第14話 私の晴れやかな日
「寂しいのなら、猫を飼えばいいじゃない」
山田さんはケロリとした顔で言い放ちました。かのマリー・アントワネットもこんな表情であの名言を言っていたのかもしれません。
樋口さんはコーヒーを音を立てずに啜りました。
「これも何かの縁ってやつかな。そうさせて貰いますよ」
微かに口角を上げてそう言い、私たちも同じように微笑み返しました。
「良かった。じゃあまた今度連絡させて頂きますからね」
二人は連絡先を交換し、程なくして山田さんは商品をあっという間に平らげてお会計を済ませました。
「他の里親も見つけなくちゃいけないから、それじゃあね」
「はい、タイミングが合って良かったです。お二人にとっても」
私には何の利害も発生していませんが、すこぶる清々しい気分でした。これ程晴れやかな気分になったのはいつぶりでしょうか。
「また来るわね」
山田さんが胸の辺りで手を振ってお店を出ました。気分が高揚していたので私も同じように手を振りました。ですがこれは店員としてははしたない行為だったかもしれません。
「いい人だったね」
山田さんの背を見送るように見ていた樋口さんがそう言いました。
「少し天然の気があるかもしれませんが、とてもいい人だと思います」
そう言ってからいつの日かボスも同じように評していたことを思い出しました。
「神尾さんは元々知り合いだったようだけど?」
「ああ、それはですね」
私は山田さんとシャロちゃんとの出会いについて話しました。思えばあれは樋口さんと出会うすぐ前日の事でした。なんだか運命めいたものを感じます。
「なるほど、じゃあ少し違えばそもそも里親の話さえ無かったかもしれなかったわけだね」樋口さんは言いました。「本当に、何かの縁ってやつだね」
「ええ、そうですね」私は頷きました。
「さて、私も長居してられないな」
これから飼い主としての勉強しておかなきゃ、そう言って彼は立ち上がり、ポケットから財布を取り出しました。
「ごちそうさま、お会計いいかい?」
私が返事をしてレジへ向かおうとすると、バックヤードからボスが飛んできました。
「間に合った間に合った。樋口さん、もし良かったらこれを」
そう言って彼は綺麗に折りたたまれた紙きれを渡しました。
「これは?」
「あー、まぁうちのカレーのレシピです」ボスは照れくさそうにはにかみました。「実は結構家でも再現しやすいようなものなんです」
樋口さんはにやりとしました。
「にんにくと生姜とコンソメを使う、とか?」
彼の目が一瞬こちらに向いた気がして、私はぎくりとしました。
「え、分かったんですか?」
ボスは意表を突かれたような顔をしました。
「私の舌とて馬鹿じゃないさ」一瞬だけ、樋口さんがこっちを見た気がしました。「しかし教えちゃっていいのかい?」
「こんな拙い物で申し訳ないですが、常連さんへの手向けとでも思ってください」
ボスは目を伏せて言いました。
「こんな小さい店ですから、常連さんって貴重な存在だったんですよ。今際の際にここに来て欲しかったとか贅沢は言いませんが、やっぱりどうにかして感謝の念は伝えたかったので」
「とんでもない、ここまでしてもらって礼を言いたいのは私、いや私たちの方だ」
樋口さんが深々と頭を下げました。
「また来るよ、今度は他のも食べてみたいしね」
その後お会計を済ませて、樋口さんもお店を後にしました。
「ありがとうございました」
樋口さんの背中に私たちはそう投げかけました。文字通り一仕事終えた私は疲れを乗せるように息を吐いて、しばらく立ったまま店内に微かに聞こえる曲と秒針の音に耳を傾けました。
「お疲れさん」ボスが私の背中にそう声をかけました。
私はボスの方へ振り返りました。
「はい、ボスも」
「俺はいつも通りだよ。神尾はこんなに長時間接客するの初めてだったろう」
「ボスがいないから不安でした」
「そうだったのか?」ボスは意外そうな顔をしました。「上手くやれてたじゃないか」
「それは…自分じゃあまり分かりません」
「これは自分を卑下するわけでも、お前を僻んでるわけでもないが、きっとお前には俺には無い才能があると思う」
突然そんなことを言われたものですから、私は面食らいました。
「才能ですか?」
「勿論おだててもないぞ。まぁまたお願いするかもしれないということだ」
「んー、ありがとうございます?」
「そう、それでいい」
ボスは掛け時計の方を向きました。釣られて私も見ると時刻は十五時五十五分でした。
「時間もちょうどいいな。四時になったらあがっていいぞ」
「じゃあ、お疲れ様です」
刻限まで周りの掃除をした後、私は帰路につきました。このまま帰っても退屈なのでいつもより遠回りをしていると、途中でふとあることを思いつきました。最寄りのコンビニで買い物をし、その足である場所へ向かいました。
角を曲がると現れる木々とそれを囲む薄緑色のネットフェンス。ただ一つの入り口には車止めが三つ。自宅付近に位置しながらシャロちゃんを探したとき以来寄ることのなかった公園です。
「いるかなぁ」
私はそんなことを呟きながら公園内を見渡しました。いつの間にか秋の空は夕暮れ時に差し掛かっていて、遊具で遊んでいた子供もすぐに母親の手に引かれて公園から去って行きました。
残されたのは塗装の剥げかけた遊具と私と、一匹の猫。
それは白と茶色の毛をしたいかにも野良といった姿でした。
木のベンチに丸まっているこの子が四ヶ月もご無沙汰となるとこの子がシャロちゃんの彼氏かどうか私には判別がつきませんでした。最初に会った時はシャロちゃんに見惚れてばかりでしたので尚更です。
ですが自分の勘を信じることにして、私はその子に近づきました。ゆっくりした足取りで接近に成功し、なるべく警戒されないように音を最小限に抑えてビニール袋から例のものを取り出しました。
匂いを感じ取ったのかその子は私の手に握られた物に興味を持った目を向けました。私は勝利を確信し、惜しみなくそれを与えました。
「おぉ。美味しいかい」
夢中になって猫用おやつを舐め取る彼にそう問いかけました。返事はありませんでしたが機嫌は良さそうだったので私は隣に座らせてもらいました。
「失礼失礼」
肌寒い空気と次第に黒が混ざっていく空とが冬の到来を告げているようでした。ここに引っ越してきてもう半年が経ったのか。ふとそんな感慨に似た感情を抱きました。ここの冬は地元のより寒くなると誰かが言っていたような気がします。明日からは上着を着ようかな。
一心不乱におやつを舐める猫を見つめながら色々な考えを逡巡させていましたが、しばらくすると猫は動きを止め、顔を離しました。
「あら、もう終わっちゃったの」
食べ終わるや否や満足げにフンと鼻を鳴らして彼は去って行きました。まるで餌が無ければ用はないと言わんばかりの素早い動きでした。
勿論、端くれとはいえ飲食店の従業員ですからこの程度の塩対応には慣れています。残された私はただベンチの背もたれに寄りかかって、夕日が黒に溶ける様を眺めました。そして、もしまた会えた時の為に彼の名前を考えました。
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