第17話 私と酔っ払いさん

「おはようございます」

「おはよう」

 開店の十分前、『Rコール』はいつも通りの静けさを湛えていました。

「あのボス、怖い夢って見ますか?」

 ボスがコーヒーカップを二つ机に置きました。この時期は蜂蜜入りのすっきりとしたアイスコーヒーかマシンから抽出されたカフェラテをくださいます。今日は後者でした。私はお礼をしてなるべく恭しく受け取りました。

「怖いって、どういう意味での?」

「意味は問いません。嫌な夢と考えてください」

「そうだなぁ」ボスは緩慢な動きでカフェラテを啜りました。「元カノに振られる場面とか」

 驚いてコーヒーを吹き出すところでした。ボスからそういう話が出るのは初めてかもしれません。私は理由も無く平静を装って聞き返しました。

「も、元カノなんていたんですね」

「そりゃ、この歳でいない方が少ないんじゃないか」

「うーん…それもそうですが」

 といっても私はボスの年齢を知りませんから見た目で推測するしかありません。ここに来て一年以上経った今でも、私はボスの人となりをほとんど知らないのでした。

「何か不満か?」

 私は首を横に振りました。

「今のは冗談だ。さ、それ飲み終わったら店を開けるぞ」

「あ、はい」 

 私は生返事をして応じました。真実はボスのみぞ知るというやつです。


 約束、というより一方的な呼び出しに応じて、お姉様は素面でやってきました。時刻は正午、お昼時でしたが他のお客様はいません。悲しきかな『Rコール』では見慣れた風景ですが、今は好都合です。

「いらっしゃいませ」

 素面の時はいつもおどおどとしている彼女ですが今日はそれが一際目立っています。まるで後ろめたいことがある時に先生に呼び出された子供のような表情でした。そんな顔でカウンター席に座るお客様を見るのは初めてです。

「あの…どうも」

 さながら叱られる前の生徒の様なか細い声で彼女は言いました。眼鏡の奥で瞳は伏せられていて、微かに潤んでいるようにも見えました。私は両手を胸の前で振り、

「い、いえそんなに怖がらなくて大丈夫ですよ」努めて宥めるように言いました。「それより、何か飲みますか?」

 私が差し出したメニュー表を彼女は仰々しく受け取りました。

「じゃあ…カフェラテで」

「かしこまりました」

 私は厨房にいるボスにオーダーを伝えて、再度お姉様のところへ戻りました。今日の私の業務は彼女から事情を聞き出すことなのです。

「わたし…」目を伏せて彼女が言いました。「やっぱり酔ったときに何かやらかしていたんですか?」

「覚えてないんですか?」思わず質問で返してしまいました。

「はい、今まで外に出ていた事にも気づかなかったです」

「なんと…」私は手で口を覆いました。「本当に酔うとそうなるんですね」

 私が未成年でお酒を飲んだことがないという事を伝えると、彼女は仰天しました。

「お若い方だとは思っていましたが未成年だったなんて」

「ええ、まぁあなたが酔ってるときに一度言った記憶がありますが」

「すみません…」

「謝らないでください。あれ、それじゃあ私の名前も覚えてないですか?」

「はい、すみません…」

「まあっ」文字通り開いた口が塞がりません。「まるで二重人格ですね」

「そうなんです」

 二重人格と言う言葉に強く反応を示したのか、今日一番とも思える強い口調でキッパリと彼女は言いました。しかしやっとのことでこちらに向けた顔は当惑の色を浮かべています。やはり何やら事情があるに違いありません。私はこれを皮切りに、話を振ってみました。

「良ければ話してみてくれませんか、頻繁にそこまで飲んでしまう単なるお酒好きさん、という訳ではないんですよね?」

「ええ、そうなんです。そうなんですけど」

 そこまで言って彼女はまた顔を伏せてしまいました。

「言って良くないことだったら言わなくて構いません、ですが私たちはちょっとでも助けになりたいんです」

 少しの沈黙が流れました。私は助けになる、なんて強気な事を宣言したものの無力な様を晒してしまったらどうしようかなどど考えていると、彼女はたじろぐように息をつきました。

「分かりました、言います。迷惑をかけてしまった相手に言わないのも不義理だと思いますから」

 そうして彼女は話し始めました。

「実は私、小説家なんです」

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