第2話 餓鬼
サンショウウオは異世界に転生した。
彼が目覚めた場所は王都タイクーン、タイタニア王国の首都だ。かつて、優秀な人種によって世界は統治されるべきであるとして、強大な軍事力によって世界の三分の一を統治していた国がある。その国の名前は、ブルタニア帝国。滅亡してから三百年が経ったが、その国の名残りはブリタニカ帝国の西の辺境の領地だった現在のタイタニア王国が唯一受け継いでいた。王族はブリタニア皇族の末裔であり、王族を含む特権階級の者達は強烈な選民思想を抱いている。その為、王国は『貴族』『平民』『それ以外』という弾圧的なまでに厳格な身分制度が敷かれている。
貴族とは、初代国王タイクーンに忠誠を誓った者達が始まりとされている。貴族とは強大な魔力を持つことが条件とされている。しかし、現在において平民においても魔力持ちは珍しくなく、中には貴族を上回る魔力量を有する者もいる。それによって現在の王国では、貴族と平民の間で軋轢が大きく生じ始めていた。その背景には長年に渡る厳格な身分間での差別による歴史が原因であるのだが、それ以上に近年発達著しい科学が大きく影響を及ぼしている。時代が進むごとに発明される機械によって、魔力を持たない平民でも魔法と同等かそれ以上の力を有することが可能になってきた為に、魔法によって優位性を保っていた貴族の権力基盤が激しく揺らぐ結果を招くこととなった。
そんな状況の中、国政に興味を持たない王族はブリタニカ帝国時代の栄光と栄華ばかりを追い求め、国費を自分たちの贅沢の為だけに湯水のごとく使い続けられてきた。その王族に付き従う貴族達も利益の争奪と権力闘争に明け暮れ、王国の統治機関は匂い立つほどに腐敗しきっている。タイタニア王国は確実に滅亡の道筋を辿っている。
近年は飢饉が相次ぎ、王国内部では伝染病が蔓延し、建国以来長年虐げられ続けてきた平民達の怒りは限界に達していた。煌びやかな王都の裏をめくれば、現在の王政に不満を持つ不穏な気配が濃厚に充満している。
しかし、そんな国の事情など彼には一切関係ないことだ。彼は彼自身に差し迫る危機的状況を解決することに、彼の思考の全機能が傾注している。ここがどこで、自分の身に何が起きたのか、なぜ自分がこの世界に転生したのか、それら全てが今の彼にとってはどうでも良いことだった。
何故なら、彼は今まさに死の淵を歩いているからである。
サンショウウオは異世界の都市の中を彷徨い歩く。
彼は見知らぬ都市の中を、白昼夢でも見ているかのような不確かな足取りで歩き続ける。彼の肉体は今にも倒れそうなほどに衰弱していた。
彼の意識がこの世界で覚醒したのは夜が明ける前であった。目を開くと目の前には川が流れており、ちょうど川面から太陽が姿を現し始めた。宵闇を打ち払う暁光の燦然とした輝きが視界を埋め尽くす光景を目の当たりにした時、彼は自分が天国にいると勘違いするほどに美しかった。黎明の静寂の中、朝日を浴びた彼は母親の温もりに包まれているかのような幸せを感じた。
だが、その幸福は一瞬で真逆な物へと変貌する。
強烈は飢えと渇きが彼を襲った。突然肉体が悲鳴を上げたかのように臓腑から押し寄せてきた胃がねじ切れるような飢えと、喉が裂けるほどの渇きに彼は発狂した。
一体、何日間食べ物を口にしていないと腹が押しつぶされそうな空腹感に襲われるのか。
一体、どれだけ長い間水分を口に含んでいないと口の中が完全に乾涸びてしまうのだろうか。
この肉体は、一体いつから水も食料も体内に取り込んでいないのか。現代から転生した彼は、人間は食料と水を絶った状態では一週間生存することが不可能なのを知っている。
自分の身に降りかかった突然の出来事を冷静に考えようにも、彼の理性は強烈な飢えと渇きによって何一つ思考はまとまらない。
彼は無我夢中で川辺へと駆け込んだ。彼は川の水を飲みこむために川面に顔を突っ込もうとしゃがみ込むと、そこに映った自分の顔を見た途端、彼は驚きから動きを止めた。
サンショウウオは腹の飢えも喉の渇きも忘れて見入っていた。
川面には彼が見たこともない彼自身の顔が映り込んでいた。彼は転生前の彼自身の姿形を記憶から掘り起こす。鏡で自分の姿形を最後に確認したのはいつだっただろうか。思い出せないほど昔のような気がしてくる。そもそも鏡で自分の姿を確認するなど、思春期を迎えたころから彼はその行為を嫌っていた。
思い出そうとしても、かつての世界を生きる自分の姿はまるで放送禁止物であるかのようにフィルターがかかっているのか判然としない。
ただ、醜かったことは確かである。
死ぬ直前、彼は五十を迎えようとしていた年齢だった。顔立ちも決して異性の気を惹く様な類のものではない。体全体が他人から忌避されるような男であり、彼自身も自分の姿形を吐き気が催すほどに嫌悪していた。
卑屈さをこじらせたような醜い顔も体も、彼自身の全てがコンプレックスの塊であった。
それが今まさに自分が目にしている自分の姿に、彼はかつての彼自身の姿はどこにはありはしなかった。水面に映り込んでいたのは、美しい顔立ちをした少年であった。二重の大きな瞳に小さな口はどことなく中世的な色気を感じさせる。髪色も瞳も黒く艶がある。彼の記憶の中にある彼自身の姿には靄が掛かっているが、頭頂部は禿げ上がり周囲にわずかに残る頭髪は艶もなく老いを帯び始めていた。顔は脂肪が垂れ下がるほど肉のついており顔の下半分は無精髭が生えていて、心の底から汚くて醜い顔だというのが嫌でも解る。
怠惰と惰性を老いながらむさぼり続けた哀れな老害、それが生前の彼の姿だ。
今、川面に映り込む顔も形をした現在の彼の姿は、転生前の彼の姿が同じ人間だとは思えないほど異なっていた。しかし、眼窩周辺の肉が掘削されたのか大きく窪んでいる。頬肉もこそげ落ちている。顔全体がひどく痩せこけていた。もしそうでなければ、この顔は男女の性別の隔たりを無視した美しさと色気を有している。
彼は彼の想像する彼の美しい顔立ちに見惚れていた。彼の人生の中で、彼はこれほど自分の顔を見つめたことはない。彼の今の心境は、彼自身がかつて嫌悪したナルシスト達と同じ類のものである。コンプレックスを強く持つほど、かえって美意識は強まるものである。そこに男女の違いは存在しない。今の顔ならば、彼は後ろ暗い気持ちを抱かずに堂々と人前にでることができるだろう。
本当に、本当に痩せ過ぎているのが残念なくらいだ。
サンショウウオは想像を絶するほどの苦しみにもがき苦しんだ。
それは先ほどまで忘れていた飢えと渇きが原因ではない。彼を襲ったのは、嗅覚が壊れそうなほどの腐臭である。その匂いを彼は知っていた。この匂いは食べ物が腐った匂いである。しかし、これほど強烈な匂いを彼は嗅いだことはない。彼の周囲の大気は息もできないほどの腐った臭気で充満していた。あまりの匂いから押し寄せてくる嘔吐感から、彼は激しく嘔吐くが口内からは唾一つ吐き出されることはなかった。生き干物状態の彼の肉体は唾液も汗も胃酸でさえも出ないほどカラカラに乾ききっている。
彼はこの腐臭がどこから匂っているのか確かめるために、周囲を見渡す。そこには彼が腹の底から怖気の湧き上がってくるおぞましい光景が広がっていた。
川面に溜まる朝の光が地上へと浸し始める。まるで暗闇の中に隠していた見てはいけないモノをさらけ出すように。
死体だ。いたるところに死体がゴミのように散乱している。そのすべての死体が腐乱していた。右を見れば、野犬か野良猫かカラスかそれとも鼠か虫かに食い散らかされた死体が転がっている。石畳の至る所に血と臓物が飛び散っていた。左を見れば、石橋の下には男女の死体が乱雑に積み上げられている。後ろを見れば、すぐ真後ろに死体が転がっていた。その死体は性別が解らないほど腐敗が激しく、皮膚も肉も溶けて骨と臓器があふれ出ている。
そこはまさに死の掃きだめともいえる場所である。想像も絶する光景が朝日によって彼の眼前にさらけ出されていた。まだ現代の感性が強く残る彼にとって、そこは地獄以上の地獄である。彼は声にもならない悲鳴を上げて、這いながら逃げようとする。
その時、彼は気が付いた。石畳の地面を、無数の黒い液体が川へ向かって蛇のように這い進んでいた。そして彼はすぐに気が付く。それは死体の群れからあふれ出た腐液である。腐った死体の体液は、地面を這いながら全て川へと流れ落ちていた。
彼は理解する。このむせ返るほどの腐臭は川全体から立ち上っていることを。
川は汚く濁っている。その川を彼は転生前の幼少時によく目にしていた。平成初期、彼が生まれ育った近くの川も沼も湖も酷い臭気が匂い立つほどに汚染されていたのを彼は覚えている。今、眼前の川はそれ以上に汚れ切っていた。
彼は川の隅々を点検するように眺める。川には都市の用水路が繋げられている。このいくつもある用水路からは、この都市に暮らす人間の営みで排出されるすべての汚水が垂れ流されているのだろう。ここの川はこの都市で暮らす人々の生活排水によって完全に汚れ切っている。
そんな水を飲めば、嘔吐と下痢を繰り返して脱水症状によって二日と持たずに死に絶えることになるだろう。すでに倒れそうなほどに喉が渇いているというのに。
サンショウウオはあまりの怒りに狂いそうになる。
彼はようやく理解したのだ。ここが地獄だということを。
サンショウウオは彷徨い歩き続ける。満たされない飢えと渇きを抱えながら。
彼は今、心の底から噛みしめている。転生前の世界がいかに天国だったのかを。都内の至る場所には無料で水分が補給できる場所があった。飲むことができる綺麗な水だ。あまり衛生的でない屋外の公衆トイレでさえ、蛇口をひねればいくらでも飲料に適した水を飲むことができた。
だが、ここではどれだけ歩いても水を飲める場所がどこにも存在していない。
彼がこの世界で意識を呼び覚ましてから、まだ数時間しか経っていない。人が行き交う通りを、彼はできるかぎり端っこを歩く。まるで綱渡りでもしているかのような不安定な足取りだ。肉体は酷い飢餓状態に陥っている。一歩進むごとに命がガリガリと削られているかのような錯覚に陥る。
転生前の世界ならば、都市のあちこちでボランティア団体による炊き出しが行われていた。決して満腹感が得られるわけではないが、空腹を抱え続けるような苦しみを味わうことなど絶対にありえ無い。まれに愚かな自尊心でそういった場所に行かない者もいるが、それでも餓死者などほぼ存在しない。
なによりもだ。
現在の彼は年端のいかない少年である。汚染された川の水面越しに見た幼い顔立ちは、小学校高学年の十歳ほどに見えた。転生前に彼が暮らしていた都市の中で、もし飢えと渇きからの苦しみでフラフラとした足取りで歩ている子供がいたならば、その姿を見た大人の誰かが救いの手を差し伸べたに違いない。だが、ここでそのような救いを期待するのは無意味である。
まるで路傍の小石を見ているかのように、彼の苦しむ姿は周囲の大人達の視覚に捉えられていない。一瞬でも通りを行き交う大人の視界に映り込もうものなら、気分の悪くなる汚らわしいものでも見たかのように不快な表情を浮かべる。恐怖を感じた彼は、自分の身を守るために通りの端を体を小さくして進まなければならなくなった。
彼自身は理解している。今の自分は周囲の大人達から腹を空かせた哀れな子供だと見られてはいない。
ただの厄介。ただの疫病。ただの邪魔。存在する価値がないのではなく、存在そのものが害悪とでもいうような視線だ。
先ほど、彼は一つの食べ物を売っている露店に近づこうとした。そこで売っていた林檎が目に入ったからだ。光沢のある赤い果実を見た途端、転生前の記憶が林檎の味が口の中一杯に広がった。乾ききっていたはずの口中に唾液が溢れ返る。理性では危険だと理解しながらも、彼は本能に逆らうことができずにその露店へと歩みよろうとした。媚びた犬のように希望に縋って彼は露店に立つ中年の男をまっすぐに見つめた。
「それ以上近づくんじゃねぇ! 店が汚れるだろうがぁ!」
彼と目が合った店主は突然彼に向って罵声を浴びせた。店主は彼をそれ以上寄せ付けないように、よくしなる細い棒のようなものを左右に何度も振りながら彼を口汚く罵る。
「何をこっちを見てるんだよ。近づくなって言ったのが聞こえなかったのかぁ。お前みたいな小汚いガキが店に近づくだけでも客が逃げちまう。この疫病もんが、さっさとどっかにいかねぇと痛い目に合わせるぞ!」
まるで食べ物にたかろうとする害虫のような扱いだ。彼は危険を感じてその場から逃げ去った。逃げながら彼は転生前に読んだある漫画の内容を思い出す。その漫画は、戦後の戦災孤児を題材にしたものである。主人公は同じ仲間と共に畑泥棒をするのだが、その際に大人たちに見つかり仲間の一人が撲殺される場面を思い出していた。飢えた孤児を大人達がよってたかってリンチする場面は、あまりにも凄惨な描写だった。
もしあれ以上近寄っていたならば、彼は最悪殺されていたかもしれない。そして、確実に大人が子供に対して本気で暴力を加えていただろう。
転生前の世界ならば、その行為は許されざる犯罪であるが、この世界ではそれが許されてしまう。
サンショウウオは決して自分が救われないことを理解して絶望する。だが、それでも歩くことを止めたりはしない。
もし一口分で良い、一口分の水分さえ飲むことができれば彼はどうにか今日を生きて乗り越えることができる。人間の生存本能の衝動が諦めることを許さず、それが彼を苦しませ苛み続ける。彼は彼の本能に抗うことができず、飢えと渇きで苦しむ彼自身の肉体を彼に引きずらせ続けた。
その背中には、なんとも薄ら暗い憐憫さがマントのように垂れ下がっている。
サンショウウオは呟く。祈るように小さな声で。
「あぁ、神様、貴方は、貴方はなんと酷いことをなさるのでしょう。私が何をしたというのですか。一体何をしたから私はこのような罪科を負わされなければならないのでしょう。一体これは何による苦罰なのでしょう。お願いです。私が何故、このように苦しみ続けなければならないのでしょうか。私は怠惰で愚かな人間でしたが、このような罰を負わされなければならないほどの罪を犯した覚えはございません。どうか、どうか私をお救いくださいませ。なにとぞ、なにとぞお願いします」
あぁ、なんと涙を誘う姿だろうか。飢えと渇きで苦しむ、可哀そうな境遇にいる美しい顔立ちをした少年ほど絵になるものはない。これが転生前の世界ならば、彼の境遇はあっというまに逆転していたに違いないだろう。
しかし、ここは彼を苛む地獄である。ブツブツとなんかしらを呟く子供を、周囲の大人達は気味悪そうに見てはあからさまな声量で彼を罵っている。だが、どの言葉が聞こえないほどに、彼の命は極限の飢えと渇きに苛まれていた。
「神よ、なにとぞ、なにとぞ、祝福を。なんでもするから、どうか助けて、助けてください。私はただの迷える子羊にすぎません」
転生前の彼は神も仏も信じてはいなかった。むしろそういった類の存在や概念に対して唾を吐くほどに軽蔑すらしていた。生粋の無神論者の彼が、今ではその神に救われることだけを願っている。今の状況を救ってくれるのは、神や仏といった超常の存在以外にはないと信じ込んでいた。それほどまでに彼は追い込まれていた。
「どうか神よ、お救いください。お救いくだされば、私はかつての私を悔い改めます」
サンショウウオは心から願った。
しかし、彼の切なる願いは誰の耳にも聞き届けられなかった。その願いは、転生前を含めた彼の人生で初めて真剣に求めた望みだった。
しかし、世界は無情なるのものでありそれが当たり前なのだ。そんなこと以前の彼だったなら理解していたのだが、追い詰められた状況の彼にはそれを思い返す理性など持ち合わせていなかった。
(あぁ、なんで俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ。俺が何をした。誰も騙してもいなければ、誰かを殴ったことすらないぞ。悪いことなんて何一つしていない。そりゃ、俺は聖人君子じゃない。ガンジーでもなければナイチンゲールでもない。だけど、悪人じゃない。麻原でも少年Aでもない。秋葉で無差別に他人を傷つけてもいない。たしかに俺は予備軍に入っていてもおかしくはない思想と思考を抱いた人間だったかもしれない。それは否定しない。だけど、俺は何もせずに何もしなずに死んだじゃないか。俺はどこにでもいる普通の人間だ。怠け者で愚かなただの一般人だ。それなのに、なんでこんな苦痛を強いられなくちゃならないんだ。なんでこんな屈辱に耐えなければならないんだ。俺が何をした。一体何をしたんだ!)
悲嘆にくれている者を、さらに追い込んではいけない。窮鼠猫を嚙むという言葉があるように、精神的に崖っぷちに立たされている状況の者達は何を考えるようになるかわからないからだ。実際に彼は良くない性質を帯び始めている。それは転生前から彼が抱え込んできた薄暗く湿った怨念だ。それが転生後の世界で孵ろうとしている。
(あぁ、神様……あなたは私のことをそれほどまでに嫌いなのでしょうか。これほどの苦痛をお与えになるほどに私が憎いのでしょうか。愉快でしょうか……。滑稽でしょうか……。愚かで間抜けな人間をいたぶってさぞご満悦なことでしょう。ですが、そろそろ終わりにしては貰えませんかね。何度も問いますが、一体私が何をしたというんですか……)
「神が……仏が……一体いかほどのものか……」
サンショウウオは毒づきながら嘲笑を浮かべる。
神も仏も所詮は信者の妄想の中の産物でしかない。それが転生前の彼の考えである。
「俺を救わないお前なんて俺は要らない。俺を救わないくせに崇め奉られているのを俺は許さない。もし、今すぐに俺を救い出さないのなら、俺はお前の存在も概念もお前の全てを否定してやる。それが嫌なら俺を今すぐここから救い出せ。でないと俺がお前を殺してやる。汚してやる。落としてやる。どんな手を使っても、何が何でも。それこそ、この世界をぶっ壊してでもお前をそこから引きずり降ろしてやる」
孵ろうとしている。孵ってはいけない何かが彼の中で孵ろうとしている。
何かが誕生しようとしている。それは絶対にこの世界に生まれてはならない存在である。だが、そんな危機的状況を察知できている者など皆無だ。
殻にヒビが入り割れようとしている。しかし、それは彼が目にした光景によって止められた。
サンショウウオは目に捉えた光景に思わず足だけでなく思考を止めた。
時刻は昼を迎えようとしている時刻、それにはどんよりと水気を多く含んだ雲が日の光を遮っている。世界が薄暗い中、彼は希望の光をその場に見出していた。
通りを抜けた先の広場で、彼は彼の命が名が長らえられる場所を見つけた。それは、都市にいくつか点在する給水泉の一つである。給水泉とは、地下の水脈から湧出させた都市が運営する給水所である。そこでは都市に住まう誰もが無料で自由に水を汲める場所だ。
そこは苦難の道のりの先に見出した、彼にとっての救いの地であった。
広場の中央にある人口の泉の周囲では、作業服を着こんだたくさんの男達が桶にせっせと水を汲んでいた。無数に立ち並べられた桶に次々と水が汲み込まれていく。それを噴水の周りに立ち並んでいた男達が肩に担ぐと、急ぎ足で広場から走り去っていく。
サンショウウオは地獄から救い出された。
冷静さも理性も欠けた今の彼には、目の前の状況に突然現れたただの『給水泉』に救いを見出したとしても仕方がないだろう。もしも平常の時ならば、彼は気づいただろう。噴水に群がる作業服を着た男達を遠巻きで軽蔑的な視線で睨む周囲の人々の存在に。
しかし、飢餓の極限状態に置かれた彼に周囲の状況を観察する余裕などあるはずもない。何故なら、彼は今まさに神が彼の願いを聞き入れて救いを差し入れたと感じていたからだ。
サンショウウオは水が貯められた人口の泉へと駆け込んだ。
見るからに水質は綺麗で飲料に適しているのが解る。彼は張り裂けそうな喉の渇きを潤すために、人口の泉に貯められた水面に顔を突っ込もうとした。
唇が水に触れるとほぼ同時だった。突然、彼の幼い体は成人男性の手で宙空に持ち上げられた。先ほどまで人口泉で桶に水を汲んでいた作業員の一人だ。
「おい、クソガキ! 何、勝手に俺たちの縄張りから水を盗み飲もうとしているんだ!」
なぜ彼は男に持ち上げられたのか、男が何を理由に彼に対して怒っているのか、彼は瞬時に理解することはできなかった。彼を持ち上げる男の目には、剣呑なまでの敵意が孕んでいる。子供に向けて良い視線ではないが、それ以前に男が彼に行っている子供の胸倉をつかんで持ち上げるという行為自体が、転生前の常識から考えれば幼い子供に対しては許されない蛮行である。
「え、……あ、あ……あ、あの……」
「テメェみてぇなきたねぇガキが触れたら、水が穢れるだろうが!」
サンショウウオは顔面を殴られた。
彼は理解できなかっただろう。なぜ、一方的に殴られたのかを。
子供が、だ。死にかけている幼い子供が、だ。ただ水を飲もうとしたら大人に顔面を殴られた。それも手加減なしの本気の暴力だ。
倒れ伏す彼は頭の中で何が起きたのかを確かめるために、何度も前後の記憶を反芻する。それでもやはり彼は殴られる理由が見つからなかった。『親にも殴られたことはない』、などというわけではないがこれほど理不尽に他人から暴力を振るわれた経験を彼は有していない。だからこそ、彼は痛みよりも怒りよりも、大人が理不尽に子供に本気で暴力を振るったという事実に驚愕した。
鼻と口から大量の血が流れ落ちた。石畳の地面は鮮血に染まり、口から零れ落ちた落ちた小さな歯が血だまりの上に白い点を打つ。絶叫を上げる痛覚が頭の中で痛みを主張する中、彼は痛み以上の屈辱に苦しんでいた。折れた歯は乳歯で骨が折れていなかったのが、彼にとって最大の幸いである。
しかし、それが彼を更に苦しめた。何度も言うが、彼は水を飲もうとしただけだ。飢えた子供がである。たったそれだけのこともこの世界では許されず、大人から一方的に暴力を振るわれた。それなのに骨が折れなかっただけ運が良かった、ということはどういうことなのか。
ふざけるな、とサンショウウオは憤慨する。しかし、その愚かな自尊心が無駄に彼を苦しめる。
彼は這いつくばりながらも反抗心を剝き出しにして、顔を上げて男を睨んだ。実力も身分も劣る人間が持つ自尊心ほど無駄な物はない。無策に実力も身分も格上相手に反抗的な態度は愚かな行為である。彼は彼なりに、その尊大で矮小な自尊心ゆえに痛い目を見たというのに、これこそまさに馬鹿につける薬はないというやつだ。いや彼に似合う言葉ならば、馬鹿は死んでも治らない、の方が正しいだろう。
「なんだ? その目は。その目はなんだっていうんだよ!」
がなり立てながら男は彼の胸倉を乱暴に掴むと、その幼い肉体を軽々と男の目線の高さまで持ち上げた。男の膂力が強いのではない。体格は平凡でどこにでもいる粗野で粗暴な男だ。単純に彼の肉体が簡単に持ち上げられるほどに瘦せ衰えていただけにすぎない。
「いいかぁ、俺はお前と違って名前を持ち住む場所もあるし、なによりちゃんと働いて金銭を稼いでいるこの国の住人なんだよ。お前みてぇになぁ、親もいなければ名も無い金も無い、何にも持っていないテメェみてぇなみなしごのガキと違ってなぁ、俺はちゃんと税金だって納めている。テメェと違って俺はなぁ、この国の寄生虫じゃぁねぇんだよぉ! そんな家畜にも劣るテメェみてぇなクソガキが何を人間様を睨んでんだ!」
駄犬のごとく喚く男の濁声は、彼に酷い頭痛を強いた。知性も感じさせなければ、道徳心のかけた男の言葉は、転生前の世界を知る彼の自尊心を酷く疼かせた。彼はどこまでも愚かだ。くだらない自尊心ゆえに無意味なことに反発しようとしている。
この世界に対しても……
「このガキがぁ、まだそんな目で俺をみるか! その生意気な目玉を繰り出されてぇのかぁ!」
格下の相手の反抗的な態度ほど腹立たしいものはない。それが子供であればなおさらである。それは時代も文明も変わりない。転生前の世界であっても、小学生が大人に対して生意気な態度を取られて平気でいられる社会人は少ない。しかし、それを行動と言動に露わにする者も少ない。何故なら、転生前の世界には厳格な法律が布かれ社会に適する多くの人間がそれに基づく高い倫理性を有しているからだ。
だが、この世界にそんな法も倫理も無い。
男は彼の顔面を殴った。当然、手心なんて微塵も加えられてはいない。それこそ死んでいも構わない、それこそ殺す気で殴ったに違いない。
幸いなことに、男が非力だったからなのか、それとも彼の肉体が頑健だったからなのか、骨は折れずに済んでいた。だが、それが本当に彼にとって幸いな事だったのかは疑わしい。
仰向けに倒れた彼は曇天の空を見上げている。鼻も口も裂傷によって血で溢れ返っていた。口を開けばあふれ出た血液と一緒に口の端から折れた前歯が零れ落ちた。彼は舌で丁寧に口の中を嘗め回す。舌の感触で上下の前歯が無くなっているのが解る。嗅覚も味覚も血で溢れ返る中、痛覚が残酷にも彼に現実を告げ続けていた。
これが現実だということを。
彼は茫然自失と灰褐色の空を眺め続けた。
(あぁ、神様、仏様、私はようやく解りました。今まさに私は解かったのです。貴方の御心が)
サンショウウオは涙を流して心の中で慟哭した。
子供が大人に殴らり飛ばされる。鼻と口から大量に出血させて仰向けで倒れている。だというのに、給水泉にいた周囲の大人たちは、そんな彼を侮蔑と見下ろして冷笑を浮かべていた。誰一人も彼に同情を寄せもしなければ助けようともしない。この都市では孤児に人権などなく、何をしても許される。それがこの都市の、いや転生した彼の世界の常識なのだろう。
その残酷な現実を彼はようやく受け入れた。ここがただの地獄なのだということを。
「二度と俺たちの水汲み場所に近づくんじゃぁねぇぞ! 次にお前の姿を見かけたら、その時は殺すからなぁ!」
男は罵声と共に彼に唾を吐き掛けた。
(神様、仏様、貴方はそれほどまでに私が憎いのですか。このような仕打ちをするほどにお嫌いなのですか。そうですか、そうなのですか……」
サンショウウオは口の中の血反吐を空に向かって吐き捨てた。
(俺もお前らが大嫌いだ!)
彼のその行動は、彼を殴り倒した男の神経を逆なでするのに十分だった。たとえ彼が侮辱した相手が誰であろうと、男にとってはそんな彼の傲慢な態度が不快でしかなかった。
「このクソガキがぁ、殺されねぇと解らないみてぇだなぁ!」
堪忍袋の緒が切れた男は足を持ち上げた。彼を踏み殺すつもりだ。彼を助ける為に男を止めようとする者は周囲には誰にもいない。まるで喜劇でも見ているかのように、ニヤニヤと陰湿は笑みを浮かべている。
その時、給水泉で水を汲んでいる男達を遠くで見ていた一人の男性が声を張り上げた。彼を助ける為の声ではないが、少なくとも彼を踏みつぶそうとした男の動きを止めるのには十分な声であった。
「さっきから聞いていれば、何を勝手なことをほざいていやがるんだ!」
怒りを口から吐き出しながら、給水泉へと苛立った足取りで歩いてくる男性の目には給水泉で我が物顔で水を汲む男達に対する敵意が満ち満ちていた。男性を先頭にして、つぎつぎと先ほどまで遠巻きで軽蔑的な視線で眺めていた大人達が給水泉の広場へと踏み込んでくる。男だけでなく婦人も多く混じっている。その全員の瞳には怒りで燃え上がっていた。
「ここの水はアンタ達だけの物じゃないんだよ! この国に暮らす皆の為の場所なんだよ」
恰幅の良い中年女性が、彼を踏みつぶそうと足を上げていた男に責め立てるように詰め寄る。
「そうよ。そうよ。ここは王様が私達住民全員に与えられた水汲み場なのよ。私達は自由に無料で水を飲むことが許されているのよ!」
「そうだよ。なんであんた達が皆の給水泉を占領しているんだい!」
先ほどの恰幅の良い婦人よりも年の老けた女性が、目を吊り上げて給水泉にいる男達を非難する。これに男達は血の気を立ち上らせ、剣呑な雰囲気を纏って夫人を睨んだ。
「なんだ、なんだ。俺たちになんか文句があんのかよ!」
「水が飲みたければ、まず金を払いな!」
「ふざけんじゃねぇ! なんで水を飲むのにお前らに金を払わなくちゃならないんだ!」
「当たり前だろうが、ここは俺たち水の運び屋『ウンディーネ商会』の縄張りとしている給水泉所の水なんだから、金を払うのは当たり前だろうが」
「バカも休み休み言え、ここの水は俺たち全員の飲み水だ。お前らに払う金なんざねぇよ!」
一触即発とした混乱の最中、喧々囂々と罵り合う大人達は足元でいまだに倒れたままの彼を気に掛ける人間は一人もいない。だが、給水泉に足を踏み込んだ大人達も我慢の限界を超えていたのか、そんなことで弱腰になるどころか逆により一層と怒りを露わにする。
「おい、こんな奴らに給水泉を好き勝手に使わせるな! ここから追い出すぞ!」
「やれるもんなら、やってみやがれぇ!」
とうとう暴動が勃発した。男も女も関係なく大人達はもみくちゃに入り乱れて喧嘩する。声を激しく荒げ、理性を失い攻撃色に染まった獰猛な表情は、人間というよりも獣にしか見えない。騒動を聞きつけて駆け付けた憲兵達が割って入ろうとするが、そっとやちょっとで燃え盛る枯れ野の野火を消せるわけがない。憲兵隊の加入は燃え盛る炎に新たな薪をいれたのと同じ結果を迎えただけであった。
今や王都タイクーンに住まう国民の憩いの場であるはずの給水泉は、大人の男女が入り乱れての諍い合う戦場へと変わり果てていた。誰もがお互いに不平不満をぶつけ合っている。口で、手で、足で、野蛮なありとあらゆる手を尽くして争う。そんな醜い人間の諍いに神が嘆いたのか、突然雨が降り出した。まるで天上の存在が下界の人間に、これで頭を冷やせとでもいうかのように雨が頭上から降り注ぐ。
しかし、そんな主の御心も不平不満の坩堝と化した広場には届かなかった。争いあう大人達は雨の中けだもののように暴れている。
そんな混沌とした広場で仰向けで倒れていた彼は、起き上がりもせずに雨に打たれ続けた。降り注ぐ雨水が彼の体を洗っていく。砂埃も、血も、空から降り注ぐ雨水が洗い流してしまう。
降りしきる雨の中、サンショウウオはその口を大きく開いた。
水だ。あれほど彼が求めていた水が、乾ききった彼の口の中に溜まり始める。そして、ゆっくりと味わうようにして彼は口に溜まった僅かな雨水を飲み込んだ。
「神も、仏も……クソくらえだ……」
命を長らえる為に飲み込んだ雨水は、クソのような味がした。
サンショウウオ ―世界を飲み込む異端者― OSUMOU @OSUMOU
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