第15話 1年後の私

 年が明けて、学年を一つ繰り上げて、『Rコール』では私の勤務一周年記念を祝い、今はここ七和町で二度目の夏を迎える頃になりました。 変わったことを挙げるならば、『Rコール』は以前よりも客足が増えたような気がします。それはボスと私の弛まぬ努力の成果だと言えましょう。常連客は猫マダムの山田さんと、カレー好きの樋口さん。それ以外では、

「飲む!今日は飲む!」

 時は金曜の夕暮れ、けたたましく鳴らされたドアのベルでさえも驚くような声量で、彼女は千鳥足で入店してきました。

 歳は三十前後といったところでしょうか。背の高いお姉様です。耳からずり落ちそうな眼鏡を気にも留めず、カウンター席の方へと剛気な足取りで近づいてきます。なんとタイミングのいいことか、彼女こそが数少ない常連の一人なのです。

「げっ」

「今『げっ』て顔してたけど!」

「顔というか言葉にまで出しましたが」私は声を潜めて呟きました。

「ボス来ました。芋女、信号赤です!」

 私がそう叫ぶとバックヤードからボスが頭を掻きながら現れました。

「やっぱそれ面白いな」

「そうでしょう」

 するとお姉様は「あたしのこと!?それ!」と怒鳴りましたが壁に向かって叫んでいたため無視することにしました。

 説明させてたいただくと芋女というのはこのお姉様が頻繁に芋焼酎を注文することから付けられたあだ名です。あと言うまでもないことですがここに酒類は置いてありません。

 そして信号赤というのは彼女の顔色の事です。彼女が素面の時は報告する必要が無いため青信号を叫んだことはありません。

 私が露骨に嫌な顔を浮かべてしまったのは勿論彼女の酩酊状態が原因です。この人は酒癖が看過できない程に悪く、酔うとハシゴ先にここを毎度のことのように選ぶのです。多分酒を連想させる店名がいけないと私は思うのですが。

「神尾、悪いが適当に相手しといてくれ」

 そう言って厨房へ向かうボスに私は溜め息交じりに返事をしました。

「ええ、もう慣れっこです」

 幸運なことに今は他のお客様がいません。不運なケースが一度ありましたがその時は私が彼女を家まで送りました。住所を聞き出すのに一時間はかかりましたが。

 残された私を、芋お姉様はじっと見つめていました。

「神尾ちゃん」

「なんでしょう?」

「ふへへへへ」彼女は女性らしからぬ下品な笑いを浮かべました。「き、今日も可愛いね…」

「え、はぁ。なんでちょっと照れてるんです…」

 私はわざとらしいくらい大きな溜め息をつきました。

「それで、今日はどうして飲んでるんです?」

「えーー。わかんない。わかんないから飲んでる?」

「そうですかぁ」

 酔っ払いに正鵠を得た答えを求めてはいけません。なので適当に受け流しておけばいいのだと私はボスに教わりました。

「そういえば私あなたのお名前を知らないのですが、聞いても?」

「くらはしぃ」そう言って彼女は吹き出しました。「わたし、くらはしぃ」

「倉橋さんですねー」

 それが本名なのかはさておき一応頭の片隅に入れておくことにして、ついでにもうひとつ質問してみました。

「いつもメモ帳みたいなものを持っていますけど、どんなことを書いてるんです?」

 彼女は酔っていようとそうでなかろうとポケットに収まるサイズのノートを必ず所持しています。何かの拍子にそれを取り出してはささっと端から見ても分かる程の勢いで殴り書きをし、隠すようにまたポケットにしまうのでした。

「まー、アイデア的な」

 アイデア?と聞き返そうとしたところでボスがやってきました。

「はい、酔い止めです。歩けそうなら帰ってもらいますけど」

 酒酔いの為の薬が常備してあるカフェは日本中を探してもあまりないかと思います。同業者に差をつけるためのアイデンティティにするには拙いものですが。

「あたし今日は飲むの!」

「今日はもう店じまいにしようと思ってたとこなんです。ほら、送ってきますから」

 そう言葉をかけても腰を上げる素振りを見せない彼女でしたが、禅問答の末に最終的には「僕たちも今から飲みに行こうと思っていたので一緒に行きましょう」という説得で席から引き剥がしました。嘘も方便という言葉を私は今理解しました。

「私まだ未成年なので飲めないんですけど」

「余計なことを言うんじゃない。ほら行くぞ」

 千鳥足のお姉様に時々寄りかかれながら、私たちは彼女の自宅へと向かいました。

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