写真機と呼ばれる箱をのぞき込めば、四角い形に切り取られた世界が見える。

 ゆっくりと、十まで数える。

 すると、写真機に切り取られた四角い世界はガラス板に焼きつけられ、一枚の精密な絵になる。墨絵よりもずっとくっきりとした、白黒の絵だ。

 光がガラス板に写し取ったその絵は、一枚限りではない。銀づけをした鶏卵紙の上に、さらに写し取ることができる。

 この不思議な機械の仕組みは、舎密学の粋を究めることで解き明かせる。

 舎密学は、オランダ語ではchemieセミ、英語ではchemistryと呼ばれる学問だ。

 それはまさに、お登女が物心ついた頃から抱いている問いに明らかな答えを示す学問でもあった。

 ものを半分に切るとする。また半分に切り、そのまた半分、さらに半分に切っていく。そうしたら、しまいにはどんな形をしたものになるのだろう?

 人の目には見えないほどに小さくなるとしても、きっと消えてしまうわけではない。ならば、極限まで小さくなったそれは、一体どんな形をしているのか?

「その答えが、これです。元素っていうと。オランダ語では、ゴロンドストフ。この世にあるものはすべて、いろんな種類の元素の組み合わせで出来とっとです。それで、この本ば読めば、この世の成り立ちから撮影術まで、いろんなことがわかるとです!」

 お登女は『せいきょくひっけい』を示して、龍馬に教えた。使い込まれてすり切れそうになっている表紙には、上野彦馬、と著者の名が書かれている。

 初めて話した明くる日の昼八つ、約束どおり龍馬は上野撮影局に現れた。彦馬は龍馬の注文を手短に確認し、写真の焼き増しの支度にかかった。お登女もその手伝いをすべきだったのだが、龍馬につかまってしまった。

「ああ、おむらさん、話をしたいきに、お登女さんを借りてもえいかえ?」

 むらは慣れた様子で、好きにしてくださいなと龍馬に応じた。お登女には、お客さんとお話しするとも写真師の仕事やけんね、と言った。

 ご機嫌そうににこにこした龍馬は、手土産にカステイラを持ってきていた。ふんわり甘い匂いのする菓子は、見事な黄金色をしている。

「後で皆と分けて食べや。学問に熱中して頭を使つこうたら、甘いもんが恋しゅうなるろう」

「へい。ありがとうございます」

 お登女は、兄弟子たちが忙しくしているのを横目に、龍馬に問われるまま、舎密学のことや撮影術のことをあれこれと答えた。学ぶために入り用のものはないか、足りないものはないかと訊かれ、時が足りませんと正直に答えたら、龍馬は大笑いした。

「そりゃあ、いくらわしでもうてやれんのう!」

 待ち合い用の椅子に掛けた龍馬は、やはり脚が長い。鼻筋の通った横顔は思いのほか形がよくて、お登女は少しどきどきした。

 龍馬は聞き上手だった。西洋の学問はよう知らんきに、わしに教えとうせ。そう言ってはいたが、本当はそれなりにかじっているはずだ。だからこそ、ほどよいところで合いの手を入れ、問いを差し挟むことができるのだと思う。

 気づけば、お登女ばかりが言葉を発していた。まくし立てるようにして語っていたのだ。

「あの、坂本さま」

「何じゃ?」

「うちの話ば聞いて、おもしろかですか?」

 お登女はしかめっ面になったのを自覚した。今さらながら恥ずかしくなったせいだ。

 龍馬はきょとんと目を見張ったが、すぐに噴き出した。

「おもしろいちや。おまさんと話すがは、まっこと楽しいぜよ。どういてねた顔らぁてするんじゃ?」

「別に、拗ねとりません」

「ほいたら、どんどん話しとうせ。わしはお登女さんから聞きたいことがたくさんあるきのう」

「なして、うちなんですか? うちはまだ子供んごたぁもんで、舎密学も撮影術も学ばんばならんことばっかりです。坂本さまに訊かれても、ちゃんと答えられんこともあって、情けんなかですよ」

「おん、ほうじゃな。やき、聞きたいがよ。にゃあ、お登女さん。開国したばっかりの日本も子供みたいなもんで、イギリスやオランダ、アメリカからいろんなことを教わって、どんどん学びゆうところじゃ。ほう思わんかえ?」

 龍馬はお登女の肩にぽんと手を置いた。大きくて、指が長くて、熱い手だった。

 お登女はうなずいた。

「坂本さまの言うとおりです。日本では写真機が作れません。壊れたときに直せる人も、ほとんどおりません。ガラス板や銀づけのための薬液も、原料は外国から買わんばなりません。もっと日本は一人前にならんといかんです」

「お登女さんは、日本人が写真機を作れたらえいと思うかえ?」

「もちろん、思います。日本人が、ではなか。うちがこの手で写真機ば作ってみたか」

 ちょうどそのとき、兄弟子のながながよしが龍馬に声を掛けた。阿波生まれの長義は、上野撮影局でも一番の秀才だ。

「坂本さま、焼き増しの支度が整いました。この写真でよろしいでしょうか?」

 龍馬は長義の手にあるガラス板をのぞき込んだ。伸びやかな立ち姿の写真だ。小袖の両肩の、組あい角に桔梗が配された家紋もくっきりと写っている。

「おん、この写真じゃ。取り引きの相手が長崎を離れる前に、わしの名と日付を入れて渡してやろうと思っちゅう。この顔を見忘れんようにな」

 龍馬は、ほくろのある顎のあたりを指でつついてみせた。

 五枚ほど頼むと注文を受け、長義はきびきびと立ち去った。

 お登女はつい口を出してしまった。

「坂本さまの顔ば忘れんための写真なら、わろうた写真ば撮ったほうがよかです。しゃべりよるときの坂本さまはいつも笑いよらすけん、あの写真のむっとした顔は別人のごたあ」

 それを聞くなり、龍馬はまた声を上げて笑った。明るい笑い声は耳に心地よい。

「わしもお登女さんの言うとおりやち思う。けんど、笑った顔を撮るがは難しいちゅうて、彦馬さんの許しが出んがよ」

「それは、確かに難しかです。撮影しよる間は動いたらならんけん」

「実は、彦馬さんに無理を言うて、笑った顔で撮ってもろうたこともあるんじゃ。けんど、やっぱり失敗してしもうた。口元が、こう、二重にも三重にもなってしもうてな」

 撮影のときは、客は椅子に腰掛けたり台に寄りかかったりすることが多い。首や頭の後ろはさすまたのようなもので支え、顔が動かないように固定する。息も詰め、まぶたも開きっぱなしにしてもらう。

 ゆっくりと十まで数える間、そうやって動かずにいなければ、きれいな写真は撮れない。

 特に彦馬は写真の出来にこだわるから、まなざしがほんの少し動くだけでも、やり直しを命じる。口元が二重三重になってしまった写真など、もっての外だろう。

 お登女の中で、ぱちんと光が弾けた。

 唐突に見つけたのだ。

「うちが作ればよか! あっという間に撮影ができる写真機なら、笑った顔ば撮影できます。そしたら、もっと坂本さまらしか写真が撮れるはずです。うちがいつか、そげん写真機ば作ります!」

 思いつきを語ったら、早口になった。

 おお、と龍馬は身を乗り出した。

「そりゃあえいのう! よっしゃ、お登女さんが新しい写真機を作ったら、わしの社中の船で日本じゅう、あちこちに連れていっちゃる。お登女さんはあちこちでいろんな笑顔を撮影して、写真ちゅうもんを日本じゅうにどんどん広めるんじゃ」

 お登女は、胸がどきどきした。龍馬の言葉は力強い。熱っぽく語られると、それが本当になりそうな気がしてくる。

「坂本さま、新しか写真機ば作るまでには時がかかると思うばってん、待っとってくださいね」

「おん、もちろんじゃ。昨日のイギリス人の旦那さんみたいに、わしも生まれた日の祝いに写真を撮影してもらおうかの」

「坂本さまは、自分の生まれた日を知っとっとですか?」

 龍馬は、宙に指で書きながら答えた。

「十一月の十五日じゃ。わしの故郷の土佐は雨の多い地やけんど、わしが生まれた日の夜は、晴れちょったらしい。きれいな十五夜のお月さんが出ちょったそうじゃ。やき、日付も間違いない。仲冬十一月の十五日が、わしの生まれた日じゃ」

「十一月十五日ですね」

「写真、お登女さんに頼むぜよ」

 龍馬はいたずらっぽく、小指をお登女のほうに差し出した。指切りをしよう、というのだ。

 お登女は戸惑った。

「ばってん、今年の十一月十五日には、うちはきっと間に合いません。まだ一人では撮影ば任せてはもらえんと思うとです」

「おあいこじゃ。わしも忙しい身やき、今年は約束が守れんかもしれん。けんど、いつか叶えようや」

 龍馬は、ほれ、と小指を振った。

 お登女は、節が張った龍馬の長い小指に、自分の小指を絡めた。

「いつか必ず、ですね」

「おん。約束じゃ」

 龍馬の小指が、お登女の小指から離れていく。

 お登女は、何だかじんわりと熱い小指を胸元にそっと抱きしめた。そして、龍馬の頬の縦長のえくぼを見つめ、早口で言った。

「うち、頑張ります。一人前の写真師になれるごと、頑張りますけん」

 龍馬は、お登女の頭をぽんと優しく撫でた。

「頑張りや。わしも、目指すもんがある。拓いていきたい道がある。そのために頑張るぜよ」

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