第4話 『あの子』

 出血。

 誰もが当たり前にこなせることを成し遂げた私に待っていたのは出血だった。決して変な意味での出血ではなく、単純に血が出るという意味での出血である。

 勿論誰もが当たり前にできることをやったところで祝福されるだなんてことは間違っても考えないが、同様に当たり前のことをやって出血するということも考えていなかった。

 そもそも私が階段を登った理由といえば、昇降口に行くことであり、その昇降口に何があるのかという話題には『上履きがある』としか答えられないだろう。

 下履きを脱ぎ、中に溜まった砂を落とした。先ほど転落した(?)というより、地面に寝ていたということも関係してなのか、溜まった砂の量は微量ではあるものの、普通に比べれば多かった。

 中身が多少綺麗になった下履きを持って私の下駄箱に入れる。

 ここではまだ出血はしていないが、この時に気づいたことがある。

 上履きが濡れているのだ。

 明らかに上履きは水を含んだ濃い色をしており、それと同時に上履きの周りには大小様々な水溜まりができている。

 下駄箱を開ける際に扉が濡れていなかったのを鑑みると、私の下駄箱目掛けてバケツでもひっくり返したようだ。床も少し濡れているが、他の人の下駄箱は濡れていない。拭いたのだろう。

 似たようなことではあるが、私がトイレの個室にいる時に上から水をかけられたことがあった。それどころか、トイレの水に顔を入れられたこともあった気がする。

 あの時は髪を乾かしたり、濡れてしまった制服の代わりに体育着を着用したりと、どうにかしてきた記憶があるが、私は変わりの上履きを持っていない。

 少し悩んだ私が打ち出した答えは、職員室に行ってスリッパを貸してもらうというものだ。忘れたとでもいえば貸してくれるだろう。

 そう思った矢先、昨日の集会で『市の偉い人が来る』と言われていたことを思い出した。

 ではこの案は使えないじゃないか。偉い人達がいるならば、『返すべき私』が、その人たちのスリッパを横取りするなんてことはできない。筋が通ってない。何より、そのような人達を前に私なんかが姿を表すなんてことは烏滸がましい。

 私は卑しい人間なのだ。私のような人間を見てしまっては、きっと不快になるに違いないだろう。

 では、どうしようか。

 一日靴下、又は裸足で生活するというのも考えたが、そうすると先生に見つかった時が怖い。スリッパを借りることになるだろうし、私が足りない頭で考えた意味がなくなってしまう。

 私の思考が水泡に帰してしまうのは問題ないが、最悪の場合、私の上履きを濡らしたであろう『彼女』がお咎めを喰らう羽目になってしまうかもしれない。

 ならば残された手段は一つだけである。

 私は、濡れた上履きに手を伸ばした。それだけの筈だった。間違ってもここで怪我をするだなんてことはないはずだった。

 鈍臭い私は、手を引くのが先だったのか、声を上げるのが先だったのか、痛みを感じるのが先だったのか、上履きが仄かに赤みを帯びているのに気付いたのが先だったのか、知る由もない。

 ただ一つの事実として、私の指先——左手人差し指からは血が出ているということは確かだった。

 一体何故だろう。上履きを下駄箱から取る動作の中で、何故出血という事故が発生したのだろうか。

 痛みでいっぱいになっている私の左人差し指は、血でもいっぱいになっていたのだが、傷跡としては切り傷であったことが窺える。つまり、私は何かで指先を切ってしまったということになる。

 上履きの中に鋭利なものがあるとは考えられないので、古い釘にでも引っ掛けてしまったのだろうかなんてことも考えた。木製の下駄箱のささくれにでも引っ掛けてしまったのだろうか、なんて考えた。

 私の推測はどこまでも外れていく。

 上履きの中——かかと部分。誰もが上履きを取るときに手にする部分には、丁寧に剃刀が縫い付けられていた。

 私が登校しなかった一週間、学校に置いてあった私の荷物が無事であるとは考えていなかったが、まさか剃刀が縫い付けられているとは考えなかった。

 ——縫い付けられていると言えば、去年の中学一年生の時である。木曜日の家庭科の時間だった。

 刺繍の実習をしていた時、私の隣にいた『あの子』は私の体に針を刺してきた。決して一回だけではなく、二回も三回も。その上何箇所も何箇所も。

 その時も確か声を上げたが、実習中ということもありクラスの喧騒に私の声はかき消されてしまった。

 今回はそのときに比べて大した出血量ではないし、怪我をした範囲としても大したことはないが、あまりに突然の出来事に少し驚いてしまった。

 本当に、ただ、それだけなのだ。

 何をするにも上手くいかないのが私で、上手くいってしまったら私じゃない。

 悪い意味で周りとは違く、私以外のみんなが当たり前にできることを私はできない。私以外のみんなが問題なくこなすことを、私はこなすことができない。私以外のみんなが怪我をしないところで、私は怪我をする。

 その都度周りに迷惑をかけるのだ。

 私一人が不幸になるには構わないのだが、私を愚かにも気にかけてくれている大人の人達にも不幸が伝わることになってしまう。これも私にとって不幸である。

 人を待たせている感覚に似ているかもしれない。

 私一人に不幸が起きて、転んだり事故にあったりするには構わない。怪我をするにも構わないし、予定が合わなくなったとしても問題はない。だがしかし、そこに待たせている相手がいる場合には私だけの不幸ではなくその人の不幸にも変わってしまう。私一人のミスで無関係と言って良い人にもミスの影響が出てしまっていることになる。

 耐えられない。

 私のせいで誰かが不幸になるのが耐えられない。

 いつまでたっても人から幸せな時間を奪う私自身の弱さが耐えられない。

 幸い、今回の件に関しては私の腹の中に抑え込むことができる。大人に迷惑をかける結果にならずに済むのだ。

 私が息をついたのも束の間、やはり私に幸せな時間は続かないと——良いことは似合わないのだと知らされる。

 目の前に『あの子』がいたのだ。

 すっかり自分のことに夢中になっていて周りに目をやれていなかったが、私の目の前には『あの子』がいた。

 一体なんだろうか。私に用事だろうか。

 彼女の仕組んだ罠にかかった私の様子でも見に来たのだろうか。

 きっとそうだろう。

 彼女は動揺した私の抱える左手を見て、一瞬笑って踵を返した。

 ああやはり、私の無様とも言える恥ずかしい姿を見に来たのだ。

 私に色々与える『あの子』は一人だけではないが、今回の『あの子』に関して言えば陰湿なやり方がほとんどである。

 私から『陰湿』と言えれるのは腹立たしいことだろうし、私は人のことを言える人間ではないが、とにかく今回のようなやり方が多い。

 一週間前最後に学校に行った日も、私は『あの子』に色々もらった。

 あの時は確か『緩み』を貰った覚えがある。

 学校の机と椅子にはネジがあると思うが、あの日の私の椅子のネジは確かに緩んでいた。私が座っただけで、まるで元からなかったかのようにネジが外れて私は尻餅をついた。

 きっと当たりどころが悪かったら死んでしまっていたかの事故だったのだろうが、それをやったのも今回の『あの子』である。

 仮にあの時死んでいたら、私はこうなっていたのだろうか。


 去っていくあの子に対して私は声をかける。

 私は返すべき立場なのに、私は返さなければいけない立場なのに、にも関わらず私は今日ももらってしまった。

 今までのようにこの場で声をかけなかったとしたら、私は何も変わっていないことになってしまう。私は何も反省していないことになってしまう。私は私を許してしまうことになる。

 それは許せない。

 親にも言われた。反省してるならば態度で見せなければいけないと。

 単に反省しているからと言えばそういうわけでもなく、私の自殺願望もあるのだろうが、とにかく今までと一緒では良くないと思った。

 この期に及んで私利私欲を優先している私に嫌気がさしたが、この際理由はどうでもいいのだ。彼女に声をかけたことが大事なのだ。それが本質なのだ。

 『あの子』は止まってこちらを睨んできた。

 完全にこっちは向いておらず、斜に構えたようにこちらを睨んでいる。

 その瞳には何が映ってるだろうか。

 人に与えることを知らない卑しい私だろうか。人から貰うことしか知らない愚かな私だろうか。人からもらっていたことも知らなかった鈍臭い私だろうか。

 一体どれほどをこの子から奪ったままなのだろう。貰ったままなのだろう。

 この子から貰ったものを思い出そう。一つ一つ丁寧に、忘れることなく。

 そして誠心誠意、私はこの子に返す。私の貰った全てを。

 彼女は相変わらず私を睨んだままだが、私は返さなかった全てのものに対して臆さず言うことにした。

 彼女に、言うことにした。




「ごめんね」

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