなかったが・・・。

「現場には出られずとも、近所の屋台にはちょくちょく出掛けておられるではないですか。」

 今度はダチョウがわざとらしい溜息をついた。

 高縄屋敷から程近い場所の居酒屋や屋台で、庶民に混じって飲み食いをする佐津摩藩の前藩主の姿は、高縄の町では既に当たり前の光景になってしまっていた。

「それに、殿の御顔は佐津摩、冠西の京、塔京の三カ所でだけは有名になり過ぎておりますから。屋敷の外に出ていく方の奥苑の仕事を行なうのはもう無理でしょう。」

 ダチョウの言葉に、一応は町中に出ると目立ってしまっているという自覚のあった茂日出はまた溜息をついた。

 佐津摩藩前藩主として現役で働いていた地元佐津摩や、藩邸が置かれていた冠西の京は言うまでもなく。

 当代帝の冠東への遷都に塔京へと付いて来て、帝との学究の関わりを未だに深く持っている為に、新聞や雑誌に写実的な似顔絵付きで取り上げられる事も多く、塔京の人々にも茂日出の顔はよく知られてしまっていた。

「――いやそもそも、殿であると知らぬ者でも一目見れば、かくかくしかじかの人物が通らなかったかと尋ねられれば百人が百人、きちんと答えられますからなあ。」

 馴染みの老鳥飼部が茶を淹れながら苦笑を漏らした。その言葉に皆が同意の苦笑を浮かべていた。

 そもそもが茂日出の姿自体が、六十歳でありながら背も高く筋骨隆々とした大男であり――日之許国民の男性の平均的な体格を遥かに上回っていた。そんな人物が町を歩いていて目立たない筈が無かった。

「そうさのう・・・早く日之許国民の体格改善を図らねばのう・・・。」

「さ、結三郎様。年寄の愚痴はこれ位にしましょう。明日の準備もありましょうから・・・。」

 ダチョウはそんな雑談を程々で打ち切り、共に広間を出ようと結三郎を促した。

「あ、うん・・・。」

 いいのだろうかと思いつつ、結三郎は茂日出達に頭を下げ、ダチョウに促されるまま広間を後にした。



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メモ書き

 気が付けばもう2023年も終わろうとしていますね。まさか年末に新作を執筆する事になるとは思ってもいませんでした。いやはや人生何があるか判りませんね。

 取り敢えず第二話です。ネタがなかなか出ないと前回書きましたが、出たら出たで今度は前後編には収まらないボリュームになってしまいました。プロットのメモ書きをジェネリックエクセル(笑)でマス目並べてメモ書きしているのですが、1マス大体6~700字位なんですが、それが最終的には85マス・・・。

 しかしまあヲカマのおじさん、大昔はもっとボリューミィな物語のプロットメモ書きをがんがん書いていた事を思い出しました。ワープロすらまだ発明されたばかりの時代。手書きの同人誌すらまだ一般的ではなかった時代。誰に見せる訳でも誰の為でも無い、ただひたすら自分の為だけに、作る事そのものがただ楽しかった時代・・・そんな時代を思い出してしまいました。(年末なので無駄にしんみりしています)

 後、小ネタですが「証宮離宮殿」は「アカシックレコード」のもじりというか言葉遊び的な何かで付けてみました。一応、離宮とか宮殿とかの言葉を改めて調べ直してみましたが、そう大きな破綻は無い様でしたのでそのまま作中で使用する事にしました。

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