第9話 逃避行
部屋の時計は六時前を指していた。
傷を見られた私は、特に抵抗するわけでもなく二人の大人に連行された。女性職員の乗っていた車に同乗し、児童相談所へと直接連れて行かれた。まるで犯罪者の気分だった。
施設の中に入ると、まず個別相談室のような場所に案内され、色々と質問をされた。別に生年月日だとか、身長体重、所属学校とかそういうことを聞かれたわけではなく、主には家庭環境について訊かれた。尤も、基本的な個人情報は調べれば出てくるだろう。数年前も来ている場所なのだから。
この相談室において私は何も喋らなかった。喋れなかったではなく喋らなかったのだ。
言い訳ではない。側から見たら、萎縮しているのか、それとも口を滑らせて家に帰れなくなるリスクを危惧しているのかとも考えられるだろうが、そこまで深く考えたというわけでもない。
ただ、何も考えていなかったわけでもなく、では何を考えていたのかというと、ひたすらに、ここからどうやって帰ろうかということだけであった。それ以外は考えたくなかった。
答えのない問答の後、私は所持品を全て徴収され、二階の一番奥の部屋へと案内された。
ドアの向こうには五メートルほどの廊下が続いており、六畳くらいの部屋が広がっていた。廊下の途中にはトイレとお風呂がついている。ただそれだけの部屋だった。
小部屋には小さな机と、敷布団と、そして押し入れがあった。押し入れを散策しようとしたが、鍵が掛かっているようで開けることはできなかった。襖の木の部分には『死にたい』と削られていた。
小さな窓もあった。
ここから脱出しようと思えばできないこともなかったが、靴すら奪われている私が窓から逃げたところで走ることは難しいだろう。そもそも怪我をせずに下まで降りられるかどうかも疑問だった。一般住宅の二階よりも数メートル高いような感覚だった。
それからしばらく経ち今に至る。
何も考えてないわけではない。ずっと、足りない頭で帰る方法を考えている。
最悪、窓から逃げる。怪我をする可能性もあるが、最初からリスクを背負わずに帰れるとは思っていない。
しかしこれは最悪の場合であり、他のパターンも考えている。覚悟があるにしても、怪我をするのはやはり避けたい。
他のパターン。
例えば、愚直ではあるが正面突破だ。部屋の外に誰がいるのか分からないが、いないことを祈ってとにかくバレないように玄関まで行く。そして逃げる。靴下という問題は、誰かしらの靴を奪って仕舞えばいい。今更、誰かの靴の心配などはしない。
しかし、これもまたリスクがある。私は部屋の外に用事がない。つまり私が部屋の外にいること自体不自然に該当してしまうということだ。そもそも、私が部屋の外に出ていいのかどうかも分からないし、ドアに鍵が掛かっていないとは限らない。
では愚直の方向性を変えて、素直に帰してくださいと言うべきか?これは言うまでもない。
職員たちは、私を帰してはくれないだろう。私を親の元へと返してはくれない。
どうしたら帰してくれるだろうか。
先ずは、部屋の外に出なければ話にならないのだが...。
そんな事を考えている私を邪魔するが如く、施設内にはチャイムが鳴り響いた。
一体何のチャイムかと疑問に思ったが、そんな疑問は直後部屋へと入って来た職員によって解消される。
昼間の女性職員だった。
「夕飯です。食べられますか?」
食べられるかと聞かれれば食べられると答える。
きっと、私の精神状況を気遣っての発言だろうが、私は別に気が参っているわけではないし、寧ろ気が参ってるのはこの女性職員かもしれない。
気が参っているというよりは私に気後れしているような感じだ。
夕飯を小さな机の上に置いてから、女性職員は私の方に向いて座る。
「昼間は、ごめんなさい。私は乱暴する気なんて全くなくて...。あの男の人には厳しく言っておいたけど、とにかく本当にごめんなさいね」
⬛︎⬛︎
使える。と思った。
烏滸がましくも、私は人を利用しようと考えていた。
それは前向きになった私の性格というわけではなく、もう、目的しか見えてないような私だった。それこそ愚直だった。愚かだった。私は愚か者であり素直だった。
間違えてる自覚はあったし、この人に申し訳ないと言う気持ちもあったけど、私は人の心配ができるほど余裕のある人間じゃない。出来た人間じゃない。
今まで、上手くいかないことばかりだったが、何だか今回は上手くいくような気がした。私の思い描いた通りになる気がしている。
別に話術に長けている私じゃなくとも、相手がこちらに申し訳ないと思っているならこちらの意見が通りやすくなると言うのは、当然の考察としてできる。
私はこの人に、外に連れて行ってもらうことにした。
外と言っても、施設外というわけではない。ただ『外の空気を』と言って中庭へと連れて来てもらっただけだ。
もう、家への帰り方は決まった。ここから帰り道も知っているし、急いで帰って二十分と言ったところだろうか。多少かかる。
女性職員は私の方をチラチラ見ていた。
やはり、外の空気を浴びたいというのは、気分転換のような意味合いがあり、私が気にしているというふうに感じているのだろう。全くそんなことはないのだが、まあ都合の悪い勘違いをされているわけではないので、訂正することはしない。
中庭は、建物の入り口と駐車場の間にある。私は駐車場——施設の出入り口に直行するのではなく、なんだかウロウロして出入り口へと向かった。施設を囲う柵をなぞるような形で私は中庭を闊歩していた。
本当なら、女性職員ではなく、男性職員の方が良かった。
そっちの方が私としても良かったけれど、しかしその場合、男性職員の場合は外にすら出られなかったかもしれない。
仕方のないことだと思うことにした。
恩を仇で返すというのは、自覚してやるようなことではないのだ。
陰になっているところでしゃがんで石を手に取った。夏場の六時ではまだ明るく、大して暗いわけではなかっただろう。だが、私を照らしてくれるには少し弱かった。
⬛︎⬛︎
手に取った石は、私の思った通りになった。
確信ができた。
こういう使い方もできるのだ、と。私は確信した。
私は女性職員の方に駆け寄った。
そして、まるでプレゼントでもあるかのように彼女の手を握った。
「?」
まるで何か手品が行われるかのような雰囲気だったし、丁度街灯がスポットライトのようだった。
えっと、なんだっけ。確かこの人の名前は千葉さんだ。あのね、千葉さん。私あなたに言いたいことがあるの。別に恨んでいるわけじゃないのよ。ただね、本当に言っておかなきゃいけないことがあるの....。
目を見て言った。
きっと心からの言葉だ。
『ごめんなさい』
「え——
⬛︎⬛︎
人が一人破裂した。
大きな音が立つことはなかったが、派手に血が吹き出した。当然、私の体にもかかった。
やはり、返す力というのは、こういう使い方もできる。『裏返す』ということもできるらしい。この人にとっては裏切りのようなことだったかもしれないが、私はこの人を切るようなことはしていない。
ちゃんと、謝った。
ごめん、と。
『切り捨て御免』のようだが、そこまで開き直っていた訳じゃない。
そしてまた、私はこの人に謝る。
申し訳ないが、私はここでぐずぐずしているわけにはいかないのだ、と。私は私の帰る場所があり、帰るべきところがあるのだ。やるべきことがあるのだ。私の目的はこの人を『裏返す』ことではなく、親へと私の傷を返すことだ。
過不足なく、愛情をお返しすることだ。
私は、踵を返した。
大体一時間くらいかけて家に着いた。
幸い、帰っている途中で誰かに声をかけられることはなかった。血は近くの公園で流したし、ゆっくり来た割には安全だった方だろう。
ふと部屋の方へと目をやる。
電気がついている。誰かが家にいるということだ。
これで誰もいないということは避けたかったし、欲を言わずとも二人ともいて欲しいかった。そうじゃないと、あの死んでしまった女の人が可哀想だ。
今度は誰も部屋の前にいないことを確認してから階段を登る。階段下の駐車場にも一台たりとも車は止まっていなかった。
部屋の前に来て、何だか不思議な気持ちになる。
以前、魔法を使って人を殺した時には散々自責の念に押しつぶされた。自責の念に殺されそうだった。だが、あの殺人というのは相手側に原因があって、つまり仕返しのような物だった。あれは気にやむべきことでない。
しかし、今回の殺人は違う。私は、私のために全く関係のない人間を殺したのだ。これこそは気にやむべきことだろう。
いやでも、案外そういうものなのかもしれない。人間というのは程度にこだわらなければ、人を殺して生きているのかもしれない。殺しているというよりは犠牲にしているようなものだ。
教職というのも、子供の昼間の時間を犠牲にして金を稼いでいる。あんなものは、自主学習でもわかるようなことなのに、それでも彼らは教鞭を取って子供の時間を貪る。セールスだって、不必要なものを話術によって買わせることで、消費者の懐を犠牲に生きている。これはセールスだけに限ったことではないだろうが。
とにかく、みんな利己主義なんだ。人のことを思う余裕すらないのだ。私もそうだ。
そう考えると、私はようやく普通になれたのだと思う。
自分を過剰に悲観する気持ちはない。今は多少自嘲するくらいだし、人を憎む気持ちも感じられる。人を憎むというのは、人を好きと思う気持ちと同じくらい普通なのだ。
シンデレラのような気分だった。
悲劇のヒロインからお姫様に、私もそんな気分だった。普通よりも充実感が溢れていた。
幸せとは、振れ幅だ。
私は以前が不幸だった分、きっと普通になることでさえも異常なほどの幸せを感じることができている。私は今、とても幸せだ。
微塵も謝意などありはしない。
インターホンを押そうかと思った。自分の家なのにだ。ノックしようとも思った。自分の家なのに。
この家に住んでいた少女は、私であっても私じゃない。カボチャの馬車に乗る前のシンデレラと、ガラスの靴を履いたシンデレラは別人なのだ。
ドアを開ける。ただいま、とは言わない。
物の散乱した廊下を抜けた先には、パパとママがいた。どうやら、児童相談所からの連絡を受けたらしく、珍しくも二人揃っていた。
部屋に入った私を最初に気付いたのはパパだった。
虚な目をして私の方に寄ってくる。いつも通りだ、酒でも飲んでいるのだろうか。
また、私を殴るだろうか。パパなりの不器用な愛情で私を可愛がるのだろうか。今の私なら、どんな愛情でも受け入れることができる。そう思っていた。
しかし、意外にもパパがしてきた事とは、暴力とは遠い『ハグ』だった。
は、は?ハグ?
生まれてこの方されたことなんてなかった。いや、遠い昔にされていたかもしれないが、初めてと言えるくらい遠い昔だろう。
これは、想定外だった。予想外だったし、パパがやるのは奇想天外だ。
パパは何も言わなかった。ただ、私を抱きしめて泣いていた。
気持ち、悪かった。なんだこれは。
今まで散々、私を人間とも思ってこなかったのに。今更私を思ったように振る舞っているのが、許せなかった。
今度はママが寄ってきた。
ママも同じく、私を抱きしめた。何が起こっているのかが分からなかった。
動揺。の二文字が相応しい。理解が及ばない。
ママは私を抱きしめたまま「ごめんね...」と呟いた。声にしたのかしていないのかという大きさだった。
困惑していた。困り、戸惑い果てていたのだ。
私は訳がわからなかった。何をされているのか分からないかったが、漸くこれが、私が夜明けのように待ち望んだ愛情であるということが理解できた。
こんな日常があるなら、もっと早くに知りたかった。私がナイフを握る前に、私がナイフを誰かに突き刺す前に、その愛情で刃を握って欲しかった。
そこで流れた血こそ、私の体に染み付いて欲しかった。血という儚さは、そこで知りたかった。
愛情でこそ、私を殴って欲しかった。殴る愛情ではなく、愛情からこその暴力こそが欲しかった。
握ったナイフは錆びていたかもしれないし綻んでいたかもしれないが、私はもう、それの使い方を間違えてしまった。
自身を柵から解き放つために使うのではなく、私はそれを人へと向けた。
親の愛情に包まれていた私は呟いた。いや叫んでいたかもしれないが、まあどうでもいい。今はただ、愛情を感じていたかった。
この暖かさを、もっと早く知れていたら...。
『ごめんなさい...』
⬛︎⬛︎
目を瞑って愛情を感じていた私だったので、頰を伝う温もりが血だったのか、涙だったのかは分からない。
ただし一つ。決定的なことが一つだけ、ある。
私は世界で一番幸せに生きた人間。
私は世界で一番、愛された人間。
それだけは確かだった。
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