第29話 約束
「小説?凄いわねえ、私にも読ませてくれないかしら」
「小説なんて久しく読んでないな。でも神尾さんが書いたのなら是非読んでみたい。ところでまた猫の写真を撮ってきたのだが…」
山田や樋口にも公開をせがまれたが神尾は断固として断った。読み返す度に他人に披露などなんとおこがましい事かと葛藤した。
「気づきませんでした。あの端末にもう一人の私があんな事を書いていたなんて」
「こんな形で伝えてしまったこと、申し訳なく思っています」
例によって御嶋はバックヤードに引きこもり、店内は二人だけだった。そこは夜に迷いこんだ森のように静かで、時の流れが遅くなったように感じられた。
「いえ、散々迷惑をおかけしましたから謝るのはこちらの方です。それに彼女の分まで頑張ろうって思えましたし」
そこまで言うと倉橋はバッグの口を開け、紙束を取り出した。それは原稿用紙の束、つまりは神尾の熱量を倉橋は恭しい手つきで返した。
「素晴らしい作品でした…神尾さんにも力を分けて貰えたような気分です」
倉橋は恍惚とした表情を浮かべて言った。それは小説家「向木呑」として最大の賛辞の言葉だった。
「神尾さんが気にしていたように確かに文章力が秀でているとは言えませんが、この作品からはあなたの人柄や熱意が良く伝わってきます。私小説ならばこれで良いのです」
原稿用紙は神尾が貸し出した翌日に返ってきた。その速度からして、ある程度好印象を抱いたことに偽りはないだろうと神尾は安堵した。
「ありがとうございます…でも書く事って大変だなって思いましたよ。寝る時間を惜しんで書きましたもの」
「目のクマはそういうことです?」
神尾はしおらしく頷いた。
「接客中は欠伸できないので大変なんですよ」
「よく下を向くのは我慢してる時ですよね」
「あ、あははは」
倉橋こそ、前は下を向いてばかりだった。ただ今は他人を観察する余裕すらあるのだ。その変化に神尾は密かに微笑んだ。
「あ、また下向いて」
「これは違いますよ」
倉橋はカフェラテを啜った後、神尾が抱えている原稿用紙の束を見やって言った。
「書くの…楽しかったですか?」
釣られて神尾も目を落とした。
「どうでしょう。でも新鮮な気持ちになったというか、一人称視点でしたし自分を見つめ直す良いきっかけになったような気がします」
「それはきっと今に幸せを感じているから」
神尾は相好を崩した。
「そうかもしれません」
「じゃあまた」倉橋はカップを包みこむように両手で握った。「いつか楽しいって感じられる瞬間があったら、また書いてください」
眼鏡の奥の瞳が爛々と、真っ直ぐ神尾を見つめていた。
「私に見せなくたって構いません。自分のために、また」
「自分のために?」
「ええ、私小説に限らず、小説ほど自分の内面を表現しているものはありません。いつか自分の人生を振り返りたくなった時のために」
「読み返したら恥ずかしくなって捨ててしまうかもしれませんよ」
「あり得ません、それだって良く書けていましたから。私が保証します。私ももうお酒に頼らないって誓いますから、ね?」
「分かりました、約束します」
魔法のような力強い言葉に神尾は頷いた。
「今度お酒飲みましょう」
その後、どちらともなくそんな話が出た。後日行われた二人飲み会は、お互いが下戸故に惨憺たるものになり、神尾の作品の感想会どころではなくなった。
「二人とも、お酒は程々に」
飲み会会場を提供した御嶋からも咎められたこと、これは私の小説に書かなくていいことだと、アルコールの抜けない頭で神尾は思った。
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