第一話ひとつめ、しるすこと 「結三郎の日々の仕事に就いて記す事(前編)」

第一話ひとつめ、しるすこと

「結三郎の日々の仕事に就いて記す事(前編)」


 日之許(ヒノモト)国、塔京(トウキョウ)。

 頒明解化の為に帝が冠東(カントウ)の地に遷都を行なってから十年が経っていた。

 その間に少しずつではあるが広い道が通り、多くの建物が建ち並び、そこに住む人々も増えていっていた。

 そうした町の一つ、領石(リョウゴク)は今日は特に人々が行き交い、賑わっていた。

 そんな領石に建設されたばかりの相撲場――人のいない前日までは柱や屋根から真新しい爽やかな木の香りが漂っていたが、大会が開かれ大勢の人が詰めかけた今日は試合に臨む男達の汗の匂いで満ちていた。

「おうおう、賑わってるねぇ。」

 相撲場の前の大通りに焼鳥や酒の屋台を出している老人が楽しそうに、同じく楽しそうな人々の様子を眺めていた。

「今日は大儲け出来そうだな。こんだけ人が来てるとなりゃぁ。」

 隣の蕎麦の屋台を出している中年男も満足気に隣の老人に相槌を打った。

 彼等の眺める大通りのすぐ向こうにある相撲場の入口には、「日之許国 諸藩交流相撲大会」と大きく書かれた看板や垂れ幕があった。

 帝も上覧し身分問わず腕自慢が出場する全国大会には規模が劣るものの、未だ娯楽が多くはない御時世。人々に古くから親しまれ好まれてきた相撲の大会とあって観客席が満員なのは言うまでも無かった。

「まぁ~何だな。俺等みたいな屋台商い者はこういう催し物は、休みでも取らねぇと見らんねぇもんだと思ってたけどよお。」

 客足が一旦収まり、蕎麦屋の男は手拭いで汗を拭って大きく息を吐いた。

 同様に焼鳥屋の方も、何本も買い込んだ家族連れが次の試合が始まるというので慌てて去っていき、小休止が出来る様だった。

 焼鳥屋の老人は売り物の一本を蕎麦屋に差し出し、相撲場の正門近くへと目を向けた。

「そうそう。なのに、俺等も多少はこうして試合を楽しめるってなもんだ。学問の事ぁわかんねぇが、こうやって試合を楽しめるんなら帝様の言う頒明解化とかいうのも悪くねぇなあ。」

 人の溢れ返る相撲場の正門のすぐ近くには、中で行われている試合を映し出す巨大な銀幕の機械が幾つか設置されており、相撲場には入れなかった多くの者達も試合を楽しむ事が出来る様になっていた。

「そんならオヤッサン、銀幕とやらを見る前に麻久佐(アサクサ)のあの証宮(アカシノミヤ)とかいうでっけぇ塔を拝んでからにしなきゃなあ。」

 領石から程近い麻久佐の町に神降ろしの儀の為の塔――証宮離宮殿(アカシノミヤ リキュウデン)が、今日は良く晴れた青空に高く高く伸び、その白亜の威容を示していた。

 日の光を受けて白く輝くその表面は石材の継ぎ目も殆ど見えず、そうした滑らかな表面の円柱が数百メートルもの高さの塔として聳え立っていた。

 塔の先端に近い部分にのみ丸い傘を逆さに開いた様な皿状の物体が被せられる様にしてあり、そこから先端迄の数メートルだけが細く槍の様に尖っていた。 

 そうした姿の白亜の巨大な塔は、太古の時代の巫女や呪術師が行なっていた様な、人間よりも高次の存在を現世へと降ろし、そのお告げを聞く――そんな神降ろしの儀式を、最新の機械と呪術とを融合させて執り行なう場所だった。

 そうした塔と、その麓の図書館や諸施設から成る証宮離宮殿は、名前の通り当代の帝の離宮としての役割も持つ場所だった。

 だが、施設のそうした事情はまだ多くの庶民が充分には理解する事は出来ていなかった。

 ただ何か有難い、役に立つ神々からのお告げを神官である帝へと下される凄い場所――その程度の認識でしかなく、当代帝の目指す頒明解化はまだまだ道半ばだった。

 ――焼鳥屋や蕎麦屋だけでなく、多くの人々が食い入る様に見つめている銀幕の中では、須留賀(スルガ)藩と吾羽(アワ)藩の対戦が終わり、両方の選手が土俵から下りていく所が映し出されていた。

「西! 佐津摩(サツマ)藩。島津結三郎(シマヅ ユウサブロウ)。東・・・。」

 次の試合の選手を呼び出す審判の声が響いた。

 ろくに汗も拭かず、マワシを充分に締め直す余裕も無く、土俵だまりの控え席に腰を下ろしたばかりだった結三郎は、まだ整い切らない呼吸を無理矢理治めて立ち上がった。

 坊主から二、三センチ程伸びた様なゴワゴワと硬い短髪は、朝から続く試合のせいでびっしょりと汗に濡れていた。

 目鼻立ちのはっきりした男らしい・・・しかしまだ少し幼さの残る丸顔に、海苔眉とからかわれる時もある凛々しい太眉。

 それ程背は高い訳ではなかったものの決して低いという訳でもなく。決して脂肪ではなく筋肉によってどっしりとした厚みを持ち、しっかりと鍛えられた体は日頃の厳しい鍛錬の成果を示していた。

 だがその体も激しいぶつかり合いにあちこちが赤く腫れ、締められた白いマワシも汗と土で黄ばんで汚れてしまっていた。

「構えて――手をついて待ったなし。」

 審判の声に従い結三郎は仕切り線の前に立ち、相手の選手から目を逸らさず体を屈めた。

 諸藩交流の為の大会である、と、大会の名前は比較的和やかな響きを持たされており、優勝への過度な競争心の煽り立ても帝から禁止されてはいた。

 出来るだけ勝利の名誉を分散させようという配慮もあり、「総当たり戦」「団体戦」「体重別個人戦」等、部門別に優勝者が出る様にと試合内容が分けられていた。

 しかし優れた結果を出して藩の名誉を高めよ、という藩の上層部からの重圧は全く無いという訳では無かった為、出場選手達は皆、何処かしら殺気立ち苛立った雰囲気が見えていた。

 結三郎もそうした大会の雰囲気に緊張し続け、精神的な疲れも重なっていた。

 それでも何とか結三郎は総当たり部門を必死で勝ち進み、これを勝てば次は優勝決定戦という所までやっと辿り着いた。

「――はっけよい!!」

 審判の声と同時に頭から相手へと結三郎は突進した。

 相手が体を僅かに逸らし、結三郎の頭突きを躱し様にマワシへと手を突き出した。

 結三郎もまた足を踏ん張って体勢を保ちながら、相手のマワシに素早く掴みかかった。

 気が緩んでいたという訳ではなかったが、疲れと緊張で集中力は低下していたのだろう。ろくに汗も拭かず、マワシを充分に締め直す事も無く次の試合に臨んでしまった――。

「――あ・・・。」

 掴んだマワシの手応えが、妙に間延びした感触だった事に相手の選手は思わず戸惑いの声を上げた。

 その違和感は勿論、装着している当の結三郎も感じた事で――

「――待った待った!! 不浄!! 西、不浄負け!!」

 その日、結三郎は相撲取りとして、多感な若者として、一生の不覚を取ってしまったのだった。



 塔京、高縄(タカナワ)にある佐津摩藩別邸。通称高縄屋敷。

 ここは前藩主、島津茂日出(シマヅ シゲヒデ)が隠居後、塔京で生活をする為に整備された屋敷だった。

 島津結三郎は茂日出の、藩主の継承権の無い養子ではあったが一応の家族として、共に高縄屋敷で生活をしていた。

 身分差を普段は気にしない茂日出の意向もあり、結三郎は屋敷で働く者達と共に共同食堂で食事を取る事が習慣となっていた。

 が、今回の交流試合での敗北の後は、大変な恥辱と苦痛を感じながら食事を取る日々となってしまっていた。

 屋敷の者達との関係は決して悪い訳ではなく、むしろ結三郎と親しく遣り取りする者達の数の方が多かった。茂日出の血の繋がらない、しかも継承権の無い養子だからと侮られる事も無く、実力の伴った藩のお抱え力士として憧れの目を向けられる事も多かった。

 だからこそ・・・先週の交流試合での不浄負けは、結三郎の心に消し去り難い羞恥心と申し訳無さを刻んでしまっていた。

 気遣いから結三郎へは声を掛けずに若侍や下働きの者達が食事を続ける中、早々に食べ終えた結三郎は、顔を伏せたままそそくさと食堂から立ち去った。

 廊下ですれ違う女中や中間達に顔を上げる事も出来ず、足早に自室に戻るとそのまま敷きっぱなしの布団の中へと倒れ込んだ。

 あの試合以来一週間が経っていた。が、結三郎はまだ屋敷の者達の顔をまともに見る事が出来ないでいた。

 これが普通に全力を出して試合に臨み、それでも負けてしまったのならばここまで恥じ入る事は無かった。

 不浄負け――取り組みの最中にマワシが解ける等して陰部が露出した事による負け判定。

 しかもそれは反則負けという判断をされる。

 大勢の、大観衆の見守る中で自分の陰部が晒された事と、試合の上では反則行為を行なったと見做されてしまった事――。

 正々堂々全力を出し切る事が身上の佐津摩の相撲取りにとっても、十九歳のまだ青年と言っていい多感な年頃の若者にとっても、それは耐え難い恥だった。

「うう・・・。」

 いつまでも頭の中から消えてくれない不浄負けの光景に、思わずまた涙が零れてしまいそうになり、結三郎は頭から布団を被った。

 大恥をかいてしまって皆に合わせる顔が無い――。

 ――いやあ、見物だったぜ。マワシが解けてぷりっとしたケツが見えたんだ。

 ――あの方のケツはイイよなー。こう、ぷりっとしつつガシッとしてて。これから四股名はケツサブロウだな。

 屋敷の者達の多くは同情的ではあったが、一部の柄の悪い門番や使用人の中にはからかい混じり、苦笑混じりに、「結」の字と尻のケツを掛けて、ケツサブロウだと囃し立てる者も居た。

 結三郎も実際に、敷地内の通りすがりに彼等がそう喋っている声が意図せず聞こえてきた事もあった。

 馴染みの使用人達や、友達――というには身分差の問題があるが、気安い間柄の屋敷仕えの若侍達も一生懸命慰めてくれるものの、なかなか結三郎の気持ちは持ち直す事は出来なかった。

「うううううう・・・・。」

 布団の中に潜り込んでも、いつまでも恥ずかしく苦しい気持ちは去ってはくれず、結三郎は涙を堪える様に唸り続けた。



「――結三郎様。御時間でございますよ。」

 いつの間にかうとうとしていたのか、障子の外に控える鳥飼部の者の声にはっとして結三郎は体を起こした。

 結三郎の立場は養子とはいえ前藩主の息子であり、実子達は主として国許で藩の政治を行なっている為に高縄屋敷には居らず、この屋敷では一応は二番目に偉い身分ではあった。

 しかし働かざる者食うべからずという前藩主・茂日出の教育方針もあり、佐津摩藩お抱え力士としての日々の鍛錬や試合への出場と、もう一つ――学問を奨励する茂日出の助手として屋敷の敷地に設置された博物苑で働く事が結三郎の仕事となっていた。

「ああ。今行く。」

 まだ少し目覚め切らない頭を軽く振り、ゆっくりと立ち上がった。

 普段着の藍色の作務衣は昨日から着替えていなかったが、これから汚れるのだからこのままでいいだろう。

 そう考えながら結三郎が障子を開けると、控えて座っていた白い作務衣姿の小柄な坊主頭の少年・安吉(ヤスキチ)がほっとした様子で結三郎を見上げてきた。

「手数を掛けた。本当はちゃんと時間通りに出るつもりだったんだ・・・。」

 結三郎は迎えに来た安吉に言い訳めいた言葉を掛けると、連れ立って屋敷の北にある勝手口へと向かった。

 先週までは結三郎は自分できちんと時間を守り、仕事の時間になると出勤していた。

 しかしあの試合の翌日から二日間は恥ずかしさの余り自室にずっと閉じこもってしまい、助手としての仕事も休んでしまったのだった。

 茂日出も流石に気の毒がり、殊更には咎め立てはしなかったものの、仕事を勝手に休んだ事については結三郎に注意を行ない、二日間は食事抜きの罰を与えた。

 羞恥の余り食事も喉を通らなかった結三郎にとっては、この罰は余り罰にはなっていなかったが。

「――そう言えば今日は昼過ぎから三組、博物苑表苑の見学がございますね。」

 北の勝手口の引き戸を開け、安吉は結三郎へと道を譲った。

「そうだったな・・・。沙賀美(サガミ)藩と嘉数沙(カズサ)藩と・・・後何処だったか。姫君達の「ピクニック」とかいう外出だったっけ。」

 彼の話に結三郎は先月読んだ新聞の記事を思い出していた。

 頒明解化でもたらされた神々の知識は高度な科学や技術に関するものだけではなく、雑多で多様な娯楽に関するものもあった。

 弁当を持って外出し、珍しい動植物を見学するという娯楽についての記事が書かれた事により、結三郎達の仕事が少しだけ増えてしまったのだった。

 


「おはようございます。」

「――おはようございます。」

 丁寧に手入れされた和風庭園の玉砂利敷きの通路を進み、薄緑色の作務衣に身を包んだ庭師達と挨拶を交わしながら結三郎と安吉は北の敷地の入り口へとやって来た。

 簡素な竹垣が巡らされた一角に小振りの茅葺の庭門があり、門の横には「佐津摩藩 博物苑」と太い筆文字で書かれた看板が掛けられていた。

 これが結三郎と鳥飼部達の仕事場である博物苑の出入り口だった。

 この高縄屋敷の北――というより地図で言う所の高縄屋敷敷地内の上半分が、全て博物苑として使用されていた。

 古今の書物や学術的価値のある物品を収集保管する建物や、国内外の動植物を飼育・栽培する獣舎や畑があり、主である茂日出によって「博物苑」と名付けられ運営されていた。

 元々は先々代藩主の時代に冠西(カンサイ)の京で国内外様々な種類の鳥を飼う事が流行し、その時に冠西の藩邸に設置した鳥小屋用の敷地が、茂日出が藩主になった時に博物苑用に拡張された。

 十年前の帝の冠東への遷都の際に、学問の研究で親しく交流のあった帝に付いて行く形で茂日出は藩主の座を息子に譲った。

 隠居後の学問や研究を行なう為の屋敷を高輪に整備するという目的で、敷地の構造はそのままそっくりにして塔京の高輪へと移転したのだった。

 冠西藩邸当時の鳥小屋の話に戻るが――先々代藩主の時代は、武芸・武道以外のものには価値を見出さないという佐津摩藩の気風が大変強かった。

 帝におもねり京の流行に追随する他藩の軟弱さよ、と、他藩が色鮮やかな鳥や鳴き声の美しい鳥を競って飼う中で、佐津摩藩は藩邸の食料調達の一環として敢えて国内外から様々な種類の鶏を取り寄せて飼育したのだった。

 その当時の飼育係を「鳥飼部」と呼称した名残で、現在の博物苑で働く者は動物の飼育員も庭園や畑の庭師も、展示館内の学芸員も全て「鳥飼部」と呼んでいた。

「――よし。この道筋で午後は案内を頼む。」

「――餌遣り体験はここのウサギ園で、その後の・・・。」

 庭門から入ってすぐの所で、何人かの白い作務衣姿の鳥飼部の青年達が書類や帳面を片手に、あれこれ打ち合わせしている声が結三郎達に届いた。

 彼等は結三郎の姿に気付くと軽く頭を下げ、また打ち合わせを続けた。

「さっきの話の午後の見学の準備か・・・。」

 結三郎は溜息をつきながら安吉と歩き続けた。

 藩の姫君達のあくまで個人的な外出とはいうものの、他藩の姫達に粗相があっては佐津摩藩の評判に関わってしまう為、万一の失敗も無い様にと鳥飼部達は念入りに打ち合わせを行なっていた。

 庭門を入って暫くの区域・表苑は部外者への展示場としての役割もあり、薬用植物の内で綺麗な花の咲く物や葉の形や模様の面白い物を花畑の様に植え込んだり、気性の大人しい小動物と触れ合える様に小さく柵で囲った場所を設置する等の工夫がされていた。

 初めて来る見学者の殆どが、未だ垢抜けない武一辺倒の佐津摩の野蛮人達よ、と、身構えつつやって来るが、こうした博物苑の作りによって帰る頃には先入観も消え、触れ合い用の小動物や小鳥の虜になる者も多かったのだった。



 表苑と更に奥の敷地の奥苑と呼ばれる区域の境目には茅葺屋根の大きな民家風の建物があり、そこが鳥飼部達の詰める事務所となっていた。

「おはようございます~。」

「おはよう。」

「今日もよろしく~。」

 結三郎と安吉は慌ただしく出入りする鳥飼部の者達に挨拶を交わしながら、引き戸をくぐって中の土間に入った。

 入ってすぐの柱に引っ掛けられた棚から自分の分の「タイムカード」を引っ張り出すと、柱の前の台に置かれた絡繰り時計「勤務管理時計」へと差し込んだ。

 すぐにカランッ、ジャッと中の歯車が動く音がして、出勤時刻が印字された「タイムカード」が吐き出された。

 これもまた頒明解化によってもたらされた仕事に関する知識の中から導入されたものだった。

「えーと、今日の仕事は・・・。」

 安吉が自分と結三郎の「タイムカード」を棚に戻しながら、土間の壁に設置された掲示板に目を向けた。  

 大きな枡目で一覧表が作られ、そこに鳥飼部達の名前と日付、その日の仕事内容が書き連ねられていた。

 安吉と結三郎の今日の仕事は、小鳥小屋の餌やりや掃除から始める様にと書かれていた。

「申し送り特に無し。注意事項特に無し。仕事はさっさと終わらせてメシ食いに行きましょう~!」

「さっき朝飯食ったばかりだろ。」

 申し送り用の帳面をめくり終え、安吉が明るく声を上げると、結三郎は苦笑しながら戸棚から掃除用具を取り出した。

 バケツに塵取り、箒に雑巾・・・と二人分を結三郎が持ち、安吉は記録用の帳面と鉛筆を手に持ち場に向かった。

「いつも申し訳ありません。仮にも若様に重い物を・・・。」

 結三郎の傍らで恐縮しながら安吉は頭を下げた。

「気を使わなくてもいいよ。殿・・・いや義父上もいつも適材適所と言ってるじゃないか。それに鍛錬も兼ねてるし。」

 結三郎は気にした風も無く笑った。

「体質なのかなかなか皆様の様には体が育たなくて・・・。殿様の言う通りしっかり食べて運動もしているのですがね・・・。」

 帳面を抱く様に持ちながら安吉は大きな溜息をついた。

「国許の親兄弟からも佐津摩の者ならば殿のお役に立てるよう早く立派な体になるよう鍛錬しろと手紙でうるさくて・・・。先々代様の時代ならお前の様な者はお稚児様での出世もあっただろうに悔しいとか何とか・・・。」

 安吉の言葉に結三郎は別の意味で溜息をついた。

 お稚児様――古い時代からの男尊女卑と男色の気風が、茂日出に言わせるとややこしく混じり合ってしまって近年に迄至っている佐津摩を始め一部の藩では、小柄な者や女性的な顔立ちの者、気弱で気性の大人し過ぎる者達を、半ば一方的な庇護下に置き愛玩する――時には性愛の対象としての愛玩を行なうという事が当然の状態となっていた。

 そうした対象の者を愛情や侮蔑、相反する様々な感情や思惑を伴いながら「お稚児様」と呼んでいた。

 お稚児様を愛玩する事は、藩の様々な部署や組織の中で行なわれる事も全く珍しい事ではなく、また、「お稚児様」の側から有力者に取り入り組織の中でのし上がる事もまたよくある事だった。

 しかし――結三郎は、自分の性に関する物事を、「お稚児様」の様に一方的に誰かから押し付けられたり、政治の売り物にする事に対して抵抗感を抱いてしまうのだった。

 小柄だからとか女性的だからとか、女性の代わりに女性っぽい男と性的に交わるとかいうのは・・・何か自分にはしっくりこない。

 自分はそう背が高い方ではないが、そこそこの背丈はあり、きちんと筋肉も付いていると思うし、男らしさをひけらかすつもりは毛頭無いけれども、それなりに所謂男らしさはあると思う。

 相手の事を考えない様な一方的な愛玩はとんでもないとしても。

 だが・・・きちんとお互いの納得の上での性愛を伴うお付き合いをするのならば・・・・・・自分は所謂男らしい男として、・・・相手もまた同じ様な所謂男らしい男同士で・・・その・・・何と言うか。

「――そうさのう・・・。真にうるさかろうのう・・・。」

 安吉と結三郎がそれぞれの思いで溜息を洩らしたその頭上から、太く静かな男の声が聞こえてきた。

 二人が顔を上げると、藍色の作務衣を纏った大柄で筋骨逞しい初老の男が腕組みをしながら立っていた。

 佐津摩の男性によくある凛々しい太眉と目鼻立ちのはっきりした顔は浅黒く日焼けしており、短く刈られた角刈りの髪の毛にはだいぶ白髪が混じっていた。

「殿・・・あ、いや義父上・・・。おはようございます」

「殿様、おはようございます。」

「うむ。おはよう。」

 結三郎と安吉が殿――茂日出へと頭を下げると、茂日出は頷きを返した。

 養子縁組をして十年――未だ父と呼ぶ言葉がすぐには出て来ない結三郎に、茂日出は少し寂しげな目を一瞬向けた。

「未だに「お稚児様」が出世栄達の手段として、口の端に上る気風には参ったものよの。男同士、普通に思い合い愛し合うのならば良いが、権力欲尽くしで出世の手段にするのは全くいただけぬ。」

 茂日出はつい先程の安吉の話に溜息をついた。

 佐津摩は益荒男、武士(もののふ)の生まれ住まう国、猛々しい男こそが最も素晴らしい――と、古い時代からそうした価値観が優勢で、武士――戦う男達だけの集団を形作り、社会生活の全てにおいて男達だけで固まってしまうのは当然の流れではあった。

 そこに男尊女卑の考え方も混じっていき、男達はますます男達だけで集団を維持する様になってしまった。

 外来の言葉でいう所の、男達の間でのマウントの取り合い、パワーゲームというものが飽きる事無く長年続けられ――その中で機会的同性愛も生まれ、男尊女卑と男色の気風がややこしく混じり合い「お稚児様」文化も生まれ、頒明解化の少し前の時代――いや、今もまだそうした価値観が抜けきらず、今に至っているのだった。

「我が父母達の愚かさ、申し訳ありません・・・。」

 安吉が深く頭を下げた。

「いや、気にするでない。上下の身分に関係無く、人々への教育、意識改革と言うものはなかなかに難しく時間のかかるものじゃ。一度染み付いた考え方はた易くは変わらぬからのう・・・。」

 藩主を継いだ時代から、武力や武芸至上主義の価値観の修正を目指し、学問を奨励し様々な知識の普及政策を茂日出は取ってきた。それは茂日出と志を同じくする実子達に代替わりした今も引き継がれていた。

「それはそうと、安吉よ。すまぬが今日は結三郎を借りていくぞ。奥苑の急ぎの仕事を手伝ってもらわねばならなくなった。」

「あ、はい。あ・・・えっと。」

 茂日出の言葉に頷き――安吉は結三郎の持っている二人分の掃除道具に目を向け、口ごもった。

「ああ。――よし。結三郎よ、荷物はそのまま持っておれよ。」

 安吉の筋力では掃除道具を運ぶのも一苦労だと茂日出は気付き、そのまま何気ない動作で軽々と安吉と結三郎を両脇に抱えたのだった。

「ええええええ!!!! 殿!!ちょ、ちょっと!!」

 安吉の半ば悲鳴の様に上げられた言葉を意にも介さず、茂日出は二人を抱えたまま小鳥小屋へと駆け出した。

 結三郎は慣れたものなのか、顔色一つ変える事も無く掃除道具を抱えたまま茂日出の腕に収まっていたのだった。



 屋敷の主に抱えられた驚きと、走ってる時に体が大きく揺さぶられてしまった衝撃とでへたり込んでしまった安吉を取り敢えず小鳥小屋の前に置いていき、自分の分の掃除道具は持ったままの結三郎は茂日出と共に博物苑の敷地の更に北側にある奥苑へと向かった。

 表苑と奥苑との境目に建てられた鳥飼部達の事務所を通り過ぎ――そこから少し離れた場所に、三階建ての建物程もある高さの立派な漆喰の塀が聳え立ち長々と連なっていた。

 その塀は奥苑の敷地をぐるりと丸く取り囲んでいた。

 奥苑の敷地はしかし、北の端の高縄屋敷の敷地自体を外部と隔てる対外用の塀からも充分に距離が取られており、外部からも同じ屋敷の敷地内からも覗き見や侵入が全く出来ない様に造られていた。

 博物苑に関わりの無い屋敷の者達や、博物苑で働く鳥飼部達であってもその殆どの者達、また藩外部の者達に対しては、奥苑では大変に珍しく貴重な上に飼育や栽培が難しい動植物を管理しており、顕微鏡や望遠鏡等、貴重な海外の学問の為の道具を保管もしているから立場のある関係者以外は立ち入り禁止であると説明されていた。

「義父上、また迷い人が出たのでございますか?」

 道すがら結三郎が茂日出に尋ねると、茂日出は傍らを歩く結三郎を横目で見遣り、そっと窘めた。

「奥苑に入るまではそうした話はするでない。」

「あ・・・!すみません。」

 茂日出の注意に結三郎は慌てて口を閉じた。

 黙ったまま二人は奥苑への通用門へとやって来た。

 背の高く分厚い立派な塀に比べて、その一角にある通用門は大柄な茂日出の背よりも少し高い位の――せいぜい二メートル四方程度の大きさだった。

 その漆喰の色に合わせた白い金属製の扉の前に二人は立ち、それぞれがそっと扉に掌を当てた。

 薄白い光沢のある扉の表面に一瞬、幾何学的な模様が浮かび上がりすぐに消え去った。

 各自の人物の認証確認が終わると、扉がひとりでに音も無く滑らかに開いていった。

 二人が中に入るとすぐ、茂日出よりも背の高い首長の大柄な鳥の出迎えがあった。

「おはようございます茂日出様、結三郎様。」

 太く長くがっしりとした足とひょろ長い首。丸い体を包む黒い翼は飛ぶ力は無く、ただ速く強く疾走する事だけを追求して進化した鳥――ダチョウ。

 博物苑では表苑の一角で海外から取り寄せた番が二組飼育されていた。

 しかしこの奥苑のダチョウは、極めて理知的な瞳で茂日出達を見つめ、人間の言葉を操っていた。

「煎賀久寺(センガクジ)方面に空間の歪みが出始めています。もう暫くの後に穴が開きます。今から徒歩で向かって丁度良い按配でしょう。」

 奥苑の事務所として使われている屋敷に急ぐ茂日出と結三郎に合流し、ダチョウは穏やかな口調で告げた。

 奥苑の内部も、表苑とそう大きな変わりの無い畑や飼育小屋の並ぶ景色が広がっていた。

 だが、敷地を行き交う人影は異国の民族衣装を纏っていたり、犬や猫、獅子といった動物の頭をしていたり、人の姿であってもそこに角や鱗が付いている者も居た。

 結三郎達の通っている砂利敷きの通路に面しては、幾つかの大きく頑丈な鉄格子の檻があり、その中には鋭い牙がびっしりと生えた嘴を持つ赤い花が、唸り声を上げながら枝葉を蠢めかせていた。

 こうした奥苑の姿が、本当の博物苑の姿と言ってもいいものだった――。

 鉄格子の中からの唸り声を背後に聞きながら、三人――二人と一羽と言うべきか――は、奥苑の屋敷の中へと入っていった。

 屋敷に入ってすぐの広い数十畳の白木の板の間には大きな机が並べられ、書類や帳面――そして金属製の板状の道具等が雑然と積まれていた。

 そんな机の前に腰を掛けた何人かの作務衣姿の鳥飼部達が、書類を書いたり金属板の操作を行なっていた。

 金属板の幾つかから発生している光は板のすぐ上の空間に、様々な資料の映像を映し出していた。

 ダチョウはその内の一つの空中の映像を見ながら、

「先程私が話した事からは特には変化は無い様ですね。 今回の時空の穴は煎賀久寺近くに発生する予想のままですね。まあ高縄からは近いし穴の予想も小さい。まあまあ易しい仕事になりそうでようございました。」

「あい判った。頼むぞ結三郎よ。」

 ダチョウの言葉に茂日出は頷き、結三郎へと声を掛けた。

「はい。行って参ります。」

 結三郎はそう応え、準備の為に隣の更衣室へと入っていった。

 ロッカーの近くに掃除道具を置くと、結三郎は作務衣を脱ぎホワイトシャツ、羽織袴に学生帽――と、書生風の姿に着替えた。

 ロッカーから取り出した小振りの帆布製の肩掛け鞄には和綴じ本に偽装した金属板――所謂、板状携帯端末機械(タブレット)を仕舞い込んだ。鞄の中には他に幾つかの道具が入っており、荷物を確認するとすぐに結三郎は屋敷全体を囲む方の塀の北門の方から出掛けていった。 



 高縄屋敷から北の方にある町――煎賀久寺門前町。

 昼が近くなったせいもあり、行き交う参拝客達は屋台で買い食いをしたり、食堂に入ったりする者も多く、通りは賑わっていた。

 そうした門前の町の大きな通りから少し外れた路地裏から、寺や大通りの賑わう様子を伺っている青年の姿があった。

「うっわー。チョウガツカリ。折角の異世界転移なのに和風設定かよ~。やっぱフツーは中世ヨーロッパだろ~。」

 青年は、人気の無い路地裏で肩を落としわざとらしく大きな溜息をついて一人ぶつぶつと文句を垂れ流し続けた。

「江戸時代系?・・・にしては皆チョンマゲしてないけど。和服ばっかりだしなー。明治系?」

 羽織袴の内側にワイシャツを着ている書生風の若者達が通る一方で、客を呼び込んでいる茶屋や食堂の若い娘達は時代劇で見る様な町娘風の絣の着物を着ており、その髪は嶋田髷を結ったものだった。

「それにここの寺・・・泉岳寺だよな・・・って、ナニコレ煎賀久寺って。」

 建物の陰から青年は再びそっと顔を出し寺門に掲げられた看板を見ると、そこには大きく「煎賀久寺」と書かれていた。

「うっわー、パラレル日本風ファンタジー系異世界転移ってヤツ、もしかして? オレ的にはカワイイ巫女さんとかが居るなら許してやってもいいかもだけどー。」

 寺に巫女が居る訳がないが、青年は突然に異世界への転移が起きた自分の身の上を何処までも前向きに捉え、偉そうな物言いの独り言を続けていた。

 少し痩せた眼鏡の青年は、大学の帰り道に便意を催してしまい公園で用を足し――終わってからドアを開けたところで、この日之許国・塔京の煎賀久寺の町に迷い込んでしまったのだった。

「ドアを開けたら二秒で異世界。ようこそパラレル和風ファンタジーニッポン的な? まあ取り敢えず定番の御約束とか有んのかねー。」

 青年はひとまず路地裏に頭を引っ込め、まだ独り言を漏らしながら後ろを振り返った。

 青年から少し離れた背後にはありふれた古びた長屋の引き戸があった。

 引き戸は開けっ放しのままで、空き部屋となっていた中の様子が青年の眼鏡に映っていた。

 恐らくはトイレのドアとここの長屋の引き戸がよくあるファンタジー物の定番で、空間的に繋がってしまったとかいうパターンなのだろうと青年は予想した。

「ま、取り敢えず御約束的な確認してから、これからどうすっか考えるかね~。――ステータス・オープ・・・・。」

「あのう・・・。」

「~ンンン~~ッッ!! わわわわ、ナニナニナニ!?」

 異世界転移物語の御約束である所の行動を取ろうとしたところで、青年は突然不意打ちで後ろから声を掛けられ思わず飛び上がった。

「・・・・・・えーと・・・何?誰?何の用?」

 青年の背後には、学生帽にワイシャツ、羽織袴の書生姿をしたどっしりとした体格の丸顔の青年――結三郎が立っていた。

 青年は僅かの間、声の主の姿を品定めするかの様に見た後、つまらなさそうな口調で結三郎に問い掛けた。

 青年の問いに、同じ様な言語を使う世界からの迷い人だと言う事に結三郎はひとまず安堵した。

「あ、はい。えーと・・・何と言いますか。こことは違う場所から突然迷い込んで来た人ですよね?」

 結三郎の前で少し不機嫌そうに立っている青年の服装は、ジーンズにスニーカー、パーカー、と、日之許国では異質なものだった。そのお陰で結三郎も迷い人の見当は付けやすかったのだが。

「ああ、そうだけど。――何だよ。異世界人接触第一号が汗臭そうなガチムチ野郎かよ・・・。お呼びじゃないっての・・・。」

 青年は無愛想に結三郎の問いに応え、後半は小さな声でブツブツと文句を垂れた。

 青年の小声の文句は結三郎には殆ど聞こえてはおらず、結三郎は青年の背後の長屋の空き部屋へ目を遣り、すぐに肩掛け鞄から和綴じ本を取り出した。

 表紙をめくり、中の金属板――携帯端末機械を起動させ、この場所の空間の歪みや穴の様子を確認した。

「安心して下さいね。すぐに元の場所に送り返しますから。」

「へっ!?」

 結三郎の言葉と、その手元の江戸だか明治だかの和風ファンタジーの世界観には似つかわしくないタブレット端末らしき道具に、青年は驚きの声を思わず上げてしまった。

 青年の驚く様子には構わず、結三郎は端末機械を鞄に仕舞い込むと、次は薄青く透明な水晶の様な材質で出来た五寸釘の様な物を二本と金槌を取り出した。

 青年が出現したと機械が示した長屋の引き戸の地面の両端に、コンコンと軽く水晶の釘を打ち付けた。

 確認の為に再び和綴じ本の端末機を結三郎が取り出している間に、水晶の釘はすぐに薄く発光を始め――引き戸に重なる様にゆらゆらと青い光の垂れ幕を出現させたのだった。

「無事元の場所に繋がりました。」

 青い光の向こうに薄汚れた白いタイル張りの男子トイレの景色が見えていたが、結三郎には今一つそこがどの様な施設なのかは判らなかった。

 しかし、この青年がやって来た場所だというのは携帯端末の測定機構がはっきりと示していた。

「さ、お早く。」 

「えっえっ!?」

 力強い結三郎の手に背中を押され、青年は事態を飲み込めないまま光の垂れ幕の前へと歩み寄った。青色の光の揺れる向こうには、確かに見知った公園の男子トイレが存在していた。

「大丈夫ですよ。きちんと元の場所に帰れますから。」

 青年の戸惑う様子を落ち着かせようと結三郎は微笑みかけ、光の幕の向こう側を指差した。

「ええええ? ナニ?無事帰れる系ファンタジー? また来れる?それかまた余所の世界に移動し直しとか~?」

 余り好みではない和風世界ではあったものの、折角異世界に転移して来たのだから楽しもうと気を取り直していた青年の思惑は、結三郎の働きによってあっさりと覆されてしまったのだった。

 青年の言う事を今一つ理解はしきれなかったが、結三郎はなるべく穏やかな表情と言葉を心がけた。

 こういう時空の穴から迷い込んで来た者は混乱の最中にある事が多いので、落ち着いた様子で対応する様にと定められていた。

「大丈夫ですよ。ここはもう開かない様にきちんと塞ぎますから。安心してお帰り下さい。」

 結三郎はそっと――しかし有無を言わせぬ力強さで青年の肩に手を置き、あくまでそっと光の幕の中へと押しやった。

「ええええええ!!!! 何、ひどくね!? 俺、名前も出ないまま出番終了モブ扱いいい!?」

 じたばたと見苦しくあがき、後ろを向こうとする青年の体をしっかりと抑え込み、結三郎は向こう側――青年にとっては元の世界の方に押し切ると、片手に持っていた端末機械の画面に触れ、水晶の釘の機能を停止させた。

 向こう側で尻もちをついた青年が再び立ち上がろうとする様子が光の垂れ幕の中で一瞬大きく揺らぎ、すぐに消え去っていった。

 端末の画面には無事終了し、時空の穴は塞ぎ終えたという表示が浮かんでいた。


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