第19話 私の漠然とした不安
店内は真昼の日差しに彩られながらも、夜のような静寂に包まれていました。夏期は心地の良い冷房が効いていてここはさながら楽園のようだと私は思います。
小説家向木呑もとい倉橋さんが来店してから一時間以上が経ちました。その間に彼女はドリアを頼みそれを完食しました。それにしても不自然なくらいにボスが会話に加わりません。表に出るのは他のお客さんの応対の時くらいでした。
「つまり、今は3作品に一つは泥酔状態で書いている物なんですか?」
「ええ、不甲斐ないことに…」
「でも正直全然気づかなかったですよ。ところで私、『恋愛迷宮』が好きなんですけどあれはどちらが?」
「あら、読者だったんですか。幸いそれは今の私です」
「良かったです。あの恋愛とミステリーを掛け合わせる発想は中々出来ないですよ多分」
そうかしら、と倉橋さんは相好を崩しました。一時間の対話で少しは心を開いてくれたようで、彼女は笑顔を段々と見せるようになりました。
「でも、それほどの頻度だとかなりのペースでお酒を飲まれていたってことですよね」
「ええ、まぁ」
と、彼女は目を逸らし、頬を人差し指で掻きました。
「芋焼酎が好きなんですか?」
「え、飲んだことないです」
「嘘でしょう」
その後程なくして彼女は長居しすぎて申し訳ないので、とお帰りになられました。残された私がテーブルを拭いているとボスが漸く現れました。
「おつかれ」
「ボス、どうして来てくれなかったんです」
「寂しかったか?」
「む、そんなことないですけど」
ボスが求めたので、私は倉橋さんの事情を話しました。他人に打ち明けることについて倉橋さんに許可は頂いてませんが、彼女の「義理」にボスも含まれているはずですし、何より私はボスを信用しているのです。
「な、なるほど?」
しかしボスは要領を得ないようでした。確かに改めて考えると荒唐無稽な話だと私も思います。あの向木呑がここの常連だったなんて。
「本自体最後に読んだのが学生の頃だが、名前くらいは聞いたことあるな」
「有名人ですよ有名人、ちゃんと本も面白いですし」
「しかし本当なのかね」ボスは頭の後ろを掻きました。「あの酔った状態で小説が書けるとは思えんが」
「でも嘘をついてるような感じじゃなかったですよ。今度証拠も持ってきてくれるそうですし」
クククとボスは笑いました。
「その時は俺もサインくらい貰おうかな。店に飾って、あの小説でここが舞台になったんです!とかな」
「珍しく商業的ですね」
「冗談だ、そんなことしたらあの人はもう来なくなるだろうな」
確かに、と私はハッとしました。今後来るときは周囲に気づかれないよう十分注意を払った上で接客しなくてはなりません。しかし、私にはもう一つ重大な懸念点があるのでした。
「あのボス、これって私がお話を聞いてあげるだけで解決できるものなんでしょうか」
そう言うとボスがじっと私の目を見つめてきました。それがあまりに真っ直ぐな瞳をしていたので、こそばゆくなって目を伏せました。
「神尾、さっき倉橋さんが言っていたんだろう?人の経験がその人だけの木を育てるんだ」
「つまり、違う人の視点が役立つときもあるってことですか?」
ボスはニヤリと笑って頷きました。 「そういうことだ。たとえ相手が有名作家だろうと、お前の価値観や経験がその人を助けられる可能性があるはずだ」
「まぁ勿論やるだけやってみますが…」
じゃあ頼んだぞ、と言って彼は諸手を腰を叩くような強さで押さえました。
「よし、今日はもう上がって良いぞ。また明日な」
「あ、はい。お疲れ様です。また」
私は昼下がりの七和町を歩きました。今日は特に予定もないので久々の冒険です。住宅街の出入り口とも言えるような、道路の広くなる場所にはバス停があり、そこでバスに乗って駅前へ。車窓から見る景色に目移りし続けること十分、七和町が誇るメインストリート、駅周辺に降り立ちました。
通っている大学は家の周辺で、バイト先の『Rコール』も同様です。つまるところ、ここに来て一年経った今でも駅周辺は小さな贅沢か旅のようなものなのです。私は空気を噛みしめるような深呼吸をして、街の散策を始めました。
まず目指すべきは書店です。それがどこにあるかは分かりませんが、適当に練り歩いてダメだったらショッピングモールにでも入ろうという行き当たりばったりなプランのもと歩いていると、いつしか建物がグレー一色となりました。つまり私はビル群へと迷い込んでしまったのです。
「歩き方が下手だったかな」
そんな事を呟いても返事はありません。日の当たらないビルの谷間は心なしか冷たい風が吹いている様に感じました。
私はこういった無機質な建物を見るとつい思ってしまいます。この建ち並ぶビルの中にはどんな人が何をしているのでしょう、世間知らずには想像が働きません。仕事の為に缶詰をしているのかそれとも暮らしているのか、こんなに大げさな建物を持て余していないのかと。疑問を持っても私は何も知りません。
いや、若しくは想像したくないのかもしれません。将来の事を考えると頭が痛くなる、というのは誇張ですが、靄がかかってそれが脳細胞に纏わり付いて動きが鈍っていくような、そんな不快で不安な気持ちに駆られるのです。
遠く離れてしまった親友や大学の同級生にそれとなく打ち明けてみると、皆が同じような気持ちを抱いているようで、今が一番だよと口を揃えて言いました。将来に漠然とした不安を抱くのが誰にでも訪れるものならば、今はまだ気にする必要もないのかもしれません。
私は逃げるような早足でビル達が生やした薄暗い影から抜け出しました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます