第一話ひとつめ、しるすこと 「結三郎の日々の仕事に就いて記す事(後編)」

第一話ひとつめ、しるすこと

「結三郎の日々の仕事に就いて記す事(後編)」


 青い光の消え去った後には元の古く傷んだ長屋の引き戸があった。

 結三郎はその前に屈み込むと、金槌の釘抜部分をあてがい水晶の釘を引き抜いた。

 和綴じ本や釘を肩掛け鞄に仕舞い込むとゆっくりと立ち上がり、辺りにまだ何か問題は無いかと確認の為に見回した。

「特には異常は無し・・・と。」

 ほっと一息つきながら呟くと、結三郎は一仕事終えた解放感に足取りも軽く路地裏から抜け出した。

 昼をほんの少し過ぎたばかりの門前町の通りは、相変わらず多くの人々が楽しそうな様子で行き交っていた。

 着流しの着物姿の老人や、明るい赤や黄色の着物なのに髷を結わずに肩までの髪を綺麗に切り揃えた町娘、チョンマゲのままホワイトシャツとズボンを身に着けた若侍風の青年――と、頒明解化後のこの十年の間に塔京の人々の装いは、昔ながらのものと新しく着始められたものとが入り混じり合っていた。

「――お紅茶如何ですかあ!」

「――舶来物のお紅茶入荷しました~!」

 茶店や食堂、土産物屋の並ぶ賑やかな通りから高縄屋敷方面へと帰るべく結三郎が歩いていると、幾つかの茶店から店で働く少女達の呼び込みの明るい声が上がっていた。

 何とはなしに結三郎が歩きながら目を向けると、「ケニィエヤ舶来紅茶」と、一つの茶店の前にそんな幟が立っていた。

 その向かいの方の茶店には舶来物に対抗しているのか、「冠西下り物国産紅茶」と流麗な筆文字で書かれた幟が掲げられていた。 

 頒明解化の始まる前まで――それこそほんの十年十五年前までは、日之許国初めこの世界の全ての国々にはせいぜいが木造の中型の帆掛け船ぐらいしか無く、国内沿岸を行き来するのが精一杯だった。

 そこに大型の金属製の造船技術がもたらされ、国内外の物流が大きく変化し、貿易も盛んになり始めた。

 この茶店の紅茶の例の様に外国から輸入された物や、国内の各地方で作られた物が塔京へと運び込まれ、質や量を競い、売り上げの多寡を競い、人々の元へと届けられていた。

 ――大型の船による大量の物資の移動が可能になれば、そこに武器や軍人を積み込んで遠距離を移動し、国同士の支配・被支配を伴う侵略や戦争の道を辿るのが歴史の常だが。

 この世界では神々からの知識を賜る神降ろしの儀を、人間に知識を与える事に反対していた一部の神々からのある意味嫌がらせの一環として、正規の神降ろしの資質を持つ者以外が行なう事もまた神々から許されていた。

 神々からの素晴らしい知識を直接的に賜り、自らのものとする機会に恵まれたのは各国の王族や――王政の無い国では大統領という様な、国の支配者にあたる者達だった。

 神々ははっきりと人間達に告げた。欲しければ幾らでも知識をくれてやろう。

 しかし知識を与える代わりに支配者層に、その立場に就く際には神降ろしの儀を、規模は問わないが必ず受ける様にと義務付けたのだった。

 神降ろしの儀とは――ただ単に書物や絵本をめくる様な知識の羅列を頭の中に流し込まれる様な可愛らしいものだけではなかった。

 例えばある世界の、放射性物質の実験で失敗して体中を放射線で焼かれ苦悶死した科学者の、その死ぬ瞬間までの一生を科学者自身に乗り移ったかの様な状態で追体験させられたり。

 或いはある世界のある国の被差別人種の一市民が、その国の差別政策で弾圧され、最後には収容所で毒殺される――その市民自身の人生を自分自身が送ったものであるかの様に体験させられたり。

 それらは生々しく五感に感じ取れるものだけではなく、その科学者や市民がその時その時感じ、考えた事も含めた――六感全てで構成されたものが神降ろしによって流し込まれるのだった。

 また或いは個人個人の体験だけではなく、一つの国や、一つの世界が、どんな技術を得てどんな運用をしたら、どんな結果を得たか。

 どんな政策を行なったら、どんな結果になったか――やったらやり返される。殺したら殺し返される・・・そんな歴史の流れも強制的に見せられた。

 戦争を仕掛け人々を踏み躙り、この世界の頂点に君臨し全ての人間を支配したい? 世界中の財宝や美食や美男美女を自分の物として所有したい?

 ――それらを可能にする知識も確かにあった。しかし、神降ろしの儀によって体験させられている数十、数百人分の人間の人生の追体験の様に、殆ど完全に現実といってもいい程の完成度のある夢の中で権力や富に酔い痴れながらずっと生き永らえる知識と技術もまた神々によって示された。

 ――現実の命や資源を食い潰すのも、精度の高い夢の中で欲望を叶えて生きるのも大差あるまい・・・と。

 そうした、生々しい――毒々しいと言い換えてもいい大量の圧倒的な情報を体験させられた事で、各国の支配者達はすっかり毒気を抜かれ、半ば強制的に彼等の執着していた欲望の空しさを悟らされてしまっていた。

 当然中には廃人と化した者も多く居て、支配者の居なくなった国が滅びかけた所もあったが、毒気を抜かれた周囲の国々の協力により立て直されたという。

 ――そうした次第で、この日之許国のある世界では、高度な知識や技術の悪用は随分と抑えられ、比較的良心的な運用のなされた状態になっていたのだった。



「――そこのお兄さん、「吉松屋」の大福も今さっき、店に届きましたよ! 如何ですか~?」

 また別の茶店の今度は妙齢の女性が結三郎へと呼び掛けてきた。

 女性の呼び声に苦笑を返しながら生真面目に軽く頭を下げ、結三郎は茶店の前を通り過ぎた。

 紅茶以外にも緑茶も当然あり、茶請けの菓子として大福や羊羹、饅頭、芋きんつば・・・と、幾つかの店は客寄せの為に美味しそうな見本を店頭の台の上に置いていた。

 腹が減り始め、結三郎の目はついついそうした物に吸い寄せられていた。

 あの相撲大会の何日か前には、博物苑の仕事の休憩時に皆と紅茶や芋きんつばを飲み食いしていた――と思い返し、紅茶と芋きんつばを置いている茶店に結三郎は心惹かれてしまった。

「・・・いかんいかん。」

 さっさと奥苑に戻り、仕事の報告をしなければ、と結三郎は頭を振って芋きんつばの誘惑を振り払った。

 さっさと門前の通りから抜け出ようと結三郎が足を速めようとしたところで――不意に背後から小声で呼び止められた。

「よっ!! ケツサブロウ!」

 馴れ馴れしい声と、ぽんと軽く尻を叩かれる感触に結三郎は振り向いた。

 そこには、白地に藍色の線で鯨や様々な魚を描いた絵柄の着長しを纏った、結三郎より少し背の低い青年が立っていた。着物の下にはがっしりとした筋肉質で厚みのある体があり、彼もまた日々の鍛錬に励んでいる事が窺い知れた。

 人懐っこそうな笑みを浮かべながらも、しかしその目は気の強そうな光を宿して結三郎を見ていた。

「武市(タケチ)・・・殿・・・。」

 ケツサブロウと呼ばれた事で大会で恥を掻いた感覚が生々しくまた甦り、結三郎は不愉快そうに顔を顰めながら相手の名を呼んだ。

「何だよ、不機嫌だな~。」

 悪気があるのか無いのか――短く刈った髪を逆立てた頭を少し傾け、にこにこと無邪気に武市と呼ばれた青年は結三郎に笑い掛けた。

「大変に見事で立派でイイケツなんだからケツサブロウでいいだろ?」

 そう言いながら彼は素早く結三郎の後ろに回り込んで、再び尻を軽く叩いた。

 武市祥之助(タケチ ショウノスケ)――杜佐(トサ)藩のお抱え力士である青年で、先々月に開かれた杜佐藩邸近隣の数藩だけで開催した小規模な相撲大会で、結三郎と対戦して以来――気に入られたのか何なのか。

 結三郎を町で見掛ける度によく絡んでくる様になっていた。

 当然の事ながら、先週の交流大会にも参加しており、総当たり戦での準々決勝戦で当たって結三郎が辛勝した相手だった。

「・・・ッ!!」

 後ろに回り込んだ祥之助の素早さへ咄嗟に反応出来なかった事に結三郎は、相撲取りの条件反射か、一瞬、後ろからマワシを掴んだ相手の手をどうするかという思考が働きかけてしまった。

「今日は寺参りか? もう帰んのか?」

 変わらずにこにこと人懐っこそうに笑いながら、祥之助は結三郎の尻に手を置いたまま話し掛けてきた。

「・・・ッ! 武市殿!! いい加減にしないか!」

 傍から見ると親しい友人達が往来でふざけ合っている様子には見えるものの、当の結三郎にとっては通りの真ん中で尻を叩かれたり触られたりしている恥ずかしさと、何より――先日の大会で晒した醜態の生々しい記憶に、顔は見事な朱色に染まりきっていた。

「ひ・・・ひっ・・・ひひ人のっ!! 人の失敗をっ・・・ッ!人の失敗や恥を、いつまでも!あげつらいからかうというのはっっ! 相撲取りとして、いや、人間としてっ、如何なものなのか!! 杜佐の者は己を負かした相手にそうやって仕返しをするのが礼儀だとでも思っているのか・・・・!!」

「あ~。すまんすまん。悪かったよ。」

 所々裏返った声で祥之助を怒鳴りつけてくる結三郎に、祥之助は一応は申し訳無さそうな表情で、あっさりと頭を下げ謝った。

「俺が悪かったよ。からかい過ぎた。ごめんな。」

 そう言って祥之助は少し爪先立ちになりながら、結三郎の硬く所々癖で髪が跳ねた頭へ手を伸ばし、子供を宥めるかの様に優しく頭を撫でた。 

 背の高い者がそうした動作をすれば様になったのだろうが、祥之助の方が背が低く、所謂ガッチビ体型だったので今一つ決まらなかった。

「そっちの方が背も低いし歳も下なのに何を兄貴ぶっている!」

 祥之助の手を振り払い、結三郎は唸る様に言って祥之助を睨み付けた。

「いいじゃねえかよー。年下と言っても一つしか違わないんだしさー。細かい事気にすんな。」

 祥之助は結三郎の言葉を気にした様子も無く笑い飛ばした。

「詫びにそこの茶店で奢ってやるよ。ここの門前町は最近紅茶出す店が増えたけど、ケツ・・・あ、いや、結三郎殿は紅茶は大丈夫か? 茶菓子も好きな物奢るぜ~。」

 結三郎の返事も待たず、祥之助は強引に結三郎と手を繋ぐと手近の茶店へと引っ張っていった。

「おい、待て。私はもう屋敷に帰らなければ・・・。」

 ぐいぐいと手を引かれるのに逆らって結三郎は立ち止まろうとするが、祥之助の方も流石に相撲取りの端くれで、力強く結三郎の手を引き続けた。

「まだ用事の途中なんだ。おい・・・!」

 渋る結三郎の言葉に祥之助は一旦立ち止まって振り返り、

「何だよー。どうしても急ぎ、とかじゃなかったら少しだけ付き合ってくれよ~。俺の方は早々に藩邸に帰っても爺やが相撲の稽古付けてやるってうるせえから、遅くゆっくり帰りたいんだよ。」

 眉を下げ困った様な表情で溜息をついた。

「? ・・・爺や?」

「あ! いや爺さん! 藩邸の相撲指南役の。小うるせんだよな、年寄のせいか。」

 祥之助の言葉に結三郎は少し首をかしげたが、祥之助は慌てて言い繕い、誤魔化す様にして再び結三郎を茶店の前へと引っ張っていった。

 祥之助の勢いと、紅茶と菓子の誘惑に結三郎は結局ずるずると引っ張られるに任せ、「スエロン舶来紅茶」と幟の立っている茶店の前の長床几に腰を下ろしたのだった。

「紅茶二人分と・・・菓子はええと・・・。」

 店の入り口に掛けられた御品書きを見ながら、祥之助は店の娘に呼び掛けた。

 菓子はどうしようかと祥之助が一瞬思案しかけたところに結三郎は迷わず口を挟んだ。

「芋きんつばで。」

「あ、じゃあ芋きんつばも二人分。」

 店の娘は注文を受けると、茶と菓子を取りに店の中へと引っ込んだ。

 茶を待ちながら祥之助は、まだ少し硬い表情で居る結三郎の方を見た。

「そんなに長居はしないからさ。――あ、後でお前んトコの珍獣園見物もしていくか。何か新聞で見学者歓迎とか何とか書いてたしな。」

 祥之助の言葉に結三郎は少し睨む様な目を向け、

「珍獣園とは何だ、軽薄な! あそこは殿が色々とお考えになり思いを込めてお付けになられた博物苑という名があるんだ。ちゃんと言え!」

「ああ、博物苑、ね。まあでも珍しい生き物が集められてんだしさー。珍なる毛の物、獣、で珍獣・・・」

 祥之助はさして悪びれずに結三郎に軽口を続けようとしたが、結三郎に睨まれ口を噤んだ。

 そこに丁度良く茶と菓子が運ばれてきて結三郎の気も逸らされ、結三郎の表情の険しさも和らいだ様で祥之助はほっと胸を撫で下ろした。

 ――まあ俺はお前さんのチンなる毛の物を見物しても・・・とか何とか口が滑りそうになっていたが、言っていたらまた結三郎が怒りと恥辱に顔を朱くしただろう。言わずに済んで良かったと、祥之助は一応は反省した。

 大振りの湯飲みに満たされた紅茶からは、緑茶とはまた違った緩やかで深みのある香りが立ち上っていた。

 祥之助と結三郎は先に湯呑を手に取り、まだ熱い紅茶をほんの少しだけ口に含んだ。

「うん、美味いな。」

 結三郎は思わずそう漏らし、ほっと息を吐いた。

 険しかった結三郎の表情が緩んだ事に、隣に座る祥之助も微笑みを浮かべた。

「――珍・・・あ、いや博物苑と言やあ、何か暫く前に父・・・あ、いやウチの殿様がそっちの殿様にオナガドリを送ったとか何とか言ってたっけ・・・。」

 律儀に博物苑と言い直し、祥之助はもう一口紅茶を飲んだ。

「あー・・・。あの尾の長い鶏か・・・。」

 結三郎は芋きんつばの皿に手を伸ばしながら、博物苑の展示館の建物で飼われている白と黒の二色の尾羽がとてつもなく長い鶏の姿を思い返した。

 元々杜佐藩ではシャモやチャボ、東天紅といった鶏を品種改良し、羽の美しさや闘鶏での強さを競う文化があった。

 オナガドリもその歴史の中で作り出されたもので、尾の長さが六~七メートルにまで伸び、高齢のオナガドリは十メートル以上伸びる個体も居るという。

 高縄屋敷博物苑では普段は尾が傷まないように専用の籠の中に居てもらい、毎日朝昼夕と決まった時間に食事と運動の為に飼育員――原義通りの鳥飼部の者達の見張りの下で外に出されるという、手のかかる鶏だった。

「・・・結構気性が荒いヤツだったな・・・。」

 芋きんつばを舌の上で転がし、柔らかな甘みと感触を味わいながら結三郎は、博物苑のオナガドリの猛々しい姿を思い出していた。

「へ~? 世話を掛けてしまって悪ィな・・・。」

 自分が寄贈した訳ではないが、祥之助は律儀に謝った。

「え? いや、そこまででは・・・。」

 結三郎は慌てて頭を横に振った。

 気性の荒さは個体差も勿論あるのだろうが、博物苑のオナガドリはなかなか専用籠には戻ってくれず、あちこち飛び回ったり鳥飼部の体のあちこちに嘴で抓り掛かったりと――。

 まあ、確かに祥之助・・・というか送り主の杜佐藩主がちょっと謝る位はしてもいいのではないかという程度には暴れん坊だった。

 そういう日常を送っているせいで、長い尾羽の一本だけが何かの拍子に途中からちぎれてしまっていたが・・・祥之助には取り敢えず黙っておこうと結三郎は思った。

 結三郎がそんな事を考えながら曖昧な笑みを浮かべているのをどう思っているのか、祥之助は結三郎の顔を機嫌良く見返しながら自分の分の芋きんつばを平らげた。

「ここの辺りの店の芋きんつば、同じ店から仕入れてるらしいけど、美味いよな~。店の職人の腕もあるだろうけど、材料の芋の品種もいい奴使ってるらしいな。」

 そろそろ温み始めた紅茶で喉を潤し、祥之助はまだ残っている結三郎の芋きんつばを指し示した。

「お前んトコの殿様が芋の品種改良頑張って、美味い芋を国中に広めたんだろ? たった十年位であっという間に広まったもんなあ・・・。」

 頒明解化前からも随分と長い年月を掛けて、茂日出は飢饉対策になる芋の研究を行なっていた。杜佐藩では様々な鶏が生まれた様に、佐津摩藩では様々な芋が生まれ――頒明解化によってもたらされた神々の知識と技術によってそれは加速し、やっと茂日出念願の美味で病害虫にも強く丈夫で多産の芋・佐津摩芋が誕生したのだった。

「俺がガキの頃・・・不作の年に食わされた芋なんて酸っぱくてぼそぼそして不味かったのになー。それが今じゃ佐津摩芋!なんていうと美味い芋の代表じゃねえか。」

 祥之助のお喋りを聞きながら結三郎も自分の分を食べ終わり、紅茶の湯呑へと手を伸ばした。

 結三郎が自分の話を聞いてくれている様子に、ますます機嫌良く祥之助は話し続けた。

「この芋も美味いけど、佐津摩のイモ侍も美味そうだよなー。塔京じゃイモ侍なんて悪口として言われるけど、俺からすると最上級の誉め言葉だけどなー。」

 祥之助のあっけらかんとした話し振りのせいでそのまま聞き流しかけていたが、一応は佐津摩のイモ侍の一人ではある結三郎は飲みかけていた紅茶を噴き出しかけてしまった。

 何とか無理矢理口を抑え込んで茶を飲み下すと、結三郎は改めて祥之助の方を見た。

 祥之助は結三郎に笑い掛けながら機嫌良く喋り続けていた。

「こないだの相撲大会も、団体戦、佐津摩の選手の連中、美味そうな芋揃いだったし、流石の御国柄だよなー。」

「・・・・・・。」

 結三郎は困惑しながら祥之助の横顔を見た。

 選手が芋で美味そうで誉め言葉で・・・?

 一部の藩では確かに男色の気風が今も残っており、佐津摩の「お稚児様」の様な女性の代わりとか政治的な思惑とかを挟んだ関係もあれば、男同士――いや一人の人間同士、純粋に思い合いお付き合いをするという関係も勿論存在していた。

 杜佐藩も佐津摩に負けず劣らず男色の気風の色濃く残っている藩ではあったが・・・。

 ――杜佐や佐津摩の地元ではない、塔京の町の中でこの様な話題をあっけらかんと口にするというのも如何なものなのだろうか。

 そう指摘するべきかどうなのか・・・結三郎は僅かの間迷い、聞き流す事にした。

「・・・ウチの藩の者達は日々鍛錬に励んでいるからな。相撲も他の武術も真面目に取り組んでいる。次の大会でも杜佐や他の藩には負けない。」

 紅茶を飲み干し、結三郎はきっぱりと言い切って祥之助を見た。

 結三郎の言葉に祥之助も、何処か嬉しそうな笑みを浮かべ、挑みかかる様な強気の視線で結三郎を見返した。

「おう! こっちだって鍛錬は怠ってねえからな。次こそはお前に勝ってやる。」

 相撲の事になると血が騒いでしまうのか祥之助は笑いながらも、今からでも立ち合いを始めるかの様に軽く体を屈め結三郎へと顔を寄せた。

「ちゃんとマワシ締めて待ってろよ、ケツサブロウ。」

「――っっ!」

 祥之助の言葉に、結三郎はまた怒りと恥辱に顔が赤くなるのを感じた。

「あ・・・。」

 あ、やべっ――言い過ぎたと祥之助の顔がそう語っていたが、結三郎は固く口を引き結び、祥之助の顔も見ずに立ち上がった。

 目尻に涙が僅かに滲み始めたのを結三郎は誤魔化す様に、着物の懐から小銭を取り出し――台の上へ、だん!と叩き付けた。

「つ・・・次はちゃんと勝って、その汚名も返上だ!!」

「お・・・おい、すまん!」

 祥之助も立ち上がり本気で青褪めて謝ろうとするが、結三郎は顔も向けず黙ったまま勢いよく駆け出しその場を後にした。


  

 苛立ち任せにひたすら結三郎は通りを走り続けた。

 日々鍛錬している体であっても流石に途中、息も切れ、足の痛みも出始めたが、結三郎はそれらを無視して兎に角走り続けた。

 大勢の前で恥を晒した不浄負けをからかわれる恥ずかしさや悔しさ――それを、大した事は無い、次は勝つさ、と笑い飛ばせない自分の器の小ささ。

 何もかもが嫌になる。

「――っ。」

 ひたすら走り続けた疲労で足がもつれ、結三郎は転びかけた。

 近くの塀に手を突き何とか転ばすに済んだが、一度立ち止まると疲労と息切れは一気に結三郎に襲い掛かってきた。

 暫くの間、塀に寄り掛かったままぜえぜえと荒い呼吸を続け――何とか落ち着き始めると、辺りには人通りも少なく、もう高縄屋敷に近い場所まで戻ってきた事に気が付いた。

 まだ治まらない息切れと足の痛みもあり、もう暫くの間、塀に凭れる様にして結三郎は休む事にした。

 余り周りを見ずに走り続けたせいで、結三郎は屋敷の南側にある正門に続いている大通りの方にやって来ていた。当然の事ながら、高縄屋敷の敷地は広いので北門と南門ではかなりの距離があった。

 ――北門まで回り直すのも面倒なので、南正門から帰ろう。

 結三郎が再び歩きだそうと塀から体を起こすと、そこに追い縋ってくる人影に気が付いた。

「・・・? 武市殿・・・?」

 つんつんと逆立てた短髪は汗に濡れて毛束が固まり、強調されてしまった逆毛は博物苑のハリネズミを結三郎に思い出させた。

 余りの疲労で少し焦点の定まらないままの目で、結三郎の姿を認めた祥之助はふらふらと近寄ってきた。

「・・・や・・・やっと・・・。」

 追い着いた――と言いたかったのだとは思うが、余りの息切れの為に言葉にならずぱくぱくと口を動かすだけになってしまっていた。

 着流しの裾を捲り上げ――走っている内に絡まり合ったのか、褌も見える位の位置まで捲れ上がっていた。

 がっしりと、しかし滑らかな筋肉の張った祥之助の太腿は土埃にまみれていた。上半身の方も着物の袷は大分ずれてはだけており、汗と土埃に汚れた顔や首筋、胸板が結三郎の前に露わになっていた。

 そんな祥之助の姿に、ほんのりと煽情的なものを感じないでもなかったが、それを誤魔化す様に結三郎は少しつっけんどんな物言いで問い掛けた。

「まだ何か用か?」

 結三郎の問いに祥之助は答えようと口を開いたが、まだ息が切れており、そのままその場にへたり込んだ。

 それでも這う様にして結三郎の前までやって来ると、着物の袂から小銭を取り出して結三郎へと突き出した。

「え?」

 すぐには意味が判らず結三郎が首をかしげたら、祥之助は息切れで掠れた声で、

「返・・・す・・・。奢るって言っただろ・・・。」

「ああ・・・。」

 祥之助の言葉に結三郎は合点がいった。

「わざわざ返しに来なくても良かったのに・・・。」

 茶と菓子の代金等たかが知れているのにわざわざ返さなくても――一応は小銭を受け取りつつも、結三郎がそう言おうとしたところで、祥之助は更に着物の懐から結三郎の帽子を取り出した。

「後、帽子! 茶店に忘れてた・・・。」

「あ、ああ・・・。有難う。」

 帽子の事等すっかり忘れていた。結三郎は帽子を受け取ったものの、随分と湿った感触になっている事に訝し気に眉をしかめた。

 結三郎の表情に気付き、祥之助はよろよろと立ち上がりながら言い訳を口にした。

「悪ィ。直に胸元に入れてたから汗で湿気てる。」

 湿気てる・・・というよりは、帽子の布地は結構濡れていた。 

 まあ煎賀久寺からここまで走り続けるとなると距離はあるので、体も帽子も汗まみれになるのは当然ではあった。結三郎の方もまた同様に、着物の下のホワイトシャツはかなり汗で濡れて体に貼り付いていた。

「そ・・・そうか。」 

 結三郎は汗に濡れた帽子を頭に乗せた。

 少し――何かの香辛料を薄めた様な籠った汗の匂いは、祥之助の体の匂いが混じったものなのだろうか。

 何故か、むず痒い様な恥ずかしさに顔が赤らむのを結三郎は感じてしまった。

「・・・汗臭い・・・。」

 そんな今一つ訳の判らない恥ずかしさを誤魔化す様に、結三郎は顔を隠す様に深く帽子を被り直し呟いた。

「すまん! やっぱりちゃんと洗ってから返す!」

 結三郎がまた不機嫌になったものと思った祥之助は、慌てて帽子へと手を伸ばした。

「あ、いや、いいよ! 別に!」

 結三郎もまた慌てて祥之助の手を押さえて止めた。

「そ・・・そうか・・・? でも・・・。」

「大して汚れてもいないし、大丈夫だ・・・。」

 祥之助にそう言って結三郎は押さえた手を緩めた。

 結三郎の手が離れたのを祥之助は僅かの間、名残惜しそうに見ていたが、

「あ、後・・・。本当に・・・申し訳無い。心からの謝罪を申し上げる。ケ・・・あ、いや、不名誉な仇名で島津結三郎殿を呼んで侮辱してしまい、誠にお詫びのしようも無い。」

 改めて結三郎を真面目な表情で見つめ直し、畏まった口上で謝罪を述べ深く頭を下げた。

「えーと・・・その・・・。」

 ここまで固く真面目な謝罪を望んでいた訳でも無かったので、結三郎は戸惑いながら祥之助の下げられたまだ汗で濡れたハリネズミの頭を見つめていた。

 祥之助は暫く頭を下げ続けた後、ゆっくりと姿勢を正し、再び結三郎を見上げた。

「もうあんな仇名では呼ばないし、他のヤツがそんな事を言う所に居合わせたらそいつをぶん殴ってでも黙らせるから!」

 気性の荒い杜佐の相撲取りらしい事を祥之助は言い放った。

「え・・・いやその、そこまではしなくても・・・。」

 祥之助の乱暴な発言に結三郎は思わず身を退いた。

 そんな結三郎を祥之助は少しの間見つめ続け・・・急に顔を赤く染め、僅かに俯いた。

「お、お前・・・いや結三郎殿とはまた、ちゃんと正々堂々相撲を取りたいから・・・。その・・・。」

 言い続ける内に祥之助の顔はどんどんと俯いていき、顔の赤みも増していった様だった。

「その・・・嫌な気持ちのままとか、力み過ぎたままの気持ちのままで試合に臨んで欲しくはないっていうか・・・その・・・。外来語で言う所の「べすとこんじぃしょん」というか何と言うか・・・。」

 要はきちんと謝罪をしてわだかまりを無くして、心身共に万全な状態で相撲の試合をしたいという事なのだろう。 

 祥之助の真摯な気持ちに結三郎は思わず微笑んだ。

「判り申した。島津結三郎、武市祥之助殿の謝罪を受け入れよう。次回の試合も、正々堂々全力で立ち合いましょうぞ。」

 結三郎もわざと堅苦しい口上で祥之助の謝罪を受け入れた。

 結三郎の言葉に祥之助は思わず顔を上げ、嬉しそうに表情を緩ませた。

 結三郎は祥之助ににやっと挑む様に笑い掛けながら、

「ま、次も俺が勝つけど。」

「言うねえ~。」

 結三郎の言葉に祥之助もにやりと笑い返した。

 


 それからもう少しの間だけ小休止を挟み、疲れが幾らかはましになった所で結三郎と祥之助は共に歩き出した。

 余所の藩邸の塀沿いに松並木が整えられた大通りを歩き、暫くすると高輪屋敷の南正門へと戻ってきた。

 二階建ての屋敷程の高さもある瓦葺の屋根を太い門柱が支え、そこには「佐津摩藩高縄邸」と書かれた看板が掲げられていた。

 大きな鉄の外枠と鋲とで補強された分厚い樫の門扉は固く閉ざされ、その前には常駐の門番が二人立っていた。

「それじゃ、また。」

「おう。」

 結三郎が別れを告げ、祥之助が頷いたところで、結三郎は門扉の横の通用門へと向かった。

「お帰りなさいませ。」

「うん、ただいま。」

 門番に挨拶をし、通用門を潜ろうとしたところで、

「結三郎様・・・。その・・・こちらの御方は?」

 門番の若者の困惑した表情が結三郎の目に入った。

「へ?」

 門番が目線で示す方を振り返ると、何食わぬ顔で結三郎の後ろに付き従っている祥之助の姿があった。

「え? 何で? 帰るんじゃなかったのか?」

 結三郎が尋ねると、祥之助は意外そうな表情で答えた。

「え? 何で? 珍・・・博物苑の見学するって言っただろ? まだ日も高いし、今帰ったら絶対稽古させられるからなー。」

 へらへらと笑いながらそう言う祥之助を、結三郎は通用門の外へと押し返した。

「さっさと帰れ。稽古、いい事じゃないか。次は佐津摩を負かすんだろ? 鍛錬も無しに勝つ等、俺も皆も弱くはないぞ?」

 結三郎に押されるままの姿勢で、祥之助は胸を張り、相撲の稽古の様な体勢で足を踏ん張った。

「まあそれはそれ。たまには気分転換も必要だろ。あ、そうだ! 寄贈したオナガドリの視察! 杜佐藩主代理で・・・みたいな?」

「・・・・・・。」

 先刻の、いい感じに試合への熱い思いを交わし合った風な遣り取りは何だったのか。

 折角の良い雰囲気だった余韻が何となく台無しになった様な気持ちを感じながら、結三郎は呆れた眼差しで祥之助を見た。

「――こちらは杜佐藩お抱え力士、武市祥之助殿だ。私の客人として博物苑の見学に連れてきた。」

 呆れた表情と何処かくたびれた様な口調で、結三郎は門番の一人にそう告げた。

「かしこまりました。」

 結三郎と祥之助の遣り取りに苦笑を噛み殺しながら、門番は懐から手帳と鉛筆を取り出して祥之助の事を書き付けた。

 二人が南正門から敷地内に入ると、来客用に整えられた玉造のツツジやツゲの続く道が屋敷の正面玄関へと続いていた。

「へ~。高縄屋敷ってこんなんなってんのか~。」

 祥之助は結三郎の後を歩きながら、物珍しげにあちこち見回した。

「武家屋敷なんて何処も似た様なもんじゃないのか? ――あ、こっちだ。」

 結三郎は正面玄関には行かず、脇道に逸れて敷地の北に向かう通路へと足を向けた。

 暫く歩き続けると、いつもの「博物苑」の看板の掲げられた庭門へと戻ってきた。

「――お出掛けでしたか。」

 庭門から出て来た鳥飼部の青年と丁度出くわしたので、結三郎は祥之助を指し示し、

「すまないが、少しの間、苑の案内を頼む。私の客人だが、少し殿・・・あ、いや、義父上に用事があるので・・・。」

「かしこまりました。」

 鳥飼部の青年が応えると、結三郎の横に居た祥之助は不満気な声を上げた。

「ええ~。一緒に回るんじゃないのか?残念。」

 わざとらしく口先を尖らせ、祥之助は結三郎を見上げた。

「――茶代を奢ってくれたお礼に後で案内してやるよ。殿の用事があるんだ。・・・というか、そもそも煎賀久寺で、用事があるから帰るって言ってなかったか!?」

 結三郎の語気が強くなりがちな事も気にした様子も無く、祥之助は呑気に笑った。

「あー、何か言ってたな。そういや。」

 その様子に多少イラッとしながらも、結三郎は用を済ませるべく鳥飼部の青年に祥之助を押し付け――いや、任せてその場を離れた。

「用事済ませて早く来いよ~。待ってるぜ。」

 嬉しそうに片手を振りながら祥之助は結三郎を見送った。



 結三郎はやや急ぎ足で奥苑の屋敷の中に入り、先程の広間に戻った。

 その片隅では小振りなテーブルを二つ並べた所に茂日出を中心にして、年嵩の鳥飼部の者達や先程のダチョウが、何かの書類や金属板の映す資料を見ながら話し合いを行なっていた。  

「戻りました。迷い人は無事送り返しました。」

 結三郎が声を掛けると、彼等は話しをやめ振り返った。

「うむ。御苦労であった。」

 茂日出が応え、また難しい顔で手元の映像へと目を落とした。

 茂日出達に会釈して自分の荷物を更衣室へと戻しに行こうとすると、鳥飼部の一人が結三郎を呼び止めた。

「結三郎様、ついでですから端末板をこちらに。丁度良いので今日の迷い人の情報も早速追加しておきます。私が後で板は片付けておきます。」

 そう言われ、結三郎は和綴じ本のまま取り出して鳥飼部へと手渡した。

 どうやらこの話し合いは空間の歪みや穴についての様だった。

「――全くもって器の小さいものよ。神と名の付くくせに人間みたいにセコセコ嫌がらせを仕込みおってからに・・・。」

「まあまあ殿。それによって一面では我々もまた得た知識を元に切磋琢磨出来ており・・・。」

「――これについてはやはり、帝がお書きになられた論文の通り、敢えて何処かの世界と時空の小規模な穴を繋いで維持する事で、他の穴開きを減少させるという・・・。」

「しかし元々我々に下された技術では燃費が悪い。嫌がらせの一環だしな。証宮(あかしのみや)の起動を考えると、せいぜい人一人這って出入りする位の穴の維持が・・・。」

 彼等はまたすぐにテーブルの資料へと目を落とし話し合いに戻り、意見交換に没頭し始めた。

 義父達の話し合いの邪魔をしない様に、結三郎はそっと頭を下げてからその場を去った。



 更衣室で元の作務衣に着替えようと思ったものの、書生服は――いや、自身の体も汗と土埃で結構汚れていたので作務衣が汚れてしまう、と、着替えるのをやめにした。

 結三郎は書生服のままで祥之助の所に戻る事にした。

「いってぇぇぇぇっ! クソ! 爪立てんなっっ!!」

「ああああっ、駄目です! 武市様! そのまま動かずにっ!!」

「皆様、彼の頭上に止まっているのが、杜佐藩主・曽我部様から先日贈られたオナガドリでございます・・・。」

 奥苑の金属扉から外に出て暫く歩くと、鳥小屋の並ぶ広場の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。

 結三郎が広場までやって来ると、背の低い竹垣で囲われた中の芝生で、顔や腕に引っ掻き傷や抓られた様な跡を作った祥之助が不機嫌そうに立っている様子が目に入った。

 その頭上には、堂々とした様子で心持ち踏ん反り返っているかの様な姿のオナガドリが乗っていた。

 その横ではオナガドリ担当の鳥飼部が、慌てながらも丁寧な手付きで長い長い尾羽を巻き取っていた。

 今日の散歩の時間は終わり、もう籠に帰る刻限なのだろう。それを嫌がって暴れ回っていたのだろうという事は結三郎にも簡単に予想が付いた。

 祥之助と鳥飼部の様子を、竹垣の外から何人かの華やかに着飾った打掛姿の少女達が御付きの侍女達と共に面白そうに眺めていた。

 そう言えば今日は午後から何処かの藩の姫君達が見学に来ると言っていた。結三郎は奥苑の仕事やらその後の祥之助との事やらで、すっかり忘れてしまっていた。

 尾羽を巻き終わる頃には見学の姫達は次の場所に移動していき、後にはオナガドリが頭上に陣取ったままの祥之助達が残っていた。

「早く下ろしてくれないか・・・。」

 巻いた尾羽を手にしたままオナガドリの機嫌を読み取ろうと身構えている鳥飼部に、祥之助はひきつった笑いを浮かべつつ呼び掛けた。

 オナガドリの爪が相変わらず頭皮に食い込んでおり、血こそ出ていないものの結構な痛みがあった。

「杜佐の者が懐かしいのではないのかな。」

 少しわざとらしい口調でからかう様に言いながら、結三郎は祥之助たちの所へとやって来た。

 結三郎がそっとオナガドリの体を抱え上げると、意外とすんなりと手に収まり祥之助の頭から下ろされた。

 一通り暴れて落ち着いていたのか、オナガドリはもう大人しくなっており結三郎から鳥飼部へと手渡されても静かな様子だった。

 何とか今日も無事に捕まえる事が出来た事に安堵の息を大きく吐いた鳥飼部は、結三郎達に頭を下げてオナガドリの機嫌が変わらない内に鳥籠の置いてある展示館へと去っていった。

「あー、酷い目に遭った~。」

 まだ爪の痛みがずきずきと残る頭を摩りながら、祥之助は少し恨めしそうに結三郎を睨んだ。

「血は出ていない様だぞ。」

 結三郎は祥之助の頭に手を伸ばし、逆立てられた髪の毛の間を掻き分けた。

「そうか・・・。まあ傷が無いならいいけど。」

 祥之助は髪を掻き上げて軽く整え直すと、

「よーし、気分を直して仕切り直しだ。ちゃんと案内してくれよ。「動物園デエト」ってやつだな。」

「デっ・・・!?って・・・。」

 最後に発された外来語交じりの言葉に結三郎は思わず声を上げた。

 結三郎が「動物園デエト」の事を判っていないと祥之助は思った様で、少し得意そうに説明を始めた。

「こないだ藩邸で読んだ「証宮新報」という新聞に載ってたぜ。珍しい動物とかを飼っている所に連れ立って出掛け、御互いの親睦を深めつつ動物の知識も学びながら・・・とか何とかいう行楽の一種らしいぜ。」

「・・・そ、そうか・・・。」

 祥之助の説明に結三郎は曖昧に笑い返した。

 「証宮新報」というのは帝の直属の部署で発行している一般国民向けの新聞だった。

 頒明解化後は、神降ろしによってもたらされた様々な知識の普及の手段の一つとして、新聞や雑誌は多数発行されていた。

 神々からの知識は高度な知識や技術だけでなく、ちょっとした生活の知恵とか新しい娯楽に関する物等、実に雑多で様々な分野に及んでいた。

 帝直属の部署が発行しているという割に、「証宮新報」は、美味しい菓子の作り方とか、逢瀬にお勧めの景勝地と言う様な、俗事についてもかなりの量の記事が書かれていた。

 ――「デエト」って・・・。曖昧な記憶ではあったが、何か色気を含んだ意味合いじゃなかっただろうか。

 結三郎はそれを指摘したものかどうか迷ってしまったが、絶対判っていなさそうな様子で得意そうにしている祥之助を見ると、それも躊躇われた。

「――えーと・・・・・・、オナガドリの前は何処まで案内してもらったんだ?」

 また次の機会にデエトについての指摘はする事にして、結三郎はひとまず目の前の竹垣を跨いで通路へと出た。

「そこのオオハシだとかインコだとかの鳥小屋までだな。」

 祥之助の答えに結三郎は、鳥小屋と反対側の区域へと歩き始めた。

「じゃあ、次はこっちのプレーリードッグとかハリネズミの小動物の・・・。」

「ああ。頼むぜ~。」

 楽しげに祥之助も竹垣を飛び越えると、結三郎の横に並んで小動物の獣舎の並ぶ区域へと歩き始めた。

 


 やがて日も傾いていき、薄青い陰の混じる茜色の空を背に、博物苑の敷地に植えられた楠や椎の大きな幾本もの古木は影を纏い始めていた。

「随分と長居したものだな・・・。流石に・・・そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」

 のろのろと歩くリクガメの上に、何処からか迷い込んだまま博物苑に居着いてしまっていた柴犬の仔が座っている様子をだらだらと眺めている内に、気が付けばもう夕暮れの時刻になってしまっていた。

 流石の結三郎も、咎め立てる様な口調で隣に立つ祥之助へと呼び掛けた。

「そうだな・・・。いやすまん。楽しくて時間を忘れちまった。流石、帝の勧める「動物園デエト」は凄えな。」

 祥之助は申し訳無さそうに頭を下げた。

 別に帝が「動物園デエト」を勧めている訳では無かったとは思うが――。

 結三郎はそう指摘したかったが、折角楽しそうに過ごしていた祥之助に水を差すのも悪いと思い、口には出さずに済ませた。

「まあ、それにこれで随分とお前とも親睦が深まったと思うし。流石、帝が勧める「動物園デエト」だよな。」

「えっ・・・。」

 祥之助の直截な物言いに結三郎は思わず傍らを振り返った。

「今日は色々あったが、楽しく締め括れそうで良かった。・・・楽しかった・・・よな?」

 薄赤い夕暮れの光の差す中で祥之助は結三郎に笑い掛け――たものの、急に、独りよがりな物言いになっていなかったかと不安になり結三郎を見上げた。

 祥之助のそんな表情が年齢の割に何とも子供っぽく見えたが――決して不快な気持ちではなかった。

 まあ、茶店でのケツサブロウ呼ばわりからの全力疾走については、まだ完全には気持ちが落ち着いたという訳ではなかったが――終わり良ければ全て良し、としてもいいと結三郎は思った。

 先々月の相撲大会以来のまだまだ浅い付き合いでしかなかったが・・・結三郎は、この他藩の対戦相手を、友人として好ましく思う程度には心を許し始めていたのだった。

「ああ。楽しかった。また稽古が休みの時にでも見学に来るといい・・・。」

「おう! また頼むぜ。」

 結三郎の言葉に祥之助はほっと息を吐き、嬉しそうに頷いた。

 南正門まで見送ろうと結三郎が歩き出そうとしたところで、不意に――遠くからホラ貝の音が響いてきた。

 少しの間何度かホラ貝が吹き鳴らされ――尺八や筝等を吹く音が続いた。

「麻久佐(アサクサ)の方からだな。アレだろ?証宮(アカシノミヤ)の警報だろ?」

 祥之助が麻久佐と思しき方角を見た。

 木々の茂みや屋敷の塀に阻まれてはっきりとは判らなかったが、夕暮れの空に薄淡く白い光の柱が聳える様子が微かに見えた。

 証宮離宮殿(あかしのみや りきゅうでん)・・・帝が塔京に遷都した際に建立された、神降ろしの儀を行なう塔。

 神降ろしの儀を行う際には国土や近海の地下を流れる大地の霊力を汲み上げ、塔の機巧を起動させ働かせる必要があるが、その際に毎回必ずという訳ではないものの地震が起きる事が多かった。

 このホラ貝や尺八等で吹き鳴らされる音は、人々に地震に備える様にという警報音だった。

「そうだな・・・。また地震に気を付けなくてはな・・・。」

 結三郎は何処か硬い表情で、薄淡い光の柱を見ていた。

 結三郎も一応は関わっている博物苑の奥苑の秘密の仕事は、証宮離宮殿の運営にも関わりのある事だろうと薄々は感じ取っていた。

 ――無知蒙昧の闇にあがく、神ならぬ身の人間達へ、知恵の恵みをもたらそうと願って建立された塔。

 知恵の恵みをもたらす神々の降り立つ依代として、塔京の町にその威容を示し聳え立つ塔。

 この警報の後に執り行われる神降ろしの儀で、今度はどの様な知識の恵みがもたらされるのだろうか。

「――地震の来ない内に帰ろう。」

 結三郎は薄く光る柱から視線を外すと、祥之助を促して南正門に歩き始めた。

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 日々集中力体力生命力色々と低下しているオッサンにしてはかなり頑張りまして後編も書き上げる事が出来ました。

 あ、ついでに前編の冒頭部分も追加したりして書き直しました。主人公達の描写とは関係ない部分ですが、前編冒頭と後編末尾で証宮離宮殿の塔の表現を対応させてみたかったので・・・。

 取り敢えず、徹頭徹尾アタシがまず楽しむ事が一番の、相撲取りガチムチホモ男子和風ファンタジー小説でございます。2話以降のネタメモもちまちま書き留めてはいるのですが、なかなか大きなエピソードは出て来なくて、小ネタばかりを思い付いてしまって。

(相撲取りの絵姿を、最新印刷機で量産したり、モデルを頼まれて何やかや、とか。主人公に告白する屋敷の侍が、機会的同性愛ではなくちゃんと雄同士でオッスオッスなお付き合いしたい「拙者、女人に勃起した事なぞ生まれてこの方あり申さぬ!!」とか何とか。)

 小ネタを活かしつつ、何とか自分が楽しめる物語を頑張りたいと思います。 

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