第16話 私の次の仕事

 お姉様は私と同じようにアパートで暮らしていて、案外という言葉は失礼に当たるかもしれませんが、整理整頓の行き届いている部屋です。少なくとも前にお邪魔したときはそうでした。

 そのアパートは『Rコール』から徒歩五分もかからない位置にあります。私の住んでいるところとは反対方向なので私と近所というわけではありませんが、住宅街の景色の一端を担う建物という観点から見れば同じようなものです。

「何号室だったっけ?」

 お姉様を引きずって歩いていたので十分はかかりましたが、私たちは彼女の自宅へと到着しました。

「確か101号室です」

「防犯の面とか不安だなそれ」

 私は部屋のドアノブに手をかけました。

「戸締まりは一応ちゃんとしてありますね」

「とにかく開けてもらおう」

 私たちに支えられるようにしてなんとか二足歩行を成している彼女から鍵を受け取って、私たちは中に入りました。「出せ」と言われてあっさりと部屋の鍵を取り出したものですからこれでは施錠による防犯の役割も半減です。私は不安でなりません。

「ただいまー」

「えと、お邪魔します」

 彼女の家は玄関のすぐ横にキッチンがあり、すぐに目に付く調度品は冷蔵庫と電子レンジくらいです。あとはダイニングとお風呂に続く扉があるだけでした。私の部屋とあまり大差ありません。少し前まで知りませんでしたが、男女問わず一人暮らしの部屋というのは中々殺風景なもののようです。これはお金のない人の話です。

 ダイニングにはベッドの他に背の低い一人用の丸テーブルとクッション、そして一番の特徴として奥の一面には壁が隠れるほどにぴったりと本棚が設置されていました。それはまるで大きな図書館から一部を切り取ったかのような厳粛な威圧感を放っています。

 本棚の中身は小説ばかりで、作家名の五十音順で並べられていました。まるで個人の趣味で選定された古本屋のようだと私は武者震いをしました。読書家という同士が少ない昨今で、同好の士の本棚を眺める機会が生まれようとは。倉橋さんは一体どのような読書嗜好の持ち主なのでしょうか、近づいて手を伸ばそうとしたところ、

「あんまり人の家を物色するのは良くないかもだな」

「あー、はい…そうですよね」

 ボスに止められてしまいました。確かに彼の言うとおりですし今度素面のお姉様に聞けばいいやと、上げかけた腕を下ろしました。


「またのお越しをぉ」

「はいはい、ちゃんと戸締まりしてくださいね」

 その後、お酒を懇願するお姉様を残して私たちは退散しました。彼女が施錠をし、再度抜け出さないことを祈って。

「あの、ボス」

 真夏と言えど夜の帳は完全に下りていて、街灯と民家から漏れる光を頼りに私たちは帰路を辿りました。ガス灯のようなレトロな外見の街灯に視線を合わせたまま私は口を開きました。

「どうした」

「あのお姉様、倉橋って名乗っていましたが知ってました?」

「いいや」ボスは首を横に振りました。

 泥酔時の彼女は取り付く島もないし、かと言って素面の時は頭の上に湯気が立ち上るんじゃないかと思えるくらいに何かに苦心しているようで声をかけるのが憚られるのです。聞き出しでもしない限り彼女の名前を知る由などないでしょう。

「しかしあの人は常連の中でも古参と言っていいくらい前から来てくれてるが、お前がやってくる前は酔ってやってくるなんてあんまりなかったんだ」

「うーん、なんであんな事に?」

「そう、それが知りたくてな」

 街灯や民家の光ではボスの表情を読み取ることは出来ませんでしたが、それは少し声色に笑気を含んでいるように聞こえました。

「お前の次の出勤に合わせた時間に来るようにと、さっき手紙を置いてきた。良ければ聞き出してくれないか」

 ええっ、と私は声を漏らしました。

「いつの間に」

「物色はダメでも置き手紙くらいいいだろう?」

 確かに、話し合いにならないのなら手紙を綴るのが最良の策だと思います。ですが何故私が聞かなければならないのでしょう。

「お前が適任なんだ」

 暗がりでもボスには私の表情が見えたのでしょうか、それとも声のトーンで見透かされたのでしょうか。ボスは切り込むように私の疑問に答えました。

「私が聞くのはいいですが、ボスがやったって大丈夫だと思うんです」

「大丈夫かもしれんが神尾にやって欲しいんだ。頼んだぞ」

「はぁ、やってみます」

 私は期待半分不安半分の首肯をしました。

「ところでそれで給料あがったりします?」

 む、とボスが小さく唸る声が聞こえました。「まぁ…なんか一食分くらいは奢るさ」

「合点承知です」

 私たちは暗がりの中密約を交わして、その日は解散しました。


「よっこらしょ」

 その後私は自宅付近の公園に寄り、友人に会いにいきました。山田さんの愛猫、シャロちゃんの彼氏である野良猫のことです。私はその子を「ユウヒ」と名付けました。会う時間の大体が夕方だからです。

「今日はちょっと遅くなっちゃったよ」

 私たちはベンチに並んで座りました。餌をあげ続けた結果、ユウヒは幾分か懐いてくれたようです。最近は私の横で安心したように丸くなってくれて、身体を撫でてもゴロゴロというだけで逃げたりはしません。

「あー、報酬が現金だったらユウヒのご飯も買えたのにね」

 ユウヒはこちらを向きはませんでしたが、聞いているぞ、と言わんばかりに尻尾を一振りしました。

 その不遜な態度が実家の猫にそっくりで、私は一層彼を愛おしく思うと供に、実家と愛猫を思って一抹の寂しさも覚えました。

 生ぬるい初夏の夜風が私とユウヒの間を抜け、青い葉をつけた木々の枝が嬉しそうに揺れて葉を鳴らしました。私はユウヒの頭をトントンと撫でながら目を閉じてその自然の音に耳を傾けました。

「なんだか寂しいよ」

 そのままじっとしていると、突然、まるで超常的な自然の中に迷い込んだような錯覚が私に迫りました。そこは日が届かない森の中で、屹立する大木とそれに絡まった蔦、足下には私の膝まであるような背の高い草が生えています。耳を澄ませても鳥の声は聞こえません。ただ葉が風に揺れる音だけ。誰もいない、私しかいない空間。虫たちは私に怯えて土の中にいます。だからこの場所では私こそが異物なのです。私は逃げるように早足で歩きました。どこがどこに繋がっているかも知りませんが、振り返り、後ろへ向かってただただ歩きました。

 

 ユウヒの頭の感触が私を現実に引き戻しました。知らずのうちに少しウトウトしてしまったようです。

「帰らなきゃ」

 私は立ち上がって伸びをしました。すると欠伸も同時に出ました。日頃の疲れが溜まっているのかもしれません。今日はとっておいた入浴剤を使おうかな。

 私を見つめていたユウヒにさよならをして、私はいつもより早足で帰りました。

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