第3章
変わることのない愛と凍てつく心
「神様はね、私たちと同じ姿をして、私たちと同じように生活しているの。
だから、どんな人に対しても優しい心を忘れないで。」
そう教えてくれたのは、母の "
子どもの頃、私は母にたくさん質問を投げかけた。
なぜなら、本当は母が神様なのではないかと思うほどに、どんな問いかけにも必ず答えを持っていたからだ。
綺麗な長い髪、柔らかく白い肌、優しい表情、
母は本当に女神のような人だった。
母はたくさんの言葉を私にくれた。
優しい言葉だけではなく、子どもに伝えるには残酷と思える言葉も。
それを愛情だと思えたのは、どんな言葉も優しく手渡すように、私の手に収まらない言葉は、手を包み込むように支えてくれたからだろう。
言葉の1つ1つに母の温もりを感じた。
母は " 四季の声 " という集会サイトを運営していた。
はじめて四季の声の存在を知ったときも、私はいつものように母に尋ねた。
「お母さん、それなに?」
「これはね、四季の声っていう集会のサイトを作ってるの。」
「集会の…サイト?」
母が言っていることがまるで理解できなかった私は恐る恐る聞き返した。
「自分の気持ちを知ってもらうこと、わかってもらうことはとても大切なことだけど、簡単なことではないの。
仲間外れにされたり、自分は一人きりだと感じて心が傷ついてしまう人たちがいる。
そういう人たちが本当に一人になってしまわないように、お互いに支え合って助け合える場所なの。
桜もお母さんが元気ないときに話しを聞いてくれるでしょう?
そのとき、お母さんはすごく嬉しい気持ちになるのよ。」
「私も!お母さんが笑ってくれると嬉しい!」
「お母さんはね、みんなが嬉しい気持ちになってほしくてこの場所を作ったの。」
母は私の頭を撫でながら嬉しそうに笑っていた。
「お母さんすごいね!」
「すごいでしょ!」
胸を張っておどける母も愛おしい。
そして、パソコンの画面を指差して母に聞いた。
「ねぇ、どうして四季の声なの?」
母は私の目を真っ直ぐに見て話しはじめた。
「誰だって心の中に季節があるの。
春も夏も秋も冬も、みんなの心に四季がある。
だけど会った人すべてに自分の心の四季を知ってもらうことはできない。
その人の夏しか知らない人もいれば、
冬しか知らない人もいる。
夏しか知らない人は、
その人のことを暑苦しい人だと思うかもしれない。
冬しか知らない人は、
その人のことを冷たい人だと思うかもしれない。
だけど、その人にも他の季節がある。
同じ場所に立っても、季節が変われば景色も変わる。
なにを感じるか、なにを想うかも変わる。
一つの季節にも、人それぞれの景色がある。
春は穏やかな陽気に新しい命が目覚める力強い季節。
だけど、その初々しさ故に儚くて脆い面もある。
夏は太陽も雲も日差しや雨もみんなで大合唱しているみたいに情熱的で行動力溢れる季節。
だけど、その情熱と行動力がときに人を困らせてしまうこともある。
秋は生まれた命が眠りについていく、色や音が失われていく季節。
それは命を守るため、悲しくても必要なこと。
冬は時が止まったような静けさが永遠のように続く残酷な季節。
桜は冬が嫌いだったね。どうして?」
「寒いの嫌だから!」
「でもね、冬はこうやってぎゅーと抱きしめると、人の温もりを感じることができる。
冬はね、すごく温かいの。
桜の温もりを感じることができて、お母さん幸せだよ。」
「お母さん、恥ずかしいよ。」
「桜が冬を好きになるまで離さない。
桜、私はどんな季節の桜も愛してるわ。」
母は私を力いっぱい抱きしめてくれた。
とても温かくて、優しくて、
ずっとずっとこの時間が続いてほしいと思うほど幸せだった。
母が人の心や気持ちに繊細な考え方を持っていたのは、生まれつき身体が弱かったことも少なからず関係していたと思う。
心臓の病気で幼い頃から入退院を繰り返していたらしい。
母と過ごしたほとんどの時間が病院だったけど、そのことを悲しいと思わないでいられたことが母の優しさそのものだろう。
私は母のそばにいられるなら場所はどこでも良かった。
一緒に寝たくて泣いてしまった日もあるけど、母に会えば悲しい気持ちはどこかに消えていた。
母がいれば、それだけで幸せだった。
だけど…母の身体は年々弱くなっていた。
私が成長するごとに痩せて弱くなる身体を見て、私が母の命を吸い取ってしまっているのではないかと怖くなったほどだ。
そして10歳のとき、母は一緒にお見舞いに来た父に私と2人で話したいと告げた。
私は母と病室で2人きりになった。
「桜。」
嫌な予感というものだろう。
母の言葉を聞くことが怖くて私は黙って
「桜。こっちへ来て。」
私は俯いたまま母のベッドに近づいた。
「ここへ座って。」
母は自分の隣に手を置いて促した。
私が横に座ると母は私を抱き寄せた。
痩せて骨ばっていても母の身体は温かかった。
怯えて強張っていた私の身体から力が抜けるまで、何も言わずに抱きしめ続けてくれた。
「怖がらせてしまってごめんね。
桜は人の気持ちに敏感な子だから、お母さんの気持ちが伝わったんだね。」
「お母さん悲しい?」
「うん。悲しい。」
私が母に答えを求めなかったのはそのときがはじめてだった。
私には答えがわかっていたから。
その答えを…聞きたくなかったから。
「桜。お母さんもう長くは生きられないの。」
「もう…お母さんに会えないの?」
「うん。もう会えなくなるし、こうして抱きしめることもできなくなる。
だけどね、お母さんが桜を愛していることも、
桜を抱きしめたこともなくなったりはしない。
お母さんがそばにいなくても、桜はお母さんに愛されているの。それを忘れないで。」
母は私を力いっぱい抱きしめてくれた。
母の言葉は優しかった。
だからこそ、本当に母親と会えなくなる日が来るんだと、子どもながらに理解した。
でも、それを理解することはただ悲しいばかりではなかった。
母と過ごす1日1日を、1秒1秒を大切に想えたから。
私と母は言葉を交わすことなくずっと抱き合って泣いていた。涙は止めどなく流れ続けた。
泣き疲れた2人はそのまま眠ってしまい、気がつくと明るかった空がすっかり暗くなっていた。
父はそんな2人を見守るように座っていた。
そしてしばらく3人で話した後、もう帰るからお手洗いに行ってきなさい、と父に言われた。
父の様子がいつもと違って見えたのが気になって、私は病室の外で父と母の会話を聞いていた。
「桜はまだ子どもなんだから、もっと伝え方を考えてあげたほうが良かったんじゃないかな。」
「うん。そうね。
でもね、私は桜に嘘や誤魔化しは言いたくないの。私の言葉で本当の気持ちを伝えたい。
これまでもそうだったように。
私には桜の未来を守る義務がある。
私が嘘や誤魔化しを伝えたと知れば、それが優しさからだとわかっても、私を信じることができなくなる。
そのとき私にどうして?と聞くこともできない。
私はこれから先もずっと桜に寄り添っていたいの。
色褪せることのない言葉を桜に届けたい。
それが私の精一杯の愛の形。
私は小さい頃から自分の命が人より短いことがわかっていた。
桜を産めたこと、桜と一緒に生きられた時間は私にとっては奇跡だった。
桜のそばにずっといてあげられないことはわかっていた。
だから桜にはいつも目を逸らさず真っ直ぐに向き合ってきた。
桜にも私の想いが伝わっていると信じてる。」
「そう…だね。」
「
和仁さんもこの先の桜を心配してくれているのよね。
不安にさせてしまってごめんなさい。
私は私の人生を精一杯に生きた。
そうすることができたのは和仁さんのおかげよ。
私に人の優しさを教えてくれたのはあなた。
私に人の温かさを教えてくれたのはあなた。
和仁さん、ありがとう。愛してる。」
父の
このときの私の気持ちは今でも整理できていない。
後ろ向きな気持ちではないことは確かだけど、幸せな気持ちと悲しい気持ちが入り混じったような複雑な気持ちだった。
ぬるま湯に手を入れたときのように、肌が触れる部分によって温かかったり冷たかったり。
母の愛を感じれば感じるほど、悲しみが強くなる。
だけどその反面、母との思い出は幸せなものばかりだった。
そう。最期の日でさえも。
母が亡くなったのは私が学校に行っている間のことだった。
その日の朝、私は母と一緒に過ごしていた。
母からもう先が長くないと聞いた私は、少しでも母と過ごす時間を作りたくて、朝は早起きして学校までの時間を母と過ごし、学校が終わった後も休みの日も病院に行っていたからだ。
「お母さんおはよう!」
私は病室のドアを開けると一目散に母のベッドに飛び乗った。
「あら、今日も元気ね。おはよう。桜。」
母は優しく頭を撫でながら微笑んでくれた。
「今日はね、目玉焼き作ったんだよ。
パチパチって熱かったけど綺麗に焼けたよ。
私のは半熟でお父さんのはカチカチのやつ。
半熟の方が美味しいのに。」
「お父さんは几帳面な人だから。」
「きちょうめん?」
「頭もカチカチって意味。」
母はおどけたように笑ってみせた。
私もおかしくてケタケタと笑った。
「今日出す宿題も昨日1人でやったんだよ。
来週までのやつも一緒にやったんだ。」
「すごいね。桜は偉いね。」
母は私を優しく抱き寄せた。
私は母を安心させたくてたくさん頑張った。
たくさん話して今できる限りの成長を見せたかった。
そのとき私の頭に生温かい雫が触れた感覚があった。見上げると母は泣いていた。
「お母さん大丈夫?」
「ごめんね。ただ、ちょっと…」
珍しく言葉に詰まる母に見兼ねて私は母の頭を撫でた。
どうしてそうしようと思ったのか覚えてないけど、母に撫でてもらうと安心して気持ちが落ち着いたから、それを真似たんだと思う。
だけど母の涙は止まることはなかった。
「ごめんね。
お母さん怖いの。死にたくない。
桜と離れたくない。
お父さんと離れたくない。
みんなとずっと一緒にいたいよ。」
私は母の頭を撫で続けた。
弱音を吐く母に失望したりなんかしなかった。
いつでも本当の気持ちを伝えてくれるのが私の愛した母だから。
死ぬことが怖くないわけない。
私や父と離れて平気なわけない。
母が抱える悲しみは私たちへの愛の強さだとわかった。
「お母さん大丈夫だよ。
私ね、お母さんは神様になると思うよ。」
「どうして?」
「お母さん優しいもん。
それにね、神様になればまた会えるかもしれないよ。」
「ありがとう桜。愛してるわ。」
母は私を強く抱きしめた。
子どもの私でも母の力が弱くなったことがわかって正直私も怖かった。
だから私も母を強く抱きしめた。
私の腕から溢れ落ちてしまいそうな母を離したくなかったから。
母はあの日の朝、これが最期の会話になると悟っていたのかもしれない。
学校を休んでずっとそばにいれば良かったと後悔したときもあったけど、私を学校に送り出したのも母だった。
「桜、いってらっしゃい。」
病室を出て行く私に母が声を掛けた。
これが母が私にくれた最期の言葉。
私を未来へと送り出す言葉。
そのときくれた笑顔も仕草も全部、私はこの先ずっと忘れない。
人が死ぬとき…星屑のようにキラキラと輝いて空に消えていくのなら、私は母の死をもっと前向きに受け入れることができたかもしれない。
病院で見たもう動くことのない母。葬儀や火葬。
母の死後、最も辛かったのは母の遺体と遺骨を見たときだろう。
そのときほど母の言葉や温もりが恋しくなったことはない。
だけど母は正しかったと思う。
どれだけ辛くても、母が私を愛してくれていたという事実が私の心を支えていた。
母の命が尽きてしまっても、母の愛が尽きることはない。
私は母が生きていた頃と同じように明るく生き続けると誓った。
だって、また母に会える日が来るかもしれないから。
そのときに安心してもらいたいから。
「お父さん目玉焼きできたよ。
お父さんの頭と同じカチカチのやつ。」
「うん。ありがとう。」
父はテーブルに置かれた目玉焼きを見つめて抜け殻のように動かなかった。
「お父さん元気ないの?」
「そんなことないよ。心配してくれてありがとう。」
母の死を悲しんでいる父を支えたいと思った。
だけど、私が母の死を受け入れていたのは義務感のようなものだった。
母の死を受け入れることが、母からもらった愛への恩返しだと思い込んでいた。
私は本当の意味で母の死を受け入れることはできていなかった。
「私はね、悲しいけどまたお母さんに会う日のために頑張ってるんだ。
だからお父さんが元気になるまでお父さんのお手伝いいっぱいするよ。
勉強もちゃんとするし、ご飯もお洗濯も全部私がやっちゃうよ。
だからお母さんに会ったら、きっとお父さん怒られちゃうよ。」
「もうやめてくれ!」
初めて聞く父の怒鳴り声に私の身体は強張った。
「ごめん、桜。怖かったよね。
だけどお父さん、もうお母さんのことは思い出したくないんだ。」
「え?」
「お母さんのことは忘れたい。」
父の言っている意味がわからなかった。
いや、わかる必要なんてない。
この人はもう家族じゃない。
そのとき、私の心が氷のように冷たくなっていくのを感じた。
end.
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