すいとんの歌
牛盛空蔵
本文
具材を切る。トントンとリズミカルに。
鍋が沸く。
そこへ具材を投入。うどんも入れる。
少し煮立たせて、お玉を少し入れ、味見。
「うん、まあまあだね」
男は穏やかに微笑む。
そのレシピを、男——日比野はしかと書き留める。
工程の一つ一つを、頭の中で再現、繰り返し、そのわずかな分量のミスすら思い出し。
やがてレシピが終止符を打たれ、ここに完成した。
次の料理雑誌に掲載する料理、その組み立て。
そこへ若い女がやってきた。
「よう日比野」
「お、どうした椎名。きみがここに来るのは珍しいね」
聞くと、椎名はやや口ごもる。
「いや……あたしではちょっと無理な案件があって」
と、そこへ老爺の声があった。
「おう姐ちゃん、こいつがおれのすいとんを食わしてくれるやつかい?」
老爺は横柄ながらも、目を輝かせていた。
日比野は料理研究家である。
といっても、料理店で働くシェフでも、料理を芸術として作るようなタイプの料理人でもない。
一般市民向けに簡易かつ美味いレシピを開発し、雑誌に寄稿して食文化の底上げに励む、ある意味最も身近な料理人であった。
彼は、料理の技術にかけては一流店のシェフにも劣らないという自負がある。また、料理をわけの分からない芸術にして遊ばないという道徳心も備えているつもりである。
しかし、彼が選んだのは、大衆の食卓を安価かつ簡便に彩る、民衆に寄り添う料理人の道であった。
椎名はその対極にあり、究極の技術と至高の食材をもって、最高の一皿を提供するシェフであった……が。
「椎名でも無理なのか」
その彼女ですら無理な案件が舞い込むとは。
「断るってのは……」
老爺の鋭い目線を浴びた。
「無理そうだね。オーケー、お話をうかがいます」
「おう。最初からそうしてりゃいいんだ」
うなずく老爺――建石に、しかし彼は釘をさす。
「言っておきますが、私よりそこの椎名のほうが、腕ははるかに上ですよ。それでも僕をご指名されるのなら、僕は全力で事にあたりますが、後悔されても責任は持てませんよ」
「いい、いいんだ、いまは誰でもいいから頼りてえんだ」
かなり熱い思いを持っている様子の建石。
「わかりました。お話をうかがいましょう」
ひととおり客観的に状況を話した日比野は、彼の話に耳を傾けた。
思い出の「すいとん」が食べたい。
彼の依頼はそこに尽きた。
「戦後すぐの頃だな、おやじとおふくろと、弟妹たちと一緒に食ったあのすいとんが、忘れられねえ」
しみじみと。
「なるほど」
「いまじゃおやじやおふくろはおろか、弟妹もみんな旅立っちまってよ……」
「それは、残念ですね」
日比野は静かにうなずく。
「もう死んだ人間を生き返させるのは無理だ、でも、せめてあの日のすいとんは死ぬ前に食いてえ。金はたくさんある、どうかあの日の思い出を味わわせてくれねえか」
「あの日の思い出、ですか」
「もうおれもかなりの年だ、いつお迎えが来てもおかしくねえ。その前にせめて、もう一度だけでもってな……」
彼はどこか哀しげに声を絞り出した。
とりあえず今日のところは家に帰したところで、日比野は椎名と相談。
「思い出の味か」
「いや、これまでに色々なシェフに声をかけていたみたいなんだ。だけどどれも『これじゃない』って感じだったんだとさ」
「理由は?」
「本人はあいまいなことしか言わないから、ここからはあたしの推測になるけど」
彼女は腕を組んだ。
「たぶんシェフたちは腕利きぞろいだ。きっと戦後の標準的なすいとんに、余計なアレンジを利かせてしまって、元の味わいを変えてしまったんじゃねえかな」
「つまり、きみの考えでは、戦後の標準的な作り方に忠実なすいとんを作ればいいって?」
「いや、それだけじゃない。きっと建石さんは思い出の効果で、『あの日』のすいとんを美化している。そこへレシピだけ同じすいとんをお出ししたところで、『これじゃない』感はぬぐい切れないんじゃねえか?」
理不尽であるが当然の心理といえるだろう。
「ふうむ、なるほど」
「ごめん、日比野、よく考えなくても無茶苦茶な案件を持ってきちまった」
「まあいいさ。……視点を変えよう。そもそもの話だけど、美味い料理をお出しする目的はなんだと思う、椎名」
「えっ」
虚を突かれたようだったが、しかしすぐに返答する。
「お客様に満足してもらうためじゃないか」
「そう、そこなんだ」
彼は大きくうなずく。
「思い出に浸るか否かではない。最終的に満足すればいい。思い出に勝てないなら、新たな価値をお出しすればいい」
「……どういうこと?」
彼は「ふふ、お楽しみ」とだけ言って、キッチンへ向かった。
やがて、準備ができた日比野は、依頼人の建石を自分のダイニングスペースに呼んだ。
仕事ではめったに使わないが、交流やパーティーをすることはあるため、それなりに気合を入れてこのスペースを作ったのだ。
ともかく。
「おう日比野さん、すいとん、すいとんを早く」
「承知しました。……こちらになります」
そう言って彼が出したすいとんは。
「……チーズ、トマトのにおい、おい日比野さん、これ本当にすいとんなのか」
「少なくとも私はそのつもりで作りました」
彼はすました顔で。
「団子も、これは明らかに違うな、ニョッキが近いか」
「ご明察です、これはニョッキに限りなく近いものです」
「ガーリック、香草の匂い、しかもこれはブイヨンか、むむむ」
建石は少し眉を下げた。
「なあ日比野さん。これは見ただけで、明らかに当時のすいとんを再現する意図ではないことは分かる。しかしおれを軽んじているわけでもないことは、この手の込みようを見ればまた分かる。いったいどういうことなんだ」
「とりあえず、一口どうぞ」
彼はにこやかに鍋を指した。
「むむ、いただきます」
ニョッキのような団子を一口。
「……うまい、これはうまい」
彼の心に染み入ったかのような一言。
「一つ提案があります、建石さん」
「なんだ」
「昔の思い出は大事です。人は思い出に支えられなくては、前に進むことも難しいでしょう」
「そうだな」
うなずき。
「しかし、我々は現在を生きているのです。思い出を捨てろとまでは申しませんが、前に目を向けて、いまの環境で楽しむ心があれば、昔とはまた毛色の違った幸せがあるのではないでしょうか」
チーズ、トマトスープ。ガーリック、香草。そしてブイヨンとニョッキ。そのどれもが、現在を見てほしいと切実に声を上げる。
「思い出に支えられた現在を、直視し、この環境で幸せを求めれば、きっと目の前は広がるに違いありません」
「……そうだな、うん、そうだな」
彼はただ、しきりにうなずくばかりだった。
満足した建石から謝礼をもらい、見送った日比野と椎名。
「なあ日比野」
「なんだい」
「お前、……すごいな」
心の底からとでもいうように。
「あたしの頭の中には、当時のすいとんを完全再現するか、枠を超えない範囲で絶妙なアレンジをするか、その二つに一つしかないと思っていた」
「まあ、普通はそうだね」
「枠ごとぶち壊すなんて、やっぱお前はすげえよ」
「基本だよ基本。料理を食べるのは、枠に収まるためじゃない。幸せになるためだからさ」
彼は事もなく言う。
「なあ日比野、あたしの働いている厨房に来ないか。副料理長の推薦とあれば、きっと総料理長も納得するさ」
「すまない。けど私は、料理研究家としてのいまの稼業が合っているんだ。その総料理長もかなりの腕だろうけど、その人とは進む道が違う」
「そうか……」
すると彼は「あ、そういえばあれがあったな」と言って、貯蔵庫を漁る。
「はい、みかん」
「みかん?」
「雑誌の編集さんの実家が作ったみかんだ。うまいよ」
彼はみかんを差し出し、彼女は「サンキュー」と受け取った。
すいとんの歌 牛盛空蔵 @ngenzou
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