第2話 生きてしまった惨状
⬛︎⬛︎
目が覚めた。
夢ではない現実で目が覚めた。
先程の夢心地は霧散して、目の前の包丁が誇る不吉さと私に重く深くのしかかる現実味を肌で感じている。とても我慢できる空気じゃない。
私は包丁で喉を切って死んだ。現実に不満があったわけじゃないけど、私は幸せになりたくて幸せを求めて幸せなまま死んだ。
にも関わらず生きているどころか、私が私に使った包丁は、そんな私と正反対で鯖も汚れも何一つない。血が一滴も付いていない綺麗な状態だった。
おかしい——
こんな次元の話ではないけど、今更話ではないかもしれないけど、私は体の都合が悪い。つまり私は肝心な時に身体が脆い。
あれは私が小学生で、組体操をしていた時。私が踏ん張りを効かせていれば成功したあのピラミッドは私の肩の脱臼の所為で失敗に終わった挙句、怪我人が出た事故へと変貌した。
そもそも運動会に出れたことが奇跡で、お金のかかる行事はともかく、かからない行事の日は殆ど体調を崩していた。それが私。
私が刺した喉の部分はどうにもトドメを刺すには惜しい部分だったらしく私の前世は自分で自分を苦しめる最後に落ち着いた。ただ私は死にたくて死んだのだからそれは幸せだったし、私の背負った罪はあの時の苦しみ程度じゃどうにも埋まることはないけれど。
苦しんで死んだ私は私の最後を見届けた。側から見たわけじゃないけど、身体が熱っていたし血溜まりができていた。今までで一番みっともない声が出ていたし、そして何より身体が動かせなかった。見届けたと言わなくとも、感じ遂げたと思う。
ママとパパからは死ぬ理由を貰ったけど『死』そのものは貰えなかった。私の体は不都合だ、死にたい時にすら死ねないのだから——今回も同じだ。
私が何よりも不気味に感じていることは、今目前にしている、生まれてきて最初に体感するこの不可解なこと。血溜まりができたのを見たにも関わらずそれが無くなっているということ。
誰かが拭いたなんて有り得ない。私は迷惑をかけないよう、深夜に首を切ったのだから。血溜まりじゃなくとも包丁についた血は微量であろうとも拭かれる前に乾いてしまう。
それ以前に私は孤独に死んだ。誰も周りにはいなかった。そう思っている。
ふと時計を確認してみると、現在朝の七時だった。
『あっち側』にいたのは体感数分程度だったので私はこっち側に戻る段階でかなりの時間を浪費してしまったらしい。寝て過ごしてしまったのだろうか、優に三時間程度経過している。
私の自殺自体がそもそもなくなったのか、死ぬ直前の時間軸に生き返ったのか、色々考えてみたけど生き返るということ自体私には理解できないことだったので詳しいことは考えないことにした。
時間の無駄とはこのことだ。
それに、私が考えても無駄ということは考えなくても分かることだった。
生前の記憶と目の前の現実が重なる。あぁ、やはり私は現世に降りてきてしまったのだと絶望する。
私は一体全体、何が原因で苦痛に踠いているのだろうか。生まれ落ちた時こそ、この人生が無意味だなんて思いもしなかったが、物心ついた時から私は他とは違って何か劣って周りが羨ましくてたまらなかった。
どうして私の人生には、他人の人生に於ける鬼門が何個も設置されているのだろう。普通なら一つで十分な壁が何重にもなっているのはどうしてだろう。
何度も生まれた家が隣だったら良かったなんて考えた。取り違いで別の家の子に成りたいなんて思った。何かの拍子で死んだしまえたらいいと思った。この世に生まれたことを憎んだ。
でも、どれも私には不相応な祈りだった。私にとって現実は現実でそれ以外は夢で、どれだけ祈っても正夢なんかじゃなくて逆夢だった。
毎日が異夢だったから夢なんて見たくなかった。夢の中だけでもなんて言うけど、夢の中でさえも私は現実だった。夢現はいつだってハッキリと現実だった。
何をするにしたってそれは背伸びしなければ届かないほど私からしたら高いもので、でも手を伸ばしたのなら背伸びをしたのなら足元を掬われる。だから私は何もできなかった。神様から色んなものを貰えたけど一番欲しい自由は無かった。私の手元には自由の二文字はどうしても揃わなかった。
悲しくはないけど羨ましかった。行動するなら叶わないけど、祈るだけなら、想うだけならば、私にだって身分相応にできた。周りを羨むことは背伸びしなくても出来る数少ないことだった。学校行事を観にくるクラスメイトの親、休日の予定を喋喋喃喃と話す同級生。嬉しそうな顔で結婚したと言う教師に、人生に光を感じる下級生。どう考えても私と住んでいる世界が違う。環境を憎まずにはいられず私以外を呪わずにはいられなかったけど、憎んでも呪っても私以外の人は心の底から笑顔でいた。
足りない物はなんだったのだろう。私の心に足りない物は、他人が私に求めていた物は、私は何が足りなかったのだろう。いくら考えても分からない。
周りと違うことに気づいた時から、この人生に意味があるなら教えて欲しかった。余計な理論はいらないから理由だけ知りたかった。
そんな私が唯一、誰一人として持っていない幸せを手に入れた。私はそれで満足だったし、ただ一つとしてもそれ以上のことは望まなかった。そんな幸せも、すでに私の手元には無い。
私の前世は意味こそ無かったけど幸せだった。私は幸せを感じて生きていた。
だけど今の人生は不幸だ。私の求めてようやく手にした幸せが無いのだから。喉から手が出るほど望んだ幸せには手が届かないのだから。どれだけ背伸びをしても、どれだけ祈っても、私には手が届かない。触れることも見ることすらままならない。
だからこそ、私の不幸な人生には意味がある。幸せの代わりには及ばない意義がある。
私は前世で卑しくも溜めた幸せの数々を返さなければならない。それが私に下された罰で、私が苦しむ最高の手段だから。
学校に行こう。
学校ならば私に貸しのある人間が沢山いるはずだ。その大勢の人間に私は返すべきものがたくさんあるのだ。
この苦しみを味わうには、私が私の罪業を十二分に背負う為には、この家の中に閉じこもっている以上は叶わない。叶わないと言うことは私の罪は浄化されない。私の願いも叶わない。
そんなことは、絶対に嫌だ。
そんな現実は、絶対的に嫌いだ。
重い扉を押し開けて、私は罪滅ぼしへと身を投げるのだった。
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