7が3を殺した

ちくわノート

7が3を殺した

 深夜、枕元に置いていたスマートフォンから狂ったように流れるデフォルトの着信メロディが、深い夢の世界にいた難波なんばを叩き起こした。上司である須子すじ警部からだった。無遠慮で気の利かない画面の明るさに目を眇めつつ、応答ボタンをタップして耳に当てる。


「7が3を殺した」


 須子は開口一番、挨拶もなしにそう言った。その情報はあまりに簡潔だった。とても重大な必要不可欠なものまでごっそりとこそぎ落としてしまったかのような印象を与えた。


 難波は欠伸を噛み殺してから、その一見不可解な情報を処理するためにしばらく目を瞑り、目頭を右手の親指と人差し指で押さえた。殺した、という物騒な単語は聞こえた。しかし、殺しなら現場の情報を先に入れるべきだ。そして、その次に死因、犯人が捕まったのか、それとも逃走中かという情報が続く。誰が誰を殺したかなんて二の次で、そもそも名前を言われたところでよっぽどの有名人でもない限りはわからないし、建設的ではない。


 そこまで考えて、難波はベッドから這い出るとゆっくりと寝室を横切る。目的があるわけではない。思考をしながらほとんど無意識に彼はその行動に至っていた。すぐに部屋の壁に行き着き、方向転換をして、再びベッドまで歩く。その運動はまるで無意味というわけではなかった。歩くことで徐々に眠気を覚まし、思考を明瞭なものにしていった。


 仮に遺族へ連絡をしろ、という旨だったとしても、やはり最初は名前ではなく、会社員をしている、だとか、20代前半の、だとか彼らを一般化する情報が先にくるべきで、名前だけを言われたところで難波に理解できるはずもない。それは須子も重々承知のはずだ。そもそもそのような情報伝達の極意を若き日の難波に叩き込んだのは須子自身だった。つまり、そのようなかたちの報告ではないということは普通の殺しではないということだ。何か重大なことが起きた。それは事件ファイルを紛失したなどよりももっと大きな、国家、あるいは世界に影響が及ぶような。


 思考は正常な動きを取り戻していた。


「もう一度言ってください。誰が誰を殺したんです?」


「7が3を殺した。73


 須子は一音一音区切るようにそう言った。


 須子の言葉をよく咀嚼し、その意味を考える。そして理解した後で、厄介なことになったな、と思わず舌打ちしそうになった。十進法を用いて日々生活をしている我々人間にとって、3という1つの概念の不在がどんな不都合を招くか。1、2、と順に数えていき、その次が4になる。それはものを数える上でも、計算においても致命的だ。単に3を飛ばすなんていうことはできない。数字というものはその順番が大切なのだ。3が死んだ以上、我々は0と1と2だけで数の大きさを表す三進法か0と1の2種類の数だけで表す二進法で暮らすしかなくなる。どちらかといえば三進法は現在ほとんど使われていないから、主流になるのは二進法だろうか。幸い、二進数で計算を行っているコンピュータは変更がないが、人間にとっては不便極まりない。10000011101と言われて、咄嗟にその数字の大きさを正確に把握できる人間がどれくらいいるだろう。そしてあらゆる表示の上でも不便だ。スーパーの特売のチラシはその数字を入れるために巻物のように横に長くなるだろうし、コンピュータの画面に表示されれば、いちいち横スクロールをする必要がある。会社で業績を報告する際には報告者の口から延々と1と0が吐き出され、重役たちはその繰り返される1と0の間に睡魔に襲われるだろう。


 なんてことをしてくれたんだ、と怒鳴りつけたくなるのを抑える。須子にいくら文句をぶつけた所でなんの意味もない。査定にマイナスがつくだけだ。


「至急、署に向かってほしい。7は既に身柄を取り押さえられているそうだ。俺もすぐに向かうが、君の方が早いだろう。細かい内容は加寿かずくんに聞いてくれ。彼は署内にいるはずだ」


 わかりました、そう言うと通話は切れた。


 難波はもう一度、須子の言葉を頭の中で反復して、これが夢でないことを確かめてから大きくため息をついた。


 脳に微かな疲労感がある。それは睡眠が充分ではなかったせいか、それとも理解し難い情報が一気に流れ込んできたためか。両方だろう。難波はそう考える。


 スーツに着替える前に、珈琲を1杯淹れた。心を落ち着ける必要があった。


 〇


 署に着くと加寿が難波を待ち受けていた。


「お疲れ様です!」と深夜にもかかわらず、朝起きてジョギングをし、シャワーを浴びてその汗を流し、優雅に朝食をとった後のように爽やかに挨拶をする。


「被疑者は?」


「奥の取調室です。2時間ほど前に被疑者本人が通報してきました。現場は都内の建て替え予定だったマンションの一室で、駆けつけると3の死体が部屋の中央に横たわっていました。被疑者は近くにあった椅子に座って我々警官を待っていました。こちら事件の資料です」


 難波は頷き、資料を受け取る。A4用紙2枚。クリップで用紙とともに数枚の写真がとめられている。


 署内を見回し、須子の姿を探した。やはりまだ来ていないようだ。


 取り調べは俺がやるしかないだろう。配属間もない加寿には任せられない。いや、そもそも今回の数字のような概念が起こした事件を扱った経験があるのは署内で難波1人だけだった。再びため息が出る。


 7のような概念に取り調べをするのは久しくしていない。概念というやつは大抵、小難しく、こちらを煙に巻く様な話し方をする。そのような話し方は人間を小馬鹿にしているんじゃないかと感じさせる。いや、実際に人間を下に見ているんだろう。あいつらは自分がいなくなれば人間がどれだけ困るかということをよく理解している。そしてそれにつけ込んでくることだってある。


 難波は加寿から受け取った資料に目を落とす。


 そのA4の用紙には通報を受けた時間、現場の状況、被疑者、つまり7についての情報が簡潔に纏められていた。


 資料にクリップで挟んである写真には6畳ほどの部屋の中央でぐったりと横たわる3の姿があった。体には小さな傷がある。これは抵抗した時の傷だろう。しかしそれ以外は比較的綺麗な遺体だった。部屋を荒らされた様子はなかった。また凶器と思われる鉈の写真もあった。これは部屋の隅の壁に立てかけてあったそうだ。


 難波は被疑者である7について考える。


 7は奇数だ。素数でもある。5や3と同じく。しかしそれだけではない。7はラッキーセブンというように、幸運の象徴にも使われ、人気がある。数字の中でも7は優遇されていたはずだ。なぜ殺しなんかしたのだろう。加えて、7は3と仲が良かったらしい。それもそのはず、7と3は素数同士だし、合わさると10になる。これは区切りがいい。そもそも3を殺せば、3より大きい数字は意味をなさなくなり、三進法、あるいは二進法に移行することは7だってわかっていたはずだ。それがわかっていてなぜ3を殺したのか。


 動機については犯人に訊くしかない。7という概念の考えることが人間に理解できるかどうかは別にして。


 取調室の扉を開けると、殺風景な部屋が難波を迎える。中央に置かれた個性を徹底的に排除した机を挟んで向かい側に7が座っていた。


 7は難波の姿を認めると、微笑んで軽く頭を下げた。


「こんなに遅くまでお疲れ様です」


 誰のせいでこんな遅くまで働いていると思っている。そう言いたいのを堪え、彼の真向かいに置かれているパイプ椅子に腰をかけた。パイプ椅子はキィと小さく高い音を立てた。


「これから取り調べの内容はすべて録音させてもらう。いいね?」難波は普段話すよりも幾分ゆっくりと意識して話した。そしてとても義務的に。


「もちろん」と7は答える。


 難波はレコーダーの電源を入れ、録音が確かにされていることを確認してから、それを机の真ん中に置いた。その一連の所作を7は興味深そうに眺めていた。新種の爬虫類を観察するみたいに。


 難波はそれから目を瞑って、目頭に親指と人差し指を当て、頭の中を整理した。それは彼が取り調べを行うときのルーティンだった。感情やその他の不要な情報は全て消し去り、冷血無比な尋問官へ変貌するための。感情のようなものをあえて表に出すこともあるが、それは全て難波が冷静な状態でつくり出した見せかけのもので、そこに難波自身の感情が乗ることはない。


 沈黙が流れる。その間、多くの被疑者は沈黙に耐えきれず、大声を出して威圧してみたり、所在なく貧乏ゆすりしてみたり、あるいはその沈黙だけで全てを白状してしまう小心者もいた。しかし7は違った。じっと夜明けが来るのを待っているみたいに、口を閉ざした難波を見ていた。


 思考の整理が終わり、難波はゆっくりと息を吐き切ると、目を開いて7の姿を見た。7は悠然と難波の一連の所作が終わるのを待っていた。


「君は今、3の殺害容疑でここにいる。それは理解しているね」


「ああ」


「君が3を殺したのか?」


「それはあなたたちが解決するべきことだ。必要な情報を集めて、数学の問題を証明するみたいに論理的に」


「でも君は3の遺体の前で自ら通報した。そうだろ?」


「知り合いが死んでいたら通報するのは当たり前でしょう」


「現場には君しかいなかった」


「そうかもしれない。たまたま通りかかったドブネズミとそこを棲家としているムカデを除けば」


「それなのに君はやっていないと言うんだね?」


「誤解してほしくないが、やっていないとは一言も言っていないよ。私が殺したのかもしれないし、殺していないのかもしれない。それを証明するのはあなたたちの仕事だと言っているだけだ」


「君が話してくれたら、その仕事も少なくなるんだが」


「残念だね。精一杯働いてくれ」


 やはりこの7も他の概念と同じく、遠回りで核心には触れないもどかしい話し方をする。こいつから必要な情報を聞き出すのは骨が折れるだろう。難波は方針を変えることにする。


「3とは仲が良かったと聞いた」


「ええ、彼とは気が合った」


 注意深く7の所作を観察するが変化は見られない。


「私たちは多くの時間を共にした。彼は知的だし、それでいて私にはない活発さを兼ね備えていた。1や2は小さい割に態度が尊大だったが、彼にはそれがなかった。私たちはいい友人だった」


「いくらいい友人とはいえ、1つや2つくらい嫌なところってのはあるものだろ?」


「なかったよ。1つも。我々はお互いを深く尊敬しあっていた」


「でも殺したんだろ?」


 彼は微笑みを見せただけでその質問には答えなかった。


「じゃあ、その他に仲の良かった奴はいないのか? たとえば5とか。彼だって素数だ」


「5か。うん。彼もなかなかいい奴だ。彼は自分が重要だと考えている。5は10の次にキリのいい数字だから。そういう思い込みがあるから彼は他の数字にも分け隔てなく接することができる。あなたも道端の蟻に緊張なんかしないように、彼だって他の数字よりは自分が上だと考えているからこそ、ああいう立ち振る舞いができるんだろうな。しかし、たぶん彼はそれを自覚していない。彼の中にあるのは純粋な善意だろう。だからこそ彼はなかなかいい奴なんだ。自分の内面を自覚していないところも含めて」


「よく話すのか?」


「彼の方からほとんど一方的に話すだけだ。基本的にはどうでもいいことばかりだよ」


「じゃあ、君が3を殺していないとしよう。君以外に3を殺しそうな奴はいるか?」


「そんなのわかるわけがない。あなたはいつもあいつは殺しをしそうだな、と考えながら生活をしているのか? そうかもしれない。あなたは警察官だから。家族や友人に対してもそのような目で見ているのかもしれない。しかし私は違う。ただの数字だ。殺しをしそうなやつなんて思いつきもしない」


「訊き方が悪かった。3と仲が悪かったやつはいないのか?」


「仲が悪かったやつ、ね。強いて言えば1や2だろうか。さっきも言ったように彼らは態度が尊大だからね。1と2を好いている奴なんていないさ。逆に9とは仲が良かった。9と3は平方の関係だからね。彼らはまるで兄弟のようだったよ」


「ふうん。兄弟、ね。この世には兄弟喧嘩という言葉があるけれど」


「見たことがないね。少なくとも私は」


 難波は質問をそこで一度中断した。腕を組んで、今聞いた内容を整理する。


 7が話した数字たちの関係性について、彼が嘘をついている印象はなかった。もちろん、あえて情報を伏せていることもあるだろうが、今の情報については信頼してよさそうだと難波は判断する。


 そしてその話によると7と3の仲が良かったのは真実のようだ。しかし7が殺したのは確定だろう。現場は密室だったし、その中には彼と死体しかなかった。彼が殺したという証拠は現場を調べればきっといくらでも出てくる。やはりわからないのは動機だ。彼はなぜそこまで仲の良かった3を殺した? 3を殺したのは恨みや妬みではないのか? やむを得ず、そうせざるを得ないから殺した。そんな状況があり得るだろうか。


「概念が死んだ事件は初めてかい? 今回のように」


 7が口を開く。


 その質問に答えるかどうかは迷った。今質問をするのは俺の方だ。その質問に答えてしまえば場の主導権は向こうに移ってしまうんじゃないか。


 難波が迷っている間に7が再び口を開く。


「もしかすると、窃盗や行方不明というのはあったのかもしれない。なりすましとか。しかし死んだのは今回が初めてだろう?」


 図星だった。思わず頷き、慌ててそれを誤魔化すために首を左右にも動かした。いかにも首のを気にするように。しかしそれは期待した効果を得られなかった。


 以前、難波が扱った事件はになりすました事件だ。そのせいで世の多くのカップルたちが破局の危機に陥った。そのときは難波が嫉妬のヒステリーをどうにか宥めてことなきを得た。殺しの事件の経験はない。


「概念が死んだらどうなるか。よく考えるべきだね」


 7は言った。


 難波は誤魔化すのは諦め、仕方がなく答える。


「充分に考えている。この世は二進数が主流になる。三進数の可能性もあるが、三進数よりは二進数の方が今はメジャーだ。まあどちらにしても7である君はもう使われないだろう。この世は0と1で溢れるし――」


「よく考えるといい」


 難波の言葉を遮り、7は再び言う。


 難波は立ち上がる。


「休憩だ」


 やはり7に主導権を握られ始めている。ここで一度断ち切って仕切り直したほうがいい。

 

 取調室を出ると須子すじの姿が見えた。彼が取り調べをしている間に到着したのだろう。


「どうだ。様子は」


 難波は力なく首を横に振る。


「重要なことは何も話さないですよ」


「そうか」


 須子は言う。それから缶コーヒーを難波に手渡した。


「夜遅くに悪いな」


 そう言う須子の声には疲労が滲んでいた。


「いえ、事件が事件ですから」


 受け取った缶コーヒーを飲む。苦味が口に広がる。


「現場の方はどうですか? 何か発見はありました?」


「いや」須子は首を振る。「今は3の司法解剖をしようとしているが、概念の司法解剖なんてやったことがないと医師たちが首を振ってな。ようやく協力してくれる医師を見つけたのがついさっきだ」


 腕を組み、よく磨かれた床の一点を見つめた。そこに探し求めている答えがあるとでも言うように。それからおもむろに顔を上げ、壁掛け時計を見た。


「3時か」


 難波もその言葉に釣られて時計を睨んだ。


 午前3時17分。どれだけ早起きな人間でもこの時間はまだ夢の中だろう。難波は数時間前の3がまだ生きていた世界の平穏に思いを馳せた。それからこれからの世界の行く末についても考えた。今、難波や須子がいくら事件の真相を究明したところで、3が死んだのは変わりない。7が犯人だという証拠が揃えられたところで、司法は彼を正しく裁けるのだろうか。既に変わってしまった世界に対して、自分たちがやっていることは果たして意味があるのだろうか。


「鑑識にも急いで調べてもらってはいるが、しばらくはお前任せになりそうだ」


 須子の言葉に難波は自身の頭に広がっていた考えを振り払う。今はただ出来ることを愚直にこなすしかない。それがたとえ、意味のない事だったとしても。


 難波は須子に向かって頷いた。


 缶コーヒーを飲み干し、缶を自動販売機の側に設置されているゴミ箱に捨ててから取調室に戻った。


 取調室の中はいくらか寒く感じた。7は難波が出ていった時と同じ姿勢のまま座っていた。


「再開だ」


 難波がそう言うと、7は不敵に笑った。


「頭は冷やせたか? 事件について有力な情報は掴めたのかい?」


 難波はその言葉を無視する。


「事件について詳しく訊こうか」


 難波は小さく咳払いをする。それはこの場における読点のような役割を持っていた。


「君はなんであのマンションにいたんだ?」


「3に呼び出されたんだ。たまに3から呼び出されることはあってね。大抵、彼の無聊を慰めるためだったから、今回もそうかなと思ったけれど、行ってみるとあの状態さ。まあ驚いたよ」


「呼び出されるのはいつもあのマンションだったのか?」


「いや、色々さ。カラオケ屋の前に呼び出されることもあれば、腐乱臭漂うゴミ捨て場に呼び出されることもある。彼の気まぐれだよ。あのマンションには2回ばかし呼び出されたことがある。その時はそのマンションの部屋でポーカーをしたよ」


「ポーカー?」


「そう。トランプのあのポーカーだよ。フルハウスやストレートとか役があるやつ。知っているだろ?」


 難波は彼ら数字がポーカーをしているところを想像しようとした。しかしそれはうまくいかなかった。彼らのような概念も人間と同じような遊びをすることがあるのだろうか。


「まあいい。呼び出される時間は? いつもこんなに遅いのか?」


 7の証言を信じるなら、彼は3の死体を発見してからすぐに警察に通報したことになる。通報時間は加須に渡された資料によると午前0時21分。彼ら概念の感覚はわからないが、人間にとっては非常識な時間だ。


「気まぐれだよ。それも」7は言った。「午前1時の時もあれば午後4時の時もある。あるいは午前3時。我々はあまり時間に拘泥しないんだ。君たち人間と違って」


 難波はその情報を整理し、頭の中に保存しようとして、違和感に気がつく。何かが引っ掛かっている。なんだろう。7の証言に矛盾でもあっただろうか。もう一度7の発言を反芻してみるが、矛盾は見当たらない。何が引っ掛かっているのだ? 俺は。


「どうしたんだい」


 7にそう問われ、難波は我に返る。取り調べを続けなくては。口を開こうとして喉が渇いていることに気がつく。頭は違和感の正体を探し続けている。


「君が3の死体を見つけた時、部屋には何か変わったことはなかったか?」


「変わったこと?」


「そうだ。なんでもいい」


「そうは言っても、私は部屋の中のものを触っていないからね。君たち警察が来た時と全く同じ状態だったはずだよ。それこそ違うのは時間帯くらいさ。部屋の中央には真っ二つにされた死体があって、すぐ近くの壁に鉈が立てかけられていた。部屋は荒らされた様子はなくて、部屋の隅にあったテーブルには読みかけの本が伏せて置いてあった。たしか、シェイクスピアだったかな。台所のシンクには汚れたマグカップが1つ。部屋のカーテンは閉まっていて、電気はつけたままだった。他に聞きたいことは?」


 7の証言は正確だった。事件の資料と一切の差異はない。部屋に荒らされた様子がないということは顔見知りの犯行の可能性が高い。やはり7が犯人像に当てはまる。3が7を呼びつけたと言っているが、もしかしたら逆かもしれない。7が3をあのマンションに誘い出して、油断している3に鉈を振るった。そう考えると事件としては単純だ。しかし、7のこの余裕はどういうことだろう。まるで綿密なトリックを用いて、その計画に大いなる自信を持っているような。やはり何かを見落としている。


 ……待てよ。


 難波は資料にクリップされていた現場の写真を再び見る。


 3の死体は多少の切り傷はあるが、致命傷となり得そうな傷は見当たらない。凶器は本当に鉈なのか?


 難波は目を瞑り、目頭を指で押さえた。


 そして7は今、と言った。


 3の死体は真っ二つにはなっていなかった。死体に欠けたところは見つからなかった。7の言い間違いか? いや、違う。おそらく7が見た時点で死体は真っ二つだったのだ。その真っ二つの死体を誰かが元通りにしたのだろうか。なんのために?


 既に手掛かりは掴んでいるはずだ。しかしあと一歩がどうしても掴めない。


 7はふうー、と大きく息を吐いた。その所作はどこか演技じみていた。


「刑事さん、今何時ですか」


「悪いな。それは教えられない決まりになっている」


 難波はそう言って、腕時計を見た。午前3時32分。


 司法解剖の結果が出るのはどれくらいだろう。須子の疲れた顔が浮かぶ。


 午前3時32分。


 その時、違和感の正体に気がつく。


 そうか。そうだった。


 3という概念が死んだのに我々が3


 難波は数を1から数えてみる。


 1、2、3、4、5、6、7……。


 もう一度、1本1本指を折りながら。


 1、2、3、4、5、6、7……。


 何度数えても3は存在している。


 7が言った、概念が死ぬとはどういうことか考えた方がいい、とはこのことだったのだ。我々が3という数字を認識できている以上、3は死んでいない。じゃあ、あの死体は一体なんだ? あれは確かに死んでいた。疑う余地もなく。


 3ではない。


 


 そして概念が死んだということはそれがなんだったのか我々は決して把握することはできない。なんだ? 何が死んだ?


 数字を数える。


 1、2、3、4、5、6、7……。


 1、2、3、4、5、6、7……。


 難波は自分の額に汗が滲んでいるのがわかった。手の甲で乱暴に拭う。


「どうしました?」声がして顔を上げると、7は勝ち誇ったように微笑んでいた。


 ○


 インターホンが鳴る。7が扉を開けると3がにこやかに立っていた。


「やあ、思ったより早かったね。釈放されるのが」3は言った。


 7は笑顔で彼を迎える。そこは7が住んでいるマンションだった。


「ああ、証拠不十分でね。彼らは何が死んだのかすら分かっていないからね」


「わかるわけがないよ。この世から概念が1つ消えた。その事実だけが残っている」


「まあ、君のおかげだよ。君が持ちかけてくれた計画のおかげで私はこの世界を統べる数字の王になったわけだ」


「数字の王というのはやや誇張が過ぎるかもしれないけれど。しかし良かったよ。君が喜んでくれて」


「いや、王を名乗ってもいいだろう? だってこれからこの世界は0から7までしか存在しないんだから。私が基準になるんだよ。この世界では」


 7は極上のワインを味わった時のような恍惚とした表情を浮かべる。それから我に返り、「まあ、上がれよ」と7は彼を部屋の奥に案内した。リビングは大きな窓に取り囲まれ、都内を一望できた。3は部屋の中央にあるソファに腰を下ろす。7は彼から少し離れたところにある椅子に座った。


「しかしを3と誤認するとはね。あれが3だと思い込んでいる警察を見るのはなかなか滑稽だったよ」7は言う。


「仕方がないだろう。彼らにとって、もうという数字は存在しないんだから」


「それより、本当によかったのかい」


「なにが?」


「9のことさ。が死んだ以上、彼が使われることも無くなるだろう? 君は9とは仲が良かったと思うけれど」


 7がそう訊くと、3はくすくすと笑う。


「うん。もちろん、君にこの計画を持ちかけたのはそうなることを僕自身が望んでいたからさ。9は誰にでも優しく、僕の理想だった。まさに兄のようだった」


「では、なぜ?」


「9はこれから使われることは無くなり、いずれ、彼の存在も忘れ去られるだろう? でも僕だけはずっと覚えている。僕だけが9に同情し、慈しむんだ。誰からも邪魔されることなく。9は僕だけを頼りにするようになるだろう。あの完璧だった9が惨めに僕だけの手を求めるんだ。それって最高じゃないか」


 そう熱に浮かされたように語る3の表情はこれまでの柔和なものではなく、異質で醜悪なものに変貌していた。その表情に7は驚き、思わず顔を逸らした。を殺した私なんかよりも彼の方がよっぽど独善的で邪悪だ。7はそう考える。だが、それが彼の魅力だ。この彼のどす黒い邪悪に私は惹かれるのだ。7は頷いてから顔を綻ばせる。


「まあ、これで我々の理想の世界になったわけだ。祝杯をあげようじゃないか」


 7は立ち上がり、リビングを横切ってワインセラーから上等なワインを取り出すと、2つのグラスに注いだ。1つを彼に手渡す。


進数の世界に」


 7がグラスを上げる。3も笑顔で続いた。


進数の世界に」


 グラスがぶつかり、チンと高い音を立てた。

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