サンショウウオ ―世界を飲み込む異端者―
OSUMOU
第1話 洞穴の落伍者
サンショウウオは悲しんだ。
彼は棲家である段ボールとブルーシートに覆われた一畳分の狭い空間から二度と這い出ることができないことを悟った。都内にある公園の隅で、彼は彼の生涯が終わろうとしている。汚く狭い場所で、真っ暗闇の中、寒さに震えながらたった一人で死ぬ。誰にも看取られることも誰かに知られることもなく、惨めさだけを傍らにして孤独死を迎えることになるなどと思っただろうか。その絶望は彼を悲しませるのだけでなく狂わせるのに十分であった。
サンショウウオは叫んだ。
しかし、悲しいかなすでに彼の肉体は声を発することができないほどに衰弱していた。息も絶え絶えに熱病にうなされながら荒い呼吸を繰り返すばかりだ。彼の肉体は病魔によって蝕まれている。数年前から世界中で流行している伝染病だ。今年に入ってようやく終息しようとしていた時期に、悲運というべきか彼は罹患してしまった。ホームレスである彼にその病を治す術は無い。
「……あ……あぁ…………な、んでこうなった……」
憐憫をさそう弱弱しい声が闇夜の中に溶けていく。サンショウウオの両目からとめどなく涙が流れ続ける。光の閉ざされた闇夜の中、彼の両目にはそれが映り込んでいる。それが彼を苦しみかつひどく悲しませた。彼の目に映っているのは、彼の思い出である。なぜどのようにしてこのような場所でその人生を終えなければならないのか、走馬灯のように流れる現在に至るまでの記憶を彼は涙を流しながら眺めていた。
「ど……う……、こ……った」
どうしてこうなった。彼の疑問に答える必要はないだろう。彼の人生を見つめれば見つめるほど、現在に至るのは同然の結果といえる。なるようにしてなった、のだと彼自身も理性では理解している。
怠惰、惰性、彼の人生はそれですべてが語ることができる。何も成すことのない人生だった。努力を嫌い、全力に嫌悪を抱き、ただ『何となく』といった緩く怠慢な精神で生き続けてきた。それ以外では『何とかなる』などと危機的状況を誤魔化すいわゆる所の駄目人間である。
「……お、俺が……何を……したっていうんだ」
何もしたなどと嘆くほど、何かをしたことのない男である。ダメ、クズ、無能、社会の最底辺を生きる、いや生きた男であった。生まれて後、怠惰に惰性と生きた男とは愚かなものである。何十年も前から、あえていうなれば成人を迎えた日からこうなると想像していながらも、彼は何も何かをしようとはしなかったのだ。漫然と働き、漫然と生活し、現在に至る。それは当然の人生の帰結といえるだろう。唯一、褒められることがあるとしたならば、彼がギャンブルだけは嫌ったことだけだろうか。しかし、それ以外の堕落を網羅した人生であった。
「な……なんで、こんな目に!」
消え入りそうな叫びだが、彼が生命力を吐き出した言葉である。 楽な方へ楽な方へと、安直な選択肢へと逃げ続けた人間の辿り着いた人生ほど惨めなものはない。彼は彼がどうしてこうなったのか理解しながらも、その現実を受け入れることができないでいたのだ。
彼が彼を支配するのは、愚者による愚者のための妄想である。つまるところの『何とかなる』で何とかなった場合の理想的な人生を送る未来予想図が、かれの全てであった。まさしく負け犬、いや彼は一度も人生で勝負などしたことなどない。惰性で生きるとはそういうことである。
サンショウウオは激しく咳き込みながら苦しみ悶える続ける。
彼は病魔によって苦しんでいるのではない。今の彼を苛み苦しめているのは『後悔』という感情だ。今や彼の命は風前の灯火である。しかし、それでもなお彼の中で盛んに滾る怒りは衰えることを知らない。その怒りは自分に向けられたものである。愚かなことに、彼は彼自身の感情によって苦しんでいるのだ。とことん哀れな男である。
「あぁ……か、神様……ほ、仏様……わ、私が……私が……一体なにをしたというのですか……」
この世に吐きかけるような呪詛が暗闇の中で静かに響き渡る。なんとも醜く、そして惨めで哀れな弱弱しい声だろうか。もしこの耳障りの悪い汚い声を聴いた者がいたのなら、どうか不快な表情をせずにただ憐れんでやって欲しい。
彼の意識はもう幽境に片足を踏み入れているのだから。せめて、蔑みではなく慰みで送ってやってくれまいか。
(確かに私はこれまで何もしてきませんでした。勉学を嫌い、努力を疎み、ただ怠惰に漫然と生きた私はどうしようもない怠け者です)
彼の思考はすでに熱病に冒されて理性が半壊している。彼は心の中で神や仏にその身の不遇さを訴え始めた。神も仏も信じていない男が一体なにを思って、神や仏に訴えるものがあるというのだろうか。
(だが、だからといってこれはあんまりではないですか。何も成してこなかったというのは、これほど辛い境遇に陥らなければならないほどの悪いことなのでしょうか)
彼は彼なりに生きてきたのだ。地方の大学を出てからは、非正規雇用であっちこっちの仕事を転々を続けいた。フリーター、派遣社員、日雇いのアルバイト、彼は彼なりに働いてきたがその仕事は体さえ動かせることができる者なら誰でもできる簡単な仕事ばかりである。どうにかなる、なんとかなる、そんな甘い考えがあったのかもしれない。フラフラと社会の底辺を気ままに漂っていた彼だが、腰痛を患い体が思うように動かせなくなってからの顛末は語る必要はないだろう。
(神様、仏様、私は私なりに一生懸命に働きながら生きてきました。それなのに、それなのに!)
なるようにしてなったのだ。彼がホームレスとして公園の隅で孤独死を迎えるのは、彼自身が齎した人生のツケと言える。しかし、彼はその現実を理不尽だと感じていた。怠惰な人間ほどみっともないほどに不遜な考えを持っているものだ。彼はいまだに彼自身がこのような不遇な死を迎えるとは思えなかったようである。
「なんでこの俺がこんな死に方をしなくちゃいけないんだ!」
弱弱しく消え入りそうな死に瀕した彼の声だが、その傲慢な思いをはっきりと言葉にすることができた。なんとも醜く哀れな男だろうか。一生懸命に努力して何かを成し遂げたことのない人間が、まるで棚から牡丹餅が落ちてきたかのように人生が好転するなどという夢物語を本当に信じていたのだとしたならば、この男の心に救う病が治ることは永遠にないだろう。
情けないほどに泣きじゃくる彼だが、こうなることは何十年も前から彼自身が薄くではあるが理解していたはずだ。嫌なこと、やりたくないことから背を向けて逃げ続けていれば、いずれはこうなると彼自身は解かっていながら彼は何一つ行動に起こすことはなかった。
彼の人生を彼自身が俯瞰したならば、きっと自業自得だと彼自身をなじるであろう。しかし、それでも彼はどうしても認めることができなかったのだ。
「どうして悪いことをしなかった俺がこんな人生を送らなくちゃならないんだ!」
もし、彼にたった一つだけとはいえ、良い点があったとすればそれであろう。彼は良い意味でも悪い意味でも何も成してこなかったのだ。つまるところ、彼は一度も罪人として刑罰を受けたことが一度もなかった。かといって彼は完全な善人というわけではない。誰でも冒す小さな違法ならば、数えるのも不可能なほど彼は法律を破っている。
だが、彼はこれまで一度も逮捕されたこともなければ、誰かに裁判で訴えられたこともない。刑法上において彼は悪人ではないといえる点だけが唯一の良点だといえるが、彼は決して善人ではない。
けれども、彼は決して悪人というわけではない。
そんな一般人など彼以外にどれだけいると思っているのだろうか。そんな単純な疑問も今の彼の頭には浮かんではいない。あるのは我が身の理不尽な不遇を嘆き憤る悲しみと怒りだけである。
サンショウウオは叫んだ。
(なんで、悪い奴がいい思いをして、俺みたいなやつがこんな惨めな死に方をしなくちゃならねぇんだ! なんで世の中はこんな理不尽がまかり通っているんだよ。納得いかねぇ!)
「人生なんて糞だ!」
悲嘆にくれているものをそのままにしていると、いつしか悪い性質を帯び始めていつしか狂い始める。長い間、暗く淀んだ浴槽のような思いに漬かり続けた彼の精神はとっくの昔に壊れてしまっていた。
(俺は麻薬もやったこともない。誰かを騙して金をせしめたこともない。暴力で他人を傷つけたことだってない。俺は自分の人生のために他の誰かの人生を陥れたことなんてない。なのに、世の中はそんな悪人が平然と俺よりも良い生活を、良い人生を送っている。刑務所から出てきた奴らだって、俺よりも贅沢な生活をしている奴がいくらでもいる。どうして一度も悪いことをしていない俺が、こんな惨めな人生を送らなくちゃならないんだ!)
いわゆる『ざまぁ』な展開をして実際に『ざまぁ』な人生を送る人間は、現実にそう多くはない。存外、その多くは彼よりはマシな生活を送っていたりするものである。金もなく、住む家もなく、頼れる家族もなく、孤独を傍らに公園でその生涯を終える者はいないものである。
(この世に神も仏も無い!)
「全部死んでしまえ!」
あぁ、どうか彼の暴言を聞いたとしても怒らないでやってほしい。蔑まないでやってほしい。彼はすでに人生のどん底をはい回り、今まさに息絶えようとしているのだ。死に瀕した人間の暴言に憤るような価値もないし、そんな彼を詰るのはあまりにも酷な話である。
ただ憐れんでやってほしい。それほどに愚かで憐れな男なのだ。
サンショウウオはとうとう狂ってしまった
しかし、幸か不幸か。彼の命は風前の灯。
(嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。こんな惨めな思いをして死にたくない)
サンショウウオは激しく何度も咳き込む。咳き込む度に命が削り落ちていくのを感じる。それでもまだ死ぬことはなく、息苦しさから生命力を振り絞って息を吸い込む。息が詰まっているかのようにいくら呼吸を繰り返しても苦しさは増すばかりである。まさに生き地獄で死んだ方がマシだと思えある苦しみが押し寄せようとも、それでも彼はまだ死を恐れていた。
「…い、……いや、だ。し、し……にたく……な……い」
彼の意識は暗闇と混濁したかのように溶け込んでいく。記憶も現在と過去が絡みつくように混ざり合い、彼は彼自身が見失い始めている。今の彼には上下や左右といった空間の感覚はない。意識が肉体から乖離したのか、先ほどまで彼を苛み続けていた熱病による苦しみが感じられない。
だが、より一層に死への恐怖ばかりが強まっていく。彼の死が逃れられない現実として、彼自身の魂に重くのしかかってくる。
サンショウウオはとうとう発狂した。
「し、死にたくない!」
サンショウウオは叫んだ。そして、死んだ。神や仏を呪いながら。
死は一瞬の恐怖ののちに訪れる、永久の幸福であるのかもしれない。彼はもう決して何ものにも苦しめられることはない。悲しみも怒りも感じることはなく、生者として与えられた苦痛から彼はようやく解き放たれることができたのだ。彼はもう二度と恐れることはない。彼の精神を苛む現実から彼自身の魂が肉体から解脱したのだから。
彼は幸福を感じることはなくなったが、もう二度と苦しむこともない。それこそが彼にとっての幸福であるに違いない。
本来であるのなら、そうなるはずであった。
これは彼が神から与えられた罪と罰なのか。
彼が彼の死の間際、彼の魂は呪われてしまったのだ。
彼の意識はもう二度と現実を感じることがないはずだった。彼の意識は、決して目を覚ますことがないはずであった。
だがしかし、死んだはずの彼の意識は目覚めたのだ。
「……こ、ここは……どこだ?」
サンショウウオは目を開くと、そこは彼が知らない異世界であった。
彼の魂はいまだなお救われることはない。
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