進んだ時間と止めたい時間


あれから父とはほとんど会話をしなかった。

父も母を愛しているからこそのことだとはわかっていても、母の存在や、母の思い出をなかったことのようにされたことを許すことはできなかった。

そして私が中学に上がるときに父の転勤が決まり、私は母の妹の紗季さきさんに預けられることになった。

父なりの配慮だったのだろうか、そのときから私は父の姓名である " 宮間みやま " から母の旧姓 "月乃 " に変わった。

紗季さんに預けられたことは何かと都合が良かった。

紗季さんは母に似て優しかったけど、あまり私に干渉せずに程よい距離感を保ってくれた。

父だけでなく、周りの人全員に心を閉ざしていた私に紗季さんは言った。


「桜、今日から一緒に暮らすけど、気を遣わないで気楽にやっていいからね。

ただ、これだけは覚えといて。

桜が私を友達と思うなら、私は友達になる。

桜が私を姉と思うなら、私は姉になる。

桜が私を母親と思うなら、私は母親になる。

だけど、桜が私を嫌いになっても、

私は桜を嫌いにならない。

ま、そういうことだから後は好きにやって。」


紗季さんと一緒暮らすことは都合が良い、

というより幸運だった。

都合が良かったのは、これまでとは違う学区の中学に進学できたことだ。

正直、それまでの私を知っている友達と会話するのは億劫だったから。


_あんなに明るかったのに。


_お母さんが死んだから仕方ない。


気を遣っているのか、面倒だと思っているのか知らないけど、何かと母の死に結び付けられるのが憂鬱だった。

中学に入ってからは、私が人と距離を置いていても誰も干渉してこなかった。

当然、母の死に結び付ける人はいない。

最初こそ友達になろうと近づいてきたり、

グループに入れようとする人たちもいたけど、

ずっと無関心でいれば、あの人はああいう人だから、と向こうから距離を置いてくれる。

その手の噂はどんなウイルスよりも早く広まり、

どんなウイルスよりも根強く残る。

たちの悪いことではあるけど、私には都合が良かった。

進級ごとにクラス替えがあったけど、クラスメイトが変わっても私にはどうでも良かった。

好きな人もいなければ、嫌いな人もいない。

私にとって孤独はとても居心地の良いものになっていた。

3年になる頃には誰も私に声を掛けようとはしなかった。

…ただ、1人を除いて。


「君、月乃桜って名前なんだね!綺麗な名前だね!」


3年になった初めの日に、彼女は無邪気に話しかけてきた。


「髪も綺麗だね!長くてさらさら!かぐや姫みたい!」


私は無視して立ち去った。

それなのに、彼女は毎日話しかけてきた。

周りの生徒が白い目で見る中、お構いなしに話しかけてくる。

そもそも無視されているのに、どうして毎日話しかけてくるんだろう。

どうして私に興味を持ったんだろう。


「身長いくつ?私より少し高いかな?」


「犬派?猫派?私は猫派!」


私は日々苛立ちを募らせていた。

単に彼女に対してだけではなく、彼女が話しかけてくることで周りの目が私に向いてくることも居心地が悪く苛立った。


「肌白いね!」


「頭良いんだね!」


「運動もできるんだ!」


「好きな食べ物はなに?私は納豆が嫌い!」


事あるごとに話しかけてくる。

好きな食べ物聞いといて、何で嫌いな食べ物教えてくるの。

気がつけば、声は出さずとも彼女の言葉に反応するようになっていた。

彼女のペースに巻き込まれていくことが不愉快で、あからさまに苛立ちを態度で示して立ち去ろうとしたときだった。


「緋凪陽。」


「え?」


「私の名前、緋凪陽。知らなかったでしょ?」


「ひの…ひかり?」


「そう。はじめまして、月乃桜さん。」


これが陽との出会い。

それから陽は質問責めしてこなくなった。

陽はまるで少年漫画の主人公のように強引な前向きさを持っているけど、少女漫画の主人公のように繊細でガラスのように脆い面もあった。

私が冷たく接したことで、少し距離を置くことにしたんだと思う。


_おはよう。


_また明日。


声を掛けてくるのは挨拶だけ。

あとは目が合ったときに笑顔を向けてくるくらいになった。

考えてみれば、母の死後は父にすら挨拶をしていなかった。

そして父も、学校の人も、私に対して挨拶することを諦めていった。

私に挨拶したり、笑顔を向けてくるのは紗季さんだけだったと思う。

だけど、陽と紗季さんでは置かれている状況がまるで違う。

学校で私に声を掛ければ、それだけで変人扱いだ。

周りに変人扱いされても、私に無視をされても、

陽は当たり前のように私に挨拶をしてくれた。

だけど、当時の私はそのことに感謝できるほどの余裕がなかった。


「もう構わないで。」


ある日、私はたまらず陽に言った。

返事も待たずに立ち去ったけど、陽は寂しそうに笑っていたと思う。


「おかえりなさい。」


その日、仕事から帰った紗季さんにはじめて挨拶を返した。

紗季さんは一切動揺することなく、笑顔で受け入れてくれた。

紗季さんに挨拶を返したのは陽への罪悪感からだろうか。

居間にあるソファに体育座りで丸まってぐるぐると陽のことを考えていた。

陽が私に対してなにを思っているのか。

私が陽に対してどう思っているのか。

私はいつの間にか他人だけでなく、

自分にも関心がなくなっていたようだ。


「どっこいしょー。」


お風呂上がりの紗季さんが私の横に座った。

そして、紗季さんの呼吸する音が聞こえるほど、

ゆっくりと静かな時間が流れた。

自分でも意外だったけど、沈黙を破ったのは私だった。


「紗季さんは…私と暮らしていて嫌にならない?」


「ならないよ。」


「私が…その、可哀想だから?

お母さんの…紗季さんのお姉さんの子どもだから?」


私は俯いて自分の手や足を見ていた。

紗季さんはそんな私を見守るように視線を向けていた。


「理由、意味、答え、そういうのを挙げていけば、桜が言ったことは含まれるだろうね。

でも、私はそんなこと考えて桜と暮らしたことないよ。

桜と暮らしてる日常が当たり前になっていく。

朝眠そうな桜を見て、家に帰って桜がいてくれる。

一緒にご飯を食べて、テレビ観たり音楽聴いたり。

そんな " 特別 " と思える " 当たり前 " が私にとっては幸せなこと。」


「私、ずっと無視…してたのに?」


「無視されてたのかー。」


紗季さんはわざとらしく頭を抱えた。

そしてパタリと腕を下ろし私を見て言った。


「桜、大丈夫だよ。

相手を傷つけたと感じること、

罪悪感で自分も傷つけてしまうこと、

それは、優しいからこその傷だと思う。

まぁ…私からすれば、たとえ名誉の負傷だとしても、桜には無傷でいてもらいたいなって思っちゃうけど、桜が今感じている感情はネガティブなだけの感情ではないと思うよ。

理由も、意味も、答えも、それが全てなように感じちゃうけど、私は地図みたいなもんだなって思ってる。

全部わかるけど、目的地にはならない。

大事なのは目的地に行ってなにを感じるか。

地図を広げて満足してちゃ、勿体ないよ。」


紗季さんを見ると、私を真っ直ぐに見つめる紗季さんと目が合って、慌てて目を逸らした。


「よっこいしょ。」


紗季さんはゆっくりと立ち上がり、

私に笑顔を向けた。


「さ、ご飯食べよっか。」


紗季さんは首に掛けていたタオルを私の頭に乗せてポンポンと軽く叩いた。

そのとき、一瞬だけ母のように頭を撫でられたり、抱きしめてもらいたいと思った。

紗季さんは、私でも気がつかなかった私の気持ちの変化を察して、優しく背中を押してくれた。

私は、私を気にかけてくれる陽とちゃんと向き合おうと決めた。

次の日の朝も、変わらず陽は挨拶してくれた。

でも、やっぱり紗季さんのときのようには声が出てこない。

怖かったのか、恥ずかしかったのか。

自分の気持ちもわからない。

このままではいけない。

どうしてそう思ったのかもわからない。

だけど…地図を広げるのは、まだ早い。

まずは一歩を踏み出さないと、何もわからないままだ。

そして、お昼休みに窓を開けて空を見上げている陽に近づいた。

騒がしい教室が私にプレッシャーをかけてくるように感じた。

たくさんの話し声が頭の中に入ってきて、私から思考を奪う。

ズシリズシリと1秒1秒重い時間が流れる。


「私、今日の空…好き。」


陽は驚いた表情で振り返り、再び空を見上げた。


「曇りなのに?」


私も空を見上げる。


「空…まっ白なの、綺麗。」


「確かにまっ白だ。

曇り空も色々あるんだね。全くムラがない。」


「こういう日は…曇りでも、空が明るい。」


「本当だね。綺麗だなー。」


私のぎこちない言葉を陽は優しく受け取ってくれる。


「私も、納豆好きじゃない。」


「そうなの?月乃さん好き嫌いなさそうなのに。

納豆嫌いって何故か肩身狭いから月乃さんも同じだと嬉しいなー。」


「うん。納豆は食べた方が良いってよく言われる。」


「ねー。身体に良くても、あんな臭くてネバネバしてるの食べたくないよね。」


「ネバネバも臭いのも、嫌い。」


「じゃあ好きな食べ物は?私はコーンポタージュ!」


「私は…おでん。」


「意外と庶民的!」


そのままお昼休みが終わるまで2人で話した。

学校が終わったあとも2人で帰った。

と言っても、帰る方向が真逆だから校門を出るまでの5分程度の時間だったけど、私には1日がこの時間の為にあると思えた。

それに…やっと言えた。


「じゃあ、また明日ね。バイバイ。」


「うん。また、明日。バイバイ。」


自分の話しをしたり、相手の話しを聞いたり、

そういうことは相手にも、自分にも関心がないとできないことだと思う。

私は母の死後、他人に対しても、自分に対しても関心がなくなっていたけど、陽と話して気がついた。

私はどこかで自分や他人への関心を残していたんだ。

自分が望んでしたことではないのは明らかだった。

私が心を失わないように繋ぎ止めてくれていたのは…


「お!桜、おかえりー。」


マンションの入り口で紗季さんに会った。


「ただいま。今日、早いね。」


「たまには早く帰って、自分の時間と桜との時間も作らないとね。

今から買い物行くけど、何か食べたいものある?」


「おでん…とコーンポタージュ。」


「それ、食べ合わせ悪くない?ま、いっか。」


「私も、一緒に。」


「おっけー。じゃあ行こうか。」


まるでスキップしているかのように軽快に歩く紗季さんの隣を歩いているだけで、不思議と私の身体も軽くなっていくように感じた。


「紗季さん。ありがとう。」


陽とはその後も2人でよく話していた。

朝学校に来てから授業が始まるまで。

授業の合間もお昼休みも。

放課後も下校時間になるまで残って話すこともあった。

ある日の放課後、陽が音楽室に行こうと誘ってきた。

音楽室が開いているのか、なんてどうでもいいことに不安を感じていたのを覚えている。

だけど、事前に陽が許可を得ていたらしく、私の不安は杞憂きゆうに終わった。

そして、音楽室に入ると陽はピアノの前に座った。

横長の椅子の半分に座った陽は、もう半分をポンポンと叩き私にも座るように促した。

隣に座った私を見てにっこりと笑ったあと、

陽はゆっくりと深呼吸した。

優しく触れるように鍵盤に指をのせて、ピアノを弾き始める。

聞いたことのない曲。

優しい気持ちと、悲しい気持ちが入り混じったような、とても人間らしい曲だと思った。

母が言っていた、人の心には四季があるという言葉を思い出すような曲。

鍵盤を押し込むときに聴こえる軋むような音。

ペダルを踏み込む音。

陽が動くたびに聴こえる衣擦きぬずれの音。

陽が奏でるピアノの音だけではなく、

私は陽が存在している音を一音も漏らさないように聴いていた。

陽が私の隣にいてくれることが嬉しかった。


「この曲はね、私にピアノを教えてくれてる先生が作ってくれた曲なんだ。」


「素敵な曲。」


「私の未来をイメージして作ったんだって。」


「緋凪さんの、未来?」


「うん。ねぇ…月乃さん。桜って呼んでもいい?」


私は少し動揺した。

母が亡くなってから、私を桜と呼ぶのは紗季さんと父だけだったから。

だけど、嫌な気持ちにはならなかった。

ようやく前に進めたような気がしたからだと思う。

陳腐ちんぷな言い方をすれば、止まっていた時間が動き出した。そう思う瞬間だった。


「うん。私も陽って呼ぶ。」


「良かった。」


「うん。」


「この曲、簡単だから桜にも教えてあげる。」


「私、ピアノ弾いたことない。」


「桜なら絶対弾けるよ。

じゃあ、もう1回最初から弾くね。」


再び奏でられたメロディは…はじめて聴いたときよりも温かく柔らかく聴こえた。

再び陽の音に耳を傾ける。幸せな時間。

永遠に続いてほしいと思う時間。

母と過ごした時間以外に、

こんな気持ちになったことはなかった。

今度こそ…ずっとそばにいてほしい。

陽の未来に、私もそばにいたい。

そんな想いで心がいっぱいになった。



end.



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る