第18話 私と有名作家

 ボスが運んできたカフェラテを啜りながら彼女、倉橋さんは事情を語りました。申し訳ないことに疑っていましたが、酔っていた時に名乗っていたこの名前は本名だそうです。

「ええ、あなたが『向木呑(ムカイ キノミ)』!?」

 「倉橋」が本名なら「向木呑」というのは作家としての彼女の名前です。その名は今や読書をしない方々でも名を知っているような、小説家界の第一人者です。ミステリーからSF、恋愛など幅広いジャンルの作品を手がけ、そのどれもが重厚なストーリーと読みやすい文章として多くの人に受け入れられています。

「はい、こんなに広まるだなんて考えもしなかったから適当につけた名前で…ほら、橋という漢字を分解しただけですもの」

 そういって彼女は持っていたメモに「橋」の字を書きました。

「なるほどたしかに…」 

「疑わないんですか?」

「昨日入らせてもらった部屋に大きな本棚がありました。作者別に整頓されていて、少なくとも本が好きな方なのは間違いないと思っています」

 それと、と私は少し躊躇いましたが続けました。

「毎回ここに来るときにそのメモ帳を持参されていますが、それはアイデア帳なんですよね?昨日そう言っていたんですよ」

 中身は見ていませんよ。と付け足すと彼女は安堵の息を吐きました。

「お求めなら証拠はいくらでも出せますが…ひとまずは信じてくださってありがとうございます、神尾さん」

「いいえ。でも本当の本当に向木呑さんならサインが欲しいですね」

「ええ、そんなことで数々の非礼のお詫びとなるのならいくらでも」

「気にしないでください、少なくともお店の中で被害を被ったことはありません。他の場所でのことは分かりませんが…」

「そこはもう一人の自分を信じます…」

「そう、そのもう一人の自分ってどういうことなんです?」

 この倉橋さん連続泥酔事件の発端となったのはもう一人の倉橋さん。彼女は「彼女」を呼び出す為に酒を呷るのだそうです。

「解離性同一性障害、所謂多重人格のことですけど、そういうんじゃなくて。単純な酩酊ですが、その時の自分は…凄いんです」

「はい、存じてます」

「いやそういうことじゃなくて」彼女は謝罪をしながら言いました。「作家として私より優れているんです」

 まるでカフェラテに話しかけるように、彼女の視線はテーブルの上にあるそれに向いていました。

「神尾さんは小説を書くにあったっての必要なものって分かりますか?」

「急ですね」

 回りくどい質問と感じる方もいるかもしれませんがあの向木呑の小説論が聞けるのです、心が躍らないはずがありません。

「やっぱ文章力、いや語彙?というんでしょうか。それとストーリーを思いつける発想力みたいな」

「はい、語彙力もそうですが私が言いたいのはもう一つの発想力の事で」

 やった、合ってた。私は心中で小さく喜びました。

「あくまで個人の理屈ですが、発想力を分解すると人生経験と想像力になるんです。この二つこそが作家を作家たらしめる独創性を作り出すのです」

 カフェラテで喉を潤した後、例えば、と倉橋さんは続けました。

「私の作品に登場するキャラクターは皆煙草は吸わないし猫が好きで活字を読むことに抵抗がない、手癖で書いているとそうなってしまうんです。これは私の人生経験がそうさせていて、ここから想像力で色んな人格を作り上げる必要があるんです」

「は、はぁ」

「実際に書いてみないと分かりづらい話かもしれませんね。木で例えるなら経験が根っこや幹で想像力が枝みたいな」

「なんとなく分かるような」

 私は唸りながら首肯しました。

「ええと、何が言いたいのかというと私という木の幹が作り出せる枝には当然限界があるわけです。でも酔ったときの私はまるで別の木に変わったかのような、普段の自分では作れない作品を作ってくれるんです」

 作ってくれる、という他人事な言葉が少し引っかかりました。彼女はやはり泥酔時の自分を別人のように捉えているようです。確かに両方の彼女を知る私から見てもまるで別人のように映りますが。

 私はなるほど…、と我ながら煮え切らない返事をしました。

「疑ってるわけじゃないですけど、本当にあんな状態で物を書けるのでしょうか?」

「私も最初は驚きました。目が覚めたら部屋の原稿用紙に覚えのない文字が羅列していたり、アイデア帳にメモのような走り書きがされていたり。そんなところに文字を書けるのは私だけでしょうし、どれもが捨て置くには勿体ない程の秀逸なものなのです」

「文字通り寝ても覚めても生粋の小説家、ということでしょうか」

「そう言うと聞こえはいいですが、私の感覚からすればただのゴーストライターに過ぎません」

「そ、そんな言い方…」

 倉橋さんはわざとらしいくらいの大きな溜め息をつきました。

「でも、事実です。書いた覚えのないものを自分の作品として寄稿しているんですから」

 少なくとも私にSFは書けません。そう言って彼女は皮肉めいた笑いを浮かべました。本当はそんなものに頼って食い扶持を稼ぎたくない、という感情が透けて見えるようです。

「こんな不健全な事をすべきではないと分かっています、ですがもう遅いんです。彼女にはファンが多すぎます。彼らを裏切ることは出来ません」

「…この事を知ってるのは?」

「今のところ私とあなただけです。ねえ神尾さん、私はどうしたらいいのでしょう」

 小説家、向木呑はか細い助けを求めています、それもほぼ初めて話す人へ。素っ頓狂なシチュエーションですが人助けこそ『Rコール』従業員である私の本分なのです。私は私の育てた木を彼女の為に使うと決意しました。

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