第28話 甘き夜
「あの、ボスは酔ってないですか?」
「少しだけな」
家々と田んぼとを通り過ぎるその足取りはいつもより遅かった。神尾の酔いはまだ覚めず、火照った身体にじめっとした夏の夜の空気が纏わりつく感覚が不快だったが、何も言わずとも御嶋が付いてきてくれたことがそれを上回るくらい嬉しかった。
「私、お酒弱いんですかね」
結局彼女はコップほどの量のカクテルを二杯とビールを一口飲んだ。尤も御嶋は出来るだけアルコールの薄いカクテルを作ったつもりだったが。
「そうかもしれんが初めてだしな。こんなもんかもしれん」
デリカシーに欠けると思いつつ、彼はあることを訊いた。
「気になっていたんだが、友達と飲もうとかってならなかったのか?」
あぁ、と彼女は苦い顔をした。
「正直大学生なんて皆飲んでるじゃないですか、二十歳前に。几帳面に誕生日待ってる人なんていない中で言い出すのが恥ずかしくて」
「なるほど」御嶋にも得心がいった。「俺はお前みたいなやつの方が好きだぞ」
「す、好きだなんて。変なこと言わないでください」
彼は溜め息をついた。
「変なやつだなぁお前は」
道は暗く、虫が集っている街灯と民家の淡い光を頼りに二人は歩いて行く。100メートルほど前方にあるコンビニが異様に目立って見えた。
「寄ってくか?」
「大丈夫です。今フラフラで恥ずかしいですし、私顔赤いんですよね?」
御嶋は神尾の方を向いて笑った。少し馬鹿にするような笑みだった。
「見ないでください」
二人はしばらく無言になったが、耐えきれず神尾は口を開いた。機会が訪れた今、聞けることは聞いておこうと思ったのだ。
「ボスの両親はどんな方なんですか?」
「気になるか?」
「だってボスのこと未だにほとんど知らないんですもん。少しくらい良いじゃないですか」
暗がりでよく見えなかったが、御嶋は頭の辺りに右手をやった。顎を撫でているか首の後ろを掻いているのか、どっちだろうと神尾が考えていると、
「うちのもどっかに消えたよ。二人ともな」 えっ、と小さい悲鳴のような声を神尾は上げた。
「中学に上がる前くらいにな。学校から帰ったら置き手紙と金と家を残して消えていた。手紙も粗末なもんで、ごめんの三文字と聞いたこともない住所だけ書いてあった」
置き手紙に書かれていた住所を訪ねると老夫婦が住んでいた。事情を知っているらしい二人は母方の祖父母で、ばつの悪い顔をして御嶋を家に上げた。
「そこからは二人して何度も謝ってきた。俺を捨てた両親の代わりに」
「今まで祖父母と面識無かったんですか?」
「遠くの家だったしな。その時まで俺の中では祖父母と言ったら父方の方だった。思えば初めて一人で電車に乗ったのもあの時だったな」
酷いもんだよ、小学生を置き去りなんて親のすることじゃない。と御嶋はぼやいた。
「で、俺は遠い遠い祖父母の家で暮らすことになった。当時は考える余裕も無かったが、急な転校で祖父母は大変だったろうな」
「それで、どうして両親はいなくなったんでしょうか」
神尾は恐る恐る尋ねてみた。両親揃って蒸発などただ事ではないと思った。
「不倫だよ」
「…どちらの?」
「どっちもだ」
御嶋は歩みを止めて、その場に立ち尽くした。「だから俺は両親の事を知らない。俺と過ごした時だって腹の内で何を考えていたのか分からないんだからな」
今が夜で良かったと神尾は思った。きっとボスは今まで見たことのないような形相をしているに違いない、負の感情を帯びた表情を見たくないと、そう思ってしまったのだ。
「…すまん、ちょっと酔っ払ってたみたいだ。違う話をしよう」
「ええ、変なこと聞いちゃってすみません」
いきましょ、と神尾は御嶋の手を引いた。
「お、おい離せって」
「いいじゃないですか手を繋ぐくらい」
「汗ばんでる」
「もう!二度と繋ぎません」
御嶋は笑っているようだった。それなら汗ばんだ手を差し出した甲斐があったものだと神尾は胸を撫で下ろした。
「なんだか酔いが覚めたみたいだ」
「私もです」
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