第25話 私は一旦筆を置く

 あれから数日経ちましたが、倉橋さんは一度として飲酒をしていないそうです。もう一人の自分に頼らない分苦心をしているそうで、息抜きにと頻繁にお店に来てくれます。テーブル席で一人自室でくつろぐようにリラックスし始めたかと思えば、突然試験中の学生の様な超集中で執筆道具に向かうときもあります。

 作家は全てを机の上で解決してしまうのですから不思議なものだと倉橋さんに言うと、

「そんなことはないですよ」

 と彼女はニコッと笑いました。ただマス目と睨めっこするより、路傍の石ころを蹴飛ばしながら無心で練り歩く方がアイデアに繋がることがあるのだとか。尚更不思議です。

「そうだ、神尾さんも書いてみたらどうでしょう」

 私が頭の上に疑問符を浮かべていると、突如彼女がそんな提案を持ちかけてきました。

「実は最近行き詰まっていて…気分転換に他の人の書いた物が読みたいなぁって思っていたんです」

 生まれて二十年弱、小説には人並みかそれ以上に触れてきましたが作り手になろうとは一度も考えたことがありませんでした。何故か?と問われても答えに窮します、逆に作家を目指さない方が自然でしょう。としか言えません。それくらい見向きもしなかったことなのです。

「それならプロの方の作品でも読んだ方がいいのでは…?」

「それでもいいんですけど、好きな人の作品なんて読んでみたいじゃないですか」

「書けと言われても…何を書けば?」

「誰しも今まで書きたいと思った物とかあるはずです」

「えぇ、ないですそんなの」

「えっ」倉橋さんは面食らったような顔をしました。「ないんですか?」

「普通は…ないのかと」

「まぁっ」

 かく言う倉橋さんは私くらいの頃には既に物書きに憧れていて、何作か掌編を書き上げていたそうです。

「最初は長編に挑戦しましたが挫けました。神尾さんも短いものから挑戦しましょう」

「え、私本当にやるんですか?」

「読んでみたいんです、神尾さんが書いた物」

 彼女の目は爛々と輝いていました。こと小説の事となると子供のような無邪気さを覗かせるのです。

「なんなら詩のようなものでも構いませんから」

 そう言われても重厚な物語や心に染みる詩なんて想像したことありません。倉橋さんの舌を巻かせる程の想像力と技量があれば喜んで首を縦に振るのですが。

「なら試しに私小説を書いてみましょう、ここでの生活とかどうです?」

 確かにそれなら書けなくもないな、と私は思ってしまいました。『Rコール』の話だけでも皆さんに許可を取りさえすれば…

「それかもっと小さい頃の話も読んでみたいですしむしろ想像力全開のファンタジーでも」

「わかりました、書きます書きますから!」

 元よりもう一人の彼女の為にも倉橋さんには協力するつもりでいたので、これが一助となるのならやるしかありません。それにプロの作家さんに自分の書いた物を読んでいただけるなど滅多にないでしょう。少しは興味が湧いてくると言うものです。


 

 そういう経緯があって筆を取り、なんとかここまで書きました。これで倉橋さんが納得してくれるかどうかは分かりません、ただ自分なりに丹精込めて書いたつもりです。

 書くにあたってボスや山田さん、樋口さんに許可は取りました。三人に見せて欲しいと言われましたが気恥ずかしさが勝りましたし、ここは私と倉橋さんだけの秘密にしていただけると嬉しいです。

 そして秘密と言えば酔ったときの倉橋さんの遺書ですが、さぞ驚かれたことと思います。あれは間違いなく真実です、今も私のスマホの中に証拠は残っています。「彼女」の要望通りずっと伏せていようとも考えましたが隠し事を続けるのは苦しいことなのです。

 お詫びというわけではありませんが今度お酒を飲みに行きましょう、他の人に迷惑がかからない範囲でなら付き合います。「彼女」からもこの作品の感想を聞いてみたいのです。

 そう、これを書いている間に私は二十歳を迎えたのです。初めてお酒を飲んだときのことも書きたかったのですが、一旦筆を置きます。

 稚拙な文章だったかと思いますが読んでくださってありがとうございました。またのご来店を心よりお待ちしております。

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