第5話 因果応報・罪悪感

■■

 現実ではないと思いたい。

 死ねるものなら死んでみたい。

 私は確かに『あの子』に対して謝った――それ以上のことはしていないし、間違っても『あの子』を傷つけるなんてことにはならないはずだ。

 なるべく正確に、今目の前で起こった惨劇について説明しようと思う。私の拙い語彙では説明が不十分かもしれないが、私にはその責任があると思う。

 

 私は謝った。

 中身の無い空っぽの謝罪ではなくて、誠心誠意謝った。私が貰ったままでいること。何も返していないこと。そして、それについて当たり前だと思っていたこと。卑しい自分も下賤な自分も全て。

 今朝の上履きに関しても”してもらった”ことなので謝った。傍から見たら私が怪我をしているのだから、私が被害者であるように見えるのかもしれない。しかし、怪我をしたのは自己責任だ。『あの子』は悪くない。

 私の不注意で他人が悪くなるのはいけないことだ。いつだって、正と悪の線引をしたときに悪の側で磔になっているのは私だ。

 私の謝罪によって起こったこと厄災の一つ目の説明である

 傷の出来た私の指先は、水に濡れていることもあってか傷口が痛かった。慢性、といったらいいのか。とにかく痛いことがずっと続いていた。私が痛がるにはいいのだ。罰だと思えば、理不尽な痛みにも意義が付く。

 違う。

 治った、ではない。この言い方は間違っている。

 なんとも私に都合のいい言い方で、これではまるで私が罰を転嫁したことが無視されている。

 傷は治ったわけではない。もう少し正確に言うのであれば、傷は”移動してしまった”のだ。

 私の指の痛みが収まるのとほぼ同時に『あの子』は指を握った。わたしの傷口のあった場所と同じ指の位置を握って痛がった。そして何より、一瞬ではあるが、私と同程度の傷口も見えた。

 傷は治ったのではなく移動したのだと確信した。

 私は罰を、他人になすりつけたのだ。

 それだけではない。私の謝罪がトリガーになっていると思えることは他にもある。私が転嫁した罰はこれだけではない。

 二つ目になるが、『あの子』の上履きが濡れていたのだ。そして、またしても同時に私の指先からは水気がなくなっていた。

 水が蒸発しただけかもしれない。そういう考え方もできるし、私もそう思った。しかしながら、私の指先からなくなったのは水分だけではないのだ。

 まさかと思った私は下駄箱の中へと目をやる。 

 案の定、私の下駄箱と上履きはもろとも乾いていた。それだけではない。『あの子』の下駄箱が濡れていたのだ。元から『あの子』の下駄箱が濡れていたかのように。

 この際乾いてしまったというのは言い訳にしかならない。

 理屈が通っていなくても、私が『あの子』の下駄箱を濡らしたのだ。

 正直言って、私は恐ろしかった。

 こんなことがあっていいのだろうか。私がやっているのは自己満足で利己的じゃないだろうか。

 返すと言っても、これでは『仕返し』だ。

 

 とにかく私は謝ったのだ。

 これすらも言い訳に思えてくるが、謝ったことは事実なのだ。穢らわしい私からでる言葉が汚くとも、私の一挙手一投足が汚れていようと、謝ったことは崇高な事実なのだ。

 きっとそれは正しい志だったと思うが、一方から見れば間違っていたことだったのかもしれない。

 私は謝罪する前に、愚かにも2つのことを思い出した。

 一つ目は家庭科の実習中に針で刺されたこと。

 彼女のブラウスからは血が出ていた。一箇所だけではなく何箇所からも。あのときの私と同じで。

 そしてもう一つ。椅子のネジを緩まされ、私が尻もちをついたこと。

 昇降口ということもあり周りに椅子はなかった。その代わりなのだろうか、突然彼女の後ろにあった下駄箱が大きく動いた。揺れていた。

 声をかける暇も無かった。

 その下駄箱は大きく揺れた後、『あの子』のいる方向へと倒れた。

 ”この時点では”まだ良かった。

 私が声を掛けるまでもなく『あの子』は後ろの下駄箱の存在に気づいた。元から下駄箱があるなんてことは勿論知っていたため、ここでは倒れてくる下駄箱のことである。

 鈍臭い私はその時には気づかなかったが、確かに、揺れている音を不審に思って気づくなんてこともありえる。実際彼女は気づいた。

 しかし、気づくタイミングが悪かった。

 私から見たら十分距離があり、急げば安全に下駄箱の倒落を回避できる距離感だったが、下駄箱が真後ろにあった『あの子』からすればそうでは無かったかもしれない。私が見るよりも大きく見えていたのかもしれないし、『あの子』は私が想像するよりも冷静だったのかもしれない。

 結果的に『あの子』は転んでしまった。

 私の予想通りに、というのは烏滸がましいが、不意に倒れてくる下駄箱が大きく見えたことにより驚いて転んでしまったのかもしれない。それとも冷静に判断はしたものの、単純にバランスを崩してしまっただけなのかもしれない。

 どちらにせよ彼女は転んだ。それも受け身を取れずに。

 受け身なんていい方をすると大袈裟になってしまうが、彼女は手すら出さずに転んでしまった。この際大袈裟なんてことは無いが。

 尻もちをついたのだ。私と同じように。

 本当にここまでは良かったのだ。

 私が『あの子』の立場ならどれほど良かっただろうか。


 何が良かったのか。

 結果的ではあるが、私は返すべきものを返したということだ。

 針をさされたことも、尻もちをついたことも、上履きが濡らされていたことも、結果として返したという事実が残っている。それはいいことなんだと思う。いや、誰かが不幸になっている以上は良くないのかもしれない。

 私も『あの子』も納得がいっていなくても、返すということに注目すればいいことだったんだと思う。

 今思えば、私はどこかに被害者意識があったのだ。

 この期に及んで傲慢かもしれないが、きっと私は被害者意識があったのだ。『この子』にされたことを覚えていたのが何よりも証拠である。人は、自分のしてきたことなど覚えていないのだから。

 私に被害者としての自覚があったのなら、『あの子』を加害者と認識していたということになる。ならば、少なからず『あの子』に対して恨みの念があったのだという解釈にも納得できる。だからこそ私はされたことを覚えているのだし、あんなことを考えたのだろう。

 自分が被害者だと認識していなければ考えないようなことを、私は考えた。

 私の椅子のネジが緩み、そして尻もちをついた時、”死ぬ可能性”を考えてしまった。打ちどころが悪かったら、バランスが悪かったら、と。

 そしてその気持を、謝る前に思い出してしまったのだ。

 私は何も反省していないらしい。

 

 良かったのは少なくとも『貰った分を過不足無く返した』ということだ。

 悪いのは過分が生じてしまったこと。

 私は生きてしまっているのに・・・。


 この顛末を目撃した生徒が先生を呼び、今日は緊急事態として全生徒が下校することになった。

 この緊急事態の発端といえば私が愚かにも縁起でもないことを考えたからである。見方を変えれば、見方を変えずとも『あの子』は私が殺したということになる。

 どうして彼女は死ななくてはならなかったのか。私が悪い。

 私はあの天国か地獄かもわからない場所で返すべきものを返せと言われたから生き返ったのだ。それ以上のものは求めていないし、彼女を殺す気などなかった。

 どうしてなのだろう。

 どうしていつも、私の行動は裏目に出てしまうのだろうか。

 今までは裏目に出たとしてもすべての悪いことは私にだけ矛先が向いていた。しかし今回のは違う。私が迷惑を被った訳では無い。私以外の人間が傷ついたのだ。

 いやちがう。『傷ついた』などは私の心を慰める言い回しでしか無い。

 『あの子』は死んだのだ。

 これも違う。

 彼女は死んだのではなく私が殺したのだ。紛れもなく、私が、殺したのだ。

 苦しみなどとは言わない。この罪悪感を抱えたままどうやって生きようか。天国など求めていない。贅沢など求めていないのだ、私は地獄に行きたいだけなのだ。

 私は、人から色々なものをもらったままの分際で幸せな顔をしていた自分が憎い。

 幸せのまま死んだのが悪かったのだろうか。ならば、今、不幸に首まで浸かっている私は死ねるだろうか。

 いけない。

 なぜ私が不幸を語っているのだろうか。不幸なのは私の我儘によって殺されたあの子ではないか。あの子のどこに死ぬ要素があったのだ。

 死ぬべきは私なんだ。

 私が生きてあの子が死ぬだなんて不公平なことがまかり通っていいはずがないのだ。

 そうだ。

 私はあの子の時間を奪ってしまった。今朝の要領で時間さえも返せるのだとしたら、彼女は死なずに済むではないか。

「ごめんなさい」

 彼女の時間を、これから先の人生を奪ってしまったのだ。これを返さずに何を返すのだ。私のような人間に将来を奪われてたまるものか。

「ごめんなさい」

 まだ時間は戻る気がしない。

 一体なぜ?私の誠意が足りない?

「ごめんなさい」

 どうして?

 私は殺す気は無かったの。どうして?

 今朝は戻ったのに・・・。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――


 謝罪は朝まで続いたが、とうとう時間が戻ることは無かった。

 

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