一
「ほう、今日はまた、しょう
お登女の頭上に朗らかな男の声が降ってきた。
どこの
長崎には日本じゅうから人が訪れる。
八年前、お登女が七つの頃に、箱館や横浜と並んで長崎も開港された。長崎にはイギリスの商館が建ち、南洋経由の商船が頻繁にやって来るようになった。オランダやロシアの船もよく見かける。
長崎は今、舶来品の買いつけを求める人々で、かつてないほどに活気づいている。
おかげでお登女も、長崎から出たことがないにもかかわらず、
お登女は掃除の手を止め、声の主を振り仰いだ。
初春の薄青い空を背負って、すり切れた
庭では撮影の真っ最中だ。イギリス人を中心とする二十人ほどの客を相手に、写真師の上野
羽織袴姿の男は、年の頃三十余りだろうか。腰に二刀を差し、足下はブーツだ。寒さをしのぐためか、
男はお登女と目が合うと、ひょいとしゃがんで笑った。
「おや、初めて見る顔じゃのう。彦馬さんとこの新しいお弟子さんちゅうがは、おまさんのことじゃな?」
どうやら、男は上野撮影局のお得意さんらしい。
上野彦馬は長崎随一の写真師だ。鮮明なポートレイトを撮ることで定評がある。客の注文によっては、長崎の景色も撮る。深い入り江の海際ぎりぎりまで山が迫った長崎の写真は、陰影と変化に富んで美しい。旅の土産として喜ばれる。
お登女は男に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「へい。うちは彦馬先生の弟子で、登女といいます。おかみさんの遠縁の者です。
「お登女さんちゅうがか。ほいたら、末っ子かえ?」
「いえ、弟がおります。うちで
兄弟姉妹の多い家にはよくあることだ。養うべき子供が増えるのはもうたくさんだと、親は「留」や「トメ」、あるいは「末」という名を子につける。
男は急に声を上げて笑い出した。お登女が目を見張ると、男は「すまんすまん」と愛想よく謝った。
「わしん
男は、乙女、と宙に指で書いてみせた。
「かわいか名前ですね」
「人柄のほうも、素直で優しゅうて、かわいいところのある姉やんじゃ。五尺八寸(約一七五センチ)の大女やけんどな」
「五尺八寸!」
「わしと同じばぁの背丈じゃ。乙女姉やんは力も強うてな、子供の頃はとてもとても勝てなんだ。お仁王さまちゅうて、城下で知らん者はおらざったぜよ」
「男前じゃ。格好んよか姉さんですね」
お登女の言葉に、男はくすぐったそうに肩をすくめた。
乙女、という名乗りもいい。凛として潔い感じがする。
ありふれた名も、字を変えるだけで、違った印象を人に与える。お登女がわざわざ漢字で名を書くことにしているのは、かな文字では弱々しいような気がするからだ。
どうせなら、登女よりももっと勇ましい字を選んでみようか。せっかくだから、
男は、脇にそれていた話をもとの筋道に戻した。
「お登女さんはここで下働きをしながら、彦馬さんの教えを受けゆうそうじゃな。いずれ写真師になるがか?」
「なりたかです」
「えい目標じゃ。写真の修業は楽しいかえ?」
お登女はうなずいた。
「はい、楽しかですっ」
勢いづいて、声が上ずってしまった。
お登女は
貧乏暇なしの家だった。物心ついた頃にはもう、何かしらの手伝いをさせられていた。だが、鈍くさい娘だと罵られない日はなかった。
網を
しかも、お登女が気になってやまないものというのが、親の目から見れば、しょうもないものばかりだったようだ。
切り立った崖の波しぶきが作る虹、蝉の死骸を運ぶ蟻の列、乾いた松ぼっくりからぱらぱら落ちる薄い種、打ち上げられて硬くなった
何の役にも立たないことを知りたがって、余計な知恵だけ蓄えてしまう。何ておかしな子供だろう。何て不気味な娘かしら。これでは嫁のもらい手も現れまい。
漁師の嫁になれそうにないなら、長崎の商家へ奉公に出せばいい。そんな話もいくつかあって、お登女は試しに幾日か働いてみた。だが、こちらもすべて駄目になった。
外国船の行き来する長崎には、茂木では見られないものがたくさんあった。豚を
お登女は珍しいものにいちいち目を奪われ、何がどうなっているのか知りたくて、見入ってしまった。手元の仕事など、そっちのけである。こんな子供は扱いにくくて仕方がないと、奉公先から匙を投げられた。
行くあてのなかったお登女に声を掛けてくれたのは、遠縁の
「お登女、あんた、舎密学って知っとるね? 写真ちゅうもんば見たことがある? あんたなら、できるっちゃなかろうか。うちで働きながら、学んでみらんね」
むらは上野彦馬の妻だ。浮世離れした学者肌の彦馬に代わって、むらが上野撮影局を切り盛りしている。
上野撮影局は繁盛しており、人手が足りていない。彦馬はむろんのこと、弟子も変わり者揃いだ。お登女ひとりが増えるくらい、むらにとっては何ともないという。
お登女は上野撮影局で働くことになった。その日から、お登女の人生は一変した。
上野撮影局では、見るもの聞くもの触れるもの、何もかもがおもしろい。不思議なものばかりで心惹かれる。
それに、ここでは、おもしろいと感じるものをおもしろいと言っていい。仕事の手が止まれば、さっさと終わらせるよう促されるが、だから駄目な人間だとなじられたりはしない。
お登女はたちまちのうちに、舎密学にのめり込んだ。元素論の基本の章ならば、もうすっかり
お登女は男に促されるまま、これまでのことを語った。男はうなずきながら聞いていた。お登女が口を閉ざすと、にこにこして言った。
「学ぶことが楽しいたぁ、まっこと頼もしいのう。お登女さんは今、いくつじゃ?」
「この春で十五になりました」
「ほいたら、まさにこれからじゃのう。伸びざかりちゅうわけじゃ。まぶしいにゃあ」
男は眉尻を下げて笑った。男が頭を動かすたびに、ざっくり結った
お登女は調子に乗ってしゃべってしまったが、少し気まずくもあった。手放しで誉めてもらえるほど立派なものではない、と自覚している。
「ばってん、うちは撮影局でいちばん下っ端です。撮影には、まだ加わることができんし……」
今だって、庭での撮影を横目に見ながら、お登女は一人、撮影所の表をほうきで掃いているところだった。
イギリス人を中心とする二十人ほどの客が庭に並んでいる。皆、めかし込んだ姿だ。前列の者は椅子に掛け、後列の者は立った格好で、なるたけ体が動かないよう手足の位置を定める。二十人ともなると、配置の塩梅が難しい。彦馬は声を張り上げて、ひっきりなしに指図を続けている。
撮影には、お登女が昨日磨いたガラス板も使われているはずだ。しかし、お登女が一枚のガラス板を磨く間に、兄弟子たちは二枚も三枚も仕上げてしまう。ほかの仕事もそう。むらからは「あんたは丁寧で上手たいね」と誉めてもらうが、のろまな自分が嫌になる。
中島川から這い上がってくる風が冷たい。海に流れ込む河口はすぐそこだ。ちょうど満ち潮の刻限なので、川風も海の匂いがしてべたついている。
男は、今しがたの言葉を繰り返した。
「お登女さんは、まさにこれからなんじゃ。焦るこたぁない。元気を出しや」
「……はい」
「ところで、今日は彦馬さんの手が空かんがかのう?」
「今日は一日じゅう貸し切りです。何でも、生まれた日ば祝う記念のために、たくさん写真ば撮るって言いよらしたばってん」
生まれた日を祝うというのが、お登女にはぴんとこない。
お登女は、自分が生まれた日も知らない。秋に生まれたらしいが、両親も日付までは覚えていなかった。きょうだいが多い上に、「留め」などという名を与えられるような娘だ。祝われるはずもない。
生まれた日がわからなくても、困ることはない。年が改まって新しい一月を迎えるたびに、すべての人が一つ
男は、なるほどとつぶやいて、
「バァスデイちゅうやつじゃな」
「知っとらすとですね」
「わしもここ数年、イギリス生まれの商人と取り引きをしゆうきに。バァスデイの宴に招かれたことも、何度かあるぜよ」
「取り引き? あなたは、武士ではなかとですか?」
お登女は少し驚いた。
男は刀の柄をぽんと叩いて笑った。
「武家の生まれではあるけんど、わしは商いもしゆう。社中ちゅうて、海運の商売をする組織を動かしゆうがよ」
その話は、彦馬から聞いたことがあった。
よくよく見れば、男の顔も知っている。上野撮影局に写真が飾ってあるのだ。
「もしかして、坂本龍馬さま?」
龍馬はいたずらっぽくにやりとして、お登女の口をふさぐふりをした。
「よう通る声でその名を口にしちゃあならんぜよ。わしは土佐を脱藩した罪人じゃ。どこに追手が潜んぢゅうかわからんき、おまさんも気ぃつけや」
龍馬が今まで犯してきた罪は、脱藩だけではない。薩長の盟約を仲立ちしたことは幕府に弓引く行為だったとして、佐幕派に命を狙われてもいる。懐に突っ込んだままの左手は、かつて追手の襲撃によって傷を負い、今でも動きが戻っていないらしい。
お登女は、撮影局にある写真をひととおり目に焼きつけてある。おかげで、会ったこのないお得意さんの顔も案外よく覚えている。
だが、龍馬の顔はわからなかった。というのも、写真の中の龍馬の顔とあまりに印象が違うせいだ。
写真の龍馬は厳めしい印象だった。引き結んだ唇はいかにも頑固そうだ。背が高くて手足が長く、肩はがっしりして、まるで外国人のような体つきをしている。面と向かえばどれほど威圧感があるだろうかと、お登女は思い描いていた。
ところが、目の前にいる龍馬は、どこまでも柔らかく朗らかな様子だ。折りたたんだ長い脚に頬杖をついて、くしゃりとした笑顔でお登女を見上げている。
笑い皺とえくぼ。おおよそきれいな歯並びだが、尖った八重歯が少し目立っている。
坂本さんと話しよったら、まるで懐に飛び込まるっごと感じるとぞ、と彦馬が語っていたわけがわかった。おなごにたいそう持てるらしいという噂のわけもわかった。
ついつい目を惹かれてしまう、この笑顔は
龍馬は、さて、と言って立ち上がった。
「今日は仕方がないにゃあ。出直すとするかの。明日の昼八つ頃(午後三時頃)にまた来るき、彦馬さんにも、ほがなふうに伝えとうせ」
「へい。明日は撮影ばされますか?」
「どうじゃろ。ちっくと急ぐきに、前に撮った写真を焼き増してもらうがぁがえいかもしれん。ま、そのへんも含めて、明日、彦馬さんと相談するつもりじゃ」
「わかりました。それも伝えておきますけん。明日、よろしくお願いします」
お登女はぺこりと頭を下げた。
にっと笑った龍馬は、初めて左手を懐から出してひらひら振ると、きびすを返して歩き出した。
大股でぐんぐんと遠ざかっていく後ろ姿を、お登女は掃除をしながら見送った。
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