第8話
まさか、こいつに俺たちの声が聞こえているとは思わなかった。
結界が反応するまで、隣の病室に彼女がいることを忘れていた。
突然結界が反応し、慌てて確認してみれば、まさか彼女がナースコールを押そうとしていたなんて。
焦りすぎて彼女との距離感が一瞬おかしくなっていた気がするが、まぁ気のせいだろう。
何にせよ、あの場でナースコールを押されるのはマズかった。
いくら他人に無関心なこいつでも、隣の病室から叫び声が聞こえたら看護師に連絡するだろう。
そして、それを聞いた看護師が不審に思ってドアを開ける。
失敗_。
考えたくもない、最悪の事態だ。
俺たちの仕事は、絶対に人間にはばれてはいけない。
それこそ、余命宣告されるまでは絶対に、だ。
仮に姿が見えないからと言って、俺たちの存在を信じないからと言って決して知られていいわけではない。
だから、看護師が現れた時は、怒りよりも先に強い焦りを感じた。
約束を守る保証なんてどこにもなかったのに、条件を呑んだ俺がバカだった。
でもあの時は、そうするしかなかった。
より安全性の高い方を選ばないわけにはいかなかった。
だけど、少しだけ恐れていたことが実際に起こり、俺の頭は真っ白になった。
しかし、こいつは食器の片付けを頼んだだけだった。
そういえばこいつ、さっき俺が部屋に入った時、『てっきり看護師さんの方が先に来たのかと思ったよ』って言っていたよな。
ということはまさか…
「ナースコール、押したんですね」
俺は彼女を一瞥した。
すると、予想通りの答えが返って来た。
「うん」
まんまとはめられた。
こいつは、俺たちの会話が、いや壁の向こうから聞こえてくる声量がどんどん小さくなっていくのを察し、ナースコールを押したんだ。
俺が戻って来るであろう時間帯に、ちょうど看護師が来るように。
焦りの感情がなくなると、今度は先ほどまで抑えられていた怒りが強くなった。
だが、同時になんでこんなことをしたのか、動機が気になってきた。
『だって、あなた達3人の話が予想以上に長いんだもん。それに、あんまり遅くなると、担当の看護師さんに心配をかけるでしょ』
「…」
言葉には出さなかったものの、まさかの返答に言葉を失った。
隣の部屋にいたのが人間と俺ともう1人だということに気づいていたのもそうだが、まさか、彼女みたいな人間が他人に気を使うだなんて思ってもみなかった。
彼女は俺の考えを読み取ったのか、『自分が他人を心配するなんて意外か』と聞いてきた。
俺は答えられなかった。
いくらこいつでも、そんなことを言っていいのだろうか。
俺が迷っていると、彼女は予想通りのことを言い足した。
『君を驚かせる目的の方が強かった』
やっぱりか。
でもまさか、あんなに綿密に仕込まれているとは思わなかった。
ドアが開いた時は、我ながらみっともない声が漏れてしまった。
しかし彼女は『ドアのことはたまたまだ』と言っていた。
ドアの開閉やナースコールのタイミングをしっかり合わせてきたというのはいくらなんでも考えすぎだったのかもしれない。
「…まんまんとはめられましたね」
これはこいつの手ひらの上で完全に泳がされてしまった俺の負けだ。
「で、どうする?これは交渉炸裂かな?」
そう言っているあいつの声はとても楽しそうだった。
「はぁぁ〜〜〜〜〜〜」
分かっているくせに。
いちいち面倒臭い奴だ。
この交渉を、今の俺が断るという選択肢はない。
「ったく、今回だけですよ」
もしもそこに鏡があったなら、少しだけその時の俺の顔を見てみたかった。
なぜなら、きっとそこに映ったのは、思わず呆れ笑っている、俺の知らない俺なのだから。
ふと彼女の方に顔を向けると、そこには貼り付いた偽りの笑顔ではなく、悪戯っぽい笑顔を浮かべる、普通の女の子がいた。
「笑った。」
思わずそう言ってしまったが、きっとこの声は誰にも聞こえなかっただろう。
「おやおやびっくり、怒って去っていくと思ったのに。以前にも増して君は寛大だね。」
寛大…俺が?
「…寛大、ですか」
そんな言葉、俺には似合わない。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでもありません」
だって俺は_。
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