第8話 優しさの柵

 思い返せば、私は親孝行というものをしてこなかった気がする。

 『愛情』を受けることに必死になっていたのだと思うし、何より孝行するような相手では無かったのかもしれない。

 母の日に、道にあったタンポポを渡した気がする。父の日には、似顔絵をかいて渡した気がする。あれは親孝行だったのだろうか。

 不肖な私を許してほしい。

 親孝行もせず、親に刃を突き立てる私を許してほしい。今度こそ、私の刃ごと本当の愛で包んでほしい。

 そんな放課後だった。

 私の決意は一日程度では揺れるものではなかったが、永遠には続かないという体感だけはしていた。

 だがそれでいい。たった一日のモチベーションで十分なのだ。それで、私の罪は精算されるはずだ。

 これで家族の時間は最後になる。パパとママには、最後に感謝くらい言うべきだろうか。

 とは思ったが、何に感謝していいのかが分からなかった。それに、変にお礼の文章を考えて情が湧いてしまっては困るので、考えるのはそれきりにした。

 今までで一番、気楽に下校をした日だった。


 今日はタンポポを2つ持って家に向かった。少しでも心の負担を少なくしようと思ったのだ。実際のバランスは平衡であっても、私の心のシーソーは傾いていた。

 日も傾いていた。

 夕陽に照らされているアパートが見えてきた。私が生きてきたアパートだ。

 世界からみれば、ほんの僅かな空間だが、そんな僅かな空間に私は生きてきた。必死になって生きてきたのだ。あの空間にどれほどの苦痛が折り重なっているのかは、誰も知らないだろう。


 いつもの階段を登って二階の廊下へと進む。

 階段を上がる私の頭に垂れてきたのは、夕日ではなく人影だった。位置を考えると、その人は私の家の前にいることになる。

 そこまで人脈の広い親ではないので、ある程度うちに用事のある人の顔は覚えているつもりだが、その人は初めて見る顔だった。

 理由のわからない身の危険を感じた私は、すぐさま階段の途中で踵を返そうとしたが、顔を確認するほどに身を出していた私の存在を、相手は気づいてた。

 追ってきているだろうか?後ろを確認する暇はない。

 中学生の私が大人に勝てるだろうか。大人と追いかけっこをして逃げ切れるだろうか。

 そんな私の懸念は虚しく、階段下の車から出てきた別の人に逃走は阻まれた。

「君、206号室の子だよね」

 階段こそ降り切ったものの、挟み撃ちのような形になってしまった。

 一体誰だ?この人達は何がしたいのだろうか?私に用事があるのだろうか、それとも、パパやママに用事があるのだろうか。

「用事があるのは君の方だよ。別に隠す必要もないから言っちゃうけど、実は学校から連絡があってね。君の担任の先生じゃないかな」

 思い当たる節が無いわけじゃない。

 あの時の二者面談だ。

 うまく逃げ切れたと思っていたが、そんなことはなかった。

 何故外部に連絡などしたのだろうと思ったが、それよりも気になるのは目の前に現れた二人の大人のことだった。

 この人たちは誰だろう。警察官?にしては制服ではない。私服警察かと思ったが理由がない。では補導員だろうか。しかし、わざわざ補導員に連絡するだろうか。

 では、まさか。

「あ、ごめんね〜。自己紹介が遅れちゃったね。私、児童相談所の千葉です。よろしく。それで、上にいる人は八代さんです」

 ああ、相変わらず、悪い予感だけは的中する。

 目的というのはおおかた理解できた。

 しかし、体の傷を見られてしまっては、確実に親との距離ができる。仮に私が児童相談所に連れて行かれたとして、なにかの手違いで親が親になってしまったら・・・。

 私の計画は破綻する。

 殺意が鈍る。せっかくの刃が錆びてしまう。

「怖がらせるつもりはないんだ。ちょっと、お話いいかな?」

 ダメだ。

 話の流れで私の体の傷を確認されるというのは目に見えていることである。

 ああ、何故?一体どうしてこうなる?私の何が悪かった?どこで間違えた?

 このエンカウントは、どうやったら回避できたのだろう。

 気持ちを変えても私の持ち前の不運さは変わらない。

「嫌だなんて言われてもなぁ...。私たちも『やるべきこと』があって来てるから、ただ帰るわけにもいかないんだ」

  やはり、わたしの体の傷を確認するつもりだ。

 包帯を巻いているから、どうにか言い訳ができないかとも考えたが、包帯の巻いていない場所にも傷は残っている。

 そもそも、中学生の少女に包帯が大量に巻かれているということ自体おかしい事なのだ。

 包帯に関して、思い出したことがある。

 小学校の時、親は決して包帯を巻くことはなかった。傷を隠そうとしなかったのだ。

 それもそのはず、傷というのは目に見える場所にはなかったからだ。つまり、お腹とか、太ももの付け根とか、つまりは普通に生きていてわからない場所に傷や痣があったからである。

 ふとした時に、私の腕に痣が残った。親は隠そうとしなかったが、私が見られるのを気にして包帯をつけた。以降は、親がそれをよく思ったのだろう、ところ構わず私の体には傷が増えていった。

 包帯を巻いたのはは決して『友達に見られたくない』ではなく『担任に目をつけられないため』であった。友達という友達など、そもそもいなかった。

 教師が介入すると、いや、教師だけではなく第三者の大人が介入すると面倒になるのは分かっている。そんな面倒ごとがこれだ。

 腕や足に包帯は巻いている。それだけでは心許ないので袖の長いものを着るように心掛けている。夏場でもセーラー服を着て過ごしているのだ(これはこれで怪しまれるが)。

 だが、それはあくまでも『普通に生きていて傷を見られないため』であり、傷を見ようとしている人間に対しては意味がない。

 どうしよう。

 私はどうしたらこの窮地を脱することができる?

 魔法を使うか...?しかし、この二人から私は何を奪った?在るべき場所を有るべき場所にした時、一体何が変わるのだ?

 逃げるしか、ない。


 咄嗟に鞄を目の前の職員に投げつけた。眼鏡をかけた女性の職員の顔に当たった。

「ちょっ....!」

 言葉とも言えない言葉が聞こえて、体の方向を変えて前の足に力を入れた時である。走り出そうとした刹那の出来事。

 私の右腕だけは動かなかった。その場に留まっていた。右腕が麻痺して腕が上がらなかったというわけではなく、私が元いた場所——女性職員の前に留まっていた。

 魔法、ではなかった。

 私の部屋の前にいた男性の職員が私の腕を掴んでいた。

 余計な事を、してくれる。

 そいつが口を開いた。

「先輩、だから言ったじゃないですか。『見つけ次第問答無用で体を確認しよう』って」

 女性職員はすぐには返事をせず、眼鏡を掛け直してから言った。

「だから八代くん。相手は中学生なんだよ?怖がらせに行ってどうするのさ」

「でも、馬鹿正直に言っても逃げられてるじゃないですか。怖がらせてるのに変わりはないんですよ」

「そうじゃなくてだね。側から見た時に、不意に出て来た大人二人が少女の腕を掴んでるの図は誤解を招くってわけだよ...」

 私を置いて二人の会話は進んでいく。

 その間も男は私の腕を握っていた。かなり、強い力で。

 顔が歪むほどの力だった。この男は、何かする。私に何かしてくる。それを伝えるような、危険信号のような力だった。

 もちろん、こういう予感は当たる。

「....そうっすか。お嬢ちゃん、取り敢えず腕は見せてもらうよ」

 !!

「ちょっと....!」

 女性職員は、あくまでも平和的に——相手の承諾を取った上で腕を確認しようとしていたらしいが、男の方は限りなく合理性を求めているらしかった。

 そんな男の職員は、問答無用で私の袖を捲った。もちろん私の腕には包帯が巻いてあるので、それを剥がさなければならない。

 まずい。これを剥がされてしまっては、私はどうしようもない。

 そんな私を助けた(?)のは、意外にも女性職員だった。まあ、女性の方向性を考えれば止めたという行為は至極真っ当な行為だったのだろうが。

「ちょっと!八代くん!何してるの!?『被害者』を怖がらせてどうするのよ!」

 そう言った女性職員は、勢いよく私の腕と男性職員の手を引き剥がした。

 男は意外そうな顔をしていたが、それを気にも留めずに女はこちらに向かって来た。

「ごめんね、本当にごめん。怖い思いをさせてしまって...。また、日をあらためるよ——」

 良かった。と胸を撫で下ろした。

 私は束の間ではあるが、私という人間を忘れていた。

 なんでも裏目に出る性質。上手く行ったことなんて、今まで一度もないような人間。

 私は、包帯の結び方なんて知らないし、ホッチキスのような金具で止めるなんてこともできない。包帯をぐるぐる巻きにして、包帯の端っこを既に巻いてあるとこに入れ込むような巻き方をしているのだ。

 そんな安易な巻き方では、当然解けることも多く、少し激しい運動をするだけで解ける。

 つまり、少しの衝撃で解ける。

 

 袖をまくられ腕が顕になっている私の腕は、包帯が完全に見えている状態だが、その状態で私は勢いよく腕を動かされたのだ。

 当然、包帯は解けた。

 女性職員が私の腕を見て——腕の傷を見て絶句しているのが分かった。


ああ、見られてしまった。

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