第27話 母の教え

「最近、ボスとゆっくり話すことが減ったなって思ってました」

 夏の空には夜の帳が落ち、いつの間にか外は暗くなっていた。静寂を紛らわせるためか御嶋は店内にピアノジャズをかけていた。

「前より客も増えてきたからな。お前のおかげだよ」

 彼はちびちびとビールを舐めながら言った。

「お前が来てから色々な事が変わったように思う。来る客の笑顔を見ることが増えたし、良い意味で賑やかになった」

「それを言うなら私の方もです。今までこんなに人とコミュニケーションを取ることなんてなかったのに」

 神尾のグラスが空になった事に気づいた御嶋は次のカクテルを作った。彼は色合いが被らないようにと趣向を凝らし、神尾はそれを物珍しく見ながら礼を言って受け取った。

「やっぱり天職だと思うぞ」

「そうかもしれません、けど今は別の夢があるんです」

「おお、なんだ?」彼は少し身を乗り出すようにして尋ねた。

 神尾は胸を張り、高らかに答える。

「小説家です」

 御嶋は目を眇めた。

「それは…倉橋さんの影響か?」

「冗談です。でもほんとに今書いてるんですよ?」

 神尾は執筆中の作品のあらましを包み隠さず伝えた。それは御嶋なら決して口外しないだろうという信頼を抱いた上で、ここでの出来事を書き記す許可を得るためだった。

「構わないが人に見せるんなら山田さんたちにも許可を取らなきゃな」

「ええ、今度聞いてみます」

 御嶋はほお、と顎を撫でた。

「それじゃあ、倉橋さんに見せるのか?」

「頼まれたので書いているのです」

「俺も読みたいな」

「ダメです、恥ずかしいので」

 ふむ、と彼は顎を撫でた。「無理にとは言わんが」

「だって執筆なんて今までやったことないですしお粗末な出来になるに違いありません」

 それにそれに、と神尾は捲し立てるように続けた。

「私小説といっても物語にできるほど面白い人生を送ってるわけではないですし」

「書いていて楽しければいいんだ」

 御嶋は微笑んだ。いつにも増して声を張り上げている神尾の顔が赤らんでいることに気づいたからだ。

「楽しいか?」

「えぇ、まぁ…あんまりない機会ですし」

 それならよい、と彼は腕を組んで頷いた。

「ボスはお父さんみたいです」

 彼女は恐れる素振りさえ見せず酒を呷った。

「な、なんだって?」

「お父さんがいたらこんな感じなんだろうなって」

 彼女は目を伏せて、空になったグラスの水滴を指で拭き取るようになぞった。顔の紅潮はあるいはアルコールのせいとも限らないようだ。

「いたらって…いないのか?」

「ええ、言ってませんでしたっけ。物心つく頃にはいなくなってました、お父さん」

 回りづらくなった呂律に少し嫌な気持ちになりながらも神尾は続けた。言葉は流れる水のように堰き止められなかった。

「小さい頃にね、母に聞いたんです。私にはお父さんいないの?って。そしたらお父さんね、死んじゃったのって。その後はただひたすら謝られて」

「亡くなっていたのか。すまん」

「いいえ、多分離婚です。だって葬儀の記憶なんてないですし、周りの人も敢えて父のことに触れてないような、あるじゃないですか、そういう違和感って」

 まぁ分かるな、と御嶋は相づちを打った。

「その、なんだ。他の話にしようか」

「はい、すみません。変なこと言って。ボスにお父さんなんて失礼でしたよね」

「お、おい泣くなって」

「でも、でもね。それくらい好きです、ボスが」

「もしかしてお前泣き上戸か…いいからこれ飲みなさい」

 御嶋が差し出した水を神尾は一気に飲み干した。それから目を瞑って、春風に吹かれた植物のようにゆらゆらと揺れながら言った。

「泣いたらなんかスッキリしました」

「ならいいが、今日はお酒やめとこうか。このままだと倉橋さんみたいになりかねん」

「それを聞いて一気にやめとかなきゃって思いました」

 御嶋はクククと笑った。

「歩けるか?帰れないならここで仮眠してってもいいが」

「いいえ、帰ります。ちゃんと歯を磨いて身体を洗ってから寝なきゃなので」

「変なやつだなぁお前は」

 片付けもせず、二人は店を出た。

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