第26話 夜の喫茶店にはアルコールの匂い
夕飯時を少し過ぎると店内はひっそりと静まり返った。店内のBGMが止まった今、時計の秒針だけが未来へ進まんと音を刻む。
「これは好都合だ」
二人はいつもより閉店の準備を始めた。もうすっかり分担は決まっていて、いつものように神尾が店内の掃除や整頓、御嶋が厨房の片付けに取りかかる。
神尾が表札を裏返すために外へ出ると鈴虫の鳴く声が遠くに聞こえた。その音さえ吸い込むように大きく深呼吸をした。
開店前とは違う閑静さもまた彼女は気に入っていた。関係者以外が立ち入れない時間に作業をしていると、改めて自分が『Rコール』の従業員であることを実感をするからだ。
「ボス、こっち電気消しますよ」
神尾が店内から御嶋へ呼びかけると、
「ああいや、付けといてくれ」
どういうことかと厨房に入ると、彼は大量のボトルや瓶を眺めていた。どれも神尾には見覚えのないものだった。
「それお酒ですか?」
「そうだ。持てる分だけカウンターへ運んでくれ」
「はい…こんな真緑なお酒あるんですか?」
「まぁまぁ、後でのお楽しみだ」
一通り運び終えると御嶋は姿を消した。おそらく彼の住居である二階から何かを持ってくるのだろう、この酒類もそういうことに違いないと神尾は思った。
「待たせたな」
しばらくすると御嶋は戻ってきた。その手にはやはり見覚えのない道具が握られている。
「ボス、誕生日祝いってまさかここで?」
「そうだ」
「私てっきりどこか行くのかと。居酒屋とかバーとかそういう」
御嶋はクククと笑った。
「ま、座ってくれ。飲もう」
神尾はカウンター席に座り、御嶋はテーブルを挟んで向かい合うように立った。
「こんなに大量にありますがどれを飲めば…?」
「これは材料みたいなものだよ。俺が作る」
「ボスが?」
「そうとも」
御嶋は頷いた。その顔には不敵な笑みを浮かべている。
「安心しろ、度数は低めで作る」
そういって彼はスチール製のボトルのようなものを取り出し、そこに何種類もの液体を入れ、振って混ぜ合わせた。
「おお、それっぽい。ボスってお酒も作れるんですか?」
「まぁな。いつかバーも開きたいと思ってな、色々勉強してる」
御嶋の笑みが少し照れ隠しのそれに変わったことを神尾は見逃さなかった。滅多にしない自分の話になると彼はいつもこうなるのだ。
出来上がった飲み物が清涼感のある音を立ててグラスに注がれる。透明で、淡いピンクのカクテルだった。
「どうぞ…誕生日おめでとう」
「ありがとうございます、いただきます」
神尾は臆することなく初めての酒を呷った。それ程までに彼女は御嶋の作る飲み物への信頼を寄せていたのだ。
「お、おい。そんなに一気に飲まない方が…」
「美味しいです、これ」
というのも口当たりはジュースのそれで、彼女にはこれが大人への階段だという実感が湧かなかった。
「無理して飲むんじゃないぞ」
「全然平気です」
冷たくてすっきりした甘さが舌を滑り喉を落ちる。日は沈んだとは言え気怠い暑さの続く夏場にこれはたまらない。神尾は「くふぅー」と疲れを飛ばすような息を吐いた。
「おお、老けたな」
「失礼な!」
御嶋は自分の分にと同じカクテルを作り、それを勢いよく飲んだ。
「確かにアルコールは感じないな。次はもう少し濃いやつにしてみようか」
神尾はゴクリと固唾を飲んだ。
「お願いします」
「なんか飲みたいのとかないのか?」
「そう言われてもお酒のことなんにも知りませんし…まぁビールとか?」
興味があるわけでもなく、お酒と言ったらビールかワインしか彼女は知らないのである。
「丁度瓶のがあるな。これを分け合おう」
御嶋はビールの蓋を軽快な音を立てて開け、丁寧に注いだ後、ほんの一口ほどしか入っていない方を神尾に差し出した。
「最初は美味しくないと思うぞ」
礼を言ってグラスを持ち、舌先で確かめるように触れてから口に含んだ。
「にぇ、なんですかこれ」
ビールの苦さを表すような渋面を彼女は作った。
「大人はこんなのを好んで飲むんですか?」
「そうとも、皆していずれ旨さが分かるって決まり文句のように言うぞ」
「大人になんてなりたくないですね」
御嶋はクククと笑った。
「かく言う俺もそんなに好きじゃないんだよな、これ」
「えへへ、ボスも子供です」
「違いない」
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